832 集団幻覚
「ほら……仲睦まじいだろ? ふふ、良かったなあニーチェ……幸せにな……」
二匹一緒に入った大きなケージの中で、ニーッと二匹が鳴いた。幻獣だもの、お別れだって分かっているんだろうな。
これがシーリアさんだってことも、ちゃんと分かってるんだろうな。オレは最初分からなかったけども。
目が溶けるほどに泣いたのだろうその顔は、もはや原型を留めていない。
「……あの、シーリアさん回復しておくね?」
「回復? ……わ、あったか……おお、目が開くようになった!」
腫れの引いた顔は、確かにシーリアさんだ。だけどまだ泣いているから、きっとまた試合後のボクサーみたいな顔になってしまうんだろうな。
「じゃあ、そろそろ出発しようか」
さっきからずっと別れを惜しんでいるシーリアさんに付き合っていると、きっと永遠に出発はできないだろう。気持ちは、痛いほどに分かるのだけど。
「……!!」
声もなく引き留めようとした手を、ルルがそっと止めた。
ルルの小さな小さな胸に顔を押しつけ、嗚咽が漏れる。なんだかオレまで泣いてしまいそうで、きゅっと唇を結んだ。
「行ってきます!」
「ニーッ!」
ルルを顔に貼り付けたシーリアさんは、店の前でいつまでも手を振っていた。
大丈夫、オレが連れて行くんだから、シーリアさんもまた会いに行ける。
シロ直行便で、ルルも一緒に行こうね。
時々、シロに様子を見に行ってもらえばいいよ。シーリアさんは何となくシロと通じてるから、言葉を交わさなくてもきっと伝わるよ。
オレはにっこり笑みを浮かべて、ニーチェたちの里帰りへの一歩を踏み出した。
「場所、大丈夫なのか? 地図読めねえだろ? 迷子になったら……一旦帰ってこい!」
「不安~。変な人について行かないでよ~? 他人と目を合わせちゃだめだからね~」
別れを惜しむシーリアさんばりに、二人がオレを離してくれない。
門のところまで見送りに来てくれたものの、さっきからずっとこの調子だ。色々と無茶を言う。
「オレ、一人で王都行ったりしてるんだけど?! この間は引率だってやったんだよ?!」
「だって普段はお前、ちゃんと移動してねえだろ。今回、ちゃんと普通の旅をするんだろ?」
「不安しかない~。引率だったら、他の冒険者もいるから安心なのに~」
どういうことなの! ま、まあ普段は転移を多用しているから、それはそれとして……。
「大丈夫だってば!! 移動はシロ車なんだし!」
「そっか、まあそれなら……」
「頼むよ、シロ~! ユータはシロ車以外に乗っちゃだめだからね~」
……オレは大層憤慨しながら、ハイカリクの町を出発したのだった。
ゴトゴト揺れるシロ車の上、たっぷり敷いた布団がふかふか揺れる。
仰向けにぼうっと眺める空を、鳥が横切っていった。
車輪の音と、ケージが揺れる音、どこかで馬の嘶く声がする。
「……そうか、一人旅って入学の時以来なのかも」
せめて大きなケージがあって良かった。だってシロ車は広すぎる。
「お昼……どうしよっか」
なんとなく呟いてみたけれど、お腹は空いていない。
ニーチェたちは食用のお花がたっぷりあるし、オレは飴でもなめていようか。
『俺様今日はお魚の気分!』
『あえは、おやちゅの気分!』
『スオーは、美味しいもの』
『お魚……昼食に向くお魚って何かしら』
途端にいろんな声がして、くすっと笑った。
「うーん、煮物系はどっちかというと夜に食べたいし。お魚フライをパンに挟んでフィッシュバーガーとかどうかな。ご飯なら、漬け丼なんかもいいなあ。そうだ、炊き込みご飯でおにぎりっていう手もあるね」
急にお腹が空いてきて、口の中に唾液が溢れてきた。
いやいや、こんなの飴ですませるなんてとんでもないよ。
『ぼく全部食べたい! お肉は?』
――ラピス、全部食べるの! お魚もお肉もおやつも食べるの!
