791 そっちじゃない
「くっ……」
ずるり、泥にまみれた手が枝を掴み損ねて滑った。
ぬかるんだ斜面のこと、簡単に体勢を崩して片膝をつくと、ここぞとばかりにゴブリンが飛び掛かって来る。
右の一体をぶっ飛ばした隙に、左からわき腹に一撃をもらった。反射的に払いのけたのはアリだったのだろうか、小さく裂けた服にじわりと血が滲んで、ダーロは舌打ちをした。
ゴブリンの気配は人と似て分かりやすい。そのせいで、却ってアリの気配が掴みにくい。その上、この雨だ。濡れそぼる袋の中を確かめ、悪態をつく。
この天候が続けば、熟れた実は腐るか落ちる。天気が回復しても収穫の望みは薄いだろう。そのせいで魔物共も集まっているのかもしれない。
「クソが! 雨も魔物もうざってえ。まだ半分……あいつらは」
ダーロは、激しい雨音の中太い首を巡らせ、仲間の姿を探す。
「ダーロ、こっちだ! 引き上げるか? さすがに条件が悪いぞ!」
案外近くにいたワイクスが剣を振って注目を促し、寄って来たアリを崖下の川へ蹴飛ばした。
「あたしはやっとこ半分ってとこ! そっちはどうだい?!」
下の方でメリーナが声を張る。
滑落を案じた彼らは、斜面の下方で採取を行っていた。
「俺も半分ってとこだ。しかし、あんなあしらいやすいチビが引率なんだ、この機会を逃せば……」
ダーロは歯噛みして悪天候を見上げた。これも、天の裁きってヤツだというのだろうか。
あの時、掴みかかった手を避けられた。しかも、召喚獣は脅威だ。それなりに実力はあると理解はしている。
しかし今回あんな幼児がつけられたのは、きっと自分たちがギルドから見限られたからだ。何も知らない幼児に厄介な引率を押し付け、ダーロたちが激高すればまんまと引導を渡せる。下手をすれば、あの時、ギルドの中でこの任務は失敗に終わっていたのだから。
そういう思惑だと、ダーロたちは考えている。ある意味、彼らがギルドから連れ出されたのはギルドの失態であり、ダーロたちにとっての幸運だった。
「冒険者なんてやめちまって、他所へ逃げるかい?」
「まあな。けどよ、金が払えなきゃ追われる身だ」
苦笑して目をやったメリーナの側で、大きな生き物が蠢いてぎょっと剣に手を掛けた。しかしそれが茶色く染まった犬だと気づいて、安堵と共にふと眉根を寄せる。
「……あ? そういや、ガキは。なんでそこに犬がいる」
「え? うわ、これ犬? じゃあ、今ガキは……? まさか!」
「なんだと?! ダーロ、マズい! 俺らがヤッたと思われるぞ!」
それは、違約金の未払いなどという生易しい罪ではない。3人は一気に冷えた体で、慌てて斜面を駆け上った。
「多い……! なんだ、やたら魔物が多いぞ!」
登るにつれ、魔物は減るどころか増加の一途をたどっている。
泥と雨に混じって、彼らのこめかみを嫌な汗が流れていく。
「くそっ! どこだガキぃ!!」
雨のカーテンに覆われた中、ダーロは闇雲に両腕を振り回して縋りついた魔物を振り払った。
ざあざあと鳴る音がそのダミ声すらかき消した時、雨音の合間をぬうように、高く柔らかな声が聞こえた。
「マッツ・オ・バショー!」
ゴッ、と鳴った音と同時、反射的に木にしがみついたところで、一塊となった魔物が吹っ飛んできた。
「な、なにが……?!」
吸い寄せられるように集まった3対の視線の中央。
茶色と灰色に染まった世界の中で、そこだけがスポットライトを浴びたように鮮やかで。
「急斜面だと楽だね! 魔物は落とすだけでいいもの。ティア、次行こう!」
「ピピッ!」
淡い緑の小鳥を追って、泥汚れひとつない幼児が弾むように歩く。
一瞬拓けた斜面が、再びわらわらと群がろうとする魔物に覆われ始めた時、ようやっとダーロの思考が戻って来た。
「お、おい! 危ねえ――」
伸ばした手の先で、漆黒の瞳と目が合った、と思う。
みるまにそれが魔物の姿で掻き消え、ダーロは息を呑んだ。
*****
どうやら、ダーロさんたちは下の方で採取するらしい。なるほど、滑落事故を防ぐにはいいことだ。ちゃんと頭を働かせることもあるらしい。
「だけど、魔物だって下の方が採りやすいんだから、上の方がいい実が残ってるよ!」
その通り、と言いたげにティアが胸を張り、パタタっと羽を鳴らして次の木へ誘導してくれる。
視界が悪いのでもう雨具を脱ぎ、ちゃっかりシールドを使って快適に採取しつつ、大丈夫かなと眼下の3人に目をやった。
「少々の怪我は気にしないタイプなんだね。身体強化もあんまりだし」
シロの鼻で、3人とも多少なりとも怪我をしていると把握できている。ひとまず、大きな怪我はないようだけど。そりゃあ、身体強化が未熟なのに、タクトみたいに突っ込んだらダメでしょう。
「ねえ、ところでさっきから気になってたんだけど……」
次々ゴブリンを崖下に蹴落としつつ、うーんと唸った。
「なんだか、魔物がオレのところばっかり来てない?」
こうしてみると、ダーロさんたちのところとあからさまに魔物の数が違う。もしかして、魔物も上の方がいいと気が付いたんだろうか。
『弱くて劣る個体を狙うのは、当然だ』
決して出てこないチャトが鼻を鳴らし、オレは改めて3人を見た。デカいデカいデカい、そして――ちっちゃい。自分の姿を顧みて、つい納得してしまう。さすがに、あんなゴリマッチョと比較すれば、オレが狙われるのは火を見るよりも明らか。
「……でもいいよ! オレが陰ながらこうして敵を引き付けているからこそ、3人は安全に採取できるってものだよね! 実力者たる先輩だからこその活躍!!」
気を取り直して、再びせっせとティアセレクトの実を収納に入れる。
だけどそろそろ野営の準備をしなくちゃ、真っ暗になってしまうと思うけれど。
オレは見えるけれど、3人の視界は大丈夫だろうか。
ところで、彼らは荷物が少ないけれど、ちゃんと野営グッズを持っているのかな。掻っ攫って行った手前、もし諸々の準備前だったら……それってもしかしてオレの責任?
