890 いっぱいになるまで
なんだか、館に活気がある気がする。
なんだか、ちゃんと領主館っぽい気がする。
オレは頭を下げて退室していく商人さんを見送って、執務室をのぞき込んだ。
「次はマウーロからの使いですね。下で待たせてあるので、すぐに――」
「もういいだろ?! 俺と話す意味はどこにあんだよ?!」
「領主と話さない意味がわかりません」
まあね、カロルス様ってこういうことは本当にお飾りだから。執事さんとエリーシャ様が会えばそれでいい気はする。
次のアポが迫っていそうなので、そっと扉を閉めてあくびした。
タクトがまだ杖歩行なので、せめてちゃんと歩けるまではロクサレンにいるつもりだったんだけど、こうも館が賑やかだと寮に帰った方がいいかもと思えてくる。
ずっと慌ただしかったし、今は一日中だらだらする必要があるのに、商人さんたちを宿に招いたもんだからひっきりなしに挨拶に来る。それでなくても、最近ロクサレンが目立ちすぎて訪問者が絶えないって言うのに。
これじゃ、のどかな田舎っていう最高の環境が脅かされそう。
『俺様、それって割と主のせいな気がする』
『自業自得ってやつねえ』
そんなことは――言いかけて、先日町で聞いた話が頭をよぎる。
いやいや、でもほら、経済的にはさ、ロクサレンが発展するのはいいことだし?! 領民は喜んでくれているわけで!
うん、領主家族として、それはいいことだと応援すべきだよね!
カロルス様には、ぜひ頑張っていただきたい。オレの方は、なんとでもなる。
ふたつ頷いて、オレは両肩から何かしらツッコミが入る前に、転移したのだった。
……最高、だ。
本調子でない身体にじわじわ染みこむような、穏やかな魔力。温かな体温。
そして、埋めた顔が耳まで心地良い、極上毛並み。
『窒息しないのかしら……』
呆れた声が聞こえるけれど、こんな風に窒息するならば本望かもしれない。
オレは今、大の字になってうつ伏せ、余すことなくルーを堪能している。
ルーを味わい尽くすことに関しては、既にスペシャリストと言っても過言ではない。
絶え間なく撫でさする手の平は、まるで別物になったような夢感触だ。
オレの手が、もっと増えたらいいのに。もっと手の平が大きくなったらいいのに。そうしたら、もっとたくさん味わえるのに。
「……そうだ、服を脱いだらもっと全身で味わえるんじゃない?!」
とびきりのアイディアに顔を上げると、後頭部をしっぽが襲った。
「やめろ」
呆れかえった金の瞳が、馬鹿を見るような表情でオレを眺めている。
いいアイディアだと思ったのだけど。だって、干したてのお布団だって、パンツ一丁で飛び込んだ方が気持ちいい。
「オレは布団じゃねー」
ごろり、ごろりと背中を擦り付けるように左右に転がったのは、絶対わざとだ。
振り落とされたオレは、それでもめげずに高級お布団の上へ陣取った。
「もちろんだよ、普通の布団じゃない、極上で最上級のお布団だよ!!」
力説に対して返ってくる視線がそれなのが、納得できない。
また振り落とされそうなので、慌てて口を開いた。
「最近立て続けに大変なことがあったからさ、オレ結構疲れてるの! この間言ったでしょう、大魔法やら何やら、それからダンジョンのこと! そこからさらにまだトラブル……を、解決に走ったんだから!」
語弊があってはいけない。オレたちは、あくまでトラブル解決のために奔走したのだから。
「お前、大して何も言ってねー」
「え? だってダンジョンの後ここへ来たでしょう? その時……」
記憶を掘り返すと、随分前のように感じる。
そう、ダンジョンで大活躍した後、無性にこの日常が愛おしくて……そのままロクサレンに行くと色々とマズいから……。
おや? 確かにオレ、あんまり何も言ってない。
サラッと出来事は説明したけれど、それよりも溢れる想いを伝えたくて。
「そっか、忘れてた! ちゃんと言うね! あのね――」
