821 派生した被害
しん、と夜が鎮まった。
檻の中と外、立場の逆転した男たちとシロが、視線を交わす。
動かない彼らに首をかしげ、シロはぺろり、と口の周りを舐めた。
結局彼らは、何をしたかったのだろうか。
つい危ないと思って出てきてしまったけれど、檻に入ったまま出てこないところを見るに、危なくはなかったのだろうか。もしや、このまま寝る予定なのかもしれない。
『そっか、ぼくも小さい小屋を持ってたからね』
地球での犬小屋を思い出し、なるほどと納得した。ユータはいつも布の小屋だけど、こっちの方がしっかりしている。
ちらりと破片になった小屋……ならぬ檻を見て、彼らの入った檻を少しうらやましく思ってしまう。なんせ、シロの戻る場所はもうない。
この獲物を乗せたら、荷台だっていっぱいになるのではないだろうか。
モロモスを咥え、いそいそ引きずって荷台に載せようとした時、やっと声が聞こえた。
「ヒッ……寄るな、やめろ、来るな!」
「持ってくるんじゃない!!」
思わず立ち止まったシロは、困惑してモロモスを置いた。彼らは、いらないと言う。保存食よりよほどごちそうだと思うのに。
『だけどぼく、こんなにいっぺんに食べられないし……』
頑張ったら、おいしいところだけでも。いや、でもさすがに大きすぎる。
真剣に悩むシロの胸中など知るよしもなく、男たちはようやく再起動を始めた。
「なんなんだ……なんで、モロモスが犬に? いや、それより……俺ら助かったのか?」
「夢でも見てんのか……」
顔を見合わせ、徐々に現状を把握し始めた男たちが、やがて喜色を浮かべ――そして項垂れた。
「くそ、どうする……馬がねえ」
「こんなところで野営なんて、冗談じゃねえ! モロモスが一体とは限らねえのに」
「今すぐここを離れよう。こいつに仲間がいたりしたら……!!」
右へ左へ首を傾けつつ、耳をくりくりさせて話を聞いていたシロは、どうも彼らはここで寝るつもりがなさそうだと理解した。
「ウォウッ!」
一声吠えた途端、面白いように男たちが飛び上がった。
「な、な、なんだ?! 今度は何だ?!」
「この犬、なんで逃げて行かねんだ……? 一体、何してる?」
馬車の前へ回ってみたものの、誰も檻から出て来ないものだから、シロはしびれを切らして彼らの檻のひとつへ駆け寄った。
「うわ、うわああ! 助けてくれ! 誰か!」
「何してる?! どうしようってんだ!」
ひょい、と檻ごと持ち上げられた男が野太い悲鳴をあげている。
困った顔で耳を伏せ、シロはそうっと檻を御者台の方へ運んだ。
馬がいない、そして彼らはアジトへ行きたい。ならば――!!
