852 黒いモヤについて
木漏れ日の中から、影が一枚。
きらり、ひらり、光を躱しながらゆっくり舞い落ちてくる。
抜け殻のように脱力したオレの上に。
呼吸さえ曖昧で、まるで地面か木にでもなったような気がする。
やがて、葉はカサリとオレの顔に着地した。ぱちり、と瞬いたところをみるに、やはりオレは地面でも木でもないらしい。
今頃、クラスメイトたちは帰路についているだろうか。
忙しかった反動が、今来ているらしい。
オレは、これ以上ないくらいぼんやりと意識を飛ばして、大の字になっていた。
『魂、入ってるわよね?』
『主ぃ、寝てんの? 目ぇ開いてるぞ!』
モモが呆れたような口調で、顔の上に落ちた葉っぱを払ってくれた。
起きている、と思うけれど、完全にスイッチは切れてしまっている。
あの後、もう救出は終わったろうかとこっそりクラスメイトたちの様子を見に行ったけれど、少しばかり予想と違っていた。
「――俺が守ってやるから、存分にぶちかませ! でけえ魔法じゃなくていい、魔物を寄せんな、数で押せぇ!! 魔力が切れたヤツはとっとと中央へ戻って補給しろ! いいか、ここが防衛拠点だ、者ども気張りやがれぇ!!」
びりびり響く威勢のいい声を張り上げていたのは、ガウロ様。どうやら直々に兵を率いて来てくれたらしい。
ちっとも避難所から救出される人がいないなと思ったら、こき使われていて苦笑した。
どうやら避難所は本当に砦として、魔物たちを食い止める防衛の要にされたらしい。
ガウロ様指示のもと、魔法使いたちが秩序だって隊列を組み、魔法を放っては後ろへ回る。
まるで火縄銃の三段撃ちみたいだ。
詠唱しながら列に控えているため、先頭に立った瞬間魔法を放てる。そのせいで、あたかも機関銃のような魔法の連射が可能となっていた。
「あはは、すごい! あははっ!」
もう、笑うしかない。大量の魔法使いがいると、こんなにも有利なのか。
まさに、最強の砦。
それは、きっと後世に伝えられるだろう圧倒的な戦いだった。
四方八方へ魔法を連射する砦を思い出し、腑抜けていた口角がふふっと上がる。
みんな、きっとくたくたになって帰っている頃だろうな。
だけど、きっとその目は生き生きと輝いて。
何せ、守りきったのだ。魔物を押しとどめ、人の住む地へ近づけさせなかった。
「本当に、凄かったんだよ。人間って、結構強いんだなって思っちゃった」
溢れかえる魔物相手に、カロルス様みたいな規格外じゃなく、ごく一般の人間が活躍した。
なんだかそれが、嬉しい。
「だけど、これからもあの黒いモヤが出現するとしたら……」
今回は王都の森と、大魔法の会場、そしてロクサレンなんていう対抗するには絶好の場所だったわけだけど……。
もし、町中に発生したら。
「自然災害みたいなもの? 何か原因があるのかな――ねえ、聞いてる?」
オレ、独り言を言ってるんじゃないんだけど。
ごろり、仰向けからうつ伏せへ向きを変え、柔らかな被毛に頬ずりした。
「あのモヤって、町中にも出る? 一体何なの?」
黒い耳が、ピピッと動くのを見つめる。
自然災害なら、きっと以前からあるものなんだろう。だったら、原因や対策もあるんじゃないだろうか。
「……災害、と言えば災害か。邪の魔素が……とうとう吹き出した」
それこそ独り言のように、ルーが呟いた。
物憂げな表情が、決して楽観的な話ではないと言っているよう。
「あのモヤは、邪の魔素だったの? すごく嫌な感じはしたもんね。だけど、どうして? 邪の魔素って地面に貯まるの?」
前へ回って、その首筋をぎゅっと抱きしめる。なんだか、ルーの瞳が不安そうに見えて。
「違う。抑えていただけだ」
覗き込んだ金の瞳が、波打つ湖面のように揺れている。
「抑えるって、邪の魔素を? 誰が? どうして?」
「増えているからだ。いや、増やしている、か……」
主語、主語を言ってほしい。それとも、聞いてはいけないんだろうか。
邪の魔素が増え……じゃなくて、誰かが邪の魔素を増やしているから、誰かがそれを抑えているってこと?
そういえば、いつだったか邪の魔素は魔物の元だと聞いた気がする。
そんなものが増えたら……あ、もしかして最近魔物が多くなっているのって、もしかして。
だけど、そんなことをして得をする人がいるとは思えな――
そこで、オレはハッと金の瞳を見つめた。
「ケイカさん?」
金の髪、金の瞳。赤い鞭を操る、お人形のようなあの神獣。
ルーの耳が、ぴくりと反応した。
「じゃあ、邪の魔素を抑えているのは、ルー?」
「俺じゃねー。俺ができるのは、補助だけだ」
鼻づらにシワを寄せ、不機嫌そうに獣の喉が鳴る。
「じゃあ、誰が?」
逆立ちそうな毛並みをそっと、そっと撫で、身を寄せた。
増える邪の魔素を抑えようと、頑張ってくれていたんだね。誰に知られることもなく、世界を守ってくれていたんだね。
もしかして、それが神獣たる所以なんだろうか。
ルーは、少し逡巡して、口を開いた。
「……最強」
どうしても、ハッキリとは口にしたくないらしい。
邪の魔素を抑えているのは、最強の神獣ってこと? それって……。
オレは、首を突っ込んでもいいんだろうか。
出来ることがあるから、ルーはこうしてオレに伝えたんだろうか。
「ねえ、オレは行ってもいい?」
たっぷりしたタテガミに顔を埋め、抱きしめる腕に力をこめる。
邪の魔素を抑えてくれていたんだとすれば、吹き出したってことは、何か異変があったのかもしれない。
ルーの様子からして、切羽詰まってはいないんだろう。
だけど、心配にはなる。
「勝手にしろ」
そっか……ありがとう。
オレはしっかりルーの香りを吸い込んでから、手を離した。
「また来るね! 次は、美味しいものを持ってくるから!」
フンと鼻を鳴らしたルーが、ゆらゆら尻尾を揺らしている。
ねえ、どうして、ケイカさんは邪の魔素を増やすようなことを?
それは、目的なんだろうか。それとも、何かの副産物なんだろうか。
言っていたよね、彼女が何かをするなら必ず『主』のためだって。
『主』は、本当にそんなことを望んでいるんだろうか。だとしたら、ルーたちは『主』の意に沿わないことをしているってこと?
大丈夫なの? それは。
「ううん、さすがにそこまではオレが踏み入っちゃだめかな」
ひとまずは、行ってみよう。
何が聞けるか、何ができるのか分からないけれど。
「だけど、きっと美味しいものを作るくらいは、できるよ!」
『ちょっと! スケールが急にちっちゃくなったわよ?!』
『世界の命運は?!』
どこか緊張感を漂わせていたモモとチュー助が、揃って脱力した。
神獣たちは、世界規模で動いているんだろうけども。
だけどオレは、ちっぽけな人間だもの。
そもそも世界の命運はオレに関係ないからね?! できることなんて、ちっぽけなこと。
頑張ってる神獣たちに、差し入れを送ることくらいはできる。
疲れていたなら、傷ついていたなら、回復くらいはできる。
心配することくらいなら、できる。
心配いらないのが、一番なんだけどね。
オレは、一呼吸おいて、転移したのだった。
『最強』の神獣のところへ。