798 必要な時は
「……なんだ」
ぶっきらぼうな声が口から吐き出され、固く閉じていたまぶたを緩める。
淡いライトの明かりの中、薄闇よりも暗く、漆黒の髪と瞳が煌めいていた。
「眠れない?」
やわやわと柔らかく、温かく、そして小さな手が、そうっとダーロの頭を撫でている。
腫れ物に触るようなそれではなく。
機嫌を取るようなあれでもなく。
ただ、ダーロを心配する瞳の温度。
他意はなく、そして遠慮もないその手。
「ごめんね、そうだよね、もう少し明るい方が良かったかな」
言われて初めて、ユータが何を気にしているのか気がついて苦笑する。まさか、そんなこと忘れていたなんて言えるわけがない。
だけど、そうだ。暗いからだろう。こうも喉の奥が詰まったようになるのは。
だとしても――今明るくされては困る。
黙って首を振ったダーロに訝し気な顔をして、ユータはじっとダーロの瞳をのぞき込む。
どうせ、この暗い中じゃ大して何も見えやしない。ダーロは安心してその瞳を見つめ返していた。
「……大丈夫? 怖くない? 明るくしたい時は言ってね」
「いらねえよ」
やっと絞り出した声よりも、ユータの瞳はダーロの表情を読んでいるような気がして。
見えちゃいない、そのはず。こんな、縋るような顔。
「そう? ……じゃあ」
しまった、と思った。
離れて行ってしまう。優しい手が、声が、ぬくもりが。
どうしようもない焦燥が湧き上がった時、ふいに布団が引っ張られた。
もそもそ、と蠢く感触に硬直した直後、間近に浮かんだ黒の瞳。
声もないダーロの眼前で、花開くような笑みが浮かんだ。
「一緒にいてあげるね、それなら怖くないでしょう」
暗闇の中で確かに見えた幼い顔。浮かべた笑みは、まるで子供をなだめる母親のようだと――
「――は?! おま、お前、何やってんだ?!」
「だから、一緒に寝たら怖くないでしょう? 何があっても、ちゃんとオレが守ってあげるよ。安心して眠るといいよ」
怖くない、怖くない、そんな言葉を繰り返しながら、小さな顔に大きなあくびが浮かぶ。ダーロの胸を叩くリズムは、もう既に不規則だ。
頭を悩ませていた色々が、どこかへ行ってしまった。
温かく柔らかい土石流が、全てを押し流し、形を変えて胸を占領している。
ダーロは、ぱちぱちと瞬いた。
一体、何を辛気臭く考えていたんだろうか。
「いや、俺は子どもじゃねんだよ! 馬鹿か?!」
つい大きくなった声に、うとうとしていたユータがハッと顔を上げた。
「……え、オレ、まだ子どもじゃない? ……大人と言えば、おとななんだけど……まだ……」
かくっと落ちた頭が、またハッと持ち上がる。寝てませんよ、いかにもそう言いたげな雰囲気を漂わせながら、もうまぶたは隙間があるかないか。
「はあ……いい、そこで寝てろ」
「うん……だいじょぶだから、こわくないよ……」
必死の抵抗空しく、ものの数秒ともたずに隙間が閉じた。ダーロの胸に当てていた手が、するりと滑る。
すう、すう、おもちゃみたいな小さい肩がささやかに上下する。
布団に潰れた頬がひしゃげて、口が三角に開いている。
長い睫毛は、闇に紛れてよく見えない。
やはり、明かりはつけておいた方が良かったかもしれない。
「怖いのは、お前だ。何俺の前で爆睡してやがる。馬鹿じゃねえのか……いや、馬鹿だな」
何を言っても、ユータは起きない。
誰も見ていない暗闇で、ダーロの口元がこらえきれない笑みを形どる。
『じゃあ、ぼくも一緒に寝てあげるね!』
『あら? じゃあ私も、ということになるかしら』
いそいそと他方のベッドへ歩み寄ったシロと、飛び乗ったモモ。
「わ、なんだ犬。お前も、ベッドで寝たいのか? はは、お前はあったかいな」
「げ……まあ、お前がいれば安全には違いねえか」
素直に受け入れた二人の声が、暗闇の中で弾んでいた。
ふらり、ふらりと尻尾を振りながら、チャトは思う。
暗い所を気にしているのはユータだけだな、と。
『上書き、完了済み』
蘇芳が大きな耳を上下させ、チャトも頷いた。
だから、一緒に寝る必要なんてない。こっちへ戻ってくればいいのに。
不貞腐れたチャトは、ユータのベッドど真ん中を占領して寝転がったのだった。
*****
「ねえ、見て! きれいだよ!」
シロの背中で寝ぼけ眼をこすりつつ、満面の笑みで振り返る。
「……何がだ」
オレの指した方を一瞥したダーロさんが、意味が分からんといった顔をした。
「何って、ほら! 葉っぱが一面にきらきらしてるよ!」
オレの方こそ意味が分からない。草原に浮かぶ朝露が、光を受けてこんなに煌めいているのに!