『猫缶』
ふむ、それならやっぱり今日はパン系にしよう。フィッシュバーガーと猫缶サンド、かたまり肉のスープにすればリクエストには応えられるかな? アゲハとラピスはちゃんとお昼ご飯食べてからおやつを食べようね。
『ねえ、お昼ご飯、どこで食べる? 小川の近くか、森の近くか、広い原っぱどこがいい?』
ウキウキ振り返った水色の瞳が、光を透かしてとても綺麗。
「じゃあ、小川の側がいいな!」
ウォウッと一声吠えたシロが、勢いよく駆けだした。
「シロ、ゆっくりね!」
『だけど、早く食べたいな……』
舌なめずりが止まらないシロは、果たして料理ができあがるまで待てるのだろうか。
「今できることはやっておく方がいいね!」
何事も時短、効率化だ。
お布団を一旦収納へしまい、テーブルを取り出してお魚フライの下ごしらえ。タクトがいつも『肉!』って言うからお魚の出番があんまりないんだよね。こういう機会に一気にフライにしてしまってもいいかも。カロルス様にしてもタクトにしても、フライなら割と喜んで食べるし。
あとは丸パンを上下二つに分け、お野菜を洗う。
「おっとっと……ありがと」
転がりそうになったパンを、蘇芳がぱふっと押さえてくれた。
「あとはお肉とか切りたいけど……さすがにここでは危ない気がする。そうだ!」
真上に放り投げたお肉は――ひゅ、と鋭い音と共にオレの拳大程度になってテーブルへ落ちた。
両の短剣を再び洗浄して腰に戻し、にっこり笑う。
「包丁は危ないけど、これなら大丈夫だね!」
『危ないの基準がちょっと分からないわ……』
呆れた様子のモモは、それぞれ食材がどこかへ行ってしまわないようシールドで確保する係をしてくれている。
スープ用の野菜も切って、下ごしらえはこのくらいだろうか。
後はお魚を揚げて、猫缶は卵でとじてオープンオムレツにすれば挟みやすいだろう。スープも煮込まなくてはいけない。うん、残っているのは火を通す作業が主だね。
『まだ食えないのか』
「揚げたり焼いたりしなきゃいけないからね。生でもチャトは食べられるかもしれないけど、ちゃんと作った方が美味しいんじゃない?」
『スオーも、早く食べたい』
「到着したら、急いで用意するからね。それまで――」
ふと思った。それまで……待つ必要あるだろうか。
「――よい、しょ!」
くるり、とひっくり返したオープンオムレツは、たっぷりの具材で黄色がほとんど見えない。じゅわっと響いた音と共に、猫缶の甘辛く香ばしい香りがオレの顔を急襲する。
口の端から溢れそうになった唾液を押しやって、傍らへ視線をやった。
「うわあ……すごいことになってるね」
『スオー、ちゃんと作ってる』
派手に油しぶきをあげて鍋へ飛び込んだお魚。じょわじょわ! と一気に沸き立つ油を気にも留めず、蘇芳は再びばちゃーんと魚を放り込んだ。
「シールド様々だね……」
『呑気にしてないで、ちゃんと焦げる前に取り出してちょうだい』
モモと蘇芳組は揚げ物係。シールドの中は油でひどいことになっているけれど、ひとまず安全ではある。ぶち撒かれている油が、シロ車の揺れのせいではないことは明白だ。
『せいやっ!』
『えいやっ!』
チュー助とアゲハが、一生懸命パンに具材を挟んでくれている。ちょっとばかりチュー助がビジュアル的にNGな気はするけど、大丈夫、ここにはオレしかいない。
「こっちの火は消していいよ! スープの火はもうちょっとゆるめで!」
「「「きゅっ!」」」
オープンオムレツを作り終え、スープをかき混ぜてよし、と頷いた。
これはいいアイディアだ。
だってオレしかいないから、シロ車を広々使える。モモとオレでシールドを使えば炎上やひっくり返す危険もない。ケージの二匹にはちょっと申し訳ないけれど。
カタカタ蓋を鳴らす鍋から、湯気と共にふわふわいい香りが漂ってくる。
「到着したら、すぐに食べられるね!」
満足して笑ったオレは、こうして一生懸命料理していたから、ちっとも気付かなかった。
その時、オレのいた街道では多くの人が幻覚を見たらしい。あまりにも訴えが多く、視覚以外にも幻覚の効果が及んだことから、調査隊が出されることになったんだって。
小川の側でゆっくり昼食をとって、ゆっくりお昼寝をしてしまったオレは、慌ててたどり着いた野営地でその噂を聞き、眉をひそめた。
「全然知らなかった。幻惑蝶なんかがいたのかも」
『そうね、きっとみんな同じ幻覚を見たのね』
『主……俺様、今後も早くごはん食べたいから黙秘するぜ』
『哀れな被害者……』
モモたちはどこか沈痛な面持ちで首を振ったのだった。
調査員:大きな犬が街道を走って……違う? 犬が荷車を引いて爆走、と。
うん? それだけじゃないって? 幼児が料理をしている幻覚を見た人も――それも違う?
――ええと、つまり爆走する犬が引く車の上で幼児が料理?? どうしてそんな滅茶苦茶な幻覚を揃いも揃って……。
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