「そ、そうだとしても、大丈夫! ここは先輩らしく土魔法の仮小屋でも作ってあげればいいよね!」
しばし樹上で思案していると、早く行こうとティアにつつかれた。
「う、うん。もう少し採取したら終わりに――うわ、いっぱい集まってる」
いつの間にやら、オレのいる木はすっかり包囲されている。
そもそもシールドを張っているので問題ないけれど、邪魔だし木の実も採られちゃう。
「電気柵……はこんな天候だと危険すぎるよね。スプリンクラーで……でも、あれどこまで突き抜けるか分からないし」
魔物はやっつけたけど万が一3人にまで被害が及んでしまったら……怖い想像をして身震いした。
吹き飛ばすだけなら……風でいい。ええと、あの、あれ、何だっけ。
明確にイメージはできているのに、名前が思い出せない。ああもう、ここまで出てきているのに!
うんうん唸っている間にも、魔物は集合してくる。オレは、諦めた。
この世界ではどうせ分かるまい。
「行くよっ、『マッツ・オ・バショー』!」
明確なイメージと共に、木から飛び降りざまにぶんと手を振り下ろした。
オレを中心に発生した、猛烈な空気の移動。ゴッ、と激しい風が圧力となって周囲の魔物を吹っ飛ばした。
『お前、それ……』
まさか、チャトが知っているわけはあるまい。呆れた視線を感じるのは、気のせいだ。
さて、と次の木に向かおうとすれば、瞬く間に魔物が寄って来る。
もう一回魔法をぶちかまそうかとした時、『危ねえ』と野太い声が聞こえた気がした。
「え、ダーロさん?」
まさかこんな近くにいるとは思わず、視線を合わせて目を瞬いた。
呆気にとられている間に視界が魔物で埋まり、慌ててちまちま短剣で応酬する。ひとまず、スプリンクラーをやらなかった自分に拍手喝采だ。
*****
「ダーロ!」
駆け上って来るワイクスの声に、ハッとした。伸ばしたままの手を握り、ガキに群がろうとしたゴブリンを引っ掴んで投げ捨てる。
「く、ガキ! 返事をしろ!」
せめて、息があれば……あの犬の速度ならもしかして。わずかな望みに縋って声を張った。
だから――つい、間抜けな声に全身の動きを止めた。
「はぁーい! なに?」
「は?」
聞き覚えのある腹立たしい声。当たり前のように返って来た返事。
ここぞとばかりにダーロへ飛びついてきた魔物が、1匹、2匹、3匹……まるで弾かれたように吹っ飛んだ。
魔物の視線を一手に引き受けた小さな幼児が、ダーロの周囲をくるくると舞う。
暗がりに溶け込むような黒の髪が、時おり微かな光を反射して光った。
両の手に握られた短剣は、まるで絵を描くように優美に光の線を引いていく。
ふう、と息をついてその剣が腰に収められるまで、3人は息を止めてそれを見ていた。
相変わらず返り血ひとつ、泥ひとつない姿で振り返ったユータが、ダーロたちを見上げた。
穏やか、とさえ言える眼差しに、ごくりと喉が鳴る。
しかし、その視線はすぐに逸れて宙を彷徨った。
「えーと……その、ごめんね! だってダーロさんたちもっと下にいると思っていたから」
もそもそと呟かれた言葉は、想定外と言うにも想定外で。
「あの、でも、割と危なくないやつを選んだつもりだったの! 配慮はしたんだよ」
そのセリフが、さきの『危ねえ』に対するものだと彼らが理解するには、相当時間が必要となったのだった。
モモ:チャト、絶句してないでちゃんとツッコむのよ!
チャト:おれには……無理だ……。
チュー助:これツッコむとこなのか? 俺様珍しくカッコイイ魔法だと思ったぜ! イッツ・ア・ショータイム! みたいでさ!
皆様、あのアレ、名前知ってます? 西遊記とかに出てくる、アレ。
ここまで出て来たけど人名になってしまったひつじのはねです。惜しかった。