820 食うものと食われるもの
「――チッ。この天気じゃ見えねえな……」
見上げた曇天は雨こそ降らないものの、男たちの思惑よりずっと早く周囲を薄闇に包み始めた。
吊したランプが照らす、わずかな範囲。男の目では、もはや馬の姿がようやくだ。
幸い、まだ馬は周囲が見えているらしい。衰えない足取りに安堵したところで、ふとその様子に違和感を覚えた。
「なんだ……? 速くねえか?」
別に、速く走る分には構わないと言えば構わない。ただ、それでバテて潰れることがなければの話だ。
「どうした? えらく揺れるな」
後ろの3人も乗り心地の悪さに気づいたか、御者台へ身を乗り出してきた。
「さあ? 馬がやたら張り切ってるみてえだな?」
「おおかた、早く休みてえってとこじゃねえのか。俺たちみたいによ」
おざなりな軽口を叩く中、突如馬が不規則に後ろ脚を跳ね上げた。
「おいっ! 暴れんな! くそ、暴走されたら厄介だ」
明らかに、おかしい。
せわしなく耳を左右へ動かし、口から泡を吹きつつ見開いた目をぎょろぎょろさせている。
まるでハーネスを振りほどこうとするかのように、時折蹴り上げ、横へ跳び、もはや人に制御されているとは言い難い。
「何だってんだ……? 疲れたのか?」
「どうする、一旦止めるか」
顔を見合わせた男たちが、大きく揺れた馬車に体勢を崩し、各々が馬車にしがみついた。
「まずいぞ、このままじゃ横転する!」
馬に合わせて不規則に蛇行し始めた馬車は、揺れに揺れて今にも車輪が浮き上がりそうになっている。
「仕方ねえ、止めるしかねえ!」
一人が手綱を引き、一人が車体のブレーキをかける。
車体の軋む音と馬のいななきの中、急制動をかけた馬車が、がくりとスピードを落とし始めた。
「よし、よし、これで……」
御者台に立ち上がっていた男が、ふいに言葉を切って表情をなくす。
スイッチを切ったような挙動に、隣の男が顔を顰めて男を小突いた。
「おい、何だっつうんだ」
はっと我に返った男が、形相を変える。
「走れ、走れ! だめだ、止まったらだめだ!!」
飛びつくようにブレーキを戻すと、馬を鞭打ち始めた。
「馬鹿っ、何を――」
とっさに胸ぐらをつかんだもう一人が、ぎょっとして手を離す。
「いた、いた! 魔物だ、でけえ……気味悪い、目が」
男は、歯の根も合わないほどに震えていた。
「は? 魔物?! おいっ、魔物だ!」
舌打ちと共に震える男を放置して、後方へ怒鳴った。
武器はある。荒事をするだけの腕っ節にも、それなりの自信がある者たち。
彼らは油断なく武器を構え、周囲に視線を配った。
重い馬車は、一旦スピードを落としてしまえば、再び疾走するまでに時間がいる。
必死の形相で引く馬が、ずるりと足を滑らせてよろめいた。
一瞬ひやりとしたものの、辛うじて転倒を免れた馬に額の汗を拭って――
バキバキッ!
男たちの視界を、何かが横切った。
壁面へ体がたたき付けられる衝撃。
そして――馬はいなくなっていた。
ハーネスで繋がった馬車が、激しく振り回されて方向を変える。
削り取られたように損傷した馬車の前方、辛うじて残った御者台で、男は馬のいななく方へゆっくりと首を巡らせた。
輪郭もぼやける闇の中、必死に暴れる馬を押さえる、何か。
馬の倍、いや3倍はある巨体が、薄ぼんやりと浮かぶ。
ずんぐりした体は熊のようでいて、毛のない肌は血の気がなく青白い。3対6本の太い脚は、馬車を引くだけの馬力を持った馬を軽々と地面へ縫い止めていて。
一つしかない巨大な目が、獲物をゆっくり味わおうとギロギロ周囲を確認していた。
誰も、何も動かないことを確認して、魔物は最初の獲物へと視線を落とす。
「ウォウッ!」
呼吸すら憚られる静けさの中、すんと澄んだ声が響いた。
恐怖に固まっていた男たちが、はっと呼吸を再開させ、魔物は向き直って身構えた。
もう助かるまいと思っていた馬が、力を振り絞るように立ち上がって駆けていく。
その光景は、馬にとっての奇跡で、男たちにとっての絶望だった。
最初の獲物を逃した魔物が、迷いなく次へ視線を定めたのは、ごく自然な流れ。
「ヒ、ヒッ! モロモス……っ!!」
「に、逃げ……!!」