「はあ? 濡れた草がキレーなもんかよ。服が濡れてうぜえだけだ」
「それとこれとは別なの! 綺麗なものは綺麗でいいじゃない!」
まさか、こんな所まで感覚が違うとは驚きだ。
シロ車に乗れる街道へ出るまで、オレたちはこうしてつかの間の朝の散歩を楽しんでいる。
……と、思っていたのだけど、そうして楽しんでいるのはもしかしてオレだけだったかもしれない。
確かに、ここは外だし。魔物がいるし。何なら、彼らは土砂崩れに巻き込まれた直後。大自然が美しい、なんて心境にはなれないかも。
シロ車に乗ってしまえば、ギルドまであっと言う間だ。彼らもシロに慣れたろうし、行きより飛ばせるだろう。
『シロに、というよりあなたの規格外に慣れただろうしね』
『中々慣れねえもんだぜ! 常識ある人間にはさ!』
偉そうにするチュー助の鼻をつついて、ほんのり寂しい気分を誤魔化した。
朝食を用意したら、それだけでまた驚かれたんだっけ。あとは、改めて昨日の土砂崩れの現場を目にして絶句していたね。神様がスプーンで削り取ったみたいに、山がなくなっていた。
そこに、オレたちがいたからね。
彼らは、今回で変わったんだろうか。
死ぬような目にあったもの。ちょっとだけ、自分と他の人の命を大事に思ってくれるといいな。
シロ車でおでこに風を受けつつ、傍らを見上げた。
遠くを見る瞳は穏やかだけれど、相変わらず眉間にシワが寄っている。
くすりと笑うと、下がった視線がオレと絡んだ。
「おい、あれは」
くい、と顎で指すものが分からず、首を傾げる。
「……雲だ」
「雲? どの雲? あ、見て! ほら、雲も金色になって綺麗だね!」
朝日を受けて、いかにも一日の始まりに相応しい輝き。胸いっぱい深呼吸したくなる。
「それで、雲が何?」
「いや、いい」
ダーロさんはどこか満足そうな顔で、口の端を上げたのだった。
「――はい、ではこれで任務達成とします。お疲れ様でした」
受付さんが、にっこり笑みを浮かべている。ダーロさんたちの肩から、力が抜けたのが分かった。
ドキドキしていたオレも、安堵の吐息を零す。
今回、任務が成功になるかどうか、五分五分だった。なんせ、肝心の実の質が悪かったから。ただ、もし失敗になってもリョンのツノがある。思った通りさほど高価な品ではなかったけれど、今回の違約金の支払いくらいにはなる。もう一度のチャンスは掴めたはず。
「不幸中の幸いだね!」
全ては、あの土砂崩れ。一帯のカラクルの木が概ね被害にあってしまったために、あの品質でも高値がつけられる事態になっていた。
「……デカい、幸いだ」
ダーロさんが、何か言いたげな顔で視線を下げた。
「うん! ね? オレ、頼りになったでしょう?」
ふふん、と胸を張ると、何か言い返そうとしたダーロさんが自分の口を塞いで、次いでオレの口も塞いだ。
「いいから、聞け。今度こそ、聞け」
何、とじっとりした目を向けると、たっぷりと逡巡した末におずおずと視線が持ち上がった。
「……悪かった。助かった」
一瞬、ギルドが静まり返った気がした。
「やっと言えたな。ありがとよ、あの、犬にも」
「まあな、こんだけ助けてもらっちゃ言うしかねえわ。マジで、助かった」
気まずげな苦笑を浮かべ、メリーナさんとワイクスさんもそう言った。
オレは、ちょっと声が出ない。ぽかん、と口を開け、目を丸まると見開いている。
