942 若かりし時代のアレ
「つ……疲れた」
くたくたになって寮のベッドに飛び込むと、こつんと頭に何かが当たった。
見覚えのない水色の小さな本。そうだ、せっかくプレリィさんから本を借りたのに、読むどころではなかったな。
「おかえり~危うく冒険者が討伐に呼ばれそうな騒ぎだったね~」
早々に部屋に戻っていたラキが、手元から顔を上げずに苦笑した。
確かに、恐ろしい魔物が駆けまわっているように見えたし。あれ、みんなのトラウマにならなかっただろうか。
「結構楽しかったな! ラキ、これ外してくれよ。変な目で見られんだけど」
次いで戻って来たタクトが、じゃらじゃらうるさい。
「その恰好で戻って来たんだ」
「ちゃんと足で歩いてるぞ。これつけてると走る時は四つ足の方が便利だけど、歩くときは二本足の方が歩きやすいんだな」
それは確かに、可動域的に? とてもどうでもいい発見だなあ。
「外せばいいのに」
「どうやって?」
あれ? そういえばそれ、ラキが即興で作った枷だけど外せるものなの? 継ぎ目がないけど。
「ラキ、外してくれよ! また遊ぶ時に使うかもしれねえし、ユータ収納しといて」
またやるつもりなのか……タクトが人間を追い回すことに、楽しみを見出さなければいいけれど。
「ちょっと待って~区切りがついてから~」
「ええ……俺なんもできねえんだけど」
どさっとベッドに倒れ込んだタクトを見て、なんかちょっとアレだなと思う。
今さらながら、枷と鎖じゃないとダメだった? 他になかったんだろうか……健康的な少年に、あまりにも不釣り合いなアクセサリーが禍々しいというか背徳的というか。せめて、かわいくリボンで結ぶとか……うん、それはそれでダメな気もする。
「これ以外でハンデって何かないかな? もうちょっとソフトな雰囲気の……」
「重りはダメなんだろ?」
そりゃそうでしょう。タクトのハンデになるような重りって、どんな重さなのか。
「じゃあ、目隠しとか~」
一応聞いていたらしいラキのセリフに、なるほどと頷いてタクトを見て――思わず真顔になった。
「なんだよ」
「うん、いや、今のタクトで想像するのがダメだった。ものすごい犯罪臭」
タクトだからまだマシな気がするけれど、これが見た目は華奢で大人しいラキだと、中々によろしくない。実際どっちの方が危険かは置いといて。
「目隠しでもいいけど、男女が分かんねえと……ちょっと、困るっつうか」
赤面するタクトが、いかにも青少年でくすっと笑った。
「じゃあ、片方だけ眼帯するとか~?」
両手足には枷と鎖、そして眼帯。
思わず吹き出して、訝し気な顔をされる。あとは何だろうか、黒い翼とか、黒づくめの服装とか? いずれにせよタクトに似合わないけれど。
どうやら区切りがついたらしいラキが、伸びをしてやっとこちらを向いた。
「ちなみにそれ、簡単に引きちぎれるの~?」
「簡単には無理だろ。走っても大丈夫だったし」
「千切れたら直すから、やってみて~」
鎖が千切れるかもって、おかしくない? 何の金属か知らないけど、そんなに細くないし重そうだけど。
ぐ、と力を入れたタクトの腕の中で、金属がギチギチと不気味な音をたてる。
「んー、簡単には無理! すげえ本気で身体強化したら分かんねえけど」
おお……鎖が耐えた! 結構頑丈!
「そっか~」
枷に手を掛けたラキが、カチャリカチャリと外したそれを抱え上げる。
「これ、僕がしまっておくね~」
浮かべた涼やかな笑みに何かを察知して、タクトが泣きそうな顔でオレを見た。
……だ、大丈夫だよ! 悪い事しなきゃいいんだよ!!
