793 ユータの落胆
「お前……、もしかしてあたしが休めるように? いや、いくら賢いっつっても犬だし。大方、お前も休みたかったってとこか」
小さな洞穴には先に利用者がいたものの、シロの接近に気付いて脱兎のごとく駆けて行ってしまった。
メリーナが小さく身をかがめてやっと侵入できる洞穴は、シロも入ってしまえばもうほとんどスペースはない。
「暗い……こんなの、ゴブリンにだって負けるわ。あたし、食われんのか」
投げやりに呟いて、メリーナは膝を引き寄せて小さくなった。闇の中、カタカタと耳障りに鳴る音は、自分が歯の根も合わないほどに震えているからだと、気付いていた。
寒いからだろうか。怖いからだろうか。それとも、悲しいからだろうか。
冷えた頬を、静かに熱い雫が伝っていく。
『泣かないで、大丈夫なんだよ。そっか、寒いかな? ぼくが抱っこしてあげるからね』
「うわっ、何?!」
狭い空間の中、ぐいぐいと体を押し込んだシロが、メリーナを抱え込むように丸くなる。逃げようにも立ち上がる高さもなかったメリーナは、大きな獣に埋もれるように体勢を崩した。
慌てて抜け出そうと手をついて、そのあまりの心地よさに動きを止める。
「す……げえ。なんて毛皮だ……」
つい、撫でさするように夢中で手を滑らせ、ハッと身をこわばらせた。
その目に、闇の中ふさふさと揺れる尻尾が飛び込んで来る。恐る恐る上げた顔の間近には、大きな水色の瞳。その清い輝きが、光を失った瞳にしっかりと映り込んだ。
『いいよ! なでなでしてね。ぼく、あったかいでしょう』
ぱあっと笑ったシロの光に、メリーナの喉がひくっと鳴った。
『ぼくが守ってあげる。大丈夫だからね、心配しないで』
温かい舌が、汚れた頬を舐める。
ただただ、メリーナを思いやる瞳の温度。
大丈夫かと問いかける、物言わぬ柔らかな眼差し。
肌から伝わる、温かなぬくもり。
「――っ!」
一片の悪意もない透き通った瞳が、メリーナを映していた。
まるで赤子のように声を上げて泣きはじめた、その姿を。
*****
「あ……ねえ、雨止みそうだね」
シールドを叩く雨粒が減っていることに気付き、ホッとしてダーロさんを見上げた。
ワイクスさんはモモがいるから大丈夫だけど、メリーナさんはシールドも雨具もない。頑丈そうな人たちだけど、さすがに体調を崩してしまいそうだもの。
ダーロさんは、さっきから何も言わない。
オレはちょっと困った顔をして、繋いだ手をきゅっと握った。
「心配いらないよ、みんな無事だよ」
「……そんなこと、分からねえ。いくらお前でも、他の仲間まで助けられねえだろ」
やっと発した声は、拗ねたように小さい。
「助けられるよ。オレは一人じゃないから。シロは知ってるでしょう? 他にも頼もしい仲間がいるから」
にこっと微笑んだものの、そのシロがやって来ないもんだからオレはヤキモキしているところだ。
なぜって、シロがいないとオレの足では移動に時間がかかって仕方ない。チャトは雨が降っているからって出て来てくれないし。まあ、出て来てもオレしか乗れないけども。
走ればまだ早いのだけど……。
再び眉尻を下げて、繋いだ手を眺めた。
ダーロさんが、手を離してくれない。よほど、怖かったのだろうな。それに周囲は真っ暗だし、魔物を寄せちゃうから小さな明かりしかないわけで……気持ちは分かるのだけど。
そこで、はたと思いついた。
「ねえ、みんなを早く探しに行かなきゃいけないでしょう?」
当たり前だと訝し気な顔をする彼に、にっこり笑って手を差し伸べた。
「――本当にこっちで合ってんのか!」
「合ってるよ! シロたち、雨宿りしてるみたいだね」
半信半疑ながら、迷いなく道を指し示すオレに従ってダーロさんが走る。乗り心地は、非常に悪い。
肩の上で激しく揺られ、舌を噛みそうで苦笑する。
