740 困惑
「――は? ヒュドラを単独で?! あの馬……いえ、失礼」
銀灰色の瞳が見開かれ、ぶわっと沸き上がりかけた圧迫感は深呼吸と共に収まっていく。最後にふう、と呼吸を整え執事さんが微笑んだ。
「……詳しく、教えていただけますか?」
その微笑み、かなりビリビリ来るのだけど。
「あ、あの、カロルス様を怒らないで。ごめんなさい、ラピスが……オレのラピスが連れて行っただけなの」
恐る恐る前置きして、集まった皆の前で事の顛末を話して聞かせた。
「あ~ガウロ様に捕獲されちゃったのは、良かったのか悪かったのか……」
深いため息を吐いたセデス兄さんが、ちょっぴりしょげているシロの身体に顔を埋めた。
「早々に捕獲されたのは、ある意味良かったかもしれないわね」
緊張で固くなった身体を、エリーシャ様の優しい手が撫でてくれる。
「いずれにせよ、ユータ様は大勢の人を救ったのですから、胸を張っていいのですよ?」
マリーさんだけは、いつもと変わらぬキラキラした瞳でオレを褒め称えてくれる。本当、ブレないものだ。
「ええ、ユータ様もラピス殿も心配されなくていいのです。きちんと大人に知らせるという、最善策を取れたのですから。あとは、その大人が下手をうつかどうかの話です」
瞳の奥がひやりとする笑みで、執事さんが微笑んだ。
「でも、カロルス様だってどうしようもなかったよ? 毒を受けながらも一人で……ううん、ラピスも協力はしたけど、ほとんど単独討伐だよ?! 勇者様だよね!」
「そうねえ、話を聞く限り対応には限りがあったようだし。ちゃんと討伐をやりきったのは、褒められる所よね」
みんな、すごく落ち着いているけど、カロルス様の心配は? ヒュドラの毒を受けたって、オレ言わなかったっけ??
「そうだ、回復薬は置いてきたけど、ちょっとしか強化してないやつなの。早く戻らないと! もし毒が回っちゃったりしたら……」
「「「「大丈夫 (でしょう)」」」」
そわそわと腰を浮かせたオレに、揃って同じ台詞が返される。
え、どうして?! いや、オレだって信頼はしているよ、だけど心配ってそれとは別にしちゃうものでしょう?!
「ヒュドラの毒を受けてそのままなら、さすがにマズいけれど、ガウロ様が解毒したのでしょう?」
「ガウロ様がそう判断したなら、大丈夫だよ」
なんとなく、あの時のカロルス様の嬉しそうな顔を思い出して、少し遠い目をした。頑丈な身体を持っているのも、ちょっとばかり不憫なものかもしれない。
「と、とりあえず早く戻ろうよ! もし先に『重要な話し合い』が始まったら大変だよ!」
「そうですね。その回復薬も、あまり他の人間に見せたくありませんし」
執事さんが少し目を細めて立ち上がった。
だけどあれ、万が一見咎められても大丈夫な程度のもの。普通の回復薬に毛が生えたようなものだ。
『スキンヘッドがロングヘアになるくらいの毛なんだけどねえ』
伸び縮みするモモが余計なことを言う。そんなことないよ、ちょっと治りがよくなるくらいだもの、短毛チワワと長毛チワワくらいの差しかないはず!