恐ろしい魔獣も、やはり主には逆らえないらしい……なんて。
眼帯に黒コートの魔獣使いラキを想像して、つい笑ってしまったのだった。
「――スパイス、奥が深いなあ」
プレリィさんから借りた本は、小さいわりにぎっしりと知識の詰まった宝物だった。
オレ、スパイスのことはあんまり知らないから、とてもためになる。やっぱり、プレリィさんに言ってよかった。
これを返す時、他にも借りられる本がないか聞いてみよう。
ころりと天井を向いて、今読んでいた知識を反芻する。ふと、気が付いてすん、と鼻を鳴らした。
「なんか、いい香り」
きっと、スパイスの棚に置いてあったんだ。開いたページは、紙の匂いよりも混ざり合ったスパイスの香りがする。
「こんな香りだったら、確かに気持ちよさそう。スパイスのお風呂、入ってみたいな」
料理以外に入浴剤としての使い方も載っていたので、手元にあるものから試してみたい。日本でも、生姜を入れる、とかあった気がする。
スパイスだけじゃなく、ハーブもいいね。疲労回復入浴剤、なんて小袋にまとめて風呂に放り込むものがあってもいいな。料理用のブーケガルニみたいなものだ。
寮のお風呂で勝手に入浴剤を入れられないから、ロクサレンで――
「あっ!」
そこまで考えて、慌てて外を見た。もう、結構暗い。
カロルス様の恨めしそうな顔が浮かぶ。
「ちょ、ちょっとオレ、ロクサレンに戻って来る!」
「おー、なんか作ったら明日食わせてくれよ!」
「きっと今日は泊まりだね~、いってらっしゃい~」
鋭いな、タクト。まさに何か作りに帰るのだけど。
すっかり忘れていたので、夕食には間に合いそうにない。必然的にデザートだ。
大慌てで転移し厨房に飛び込むと、ジフのじとりとした視線が突き刺さる。
「飯はできたが、カロルス様がそわそわしてんぞ? どうすんだ」
「うっ、やっぱり覚えてた?! デザートにするよ!」
ちょうどいいデザートを考えていたし。どっちかというと軽食風のデザートかもしれないけど、問題ないだろう。
「何を作る?」
「キャロットケーキだよ! スパイスをしっかり使ったやつ!」
以前もにんじんを使ったケーキを作ったことはあるけれど、せっかくだから勉強したスパイスをガッツリ使ってみたい。カロルス様なら何でも食べるだろう。
「えっと、確かキャロットケーキって、上にクリームっぽいのが載ってた気がするんだけど……」
生クリームじゃなくてバタークリームみたいな、チーズみたいな……。でも、食後に食べるからバターは控えたいなあ、オレのお腹事情的に。
「ジフ、一緒に作るよ! まとめていくつか作っちゃおう!」
「望むところだ!」
タクトたちに持って行かなきゃだし、プレリィさんにも渡さなきゃだし……! 厨房にはほんのりスパイスの香り、大量に炒ったナッツ類の香ばしい香りが漂っている。
ああこれ、焼きあがったらすごくいい香りだろうなあ。
オーブンから漂う香りを想像して、うっとりした。
「もう飯だぞ」
うう、その最初の香りを味わえないことが切ない。
だけど、仕上がったケーキを待っていられるのは、それはそれで醍醐味。最初から最後まで自分で作ると、そのわくわく感はなくなっちゃうもんね。
仕上げはジフに任せることにして、きっと既にみんな集まっているだろう食堂へ駆けた。
「ユータ、もう来ないのかと思ったぞ」
領主様が、若干不貞腐れている。そんなことでへそを曲げないでもらいたい。
「私はちゃーんと、ユータちゃんが来ると信じていたわよ!」
「マリーも、大人しく待っていました!」
「そうかな……何かあったのかも?! なんて。突撃しないように引き留めるの、結構大変だったけど。何かあるわけないでしょ!」
セデス兄さん、グッジョブだ。引き続き頑張っていただきたい。
「ちょっとね……学校で遊んだり本を読んだりしてたから。でも、おかげで美味しいデザートができたよ! 多分!」
「そうか、デザートか。まあいい」
途端に機嫌を直したカロルス様に、にっこり笑みを向ける。
にんじんのケーキだから、野菜摂取量を上げる作戦でもあるけれど、言わなきゃ絶対分からないんだから。
食後のケーキを思って控え目に、控えめに……と思うものの、ジフの料理はやっぱり美味しい。
結局普通に満腹になってしまって、オレは割と絶望したのだった。
キャロットケーキの上に乗ってるのは、クリームチーズフロスティングっていうらしいですよ!