780 晩酌に嵌める
おつまみを少し、お酒を少し。少しずつ減っていくそれらに、オレもいい気分だ。
「それで――あ、そうだ、王都でのお話ってあれからどうなったの?」
ちびり、とジュースをすすって見上げると、ほのかに血色のいい執事さんが苦笑した。
「あの件ですね? 向こうも中々しつこくて途方に暮れているところですよ」
ふ、と口元にあがった笑みが酷薄なのは、見なかったことにすればいいだろうか。多分、途方に暮れているのは向こうなんじゃないかと思う。
「適当にご褒美をもらって、終わりにできないの?」
「そうですねえ……どうしても、こちらとの繋がりを強化したいようですから。むしろ絶ってしまいましょうか、こちらから」
「えっと……それは、その、ダメかなあって……」
ぞわっとする気配が立ち上って、すうっと押し込められる。ちら、と窺った執事さんが、にっこり笑った。
「……冗談ですよ」
そう……だよね?! 冗談にしておいてね! 王都にはオレの友達もいっぱいいるからね?!
機嫌はいい。いつになくにこやかで、笑みを絶やさない――けれど、好々爺じゃない。絶対、違う。
なんだろう、時々ぞくりと背中が寒くなるような、この気配。
布一枚隔てた向こうに猛獣がいるような、この……。
もう一度ちらりと見上げた視線が、見下ろす執事さんとかち合ってどきりとする。その目が、一瞬強い光を湛えていた気がして。
「……ユータ様は、中々敏感で困ります」
すぐさま柔らかくなった瞳に安堵した時、伸びて来た手が思わぬ強さでオレを掴んで引き寄せた。
「こうしておきましょう。こちらを見ないように」
ふふ、と含んだ笑みが背中に響く。
片手で引きずり上げられた膝の上で、オレは目を瞬かせた。
これ、執事さんだろうか。いつも可能な限りオレに触れないようにする、執事さんだろうか。
見上げようとした頭が、ぐっと押さえられる。
「さあ、もう寝ましょうか。余計なものを見ないうちに」
「でも……」
身じろぎしようとした体まで抱え込まれ、頬に押し付けられた寝間着からはほんのり香木のような香りがする。お酒に温められた体が温かくて、ますます普段の執事さんと違うような気がした。
「私が抱いても、眠くなりませんか?」
笑みに微かに混じる自嘲の気配に、それは違うと首を振った。
「そうじゃないよ、だって今夜は執事さんと夜更けまで晩酌しようって思ってたの」
唇を尖らせると、虚を突かれたように、少し腕が緩んだ。
大丈夫、眠くはなる。たとえ、猛獣の膝の上だとしても。
だってその獣は、決してオレを噛みはしないもの。
「……ありがとうございます。では、それはユータ様がお酒を飲めるようになった時に。楽しみにしていましょう」
執事さんの気配が、限りなくいつもの執事さんになって微笑んだのが分かる。
こくり、と頷いた途端に、ふいとオレの意識が途切れて慌てて首を振る。
ああ、執事さんが眠いとかいうから、オレのスイッチが入ってしまった。いや、切れてしまった、だろうか。
ほかほか温かい腕に包まれて、ベッドの上で、お風呂も入った。
執事さんだって、寝た方がいいって言った。
それって、今寝る方が良い選択なのかもしれない。だって、執事さんがそう言って……。
*****
片時も目を離さず見守っていたグレイは、ついにそのまぶたが落ち切って脱力したのを見て、こらえきれずに笑う。
「まさか、まさか『この私』の腕の中で眠るとは。ユータ様、あなたは本当に……」
くつくつと声を漏らして立ち上がると、彼は乱れのない足取りで扉へ向かったのだった。
――筋張った指がグラスの内側をくるりと撫でると、きらりと氷塊が生まれ、見る間に大きくグラスいっぱいに成長する。次いで注がれた琥珀色の液体に、透明なもやが揺らめいた。
グラスに指が差し込まれたところで、ノックの音が響いた。
「おーい、ユータは……無事か?」
そっと覗いた頭が部屋を見回して、そこにユータがいないことに安堵した様子を見せる。
