606 帰りたい
小さな器に入ったスープを引き寄せ、そうっと混ぜてみる。
とても、赤い……。トマトスープかも、なんて思いを裏切るようなこっくり鮮やかな赤色は、いかにも辛そうに見える。オレはちらっと隣に視線をやって、大きなスプーンになみなみとすくった。
「アッゼさん、あーん!」
「は?」
にっこりと優しい微笑みを浮かべ、端正な口元へ差し出してあげる。
なのに、アッゼさんはとても微妙な表情でほんのりのけぞった。失礼な。
「ほら、こぼれちゃうよ!」
負けじと揺れる液面を突き出せば、観念したのか、じとりとオレを睨みつつ口へ含んだ。
……ふむ、辛くはなさそうだ。
「このアッゼさんを毒味に使うってお前……」
隣から刺さる視線は気にしないことにして新たにスープをすくうと、念のためチロ、と舐めてから口へ運んだ。
おや、辛いどころか、むしろほの甘い?
なるほど、これはお子様の好きな味だ。コーンスープに似た、自然な甘みは植物由来のものだろうか。
とろりと滑らかな口当たりが優しい。
トルティーヤ風の前菜らしきものにも手を伸ばすと、見よう見まねで恵方巻きのように囓る。
「あれ? 小麦粉か何かの生地だと思ったけど、これ何?」
想像と違った歯触りに小首を傾げる。なんだろう、薄い皮なのにしなやかでシャキっとする。
スパイスは目立たず、あっさりとドレッシング風だ。巻かれた中身は野菜だろうか。
「ふふっ! 面白いでしょ? これね、皮なのよ、木の皮! ペリンダって木はぜーんぶ食べられるの!」
木?! しげしげ眺めてもう一度味わうと、木……と言うよりは、そうだ、タケノコに似ている。なんと、中身のお野菜もペリンダの花と葉らしい。捨てるところがないと有名な木なんだって。
これが花、これが葉、これはもしかしておしべやめしべ部分だろうか。
お行儀悪いけれど、つい気になって一部分解しちゃった。
「このミンチっぽいのはさすがに木じゃないよね?」
ささやかに入っていたお肉っぽいものを指してミラゼア様を見上げると、その視線が少々彷徨った。
「……木じゃないんだけど、まあ、付属品みたいなものよ。ペリンダラーバって言うの」
「へえ! すごいね、お肉みたい!」
ペリンダ、ぜひ見て見たいな。あわよくば持ち帰って、ゆくゆくはオレの家の庭に植えることができればいいな。
「ペリンダは割と野生でも生えてるからな、見られるんじゃね?」
後でな、とまた唇の動きで言ったアッゼさんが爽やかに微笑んだ。
あとで! 後でね! もうオレは『あと』が気になって仕方ない。
そわそわしながら、メインであろうど派手なお肉も攻略にかかった。
これも確かに、見た目がきれいで子ども受けするのだろうか。お肉自体は万人受けするポルクらしいから、多少スパイシーでもきっと大丈夫!
さっそく切り分けたカラフルなお肉を、勢いよく口へ入れる。
「んっ! ……ん、これ……?」
口腔へ入った瞬間から猛烈に広がる香り。
がつんと濃いこれは、先の二品に比べてばっちりスパイスが使われているらしい。
だけど、ちゃんとオレでもおいしい。いや、だけど、だけどこれって!
強烈に懐かしさを感じるこの味。
おかしい、スパイス料理なんて懐かしむほど食べていないはず。
一体、これは何だったか……。
誘われるように、もうひとくち。
美味しい。懐かしい。さほど大きくなかったお肉がお皿から消えた頃――。
ふと、白黒フィルムのようにおぼろげな記憶が蘇る。
ガサリと開けた袋。手を突っ込んで取りだした薄くて脆いそれ。
バリバリいわせて食べたあの味。ちゅっと舐めた指の味。
「お菓子…………そうだ! スナック菓子??」
オレは目をまん丸にした。
汚れた手を水道で洗う、高い視界。きゅっと捻った田舎の水道栓。
柔らかなパイル地のタオル。ぱたん、と鳴る冷蔵庫の扉。
しょっぱくなった口には、お茶が随分甘く感じた。
たまらず立ち上がったオレに、食後のお茶を嗜んでいた二人が訝しげな顔をする。
「ごめん、ちょっとだけ、ちょっとだけ行ってくる! 本当にすぐだから!! 先に帰ってて!」
二人が慌てる声が遠くに聞こえる。かろうじて残っていた理性が、ここではダメだとトイレへ駆け込ませた。扉を閉めると同時に光をまとう。
これはちょっと、我慢できなかった。
きっかけなんて、こんな些細なものなのか。お醤油だって、お味噌汁だって、ごはんだって食べた。
大丈夫だった。なのに、こんなことで?
