850 帰路はゆっくり
鮮やかに青い小さな花が、山頂の一角を青く染め、冷たく澄んだ風に揺れている。
空の青と、花の青。
美しい青の毛皮は、ここに生きる証だったんだね。
「ニーッ!」
すっかり花の絨毯に紛れ込んでいたニーチェたちが、にゅっと立ち上がって鳴いた。
「うん、じゃあね!」
きっと、お別れの挨拶だと思って……オレも目いっぱい手を振った。
「また今度、シーリアさんを連れてくるからね! 元気でね!」
「ニッ!」
シーリアさんは、この景色を見て泣いてしまうだろう。
だけどそれは別れの悲しみでも、切なさでもなく。
きっと、彼女の胸を占めるのは別の気持ち。
だって、こんなに美しい。
肺を満たす、青く透明な空気と、風の音。
ここで彼らが生きていける、それだけで、きっと。
……よかったね。
シーリアさん、とってもよかったね。
大泣きするシーリアさんがありありと浮かんで、この場にいないのにもらい泣きをしてしまいそう。
花畑に溶けて行った二匹はもう見えないけれど、オレはしばらくそこに佇んで鼻をすすっていたのだった。
『――主ぃ、なんでわざわざ山道下りるんだ? ちょちょいっと転移でさぁ』
「だって、さすがに下りてくるのが早すぎるでしょう。下りてこなかったら来なかったで、捜索隊とか出されても困るし」
『ちゃんと学習したのね』
モモが感心したようにふよんと揺れた。
オレとしては、もう少しあの美しい景色を堪能したかったのだけど、蘇芳たちがお腹がすいたと言うもんだから。
あの澄んだ空気の中で料理をするのは忍びなくて。ニーチェたちの世界を邪魔したくなくて。
だからこうして、徒歩で下山している次第だ。
「それに、せっかく来たんだから、途中経過も楽しみたいでしょう」
実を言うと登山の方は、シロに乗ってさっさと登頂してしまったので。
だって、ニーチェたちを早く連れて行ってあげたかったし……。
「あと……確認したかったし、ねっ!」
サッと飛び退き、飛び上がり、樹を蹴って一気に後退から前進へ反転。
追いすがって来ていた獣を、すれ違いざまに切り伏せる。
完全に想定外だったのだろう。悲鳴もなくこと切れたのは、ヒョウのようなしなやかな身体に、異形の頭をくっつけたみたいな魔物だ。たくさんの目と、化け物じみたうじゃじゃけた口は、どちらかというと獣よりも虫を思わせた。
オレの機動についてくる時点で、それなりに強い魔物じゃないだろうか。
「……ここは、一般人が登山するのは無理そう」
だからこそ、ニーチェたちは珍しかったのだろうし。
だから、山へ入るのを散々止められたんだろうな。それも、こんな山頂まで行っているとは思うまい。
「ふもとの方で薬草でも採っていけば、誤魔化せるかな」
ひゅっと走った風の刃を躱し、1匹、2匹……樹上の小さな魔物を撃ち落としていく。
「うん、これなら、そんじょそこらの下っ端悪党が来られる場所じゃないよね」
結構な頻度で襲い来る魔物の襲撃をやり過ごしながら、オレは安堵の吐息を吐いたのだった。
「さて、結構魔物は狩ったけど、食べられるのはいたのかな?」
ふもとへ近づくにつれ、魔物の襲撃は落ち着いて、のんびり景色を楽しめるようになってきている。この辺りなら、オレがいてもおかしくはないだろう。ちらほらと、人がいる気配もある。
『すっごく美味しいのはいなかったけど、美味しい匂いはいたよ!』
シロが嬉しそうに尻尾を振って出て来た。山の防衛レベル、もとい危険度を知りたくて、シロは敢えてオレの中に戻ってもらっていた。
よし、じゃあ下山したらさっそく料理かな。
でも、その前にオレが山へ入った理由を作っておかないと。
「ねえティア、この山特有の植物で、ふもとの方にも生えていて、ものすごくレアじゃないけど、見つけたらラッキー、みたいな植物ってある?」
無茶ぶりの自覚はありつつ、ティアなら何とかしてくれるんじゃないかと見つめる。つぶらな瞳を瞬かせた小鳥は、哲学者みたいな顔で目を閉じ、まん丸に羽毛を膨らませた。
「……ピッ」
やがて、静かに一声鳴いて羽毛を鎮まらせ、尾羽を上げる。
「あるの?! さすがティア!」
なんて頼もしい、静かなる植物博士!
