1006 牛の痕跡
川に沿って、上流に向かってしばらく。
登山プラス河原を行く悪路だけれど、さすがDランクと言うべきか、ノールさんにも疲れた様子はない。
さっきの場所は浅かったものの、今や結構な深さがある。
「どうやって下って来たのかなあ? 簡易ボートでもなんとかなりそうな深さだよね」
「けど、あの怪我を負ったのが川に入る前なら、ボートなんか乗ってる場合じゃなくね?」
それはそう。だったら、残る選択肢は流されてきた一択かな。
「トガリが頑張って、溺れないようにしてくれたのかもね~?」
「ぴい」
そう、と言いたげな鳴き声に、ノールさんが丁寧にその頭を撫でた。
「だとしたら、2回も命を救ってるね! 川に流された時と、回復……あっ」
余計なことを言ったと気付いて口を押さえた時すでに遅し。二人のぬるい視線が突き刺さる。
「そうだ、この恰好を見るに、きっと重症だったんだろうと思うが……どうやって助けてくれたんだ?」
「あ、えっと……ちょうど回復薬が余ってたところに、トガリが……」
「余る? 回復薬が? そもそも、大怪我をしていただろうに、なぜ服が汚れていないんだ?」
どうしてそういう余計な常識は覚えてるの?!
「お風呂に落っこちてたからだよ~」
「お湯で綺麗になったんじゃね?」
適当な二人の返事に、ノールさんは首を傾げつつ一応納得したよう。
「お礼は、どうすればいいんだ……。ギルドに行けば、金を預けていたりするか?」
「そういう人もいるけど、ノールさんがどうかは分からないね~」
「今のとこ、大したことしてねえからいいんじゃね?」
何か言いたげにしたノールさんだけど、お礼をすると言い張ったところで、何も持っていないことに気付いたのだろう。黙って項垂れてしまった。
正直何もいらないけど、それはそれで気を使うだろうか。
記憶、戻ればきっとお礼の方法もあるよ。ランチを奢ってもらうとか、トガリのブラッシングとかで十分だし。
『あ、ゆーた、牛さんが通った跡が近くにあるかも』
「え! それってすごい手がかりじゃない?!」
鼻づらを上げたシロが、ひょいと川を飛び越えた。
『ぼく、ちょっと見てくるね!』
あっと言う間に走って行ったかと思うと、すぐに戻って来た。
『あのね、あっちがぐちゃぐちゃになってるよ! 牛さんと泥と草の臭いでお鼻がじくじくするよ!』
つまり、大群、というノールさんの記憶に合致する場所。
そっと、彼を見上げた。
「あの、行ってみる……?」
「もちろんだ」
「大怪我した場所だろうから、怖いかもしれないけど」
「大丈夫だ」
言うより早く川へ入ろうとしているノールさんを慌てて止め、シロに乗せてもらう。
『じゃあ、行くよ!』
「ぴいいいいっ?!」
トガリの悲鳴が尾を引いて川を飛び越えた。
ちょっと、咥えて運ばれるのは怖かったろうか。でも、タクトよりマシかと思ったんだけど。
「よっ、と!」
隣ではラキの悲鳴が尾を引いて、無事にタクトが着地した。
「ぼ、僕、シロに往復してもらいたかったんだけど……?!」
「どうせ俺は跳んでくんだから、ついでだろ」
「そんな親切心いらない~!」
ぶるぶる震えていたトガリが、とても同情の籠もった目で見つめている。
「すごい犬だな……これだけ乗せて川を跳ぶなんて」
ノールさん、割と一般常識は記憶にあるよね。そこも曖昧だと誤魔化せたのに。
そのままシロの案内で山中を歩いていくと、オレの鼻でも異臭を感じ始めた。
獣と、排泄物と、土の臭い。
「うわあ、これはひどいね」
元々ささやかな山道があったらしい場所は、周囲の木々が倒れ、踏み荒らされて倍ほどの幅に広がっていた。
ブラックバックホーンは、そもそも木の多い山中よりも山肌がむき出しの場所に生息しているよう。
どうしてこんな、狭いところを走り抜けていったんだろう。
ちら、と見上げたノールさんは、眉根を寄せているものの、顔色が悪いようには見えない。
「どう? 何か、思い出しそう?」
「ああ……確かに、覚えがあるような気がする。でも、ここじゃない」
「上流の方から来たなら、この跡を上流の方に辿ってみたらどう~?」
「そうだな。この跡を辿って、拾い物を――」
「「「拾い物?」」」
ハッとしたノールさんが、口をつぐんで、逡巡した末に再び開いた。
「……いや、俺が落とした物なんかがあるかもしれないから」
「それ、『拾い物』って言う~?」
訝し気にしたラキには答えず、ノールさんが前を歩き始めた。
「ねえ、このまま行くと山の中で日が暮れそうだよ? 野営できる場所も探さなきゃ」
「牛の跡だけなんてツイてねえ~。肉が食いたかったのに……」
ブツブツ言うタクトに、シロが耳を立てている。この分だと、二人して黒毛和牛狩りに行きそうだ。
ちなみにシロいわく『そこそこおいしいお肉』だそうで、黒毛和牛と言うには物足りないかもしれない。
『今、そこはどうでもいいのよねえ……』
ふよんと揺れたモモに、確かにと頷きつつ、牛肉の夕食メニューを考え始める。オレの口も、既に牛肉の気分になってしまった。
ここはやっぱり厚切りステーキだろうか。それとも、じっくりモモ圧力鍋で煮込んだとろとろの――
「そこ、何かあるよ~」
ヨダレが垂れそうになっていたオレは、ラキの声に慌てて現実に戻って来た。
「なんだこれ? ラッパ?」
タクトが拾い上げたのは、小型の角笛のようなもの。
「これ、ノールさんのかな?」
「さあ……? 覚えがない」
思い出せないのか、知らないのかがわからないけれど。
汚れを落としたタクトが口にあてがうと、息を吹き込んだ。
小型なのに、ブーン、と腹に響くような随分低い音が響く。
「やめろ!」
「うわっ、なんだよ……?」
突如声を上げて角笛を弾き飛ばそうとしたノールさんに、飛び退いたタクトが目を白黒させる。
「ど、どうしたの?!」
「何か、思い出したんじゃない~?」
集まった視線を受け、汗をかいた彼が落ち着きなく周囲を見回した。
「違うっ、そうじゃない。でも、それは牛を呼ぶ音……? 俺は……」
「何が違うの?」
「牛を呼ぶ? えー、ならユータの予想がまさかの的中?」
戸惑うオレたちの前で、彼はうめき声をあげて頭を抱えた。
登山しても平気な顔をしていたノールさんの身体が、汗びっしょりだ。
そんなに無理して思い出さなくても……きっと、時間で戻ってくる記憶もあると思うよ。
怪我と回復薬による記憶喪失は、一時的なことが多いそうだから。
「ねえ、そろそろ野営の準備も必要だし、今日はここまでにしよう?」
「だな! 美味いもん食って落ち着こうぜ!」
「とりあえず、僕は牛が通りそうにない場所に行きたいかな~」
やっぱり、大怪我をした場所の記憶は、辛いものだったんじゃないだろうか。
「しかし……早くしなくては」
「でも、暗くなるとどうしようもないよ。体調を整えた方が、記憶が戻るかも」
逡巡するノールさんは、暮れかかる空を見上げて、渋々頷いたのだった。
明日2025/9/14文学フリマ大阪13参加します!
詳細は活動報告をご覧ください~!