だけど、これが一番早い移動方法だろう。その代わり、足元がはっきりするよう明かりを強める必要があって……そうなると。
「道しるべっ!」
行く手から唸り声をあげて走って来る魔物へ、遠慮なく魔法を放つ。
小さなライトを内包した氷の槍が、見事命中して先を照らした。
周囲を明るくしたせいで、魔物ホイホイなんだよね。シールドがあるけれど、魔物を引きつれて移動していくわけにもいかないだろう。だから、適宜こうして討伐ついでに、帰りの街灯代わりにする。
オレたちの通った後には、点々と煌めく水晶のような氷が残されていた。まるで、ヘンゼルとグレーテルみたいだね。
『そんな凶暴な話なのか』
……ちょっと違うかもしれない。いや、結構凶暴な話だったかも。
チャトは出て来てくれないのに、余計なことは言うんだから。
「あ、もう近いよ! ビックリさせるだろうから、明かりを落として歩こうか」
ゆっくり行こうと声を掛けたところで、ダーロさんが走る。肩の上でひっくり返りそうになりつつしがみつくと、視線の先に小さな洞穴を見つけた。
「ウォウッ!」
「な、なんだ、魔物?!」
嬉し気なシロの声と、怯えたメリーナさんの声。駆け寄ったダーロさんを見て、その目が、口がぽかんと開いた。
「――シロ、ありがとうね! お疲れ様」
『ぼく、疲れてないよ!』
ちぎれんばかりに尻尾を振るシロを盛大に撫で、オレはもらい泣きしそうになるのを堪えて笑ったのだった。
シロが参戦してくれたので、移動が各段に楽になった。
ダーロさんはものすごく嫌がったけど、メリーナさんの説得に応じて何とかシロに跨った。勝手に下りないよう、オレ・ダーロさん・メリーナさんの順だ。
「ワイクスさんは、ちょっと離れてるんだ!」
何せ、足がないし流されるままだし。蘇芳がいるので、生き埋めのままってことはないだろうけれど。
『もうすぐだけど、魔物がいるよ。どうする?』
「ホントだ! シロは二人を乗せて守っていてくれる?」
『分かった!』
オレは二人を振り返って口を開く。
「もうすぐだよ! だけど、魔物が結構いるからシロから下りないでね!」
「なんだと?!」
ダーロさんたちが表情を固くした時、シロが足を止めた。唐突に拓けたそこは、谷を埋め尽くし森を浸食した土石流が流れた場所。
その一角に、魔物の集まる場所がある。どうやら、群れで狩りをするタイプらしい。同種の魔物がしっかりと包囲陣を成している。
「まさか、あそこに?! ワイクス!」
悲鳴のようなメリーナさんの声に反応し、魔物たちがこちらへ視線をやった。
少し緩んだ陣の中心、そこに確かにうずくまる男が見えた。
「く、くそ!」
顔を引きつらせたダーロさんが剣に手を掛けようとした時、オレは一足先にシロから飛び降りた。
「じゃあ、行ってくるね!」
もう夜中。ちまちま討伐している場合じゃない。
ダーロさんたちが何か言っているのを聞き流し、群れに向かって走る。
まさかオレが向かってくると思わなかったのだろう、面食らった魔物たちが棒立ちになった瞬間、大きく振りかぶった。
「行くよっ! マッツ・オ・バショー!!」
ぶおん、と大うちわを振るつもりで両手を振り下ろすと、沸き起こった風が、悲鳴ごと魔物を吹き飛ばしていった。
それにしたって、どうして人名なのか。どうも締まらない。
「思い出せないなら、アレにこだわらなくても扇風機とかにすれば良かっ――」
ぶつぶつ言いながらうずくまるワイクスさんに視線を向けて、ハッと顔色を変えて言葉を切った。
ああ、どうして……!
「オレって本当にぽんこつ……! そうだ、そうだよ!! あのうちわ、『芭蕉扇』だった!!」
頭を抱えて転げまわりたい衝動に駆られる。惜しかった……本当に近かったのに!!
顔を覆って天を仰いだところで、チャトがぴしゃりと言った。
『いいから早く助けてやれ』
……そうですね。
オレは失意に暮れながら、ワイクスさんに歩み寄ったのだった。