626 大地と空と海と
「シロ、まだだよ、まだそのくらいで……!」
『うん! このくらい、このくらい……』
テテトッ、テテトッ、乾いた土を蹴る軽やかな足音が振動となってオレの身体を揺さぶっている。
まだ人目があるから。少し街道を逸れてからが本領発揮だね。
「お日様も風も、気持ちのいい日だね」
明るい太陽は朝の柔らかさをもって周囲を満たし、上がりきらない気温は思いの外涼やかな風となっておでこや首筋を流れていく。朝の、濡れた草の匂い、しっとり起き抜けの空気。
「うん、出発日和だ」
意識して口角を上げ、暖かい方へ顔を向けて笑った。
シロにすれば随分とゆっくりな速度で、オレたちは街道を走っている。
お別れは、すませてきた。
だって、また会えるよ。全員に会うのは難しいけれど、ミラゼア様には会えるし、リンゼはミラゼア様とかなり近しい間柄だそうなので、ミラゼア様に会えばリンゼにも会える。
「また会いに来るね! えーと、多分突然行くと思うけど……あ、もちろんアッゼさんでね!」
「お前、アッゼ様を何だと……お前の馬車じゃないんだぞ?!」
リンゼの言い様を思い出して、くすっと笑う。
「いつでもいらっしゃい! ウチに来ればいつでも館に入れるように言っておくからね!」
ミラゼア様がぎゅうぎゅう抱きしめた苦しい抱擁が、みんなと交わした握手が、『お別れ』だと示していて。バレてしまいそうだった。しっかり誤魔化しておいたオレの心に。
だから、とびきり軽く言ってかけ出した。
「じゃあ、またねー!」
だから、ひらりとシロに飛び乗って、真正面から風を感じている。
日差しは段々と暖かくなり、まともに顔へ受けるひんやりした風も、徐々に柔らかくなっていく。
そろそろ、大丈夫。
風を受けて潤んだ瞳をまたたいて、しっかりとシロに伏せた。
『もういい?』
「……いいよっ!」
わふっ! 思わず漏れたような吠え声と共に、ドン! と衝撃が来た。
まるで時を遡れそうなくらいのスピードで、シロが走る。
『走るよ! ぼく、走るよ!』
は、は、と聞こえる呼吸さえ楽しい気配を内包しているみたい。
ぐん、ぐん、とさらに上がっていくスピードはそろそろオレの騎乗を許してくれなくなりそうだ。
『みてゆーた、ぼく、こんなに走ってるよ! もっと走るよ! 嬉しいね! 楽しいね!』
必死にしがみつくオレの耳に、シロの声が届く。こんなにも、声に喜びを乗せられるものなのか。シロの声は、方々で弾けて花火になりそうなほどに。
オレの方はしがみつくのに精一杯で、とても楽しんでいられるレベルでは……ないはず。ないはずだけど、最短距離で届く声に新鮮な嬉しさをいっぱい運びこまれて、お腹の底から笑いがこみ上げてくる。
「たの、しい……ね! ふっふふ!」
笑っちゃうと、手が外れそう。
『楽しいよ! 大好きだよ、ぼく、走るの好き! いっぱいに伸ばして、縮めて、思いっきり動かすの。身体がめいっぱい動いて、どんどん楽しいが貯まってくるんだよ。楽しくて爆発しそうだから、もっと走らなきゃ!』
シロの『楽しい気持ち』が滝のようにオレの中に流れ込んでくる。爆発的な力を前への推進力に変えて躍動する身体、足の裏で土を蹴る感触、蹴るたび前へ加速する感覚、濡れた鼻に感じる風、匂い。本当に、全部好きなんだな。
少しでも一緒に感じていたくて、オレは限界までシールドを張らずに頑張ったのだった。
『ゆーた、海だよ、海の匂いが近いよ!』
元気な声に起こされて目を開ける。どうやら、本当に寝ちゃってたみたい。
『確かに言ったわ、寝ていたらどう? って。だけど、あの状況でよく眠れるわねえ』
それは、オレもビックリだ。
限界に差し掛かってシールドを張ると、さすがに結構疲れていたらしい。くたりと洗濯物のように力を抜いていたら、モモにそんな風に言われた次第だ。まさか、爆睡するとは思わなかった。
「もう海に出たの? 早いね!」
そう言う間に、遠くに煌めく水平線が現われ、みるみる視界を覆っていく。
「よし、誰もいないね! シロ、射出用~意!」
「ウォウッ!!」
シールド越しにも、スピードが上がったのを感じる。ギアが一気に上がったみたい。
――さん、にー……
ラピスのカウントダウンに従って、鼓動も早くなる。
――てぇー!!