「そうね、私はどうしようかしら? 里帰りは必要?」
「大丈夫でしょう。私が行きます。万一のことがあれば、その時は『鋼』に相談を」
エリーシャ様と執事さんが、オレをそっちのけで話を進めている。『鋼』? 里帰り……? ちっとも意味が分からず首を傾げたところで、二人はオレを見下ろしてにっこり笑った。
「大丈夫、ガウロ様が噛んでいるから、今回そんなややこしいことにならないと思うわ」
「きっと、今頃あちこちに根回ししているでしょうから」
そ、そう? なんだかオレ、急にガウロ様が気の毒になってきた。
「――エリーシャ様は、本当にお城に行かなくていいの?」
魔法陣の前で、エリーシャ様を振り返った。
「ええ、私が行くと、ちょっと大事になっちゃうものだから」
そうか、エリーシャ様は生粋の貴族だもの。体裁というものがあるんだろう。その点、執事さんは自由が利く。
オレはエリーシャ様を引っ張って、こそりと耳打ちした。
「……じゃあ、オレがエリーシャ様の分もいっぱい心配して、ぎゅってしておくからね!」
まあ、と小さく呟いたエリーシャ様は、微かに視線を彷徨わせ『お願いね』と言ったのだった。
「あれ……?」
オレたちは何やかんやと確認作業に時間を取られた後、無事にさっきの部屋まで通して貰えた。
だけど、辛抱堪らず飛び込んだ部屋で、オレは動きを止めた。
そこは、確かにさっきの部屋。扉の両側に立っていた人だって同じ。
だけど――いない。
カロルス様が、いない。
どくどく早鐘を打ち出した胸を押さえ、深呼吸する。
大丈夫、カロルス様は強いから。大丈夫。
「あっそうか! もしかして、『重要な話し合い』が始まっちゃった?!」
まさか、毒を受けた身体のまま連れて行かれてしまったんだろうか。それはそれで心配だけど、心当たりがあったことにホッと安堵して力が抜けた。
ふと、ソファーの片隅に押し込まれた物を見つけて拾い上げると、見覚えのある小瓶。残っている中身を確かめ、少し眉をひそめる。
「いえ、どうやら治療室に行かれたようですね」
振り返ると、どうやら執事さんが、扉の騎士さんに話を聞いてくれたらしい。
そうか、そう言えばガウロ様が手配するって言ってたっけ。
だから、見つからないよう回復薬の小瓶は置いて行ったんだろう。戻って来たオレが回収できるように。
「良かった……それならオレ、治療室に行きたい!」
早く行って回復をかけたい。
「そうですね、私が話し合いに参加すると、ユータ様お一人になってしまいますし。彼らも空の部屋をいつまでも守っていても仕方在りませんね?」
ちら、と寄越された視線にギクリと姿勢を正し、護衛の騎士さんが一人進み出た。
「え、ええ。目立ったお怪我もないようでしたし、すぐに戻って来られると思ったのですが……。ご子息様でしたら、ご案内致しますよ」
どうも、彼らも急なことで戸惑っていたらしい。オレは出ていくわカロルス様は連れ出されるわ、大した説明もなく悶々としていたよう。ちなみに、カロルス様がなぜ治療室に行ったのか知らないようなので、もちろんオレも口を滑らしたりしない。
執事さんを残して部屋を出ると、騎士さんに連れられるままあっちを曲がりこっちを曲がり、迷路みたいな城内に目を回しそうになったところで、やっと治療室に到着した。
「はい、治療ですか? ……え?」
ノックで出てきた柔和そうな顔の人が、騎士さんを上から下までざっと眺め、オレに気付いて目をぱちくりさせた。
「あ、いえ、先ほどこちらへお連れした方のご子息で――」
騎士さんが治療室の人と話すのをじりじりしながら眺めていると、柔和な顔が徐々に困惑に染まっていく。
「あの、それはどなたです? 今日は定期利用の方しか来られていませんよ……?」
「「え?!」」
目を見開いたオレと騎士さんが思わず視線を交わし、オレは咄嗟に治療室の中へ滑り込んだ。
「あ、ダメですよ! 危ない物も置いてありますから!」
慌てた声を背後に、大した広さもない治療室を走り抜ける。
いない、いない……!
「どうして? カロルス様は? どこに行ったの?!」
「どうぞ落ち着いて。治療室と言われましたが、もしかして別室で治療を受けているのかも。騎士を護衛につけるくらいでしょう、きっと特別なんですよ」
宥める騎士さんの声は、困惑はしていても焦りはない。彼は、カロルス様が毒を受けているって知らないから。だけど、特別に……それは大いにあり得ることだ。
まだ内密にしたいかもしれないし、ガウロ様にできないことが治療室でできるとも思えないし。
「一旦戻りましょうか。もしかすると、もう戻られているかもしれませんよ」
微かな期待を胸に、オレはこくりと頷いて元の部屋まで騎士さんを急かして歩いた。
「カロルス様――っ」
再び勢い込んで部屋へ飛び込むと、驚いた執事さんがオレを抱きとめてくれた。
急いで顔を上げて見回して、落胆に瞳が潤みそうになる。
やっぱり、いない。
カロルス様、どこへ行っちゃったの。
だって、辛かったんでしょう? 減っていたもの、小瓶の中身。
「ユータ様? どうしました?」
オレの様子を見て表情を険しくした執事さんが、屈み込んで視線を合わせた。
口を開こうとした時、ノックの音が響く。
どうぞ、の返事にゆっくり扉を開いて入って来た大きな男。
「おい、治療室へ行くぞ。調査隊から毒の採取は成功したと――」
言いかけた言葉を飲み込み、ガウロ様は室内を見回して訝しげな顔をする。
息を呑んだオレを一瞥して、執事さんが銀灰色の瞳を鋭くした。