768 異空間
日が完全に昇りきる前、草原には爽やかな陽光がきらきらと降り注ぎ、テーブルの上に木漏れ日のテーブルクロスを掛けていた。
それは、商人とその護衛二人分の足を止めるには十分な代物だった。
休憩所を避け、やや離れた木立に設置されたそれ。
思わず顔を見合わせ、彼らは目を瞬かせて凝視する。
忽然と現れた、それはそれは優雅なテーブルセット。
カトラリーまで揃えられたそれは、まるで空間を間違って配置したよう。
そこへお嬢様然とした少女が、メイドと親し気に会話しながら席に着いた。
年若いどころか、まだ幼さの残る少年二人が、サラダやスープを運んでいる。
遠巻きにしている彼らを尻目に、辺りには香ばしい香りが漂い始めた。
「今日は何かしら。ああ、いい香りだわ」
「本当ですね! これは、チーズでしょうか? 香ばしいですね」
まるで館の一室であるかのような、何気ない会話が風に乗って耳へ、そして鼻へ。
同時に、高い声が響く。
「ねえタクト、ちょっと手伝って!」
タクトと呼ばれたのだろう少年が、瞬時にテーブルのそばから姿を消し、やがて大きな盆にたくさんの何かを乗せてやって来た。
無骨な木の盆だけで相当な重さと見えるが、乗っているのは陶器らしい器。まるで皿一枚運ぶような気軽さでやって来た姿に、只者でないことが知れる。
「ユーちゃん、今日は何かしら?」
澄ましたふりをするお嬢様は、うきうきと心弾ませているのが傍目にも分かる。
「今日はカニグラタンだよ! 甲羅に入ったやつはちょっと上級者向けだと思うから、普通のやつ!」
答えた声は――と見れば、愛らしい幼女がタクト少年の周囲を弾むようにちょこまかと動き回っている。その背中で、リボンでまとめられた長い金髪が同じように飛び跳ねていた。
彼女は大きなミトンを嵌めた手で、そうっと慎重に盆からテーブルへ器を移してにっこり笑う。
「え、カニってあの?! 私、王都で一度だけ食べたことがあるのよ!」
「ナターシャ様、さすがだね! そのカニをたっぷり使ったグラタンだよ。カニはね、ロクサレンが広めたんだ!」
「まあ、そうなの! だからユーちゃんも詳しいのね」
呆然と聞いていた彼らは耳を疑った。
今、カニと言ったか。まさか、あの?
王都でも限られた高級店でしか手に入らないという、あの?!
「な、なあ……貴族様ってのは俺たちが想像するよりずうっと高い、はるか雲の上の存在だったんだな」
「私の知る貴族様は、雲の上ではありましょうが、山に昇れば届く程度の雲でしたが……」
商人がちらりと馬車の家紋に目を走らせ、納得したような、しないような顔をする。
「あれはザイオ家の……。さすが、と言いましょうか、さすがに? と言いましょうか……」
「ああ、羽振りがいいって噂だもんな。あすこの護衛だったら一体いくらで――おっと、すまねえ。あんなお嬢様の護衛なら、そりゃ腕っぷしもまた格別に――」
言いかけた護衛が、あっと声を上げた。
木立など、魔物が潜んで接近しやすい場所だ。しかも、魔除けのある休憩所を避けている。
その選択の結果が、目の前に出ていた。
「レッサーベルフだ! あんた、早く馬に乗れ!」
犬ほどの獣型魔物。個体では大したことはないが、必ず群れで行動する。
さっと緊張感の走ったその場とは裏腹に、和やかな食事風景がかけらも乱れなかったことで、二人はつい離れようとした足を止めた。
その耳に鋭く響いた連続音。そして、魔物の悲鳴。
何が起こったか分からなかったのは、彼らも魔物も同じだったろう。
だって、誰も席を立っていないのだから。
ただ、少年のうちの一人が、魔物の方を指さしただけ。
一体、誰が、何をしたのか。
「はは、腕っぷしは格別、どころの話じゃなかったな」
「もしかすると、そういった魔道具が設置されているのかもしれませんね」
いずれにせよ、自分たちとは違う世界だと、しみじみその異空間を見つめた。