意気揚々と尻尾を振るシロと怯える彼らの意思疎通は、困難を極めたのだった。
*****
「――うわああっ?!」
早朝のロクサレンに悲鳴が響き渡る。
グレイは、はて、と首を捻ってしばし考えを巡らせた。
悲鳴が聞こえたのは、恐らく庭だろう。
「厨房の裏手……ということは料理人ですね」
メイドがユータの登場以外で悲鳴をあげるわけはないし、カロルスの気配はまだ部屋にある。不用意に庭に飛び降りて、若手料理人を驚かせたわけではなさそうだ。
「も、もしやジフがいない間にエリーシャ様が料理を……というわけでもなさそうですし」
それならもっと大事になっているだろう。
ひとまず悲鳴など珍しくもないロクサレンで、グレイはゆっくりと厨房の方へ足を運んだ。
「あ、グレイさんおはよう。なんかあった?」
「セデス様、おはようございます。まずは御髪を整えましょうか」
ちょうど寝ぼけ眼で階段を降りてくるセデスを見上げ、少し肩をすくめてみせる。
「悲鳴は聞こえましたが、ジフはおりませんし、ユータ様もいらっしゃらないのに何があったのやら」
「そっか、料理人強化訓練かと思ったけど、ジフいないんだったね」
見事な爆発頭をなでつけるセデスと連れだって厨房まで行くと、朝食の準備で集まっているはずの料理人たちがいない。
ただ、開け放たれた裏口の扉が、朝のささやかな光に揺れていた。
「「…………?」」
ひょいと扉から庭へ顔を出した二人は、果たしてそこに集まった人だかりに目を瞬いた。
「あっ! グレイさん、セデス様! 今お呼びしようと!」
「こ、これを! 庭の香草を取りに出たところ……!! 一体何が?!」
手練れが皆カレーの戦力として行ってしまったので、今ロクサレンは非常に手薄だ。恐怖に引きつった表情で縋る彼らは、まだ若手なのだろう。
グレイとセデスは、なんともいえない顔を見合わせた。
「とりあえず……」
「ええ、アリスに頼みましょう」
額を抑えたグレイは、カロルスの部屋へと足を向けたのだった。
「きゅっきゅう!」
タクトに起こされ、しょぼつく目を擦ってぼうっとしていると、ほっぺに尻尾アタックが炸裂した。
「おはよ……あれ? アリス?」
ラピスかと思ったのに。だったら、何か用事があるってことだ。
「どうしたの? うん? オレ??」
どうも、帰ってこいと言われているらしい。
「なんだろう? 最近帰ったばっかりだし……」
エリーシャ様たちの禁断症状が出るにしても、早すぎる。
「ただい……ま?」
「おかえりなさいませ」
いつものように自分の部屋へ転移した途端、既に誰かがいることに気がついた。
「えーっと……オレ、何もしてないと思うんだけど……」
「そう、ですか?」
オレの背中にたらりと汗が流れる。にっこり微笑んだ顔が怖い。
いや、だけど、だって、オレずっと会場にいたし! 何も……何もしてない!!
必死に頭を働かせるけれど、何も思い当たらない。
「ユータ様、ちょっとこちらへ」
「は、はい……」
恐々としながらついていくと、なぜか庭の方へ連れ出された。
「こちらは、何でしょう?」
「…………何でしょう……ね?」
いろんな視線がオレに集中する。
人だかりのできた庭の一角、オレがいつもカニの生け簀を作ったり、野外解体場を作ったりして怒られるその場所。
さんさんと明るい日差しの中で、そこに鎮座しているのは美しくもいびつな氷塊のオブジェ。
透明度の高い氷はわずかに光を屈折させてきらきらと輝いて、内包するものをはっきりと晒していた。
その白っぽい肌からは静脈が青紫に透けて見え、未成熟な両生類のように見える。その割に太く力強い胴と四肢……とは言えない6本の足。そして長い首は明らかにあらぬ方へ曲がって、見開かれたひとつきりの巨大な目が空を睨んでいる。
さしづめタイトルは――生まれゆく朝、そして内包する死――みたいな。
うん、中々深遠なるテーマを感じるよね!
『現実から逃げちゃダメよ』
『俺様、タイトルは――果てなき欲望、その食欲について――だと思うぜ!』
モモとチュー助が両側からオレの頬をつついてくる。
いや、これは、違うんじゃない? あの、だってこれはオレじゃなくて。 だけど、何でだろうね? ラピスとシロの気配がすごくするような、そんな気がするんだよね?!
もう一度ちらりとオブジェを見やって、頭を抱えたくなる。
不気味。一言で言うなら、すごく不気味な魔物が、氷漬けになってそこにいた。
オレだってさすがにこんなことしないよ?!
だけどちょっと聞きたいんだけど――
「あの、これ、食べられるの……??」
つつましく尋ねたオレの台詞に、周囲からはヒッと悲鳴が上がったのだった。






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