375 言いつけを守って
どうして、どうして俺はこんな所にいるんだろうか。なんて馬鹿なことをしたんだろうか。
男は泥まみれになった顔で泣いた。
絶望を含んで見上げた空は、まるで男など世界にいないように真っ青に澄んでいた。
『パパ、見て! あの子かわいいね! 素敵なお洋服ね!』
楽しそうに俺を見上げた輝く瞳は、亡き妻にそっくりだった。
そうだ、妻のように、俺だって突然いなくなる時が来るのだろう。俺はこの子に、何か残していけるのだろうか。そう思ったとき、どうしようもなく欲しくなった。娘を飾る、美しい服の一つくらい、望んでも許されるのではないか……そう思った。
シューー、フシューッ
すぐ近くで、大きな生き物の呼吸音が聞こえる。全身の動きを止めて泥水にうずくまった男に、悠々と通り過ぎた生き物の波紋が伝わった。身体を揺らす恐怖に、もう何度目かの死を意識する。
脳裏によぎった娘の泣き顔に、声を上げそうで歯を食いしばった。
ちくしょう……ちくしょう。
どうして、どうして俺は忘れていたんだろうか、置いて行かれる辛さを知っていたのに。
死にたくない、こんなどうしようもない人生でも。
生きて、帰らなければ。他ではない、娘には俺が必要だったのに。
泥と涙にまみれた顔で、意を決して一歩踏み出したとき、背後から大きな波紋が伝わった。
ちゃぷ、ちゃぷと周囲の水草が揺れ、真っ白な顔で振り返った目に映ったのは、するすると近づく大きな魔物。何の感慨もなく開かれた口腔には、規則正しい歯列が見えた。
「ちくしょう、畜生ーー!!」
せめてもの抵抗と、男は掴んだ木の実を投げつけた。
* * * * *
「ニーム湿原なら、朝一の馬車でお昼前……シロなら、どのくらい~?」
『ぼく……すごく速いよ。多分、すぐだよ? でも、ゆーた達が乗っていられないと思う』
「モモがシールド張ったら行けるんじゃねえ? 急ごうぜ」
事情を知って、すぐさま始まった作戦会議に、オレはぽかんと口を開けた。どうして? ギルドマスター命令があるんだよ?
オレの表情を見て、ラキがくすっと笑った。
「ユータは、行くでしょう? 僕も、行くよ~」
「おう、怒られたら一緒に謝ろうぜ!」
「でも、だって、だって、みんなの冒険者資格を剥奪とか、先生がクビになったら……」
「だったら、みんなでここ出てもいいんじゃねえ? 心配するなって、俺たち相当優秀だぜ? そうそう手放さねえよ」
タクトが、自信ありげにニヤリと笑った。
「そうだね~、幸いここのマスターはお馬鹿さんでも悪い人でもないからね~。でもね、心配しなくて大丈夫だよ~言いつけを守っていればいいんだから~」
ラキが、思わせぶりに片目をつむって見せた。
頼れる二人の存在に、ゆるんだ涙腺からまた涙がこぼれそうで、きゅっと唇を結んだ。
……二人は、すごいよ。
指先までふんわり温かくなり始めた身体に、さっきまでの暗く沈んでいた心が嘘のようだと笑った。
よし、待っていてね……助けに行くからね!! 絶対、間に合わせるんだから。
『スオーがいる。間に合うはず』
『主ならいけるって! ちょっと囓られてたって元に戻せるだろ!』
『あうじ、すごい!』
チュー助の縁起でもない台詞にメッとして、オレを見上げるシロの瞳を見つめた。
『大丈夫、ぼく、女の子とずっと一緒にいたよ。しっかり覚えた。きっと、パパさんの匂いも見つけられる』
どこまでも澄んだ瞳は、任せてくれと、まっすぐにオレを見つめ返した。
――ユータが行きたいなら、ラピスは行くの。
「ピピッ!」
オレの両頬に、ラピスとティアのふわふわしたぬくもりが伝わった。
『あなたが、独りを選ばなくて良かったわ』
モモが、小さな声で呟いたようだった。
* * * * *
固い木の実は、目の前でバリリと音をたてて噛み砕かれた。まるで次の瞬間の自分を見ているようで、男の喉が干上がった。力の入らない手足で泥の中を這いずる男に、ゆっくりと近寄ったラチェルザードが、大きな頭を傾けて口を開いた。
「……すまん……」
ただただ、後悔を胸に、男は為す術もなく迫る魔物を見つめた。
ドパアァ!