ついて来い、と先導するティアに案内されるまま歩いて、20分くらいだろうか。
やがて、小さな小鳥は地面にほど近い場所へ舞い降りた。
「え……これ?」
ティアが示しているのは、地面からほんの10センチ程度の……何というか、普通の草。
うわあ、何の変哲もない。これ、実際オレが探しても、絶対見つけられないやつだ。
これを抜いて、と言っている気がするから、根っこごと必要なのだろう。もしくは、根っこが大事なのかもしれない。
「ピピッ?!」
何の気負いもなく掴んで力を入れようとした時、ティアが慌てふためいてオレの手をつついた。
「いたた! ……え? 危ないの? これが??」
慌てて手を離したけれど、オレの両手はみるみる腐り落ちて――なんてこともなく。
「……別に何ともないよ? これ、魔物でもないよね?」
うん? だけどちょっとだけ魔力というか魔素というか、感じるものがある。魔法植物ではあるのかも。
「ピッ! ピピッ!」
「ムゥちゃん? ムゥちゃんがどうしたの? 今はお留守番してるよ?」
なぜ今ムゥちゃん? 首を捻ったところで、ハッと気が付いた。
「もしかして、これマンドラゴラ?!」
「……ピッ」
ティアが、正解、と言うように重々しく頷いた。
そっか、マンドラゴラにも色々あるけれど、こんな野生種ならさぞかし逞しそうだ。こんな山中で魔力を吹っ飛ばされて気絶なんて、どう考えても死あるのみ……マンドラゴラって中々凶悪な魔法植物なんだな。
試しに根元の方をつん、とつついてみると、身震いするようにわじゃじゃっと葉っぱが蠢いた。近くで見ていたチャトの毛並みが、ぼわっと膨らむ。
うん、確実にマンドラゴラ。
「ムゥちゃんの友達になりそうには……ないよね」
確か、普通のマンドラゴラは抜いたら動かなくなるはず。
「抜き方は習ったから、大丈夫。で、でも念のためにシールドも貼っておこうかな。万が一オレが気絶しても、みんながいるから大丈夫だよね」
あの時のタクトを思い出して、ちょっぴり怯む。よし、復習しておこう。オレにはカロルス様みたいな抜き方はできないし、便利な収穫グッズもない。
教科書を引っ張り出して、お目当てのページを探し当てた時……それは響き渡った。
おぞましくも恐ろしい断末魔。
うららかな日差しが一気に紫色の空に変わったかのような、ホラー情緒たっぷりの雄叫び。
飛び上がったオレは、一足飛びにシロの下に潜り込んでいた。
「に゛ゃうっ?!」
同時に聞こえた、奇妙な泣き声。
「……え、チャト?!」
雄叫びの主と、奇妙な声の主両方に思い当たって、慌ててシロの下からはい出した。
「あ……」
案の定と言うべきか、死闘を終えたかのように横たわっているのは、チャト。そして、引っこ抜かれたマンドラゴラ。
そっかー……好きだったもんね、ああいう動きをするオモチャ。
マンドラゴラをちょいちょい猫パンチしていただろう姿が、目に浮かぶ。
「送還されちゃうよ~戻っておいで」
苦笑して抱き上げると、チャトはすうっとオレの中へ吸い込まれるように消えた。
オレの中にさえ戻れば、魔力は関係ない。
『別に……抜いてやっただけだ』
ものすごく憮然とした気配がする。
「うん、おかげで助かっちゃった。ありがとう」
くすくす笑って、転がっているマンドラゴラを拾い上げた。
何とも、すごい色だ。紫がかった茶色の人面人参といった風情だろうか。オレの前腕くらいある大物は、さすがティアセレクトだ。
「なんだか、お土産がいっぱいできたね!」
ほんの少し漂っていた寂しさは、もうすっかりてっぺんに来たお日様に溶け、オレはにっこり笑って山を下ったのだった。
ちらっと出て来たマンドラゴラの便利グッズやカロルス様の抜き方は、書籍15巻の書下ろしですね!私あの話結構好きなんですよね~イラストが二枚もありますし!!カロルス様カッコイイし!(笑)