753 見ている分には
「――それでねえ、カロルス様なんて『うなぎは魚じゃないと俺が認める!』とか言い出してね」
思い出してくすくす込み上がってくる笑みを堪えた。
ロクサレン家でお披露目したクロヘビウオことうなぎは、もちろん大好評。日本酒だと思われるコムから作ったお酒を添えて。
甘辛いあのたれとお酒は相性抜群だそうで、うなぎを頬ばっては冷えたお酒を小さな杯できゅっと呷る。
ごくり、と動いたのど仏と、ふはっと吐いた吐息。
オレの喉までつられてこくりと鳴ったっけ。あんまり美味しそうに飲むものだから、ねだりにねだってちょっとだけ飲んだものの、全然だった。どうしてああいう顔になるのかさっぱり分からない。
ちなみに、そのちょびっとでもオレの心臓はばくばくしだして身体は熱々になったのだけど。
オレは少しおしゃべりを休んで、目の前に伸ばされた手を見つめた。
筋張った長い指が、ついと小さなお猪口をつまんで口元へ運ぶ。器からよく冷やしたそれは、触れた時点できりりと冷たいだろう。
なみなみとつがれた透明な液体をこぼさないよう、慎重に薄い唇へあてがい、くいっと顎が反らされた。
しっとり濡れた唇と、瞳が艶めいてきらきらする。
舌が唇をなぞった拍子に、牙が覗いた。
ほら、見ているとこんなに美味しそうなのに。
「ルーも、このお酒が合うと思う?」
ルーはついだお酒をもう一度くいっとやってから、大きな口で鰻重をがつりと頬ばった。
「合う。だが別に、他でもいい」
ご機嫌だ。
お酒を飲むから人型になっているけど、その後ろにゆったり揺れるしっぽが見える気がする。
「ルーは好き嫌いがあんまりないよね。お酒も何でも飲むんだね」
ちらりととっくりへ視線をやると、オレから隠すように素早く自分の方へ引き寄せた。
「……飲まないよ。美味しくなかったから」
フン、と鼻で笑ったルーが、これ見よがしに美味そうにお酒を呷る。
「ああ、美味くないからお前は二度と飲むな」
にやりと笑ったあからさまな物言いに腹が立つ。かといって、あれを飲める気もしない。
「もう、早く食べ終わってよ」
「なぜ」
「オレ、寝たいの!」
重箱の中身は、あと少し。ちびちびお酒を飲むもんだから、中々進まない。
「勝手に寝てろ」
「寝る場所がないでしょう!」
憤慨すると、金の瞳がじろりとオレを睨めつけた。
「俺はてめーのベッドじゃねー!」
おや、ちゃんと分かってるじゃない、オレが何を求めているのか。
「オレの特等席なの!」
「お前のもんにするんじゃねー!」
いいじゃない、オレしか使ってないんだから。
だってルーの上でするお昼寝は、もう至上の幸福なんだから。せっかくここへ来てそれを味わえないなんていただけない。
スッとブラシを取り出すと、ピクリとルーが反応した。
「ブラッシング、久々かなーと思ったんだけど。早く食べて獣型に戻らないと、オレが先に寝ちゃうかもねえ」
残念そうに零せば、むすっと唇を引き結んで重箱を抱え込んだ。
あらかた食べ終わったかな、と覗き込んだところで、いきなり目の前が漆黒で塞がった。
「わ、もう、急に……」
見れば重箱に残ったごはんを取るのが面倒になったらしい。大きな舌で丁寧に舐め取っている。
お酒はもういいのかと思えば、とっくに空になっていたみたい。
まだ重箱を舐めているルーによじ登ると、迷惑そうにちらりと視線を寄越した。
そんな顔したって、しっぽが期待を込めてぴこぴこ動いているのに。
大きなブラシを小刻みに動かして、まずは大きな絡みや毛玉を取る作業。ここを丁寧にやらないと、大きなストロークで動かす時に引っかかって非常に不快感を与えてしまう。
ただ、ルーの毛並みは毛玉なんてほとんどない。たっぷり柔らかな被毛なのに、さすが神獣といった所だろうか。
「そうそう、カロルス様と言えば、王都の方でヒュドラを討伐したんだよ! ラピス部隊もいたけど、ほとんど単独討伐って凄いでしょう!」
「人間じゃねー」
それって褒めてる? オレもまあ、そう思うけど。
「オレも王都に一緒に行ってね、討伐にも行ったんだよ! なぜか最近魔物が増えてきてるみたいで、間引きに行ったんだ」
黒い耳が、ピピッと動いた。
「なぜ、魔物が増えている」
「それは知らないけど……そういうことはあるんじゃないの?」
「ある。が、必ず原因がある」
それはそうかもしれないけども。だけど、天候だったり偶然の重なりだったり、そういったことじゃないんだろうか。
「とりあえず、それは王都のガウロ様たちが調べてると思うけど。たとえばルーは何が原因だと思うの?」
「別に」
ぶちりと会話を切られてつんのめりそうになる。絶対何か懸念しているものがあったんでしょう!
『主ぃ、森の暴走だとか、魔物の異常発生だとか、そういうのは大体魔素の乱れが原因って言われるんだぜ!』
「そうなんだ!」
言われてどうだったかなと思い返してみたけれど、ヒュドラがいた森の方はラピス部隊とカロルス様の剣技なんかで魔素は乱れに乱れていたと思うし、蟹大軍の方はそれはそれで魔物が多すぎて淀みというか邪の魔素が多くて――あ、もしかして、魔物が多いから邪の魔素が多いんじゃなくて、逆だったんだろうか。
「邪の魔素が多いから魔物が増えていたの? だけど、どうして邪の魔素が増えてるかが分かんないよね」
結局、ちっぽけなオレごときには何も分からないってことだ。
だけど、魔物が増えているのが王都周囲だけじゃないなら、これから依頼を受ける時は注意が必要かもしれない。実際増えてきたらギルドからお達しがあるだろうけれど。
「クロヘビウオみたいなのが増えるなら、歓迎なんだけどなあ」
魔物が全部美味しかったのなら、脅威にはならない気がするのに。
人間の貪欲さったらないね、と密かに笑ってブラシを滑らせた。
全体をほぐし終え、まずは軽い力で徐々に滑らせる幅を長くしていく。
ブラシの通った跡が、まるで枯山水みたいにラインを描いてくすりと笑った。
滑らかに通るブラシが心地いい。
ふと見ると、いつの間にやら金の瞳は閉じられていた。
「ルーの方が先に寝ちゃった」
それなら、オレも遠慮なくベッドにできるってものだ。
もちろん、起きていても遠慮はしないけれど。
ぴかぴかに整えた毛並みに指を埋めると、するする毛流れに沿って撫でさする。
肩の盛り上がり、肋骨の凹凸、ウエストのくびれ、がっちりした脚の筋肉。
手の平で感じる造形の美しさ。
やがて、座っていたオレの姿勢が伏せになり、上げていた頭が被毛の中に落ち、そして、手が止まった。
ほっぺと首筋を包む被毛の柔らかさ。
内側から伝わってくるぬくもり。
ほどなくして、規則正しい大きな寝息の合間に、小さな寝息が混じっていった。