静かな最後に全く不似合いな、激しい水音と共に、閉じようとしていた顎が男の視界から消えた。
「危ねえぇー!! 超ギリじゃねえ?!」
「でも間に合ったよ~」
泥の中に沈められたラチェルザードの頭には、大きな白銀の犬が降り立っていた。貫くように合わせられた瞳は、まるでさっきの空のようだと思った。
「おっちゃん、無事だな?! 立てるか?」
バシャバシャと泥の飛沫を浴びながら、男は呆然と目の前の光景を見つめた。どう見ても少年。それも、かなり幼い少年が3人、自分を守るように囲んでいた。
「な……? どういう……」
掠れた声を上げて動かない男に、焦れた少年が男の腕を掴んで引っ張り上げた。思いも寄らない力に仰天するうちに、半ば引きずるように連れられ犬の背に乗せられていた。
「……どうして……君、たちは……?」
「オレたちは、『希望の光』だよ! ひとまず、ここから出よう?」
一際小さな少年が、まるで花畑にでもいるような様子で、にっこりと微笑んだ。
「希望……」
胸に宿った光は、確かにそんな名前かもしれない。男は、手に触れた煌めく毛皮を眺め、どこかぼんやりとそう考えた。
「集まってくるよ~、急いで~!」
「走るぞ!」
少年達の台詞と、急に騒がしくなった周囲に、ハッと我に返った男は歯の根も合わないほどに震え上がった。少年たちなどひとのみにしそうな影が、方々から集まってくる。
「モモ、お願い! ……大丈夫、シールドを張ってあるからね」
犬の横を併走しながら、少年はふんわりと笑った。こんな小さな少年が、などと思う余裕もなく、男は、ただガクガクと頷いて白銀の獣にしがみついた。
力強く躍動する温かな身体は、恐怖に錯乱しそうな男の精神をかろうじてつなぎ止めていた。
* * * * *
「おらあぁーー! いいなここ、俺戦いやすいぜ!」
「じゃあ任せるよ~。僕、走りにくくって~」
ぎりぎりで間に合った喜びもつかの間、オレたちはぬかるむ泥の中をひたすらに走った。シロに乗れば一瞬だけど、オレたちの足ではそうもいかない。派手な音をたてて移動するオレたちに、みるみる大きなトカゲたちの姿が迫ってきた。
だけど、水と相性のいいタクトが凄かった。
「おう、任せろ! 行くぜエビビ! ナギさん直伝水の剣-!!」
タクトが振り下ろした剣から、ドッと水中を伝わった衝撃波が、離れた位置にいる魔物たちを吹っ飛ばしていく。
すごい、完全に水中じゃなくても使えるんだね! そちら側は完全にタクトに任せて大丈夫そうだ。
オレもサイア爺の加護があるから、これほど足場が悪くても走っていられる。この身長では時々胸まで浸かってしまうけれど、不思議なほどに身体が軽かった。
周囲のラチェルザードが徐々に姿を消し、湿原が草原に変わった頃、シロは速度を落とした。木陰でそっとパパさんを下ろすと、抜け落ちていたパパさんの表情も、ここへ来てようやく人らしく戻って来たようだ。
「たす、かった……? まさか……」
泥だらけの手を見つめて、ゆっくりと顔を上げると、揺れる瞳がすがるようにオレを見た。
「大丈夫、助かったんだよ」
にこっと微笑むと、パパさんの顔がくしゃりと歪んだ。
「あ……あり、がとう……ありがとう……」
むせび泣いてうずくまった姿は、まるで泥の塊のようになっていた。こんな姿じゃ、女の子に会えないね。すっきりと洗い流せば、パパさんの心もいくらか落ち着くだろうか。
「みんな泥だらけだから、いっぺんに洗っちゃうね」
みんなまとめて洗浄魔法をかけ、点滴で体調を整えると、パパさんがほうっと息を吐いた。
「君たちは一体……何者なんだ? ……どうして、助けに来てくれたんだ?」
オレたちはくすっと笑って顔を見合わせた。
「ううん、オレたち助けになんて来てないよ!」
「えっ……?」
戸惑うパパさんに、収納から大切に取り出した包みを差し出した。
「はい、お弁当の配達に来ました!」
満面の笑みで渡したお弁当に、ぼたぼたと水滴が落ちた。
震える手でお弁当を抱え込み、パパさんは人目も憚らずにぼろぼろと泣いた。
サイア爺:ほれ見ぃ! それ見ぃ! どうじゃの? ワシの加護が役に立っておろうが?
ルー:うるせー! 俺の加護があるからこその動きだ!
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