そんな彼らが食う飯はさぞかしや美味いだろう。
ふう、ふう、と念入りに冷ましたスープのひとすくい。小さな口が、あむ、と頬を膨らませてくわえ込み、その口角が自然と上がった。
すくい上げたスプーンと器の間にチーズの橋がかかり、垂れたチーズを行儀悪く口で迎えに行った少年が小突かれる。
小突いた少年も、はふはふ、と忙しそうに口元を動かすと、頬を押さえて感じ入るように微笑んだ。
見つめていた彼らの腹が、ぐうと鳴る。
「……町まですぐです。今日は、せめて私が驕りましょうか。ただし、大衆食堂ですがね」
「そりゃありがてえ!」
思わぬことで随分腹を減らされてしまったせいで、簡素な屋台飯と保存食では耐えられそうにない。
安全の確保された木の壁と床。騒がしい周囲の物音と、ごちゃまぜになった食事の香り。
今日の飯は、格別美味いに違いない。彼らは彼らの幸せに向け、こくりと喉を鳴らして足を急がせた。
ちょっぴり、切なさを噛みしめつつ。
*****
タクトと護衛さんの希望するお肉ばっかりじゃ飽きちゃうから、今日はちょっと豪華な? カニグラタンにしてみたんだよ! 決して、半端に残っていたカニを消費したかったとか、そういう訳ではない。
だってもうすぐ宿に着くから、今日でオレのお料理当番はおしまい。カニ料理なんて、オレがいる時でないと野外で食べられないでしょう、少し特別感があるよね!
『カニ以外だって、食べられないと思うわよ』
『だけどそれでいいんだぜ! 主はなーんも気にすることないって!』
『あうじはそれでいいんらぜ!』
そ、そう? オレも美味しい料理が存分に食べられて満足だけど。
最初にナターシャ様にお料理を振舞って以来、懇願の勢いで切望されて、オレがお料理番を務めていたんだ。
ちゃんと材料代含め専属コックとして代金を支払うから! と言われているんだけど、一体いくらになるんだろうか。材料代なんて見当もつかないのだけど。
ナターシャ様は、『足りなければお小遣いと、あとドレスを売ってもいいわ! 専属コック代に野外出張費も、諸々の設置費や諸々の使用料もちゃんと支払うからね!!』なんて言っていたけれど、材料以外の諸々ってなんだろうか。
『テーブルとイスに食器』
『お前が毎回使うキッチンだろ』
じーっと冷めるのを待っていた蘇芳とチャトが、仲良く食べ終わって毛づくろいをしている。
なるほど、ああいうのにも金銭が発生するという概念はなかったな。とりあえず、お手柔らかにしていただくようミーシャさんに伝えておこう。どうせ自分たちの分はいつも作るんだから。
最後のひとくちを大きく頬張ると、これでもかと入れたカニの甘みが、口いっぱいに幸せを広げた。
カニは全部使いきりたかったから、むしろ入れすぎたね。具がほぼカニだけという贅沢っぷりだ。今度はホワイトソースが器に入りきらずに余ってしまった。
「「――はあぁ……」」
ナターシャ様とミーシャさんの大きなため息が零れた。
しっかりデザートは抱えているから、美味しくないということはないだろう。
「私、王都に着くのはもう少し先でいいと思うの」
ナターシャ様がまさかの発言をし、諫めるはずのミーシャさんまで深々と頷いた。むしろ、この場も向こうの場の護衛さんもみんなが頷いた気がする。
「ねえ、到着をもう少し遅らせることは……」
「私もずっと考えているのですが、そうすると捜索隊が出されかねませんから……」
ミーシャさん、それ考えてちゃダメじゃない? 早く到着できるように考えて?
これって、オレの料理を気に入ってくれたという認識でいいんだろうか。
だったら、宿についてからも、道中の昼食はお弁当でなくオレが担当してもいいのだけど。
せっかく野営期間が終わるというのに、お貴族様ご一行にはどんよりとした空気が漂っていたのだった。
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