914 条件
預けた背中がぬくぬく暖かい。
無意識に撫でさすっている手は、うっとりするほどの心地よさ。
「――それで、なんだか……複雑だなあって」
貴族のイザコザから呪詛騒ぎにまでなってしまって、さらに大事な生命の魔石も使ってしまったから、オレは癒やしと魔石再生成のためにここへやってきている。
「複雑なことなんてねー。単に、恨みを買って襲われただけだ」
退屈そうにしっぽを揺らしていたルーは、フンと鼻を鳴らした。
「そうじゃなくて! 気持ちが、だよ!」
意識が戻ったマウーロの領主さんは、元気になった奥さんを見て、それから――拍子抜けるぐらい簡単に経緯を話してくれた。
「ロクサレンに害をなそうとしたのは、もちろん許せないんだけど。だけど……」
最初は、些細な効果の呪詛のはずだった。
相手の領地から、生命の魔素を少しばかりこちらへ横流しするような。
そのくらい、もらっても許されるはずだと。
少しくらい、苦労すればいいと。
妬みと、自分勝手な考えで。
『まあ、相手が悪かったわねえ……』
頭の上で跳ねるモモに苦笑した。
そうだね。カロルス様を媒体にしようとしたのが、全ての敗因だね。
『だけど主ぃ、フツー無理だって!』
うん、普通無理。だけどカロルス様ならやっちゃうわけで。
どうやったのか分からないけれど、とにかく呪詛は弾かれた。
オレは知らなかったのだけど、呪詛というものは返されると、ものすごく危険なのだとか。
呪詛返しにより変質し、膨れ上がった呪詛が、あの結果らしい。
同情の余地は、ないはずなんだけど。
だけど、横流しした生命の魔素を受け入れる先が夫人だったから。
だから、複雑な気持ちになっちゃうのかな。
身体の弱い夫人を、なんとかしたかった。
悪事の中にも、その気持ちが見えてしまうから。
「だからといって……ねえ」
大きく息を吐いて、ルーの毛並みに顔を埋めた。
悪人っていうのは、悪いことしか考えていなかったらいいのに。
そうしたら、そうしたら――
「……それはそれで、どうなんだろ」
罪悪感なく裁ける? うん、それはそれで、どうなんだろ。
『一件落着なんだから、それでいいんだぜ!』
『そうなんらぜ!』
このときばかりは、スッキリした顔のチュー助が羨ましい。
「まだ一件落着じゃないよ? 調査中だからね!」
嫌がらせにも等しかった呪詛。呪詛返しで、変質した呪詛。
だけど、どの時点で『災厄』になっていたのかは分からない。
だってもう一人、多分事態をややこしくした人物がいるらしいから。
夫人を生き長らえさせ、呪詛を他へ移せる形にした者がいるから。
今分かっているのは、そこまで。
その人物については、マウーロの領主はよく知らないそうで、こっちは主催者側を尋問する必要があるみたい。
「『邪の魔素』にたくさん触れていたせいかな……なんだか、気が滅入るね」
くたっと獣に身体を預け、全身でその命を感じる。
大きくて、温かくて、優しくて、強くて、胸の痛くなるような、その気配。
「はあ……癒やされる。ルー大好きだよ」
ちら、と金の視線がこちらを見て面倒くさそうな顔をする。
どうしてルーは、好きって言ったらそんな顔をするの! 本当、失礼極まりない。
好きを返せと無理強いしているわけでもなし……と唇を尖らせたところで、いいアイディアが浮かんだ。
そのためには――
「ねえルー、ヒト型になって! パーティで美味しそうなのがあったから、試作してみたんだ。ワインと一緒に……食べてみたいでしょう?」
正しくはパーティで見た料理のアレンジだけど。
見た目は椎茸の肉詰めみたいな感じかな?
マッシュルーム風のきのこにガーリックオイルで炒めたナッツと香り高いチーズを詰め、焼き上げた自信作。きっとワインに合うと思うんだ!
