509 樹が熟するとき
「――それでね、サイア爺に舞いを習ったんだけど、他の舞いも覚えろって言うんだよ! 全部覚えるの大変でね、マーガレットもすぐ怒るし――」
『ほう、水の次代はそのように怒りっぽいのか。私も怒られるとかなわんなぁ』
ふうむ、と唸ったラ・エンにくすりと笑った。ぼんやりと明るい森の中で、徐々に毛並みが光沢を帯びてきた気がする。ともすればひらひらと降り積もろうとする葉っぱを払って、滑らかにブラシを通した。
「大丈夫、きっとラ・エンには怒らないよ! それに、マーガレットは笑うとかわいいよ」
まあ、そうそうオレには笑ってはくれないんだけど。
――ちゃんとラピスが言って聞かせておくの! 大人しくすると思うの!
オレは、請われるままにいろんなお話をする。ラ・エンはルーと違ってしっかり聞いてくれるから、いつもより饒舌になってしまう。
ティアはずっと一緒にいたんだから、知らないことなんてほとんどないと思うのに、ラ・エンはとても嬉しげに聞いてくれた。
『そうか、ラピスと仲が良いのだなぁ。サイサイアの爺と仲良くやっているなら、この婆も好んでくれるだろうか』
ラ・エンはお婆さんなんだね。神獣だから、ヒトの姿にもなれるんだろうか。
――マーガレットはサイア爺が好きだから、きっとラ・エンも好きなの! でもルーとは仲良くないの。
『そうか、ルーディスは相変わらずだ。だが、随分と柔らかくなった。あのようにヒトに気を許すような獣ではなかったよ』
オレは、ぴたりと手を止めた。ラ・エンは最古の神獣。ルーが神獣になった時から、ううん、きっと神獣になる前からずっと知っている。
聞けば、答えてくれるだろうか。ルーの口からは中々聞けない、色々なこと。
『何か、聞きたいかな? 答えようか、私が知っていることなら』
穏やかな声が響いて、思わずピクリと肩を震わせる。オレは黙ってブラシを見つめた。
「……聞いたら、知っていることは何でも教えてくれるの?」
ほんの少し、閉じていたまぶたが持ち上がって金の光が覗いた。
『そうさなぁ、何でも、とまでは言えないか』
「じゃあ……。『何でもは教えられない』のは、どうして?」
瞬いた金の瞳が、まっすぐ見つめるオレと視線を絡めた。
『ふうむ……』
面白そうな顔をしたラ・エンが、そっとオレに温かな翼をかぶせた。
『まだその時ではない、と思うからよの。正しく受け止め、正しく判断できる時にする話もある』
「……そっか。オレはまだ信頼して話せる段階にはないってことなのかな」
それは、仕方ない。だってオレはまだこんなだもの。オレは、ラ・エンにだって、ルーにだって、何でも話せると思うのに。
『そう思うかな?』
眉尻を下げて微笑んだオレに、ラ・エンはそれだけ言った。
風のない森の中、オレたちが口を閉じれば、時折落ちる葉っぱの音さえ聞こえてくる。
オレが、そう思うだけ? サラサラと流れるタテガミに指を通し、少し考えた。
ルーやラ・エンには何でも言える。それは違いない。だけど、カロルス様にだったら? ラキやタクトだったら? みんな大好きで信頼しているけれど、全部話せるだろうか。
どうしても聞きたいと言うのなら、言えるだろう。だけど、進んで話したくはないことがたくさんある。それは、どうしてだろう。
「……そっか」
きっと理由は1つじゃない。だけど、話さないのは決して信頼が足りないからだけじゃないね。
『そう』
ラ・エンはうっすら微笑むと、翼で慎重にオレの背中を撫でた。押し込まれるように巨体に身体を預け、すべすべした鱗に手を滑らせる。柔軟で滑らかな鱗。だけど、きっと剣も魔法も通さない強い鱗。
「ありがとう」
『おや、答えはしなかったがなぁ』
からからと笑ったラ・エンが、ひらひら舞い落ちる葉っぱをふうっと吹いた。
『葉は、役目を果たしてこぼれ落ちてくるものよ。実は、熟せばぽろりと取れるものよ。無理にもいでも、渋いやら酸っぱいやら』
独り言のような台詞が、オレの中に染みこんでいく。
知らないでいることが、相手を守ることだってある。引きちぎって樹を傷つけるより、落ちた葉っぱを拾い集めよう。それに、きっとしっかり熟した実は、甘くておいしいに違いない。