「うぜえ。その顔」
不貞腐れたダーロさんに頬を潰された時、ギルド内で吹き出す声がした。
「へ、なんだよお前らの腑抜けっぷりは。そんなガキにしてやられたっての? マジで地に落ちたな」
ギルドの奥で笑っている男。そして周囲の数人。
ひしひし感じる悪意に、オレの視線が剣呑になる。
青筋を浮かべたダーロさんが今にも飛び掛かるんじゃないかと思ったけれど、拳を握って歯を食いしばっている。……もしかして。
ふう、と息を吐いて。
表情を削ぎ落とす。
次の瞬間、その男は地面に背中をつけていた。
「……誰?」
小さく言って、遠慮なく男の首に足を乗せる。
「――な、て、めえ!」
我に返った男が真っ赤になって振り払うのを軽々避け、拳を、脚を避け、もう一度床へ引き倒す。
「オレは『希望の光』のユータだよ。そんなガキって誰? 腑抜けは、誰か分かったけど」
殺気は、難しい。だから、気配を解放する。シロがやるように、オレの気配を目いっぱいに。
思い切り男の目をのぞき込み、にこりと笑った。
「相手になるよ。いつでも、どうぞ」
言い切って、踵を返す。
オレたちが出ていくまで、誰も、何も言わなかった。
ただ、カウンターの奥でギルマスだけが、ものすごく面白そうな顔をしていた。
促した視線にうまく釣られるようにダーロさんたちも外へ出て、すぐに通りを外れた途端。
思い切り飛びついた。
「は、恥ずかしいっ!! できた? どう、できた?!」
顔と言わず、耳も首も真っ赤になっている自覚がある。体が熱い。
白昼夢の中みたいな顔をしていたダーロさんが、目を瞬いて息をした。
「お、おう……ありゃあ……ビビるわ」
「本当?! 途中で笑っちゃったらどうしようかと思った! いきなり実践だなんて聞いてない!」
「才能、あんじゃね? 俺らとはやっぱ雰囲気違ぇけど、怖ぇえよ」
口々に褒められ(?)ようやくほっと息を吐く。
だって、ここでやらなきゃと思ったんだもの。
せっかく、ダーロさんたちに習ったんだから。
そう、オレたちがダーロさんたちと訓練をする代わりに、オレたちも教えてもらうんだ。彼らのやり方を!
だって、技術はたくさんあった方がいい。ラキやタクトに教えるのはちょっと、いやかなり危険な気もするけれど……。
どうしても『迫力のある顔』も『声』もできなかったオレは、相談の末『無表情』『静かな声』を選んだ。ダーロさんたちよりも、執事さんに近いかも。
特訓の成果は、出ていたんじゃないだろうか。さんざんダメ出しされたけれど、今回は本番の緊張感も相まって一番うまくいった。
「けど、口調が大人しすぎんだよ! 俺らを見習えっつったろうが」
「いや、こいつの顔で言われてもなあ……」
頑張ります!! 成功体験を経て、オレは今、やる気にみなぎっている。
「だから、てめーはやらんでいいっつったろ。ハッタリが必要な時は、俺らに言え。そのくらい、できらぁな」
ダーロさんが、がしりとオレの頭を掴んだ。
見上げるばかりの強面大男たち。なるほど、引き連れて行けば大抵の人には効果がありそう。
オレは、ふふっと笑ってその手を取り、握手した。
「分かった! じゃあ、『優しい対応』が必要な時はオレに言え! そのくらい、できるからな!」
きょとんとしたダーロさんたちは、一拍おいて思い切り吹き出したのだった。
長くなったからどうしてもこの回で終わらせたくて……遅刻