さっと炙って香りを立たせると、ごくりとルーの喉が鳴った。
すぐさま変化した美しい青年の姿に、にんまり笑う。
第一段階、クリアだ。
「寄越せ」
舌なめずりしそうな様子に、慌てて皿を後ろへ隠し、ここぞとばかりに金の瞳を見上げた。
「じゃあ、条件をクリアできたらね? 簡単だから! 何も難しいこと言わないから!」
途端に眉間どころか鼻面にまでシワを寄せたルーに慌て、急いで取り繕う。
「しかも、ルーが選べるよ! 好きなのを選んで!」
ひとまず、不貞腐れつつも先を促す視線に安堵した。
「3択だよ? ①オレに大好きって言う ②にっこり素敵な笑顔になる――」
「やらねー!」
まだ全部言ってないのに! オレはまあ待て、と両手を広げて続けた。
「ちゃんと聞いてから! ②にっこり素敵な笑顔になる ③オレの習得したダンスを見る――」
「③」
即答したルーに、してやったりとほくそ笑む。第二段階、クリア。
「分かった、③でいいんだよね?」
二言はないなと確認し、ぐいっと手を引いた。
「ルー、立って!」
なぜ? と言わんばかりの背中を叩き、手を引き、まとわりついて立ち上がらせると、これでもう第三段階クリア。
「さあ、手を出して。ね、オレのダンスを見るんでしょう? 一人じゃ踊れないからね」
ふふっと笑うと、勝手にルーの手をオレの身体に添えた。
「てめー……!」
騙したな、と言いたげな瞳に、満面の笑みを向ける。オレの世界よりも、この世界でのダンスならハードルが随分低いはず。だってみんな、嗜みとして習うもの。
「当たり前のダンスをするだけだよ? それにオレ、他の選択肢でもいいよ?」
「…………」
苦虫をかみつぶしたような顔を見上げ、くすっと笑った。これからダンスしようっていうのに、そんな顔しなくてもいいじゃない。
察したティアがさえずり始め、しんと静かな森にリズムが生まれた。
「あのね、オレ女性パートを教えられたんだよ?! ルーはダンスできる? オレ、教えてあげるよ!」
あれだけ練習したんだもの、相手側の大体の振り付けも分かるよ。
だけど、得意満面でそう言ったオレに、ルーは鼻で笑った。
「できないとは言ってねー」
オレが添えさせていた手が、意思を持った。
スッと踏み出された足につられるように、オレの身体も動く。
「あれ……? ルー、ダンスできるの?!」
驚いて見上げた瞳が、小馬鹿にするように細められた。
支えられた身体が、まるで操作されるように滑らかに動く。
ごく最小限の動きで、ちょっぴり気怠そうに。
だけど、ルー……上手じゃない? セデス兄さんより上手な気がする。
「ルー、こんなこともできるんだね……! 上手! なんだかすっごく気持ちよく身体が動く……!」
「うるせー。てめーが下手なだけだ」
「いっぱい練習したんだけど?!」
くるり、と回転する身体が、なめらかに次の動作へと誘導される。
ルーからオレに触れることってないから、すごく、すごく新鮮。
「楽しいね……!!」
上がりっぱなしの口角で見上げた顔は、やっぱりへの字口だったけれど。
そして、1曲どころか1分にも満たないわずかな時間でその手が離れて行っても。
だけど、その見た目ほどは機嫌を損ねていないと分かるから。
「え?! もう終わり?!」
「十分だ」
思い切り不満を訴える顔も、緩んでしまう。
「……次は、1曲踊るっていう条件にしようかな」
「もうやらねー」
渋々取り出したワインとお料理に、今度は分かりやすく上機嫌になったルーに苦笑した。
もうちょっと、オレ相手の時も分かりやすく喜んでくれていいと思うんだけど。
お料理に負けたオレは、少々不貞腐れて、硬いあぐらを枕に寝転がった。
「……邪魔だ」
「だってルー、食べ終わったら寝るでしょう。オレ、ルーのふわふわの中で寝たいもの」
「それとこれと何の関係がある」
「関係あるよ、オレもう寝そうだもの」
どうせすぐ獣に戻るんだから。地べたに放置されて、一人寝ているのは嫌だもの。
じっとりした金の瞳を見上げ、くすくす笑って目を閉じた。
次に目を開ける時は、きっと漆黒のふわふわの中だ。
――感触の変化した枕に気付いて、まどろんでいた意識が浮上した。
極上の手触りが全身を包んで、これ以上ないくらい何かが満たされていく。
目を閉じていると、ごうごう重低音が響いてくすぐったいくらい。
なんとなく、機嫌が良さそうだな、と思う。
さっきから何かを確かめるように、ふわふわしたしっぽがオレの頬を掠めていく。
珍しいな、しっぽとはいえ、こんな風に触れるのは。
だって、大体はバシッと叩くだけだもの。
通り過ぎていくたび、徐々に近くなるしっぽは、既にオレの頬をなぞるよう。
ルー、オレが寝てると思ってるのかな?
確かにこのままだと寝てしまいそう。だけど、まだ起きてるよ。
ふわ、と触れたしっぽが、絡みつくようにオレの頭から順に形を確かめて滑っていく。
耳を、首筋を、通り抜けた滑らかな毛並みが、ぞくりとするほど心地良い。
浮かぶ笑みを堪えて、オレは寝たふりを続けた。
これは、今目を開けちゃいけないやつだなあ。
だってきっと、ルーはそっぽを向いて口をきいてくれなくなる。
大丈夫、オレ、寝てるよ。
気持ちいいでしょう? オレのほっぺは大人気だから。
髪だって、ルーには負けるけれど、みんな触りたがるから良い毛並みなんだと思うよ。
大丈夫、普段はオレがいっぱい触ってるからね、ルーもどうぞ。
ふいに、ごうごういう音が近くなって、圧迫感と共に何かに挟み込まれた。
思わず開けた視界いっぱいの、漆黒の毛並み、三角の耳。
慌ててまぶたを閉じて、上がった心拍数がバレないようにゆっくり呼吸する。
……チャトみたいだね。
ルーも、こんな風にすり寄ることがあるんだ。
できれば、起きている時にしてほしいんだけど。
時間にすればほんの一瞬の圧迫感。大きな頭はすぐに離れて前足の間に顎を落ち着けた。
うっすらまぶたを開けた視界の中で、満足そうに目を閉じる獣が見える。
満面の笑みを浮かべたオレも、誘われるままに、ぬくもりの中へ意識を落としていく。
耳には、身体には、ごうごう鳴る重低音がいつまでも響いていた。
長くなっちゃった……