答えがなくても、分かるものもあるんだね。どこか満足した心地でタテガミに指を通した。
小さな寝息に顔を上げると、いつの間にやら、待ちくたびれたラピスや管狐たちがタテガミに埋もれるように眠っていた。ごめんね、今度みんなブラッシングするからね。
新たにニリスまで増えている管狐部隊を眺め、落ちてくるまぶたをこすった。そう言えば森の中が薄明るいから忘れていたけれど、きっと外は夜だ。
「ねえ、朝になったらここも明るくなる?」
『明るいとも。美しいものだよ』
そっか、良かった。世界樹が大きいから、ずっと暗かったらどうしようかと思った。ラ・エンのところにもちゃんと光が届くんだね。
明るくなってからの聖域の姿、ぜひ見たいな。他の場所も見てみたい。
ぽてんと落ちた頭が柔らかな鱗にぶつかって、慌てて頭を振った。どうせ寝ちゃうのなら、もう一仕事。
「ねえ、ラ・エン。オレ、これでもう3回目なんだ。それに、このくらいなら」
『うん?』
「必要はないかもしれないけど、オレにできることは少ないから」
不思議そうに首を傾げたラ・エンに微笑むと、鱗の身体を抱きしめた。
『!! しまった……バレていたのか』
隠していたの? ラ・エンは、流れ込んだオレの魔力に観念したように目を閉じた。
神獣が侵されるという神殺しの穢れ。だけど、古から生きるラ・エンはあまり浸食されていない。
「ピピッ」
誇らしげなティアに、にこっと笑う。そうだね、世界樹が浄化していたんだね。だから、きっとオレが浄化しなくても大丈夫だろう。でも、世界樹のお手伝いをして悪いことも、きっとない。
ラ・エンの身体の奥底に押し込められた嫌な気配。そして、大きな身体を巡る清浄な気配。
(オレ、手伝うよ)
ティアが導くままに、オレは世界樹の気配と手を繋ぐ。
これなら、大丈夫だ。大地に根を下ろした巨大なフィルターが、オレを助けてくれる。ふわりふわりと溢れる生命の魔素が、オレの髪を揺らした。
世界樹は、浄化はできても取り除くことができなかったんだね。だから、『祓えない呪い』なのかな。
――ありがとう――
誰かに言われたような気がして、目を開けた。
世界樹は、意思があるんだろうか。ティアには意思があるんだから、世界樹にだって当然あるのかもしれない。
「こちらこそ、ありがとう」
ずっと、ラ・エンを助けてくれて。それに、世界樹の生命の魔素がなければ、ルーだってもっと早く倒れていたかもしれない。
オレはにっこり笑って、繋がっていた世界樹の手を離した。残ったのは、ころりと手のひらに転がる結晶だけ。
『……すごいものだ。悲しいかな、本当に類い希なる器よ』
ラ・エンが息を呑んでぼそりと呟いた。
「悲しいの?」
ふう、と力を抜いてもたれかかると、ラ・エンは目をしばたたかせた。
『さて。悲しくもあり、嬉しくもあり。ひとまず私が言うべきは……ありがとう。とても、楽になった。穢れがないとは、このようなものだったか。これで世界樹の負担も軽減される。だが、すまなかった……小さな体に負担をかけてしまったな』
バレていないつもりだったのだが、とラ・エンは大きな身体をしゅんと縮込ませた。
「だって、オレは世界樹と同じ生命の魔素に適性があるんだもの、分かるよ! それに、神獣が『神殺しの穢れ』に侵されるって知ってるよ。世界樹も手伝ってくれたもの。このくらい、ルーやサイア爺に比べたら、ちっとも負担じゃないよ!」
それに、このまま少し寝るつもりだから。これできっとよく眠れる。
力の抜けた手から、ころりと結晶が転げ落ちた。
「あ、これ……」
『それは、持っていてくれるか。ユータの中で、休ませてやってくれ』
休ませる……? 結晶を? 不思議に思いつつ、半分以上溶けた思考でこくりと頷いた。
お布団のようにふわりとかぶせられた翼がぬくぬくと心地いい。
『ああ、ルーディスにどやされてしまうな……』
夢の中で、ラ・エンがそう呟いた気がした。
分かるとは思いますが題名は誤字ってないですよ~!






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