容易い獲物とみたモロモスが、6本の足を器用に動かしてやってくる。不気味な青白い姿は、魔物よりも化け物と言った方が近いと思われた。
「ウォウッ!」
ままならぬ体で震える男たちの耳に、再びその声が聞こえた。
「そ、そうだ! 檻だ、檻へ入れば!」
誰かの声に突き動かされるように後部へなだれ込んだ彼らは、無我夢中で自ら檻の中へ体を押し込めた。
いつの間にか外れていた覆いから、夜空が見える。朝になれば、陽に弱いモロモスは立ち去るはず。
窮屈な檻が、これほどまでに心を落ち着けるものであったことはない。
ふと感じた気配に視線をやれば、あの声の持ち主が不思議そうに彼らを見ていた。
やれやれ、こいつのおかげで助かったようなものだ。
何一つ分かっていない、無邪気な犬。男たちの顔にわずかばかりの笑顔が浮かぼうとした、その時。
浮かべ損ねた笑顔が、押し殺した悲鳴に変わった。
ばりばりと引き裂かれた覆いから、夜空を遮って覗く巨大な、目。
次の瞬間、たたき付けられた前足の下には、檻であった破片が散っていた。
いとも容易く檻を破壊したモロモスが、破片をかき分け、獲物を探すそぶりをする。
その檻は、ハズレ。
さあ、残る檻はいくつだろうか。朝まで自分の檻が見つからない、その確率は。
計算などできなくとも、それが限りなくゼロだと男たちにも分かってしまった。
モロモスが、再び前足を振り上げる。
直下にいた男と、目が合った。
ほかの男の視線から何かを感じとった男が、顔色を紙のように白くして口を開く。
「た、助け……」
ゴキャ、という音、そして金属が触れあう高い音。
檻であったものの破片が散って、目を逸らせなかった彼らの頬を打った。
破壊し尽くされた檻は――ただし、彼のものではなかった。
ふるる、と体を一振りして背中に乗った破片を飛ばすと、白銀の獣はゆっくりとモロモスの前へ歩を進める。暗闇に慣れた目に、その獣はまるで燐光を帯びているように見えた。
「な、なんで……」
誰のものか分からない呟きに、獣は少し耳を倒して自ら破壊した檻を見やった。下げた尾とその表情が、どこかしょんぼりとしているように見えるのは気のせいだろうか。
気を取り直すかのように耳と尾を上げ、彼らが攫ってきたはずの犬は真っ直ぐモロモスを見上げた。
己より遙かに大きな魔物を前に、ぺろり、と口の周りを舐めた仕草には、何の気負いも感じない。
一方のモロモスは突如現れた犬に警戒したものの、どうやら新たな獲物と認識したらしい。
モロモスが犬を捕らえれば、その隙に逃げられるかもしれない。男たちが抱いたのは、わずかな期待。まさか、その期待が裏切られるとも思わずに。
モロモスの圧倒的な重量を乗せた前足が、まっすぐ犬を狙う。
悲鳴を上げる間もなく、ただの肉と毛皮に変わるはずだった犬は、ひょいと避けた。
まるで落ちている石を避けるごとく、当たり前のように。
ごく簡単に成されたそれに、男たちが息を止める。
右、左、左、右。3対あるが故に、安定して繰り出される攻撃が、当たらない。
一歩下がり、わずかに体を斜めにし、かと思えばちょいと前へ出る。ただそれだけの動きで、嘘のように当たらない。
犬は、何かを確認するようにちらりと彼らを見て、もう一度舌なめずりした。
キャルルル、と聞こえた案外高い声は、焦る魔物のものだったのだろうか。
裂けた口で、振り上げた前足で、今にも犬を捕らえようとした魔物が、ふいに標的を見失って戸惑いの声を上げている。
その遙か頭上に跳んでいた白銀の獣が、いとも容易く魔物の首根っこを咥えた。
落下のエネルギーに自身の力を加え、身をひねった獣の脚が大地を捉え――まるでスローモーションのように、代わりに宙へ浮いた魔物の巨体。
刹那、無重力のような光景が一転。
ずどん!
響いた音と振動が、馬車ごと男たちの体を飛び上がらせた。
一振り。
ただの一振り。
宙にあった魔物が、次の瞬間地面に伸びていた。
その首があらぬ方を向いているのを見ても、男たちはまだ、身動きがとれなかったのだった。






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