一刻も早く、早く。何ら意味のない焦燥が湧いてきて仕方ない。
帰りたい。
帰りたい。帰りたい。
乱れに乱れた胸の内が痛い。
とにかく、早く。
転移の光が収まるのを待つことすら惜しく、オレは飛び上がった。
「おうっ?! どうした、何があった?!」
はふはふと荒れた呼吸のまま、力任せにその身体を抱きしめる。
「ぎゅ、ってして! すぐ、今!」
悲鳴のような声に、オレを抱きとめた腕が反射的に締まる。
息苦しい。隙間なくみっちりと密着して、頭まで押さえ込まれたオレは、ピクリとも動けない。
浅い呼吸を繰り返すうち、荒れ狂っていた焦燥が徐々に凪いでいく。
「……まだか? 息、してんだろうな?」
変な所を心配する声に、やっと強ばった顔に笑みが浮かんだ。
そうっと目を開けると、視界に揺れる金の房。
ああ、帰ってきた。大丈夫、帰ってきた。
「まだ。もっと、もっとぎゅーっとして」
言われるままに締め付ける腕が痛い。これ以上ない満足感がオレの小さな体を満たして溢れていく。
これでもかと注がれる安心が、隅々まで充ち満ちて吐息まで煌めきそう。
大きく息を吐いたオレを覗き込んだ、ブルーの瞳。
視線を合わせて、ほんのり緩んだ視線と同じく、鋼の腕も少し力を抜いた。
「大丈夫、だな」
オレはもう一度思いきり大きな身体を抱きしめ、目を閉じて深呼吸した。
「……うん、大丈夫になった!」
ぱっと顔を上げ、笑みを浮かべる。
ふにゃふにゃで、へにゃへにゃの、守られている自覚がある笑み。
戦闘力皆無の、赤ちゃんの笑み。
いいんだ。ここなら、防御をゼロにしたっていい。
完全に無防備に心を晒して笑う。
オレ、こんな気持ち。ねえ、カロルス様、伝わる?
欲しかったものをいっぱいにいっぱいに与えられて、満足を越えてとろけそうな心地だ。
激烈な心の変化は、幼児ならではなんだろうか。
突如胸を灼いた感情は、もうない。
ちゃんと帰ってきたし、ちゃんと、ここにいる。
「で、どうしたんだよ。ビックリするだろうが」
大きな手がわしわしと頭を揺らし、オレはクスクス笑う。
「ホームシックだよ。それだけ」
そう、それだけだったんだ。だから、帰ってくればもう大丈夫。
「……思い出したか。そうだな、外国だもんな。国へ帰りたいな」
切なげな視線を受けて、オレは驚いて目を瞬かせた。
「そっか。そうだった。オレ、元いた場所のことを思い出して、帰りたくなったんだ」
「そう、か」
ぐっと奥歯を噛みしめたカロルス様を見上げ、オレは安心の笑みを浮かべる。
ほら、オレの顔を見て。
「うん、そう。オレ、ここに帰りたくなった」
ブルーの瞳が、少し見開かれた。
不思議だね、オレが帰りたくなったのは、決して日本じゃなかった。
会いたい存在は、オレの内側に、そして、ここにいる。
『しようのない甘えん坊さんね』
『ぼく、ちゃんといるよ!』
『スオー、ちゃんと来た』
『おれのいる場所が、お前の居場所だ』
そっか、オレが帰りたい場所ってもう、ここになってるんだ。
「帰ってきたから、もう大丈夫!」
見ていいよ、そのオレを見抜くブルーの瞳で、しっかり奥まで見通して。
防御をゼロにして笑うオレに、カロルス様は目を見張って、またぎゅうっとオレを抱きしめた。
「そうか。ありがとうな」
なんで、ありがとう? 苦しい呼吸の中で、オレはくすくす笑った。
そう言えば、アッゼさんたち置いてけぼりにしたんだった、と慌てたのはもう少し後になってからだった。
なかなか『後』にたどり着かないね……






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