「失礼ですね、きちんとお部屋に送って差し上げましたよ」
からり、と氷を回した指を舐め、グレイは努めてにっこりと微笑んだ。
「おー、酔わなかったか。聞いた酒の名前が、すげえのばっかだったからよ」
「私には自制心がありますからね。いい酒です、どうですか?」
グラスを振ってみせると、カロルスの喉がごくりと上下する。
「……酔ってねえな? なら、もらおうか」
いそいそとやって来る男に、笑みを浮かべて浅く呼吸する。
もう少し、もう少し……
ベッドへ腰かける寸前、握り込んで耐えていた拳が、つい緩んだ。
「……おっと」
見下ろしたグレイが、堪らず口角を引き上げて笑う。
胸倉を掴んで引き倒されたカロルスは、ブルーの瞳をひとつ瞬いて、じとりと見上げた。
「おーまーえ~……くそ、騙された。めちゃくちゃ酔ってんじゃねえか!」
「酔っていないとは、言ってませんね」
グレイはカロルスを跨ぎ越えて位置を変える。獲物が逃げないよう、壁際へ追いやって。
「たまには、いいでしょう。いい酒ですから」
「まあ、いいけどよ……お前、怖いぞ。もうちっと抑えろよ」
がしがしと頭を掻いて、カロルスは不貞腐れたように手を突き出した。
差し出された手にグラスを渡しながら、グレイはわざとらしく肩を竦めてみせる。
「そんなこと、あなた以外に言われたことありませんが」
「言えねえんだろがよ!」
いらだち紛れにぐい、とグラスを傾け、その酒精の強さに表情を変えた。
「うわ、キツ。割って飲めよ、喉が焼けるわ」
ぽい、とつまみを口へ放り込み、美味そうに咀嚼して再び舐めるように酒を一口。
「それはそれは。冷やしてあげましょうか?」
言葉だけは気づかわし気に、そっとその喉元に添えられた指が、肌をなぞり上げる。
「怖えぇっつうんだよ! やめろっての、それを」
「失礼ですね。酒の席ですから、スキンシップを増やしているだけですが」
銀灰色の瞳が、可笑しくて仕方ないように細められる。
「それは嬲るっつうんだよ! こう……ナイフで撫でられてる気分になるわ」
まさに、獲物を舐めては放し、咥えては吐き出す獣のように。
「心外です、私はこんなに機嫌がいいというのに」
「お前、上機嫌で賊を嬲るじゃねえか」
グレイは肯定も否定もせずに、ふふ、と笑う。
「まあ、いいではないですか。幸い、ここには被害を被る人はいませんし?」
「俺がいるわ! ……くそ、美味いな」
出ていく気配のないカロルスに、グレイはますます目を細める。
まあ、出て行かせはしないけれど。
こくり、と嚥下した液体が、甘やかに喉を焼く。
ふと、隣にある金の髪に既視感を覚えて手を伸ばした。洗いっぱなしの髪は、あの時ほどまばゆく光を反射してはいない。
触んな、とまた嫌な顔をされて笑う。
「あなたも、一応年を重ねているんですねえ」
「お前に言われたかねえわ!」
その憤慨する顔があまりに変わらないもので、グレイは声を押さえて笑う。
「中身はちっとも、ええ、ちっっとも変わりませんが」
「うるせえわ! 十分変わったっつうの! お前だって全然変わってねえじゃねえか!」
既にほの赤く上気し出した顔が、艶を含んだ瞳が、確かにあの時とは違った雰囲気を醸し出して。
けれど、変わらない。
その言動は、グレイへのそれは、何も変わらない。
「おやおや、こんなに丸くなった好々爺に向かって、何を言いますか」
いつもの『好々爺』の顔をしてみせると、カロルスはじとりと睨みつけた。
「どこがだ。お前、俺にはちっっとも好々爺じゃねえだろ」
言われて、グレイは少し瞠目した。
そして、笑う。
「いいではないですか、あなた相手ですし」
「まあ、いいけどよ……」
今さら変わっても気味悪い、なんて呟きを逃さず、グレイは笑みを深くする。
さあ、まだ夜は長い。
……大丈夫?
執事さん意外と人気で、ここまで書いちゃって大丈夫?? ってなったよ……
怖いよ? 執事さん……