ごうっと巻いた風と共に、白銀の弾丸が崖っぷちから射出された。狼男の20や30余裕で貫きそうな勢いだ。眼下に光る海面に、オレたちの影が滑っていく。
このまま飛んでいけるんじゃないかと思った時、真横に思えた移動が次第に高度を下げていった。
『えいっ!』
真横の移動から、ほとんど90度真上方向へ。
空を蹴って高く高く跳んだシロが、もう一度蹴って遥か高みへ。
「それっ!」
最高到達点に差し掛かった時、シロの背から今度はオレが飛び上がった。身ひとつで何もない空中へ身体を伸ばし、遥か遥か下になった海面へ身体を向けた。
刹那の均衡後、髪の毛が全部上へ引っぱられ、服がばたばたと鳴る。
みるまに近くなってくる海面は、あまり優しくオレを受け止めてはくれないだろう。
だけど、怖くない。
「だって、オレは飛べるもの! ――チャト!」
触れた柔らかな毛並みに躊躇なくしがみつくと、下降していた身体が滑るように水平へ、そして上昇へ。
ばさり、大きな音をたてた翼がたくましく羽ばたくにつれ、落ちた分以上の高度まで舞い上がる。
緩やかになった移動を感じて顔を上げ、両手を離してバンザイした。
「射出作戦、成功ー! ああ、最高だね!」
『崖から跳んで飛ぶだけの、何が作戦だ』
チャトの緑色の目が明らかに小馬鹿にしている。だけど、それは違うよ!
「分かってないね! 作戦って名付けると、成功って結果が残せるんだよ! 作戦、成功! ほうら、やり遂げたって気持ちになるでしょう」
得意満面でにっこりすると、チャトは『へえ』なんてすごくどうでも良さそうな返事を寄越した。
『素晴らしい! 主、俺様今、すごく主を尊敬した! いつもはそんなことないのに!』
最後のひと言は絶対に不要だったと思う。きらきらしたチュー助の視線は、むしろオレが間違っているんじゃないかって不安にさせるから不思議だ。
陸地から離れてしばらく飛べば、島影も何も見えなくなった。
高度を下げて、ただ黙って海の上を飛ぶ。
空と、海と、光。それしかない世界。とても綺麗で、だけど、どこか不安。
『あうじ、あえはは? あえはうつってう?』
「映ってる? 何が映ってるの?」
アゲハの示す先に視線を落とすと、大きく翼を広げた不思議なシルエットがあった。
眩しいほどに光る海面に、くっきりと映ったオレたちの影。
溢れる光の中で、きれいに切り取られた影は確かに今、オレたちがここにいる証みたいで不安感が消えていく。
「アゲハも映ってるよ、見えるかなあ」
アゲハをそっと包み込んで手を伸ばしてみたけれど、さすがに小さすぎて分からないだろうな。
『あうじのて、ちゃんとうつってう! あえはもそこにいゆの!』
見えないだろうに、そんなことを言って嬉しげにする。
「そうだね、ちゃんとアゲハの影も映ってるよ!」
『きえいね!』
うん、綺麗だね。影を落とすってこういうことなら、それは悪くないことみたいに思える。
存在がそこにある証拠みたいだね。
『ぼくも! ぼくも飛んでるところに映りたい!』
「え、シ――」
オレの下にあったふわふわ柔らかな毛並みが、サラリと艶やかな毛並みに変化した。
呆気にとられる間もなく、高度が下がって『重い!』と怒るチャトの声が聞こえた。
無理だってば、シロの方が大きいんだから! だけど口を開くより早く、安定していたお尻の下が、フッと支えをなくした。
「ちょ、チャトー?!」
『知らん』
あろうことかチャトがオレの中に戻ってしまったので、当然……落ちる。
『ぼくも乗せてよぉー!』
『無理』
そんな呑気なやり取りの間に、もう海面に激突ですが。
しっかりしがみつくと、むうっと不服そうな気配を漂わせつつも、シロが体勢を整えた。
四肢を広げてわずかに減速し、空を蹴って軽く飛び上がる。
だぼん! 大きな音を道連れに、オレたちは見事海中に突っ込んだ。
音が瞬間的に切り替わって、冷たい圧迫感に包み込まれる。しっかり呼吸を止めている間に、力強い四肢が水を掻いて浮上した。
「ぷはっ! あっはは!! もうー、気持ちいい!」
空中と水中、両方味わえるなんて、これ最高。ダメだ、怒れない。
『ぼく、飛びたかったけど泳ぐのも気持ちいいね!』
ビビッと頭を振って水を飛ばし、毛並みをバシバシにしたシロがにっこり笑う。
「うん! もうちょっとだけ泳いでから、転移しよっか!」
アッゼさんには我が儘を聞いてもらって、そのうち転移で帰るって言ってあるから、カロルス様たちにも伝えてくれているだろう。
オレたちはたっぷりと空と海を堪能してから、ロクサレンへと転移したのだった。
気持ちよさを感じたかったので……
コロナが増えてくると必然的にひつじのはねの帰宅時間も遅くなり更新が遅れがちになるかもしれません……






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