金の瞳がこちらを向いたのを確認して、にっこり笑う。
「ルー、大好きだよ!」
きゅっと瞳孔がサイズを変え、鼻面にシワが寄った。
「うるせー! そっちじゃねー!」
むくれたようにそっぽを向いたルーに、くすくす笑った。
「だって、これも言っておかなきゃでしょう?」
そうしないと、ルーの中に何か余計なものが増えていくような気がして。
だから、余計なものが入る隙間がないくらい、『好き』で埋めとかなくちゃいけないと思って。
「じゃあ、今回のお話しだってするから、ちゃんと聞いてよ?」
フン、と鳴らされた鼻は、肯定なのか否定なのか。
どっちだって、構わないんだ。オレが話して、ルーがここにいる。それが大事なんだと思う。
だけど、大体興味なさそうに目を閉じているのに、今日は違った。
寝そべったままの姿勢で、その金の視線はどこか遠くを見つめている。
「――それでね、タクトってば本当に全然動けなくなっちゃって! あんなことってあるんだね。身体強化できる人ならではなのかな?」
以前、カロルス様が内臓器官を強化するために眠り込んだみたいに。タクトのあれも、身体機能をオフにして修復しているんだろうか。
「ギルドも大騒ぎだったらしいよ! 報告は二人に任せて良かったよ。さすがにもう危険性はなさそうだけど、『扉』が開かないか調査はしてくれるみたい」
「邪教の、神殿……まだ、あるのか」
半ば独語のように呟かれた言葉を拾って、頷いた。
「ルーも知ってるんだ! 邪教の神殿って、もうほとんど残されていないらしくてね、あんな目に遭ったのにフシャさんとドースさんは残念そうだったんだよ!」
何がって、神殿が海の底となってしまったこと。おそらく、あの勢いで水が流れ込んだんだもの、祈りの間や神殿自体も破壊されているだろう。
せっかく祈りの間までたどり着いたのに……! なんて嘆く彼らは、冒険者よりも研究者向きなのかもしれないね。
ふと思い出して取り出した、小さな本。
「これ、邪教の文字らしいんだけど、面白いよって貸してもらったんだ」
貸してもらったというか、押しつけられたというか。オレ、文字を見て面白いって思う感覚は分からないんだけど。
パラパラ捲るページの上に、影が落ちた。
「……それは、元聖刻文字だ」
不機嫌そうな唸り声に驚いて、その顔を見上げた。
元、聖刻文字。きっと神聖なものってことだよね。つまりは、ルーたちに関わるものだったってことだろうか。
「それすらも、汚染されたのか」
紙面を通り越し、金の瞳が見つめているのは、一体何だろう。
それは、どんな光景なんだろう。
オレは急いで本をしまい、その首筋を撫でた。
そうか、オレにとって邪教ってどこか他人事だったけれど、ルーたちからすれば敵対組織だったかもしれない。自分たちの大切にしていた文字やシンボルが、改変されて悪しき意味をもつ……それがどれほどのことか。
ましてや、何て言えばいいのかなんて、ちっとも分からないけれど。
「……ごめんね」
「何がだ」
いつものようにフンと鼻であしらわれ、ここを見ていなかった瞳がオレを映す。
神獣の果てしない過去に、ちっぽけなオレの今が敵うだろうか。
反射的にぎゅうっと抱きしめると、小さくささやいた。
「ねえ、ルー……」
「知ってる」
遮られたオレは、顔を上げて目を瞬いた。
抱きしめた身体から、ごうごう重低音が響いている。
面倒くさそうに視線を逸らされ、思わず笑みがこみ上げてきた。
そうか、ちゃんとルーの中に溜まっていたらしい。何せ大きいから。こんなにも大きいから。
だから、注いでも注いでも、ちっとも溜まらないのだと信じていたけれど。
良かった。穴は、空いていなかった。
ただ、それが嬉しいと思った。
オレは、やがて規則正しい寝息が聞こえるまで、ゆっくり大きな身体を撫でていたのだった。
間違って時間より早く投稿しちゃった!!