出会い
小さい頃夢中になって集めたビー玉は、色も大きさも様々で、今もなお変わることなく、夢の国のチョコクランチ缶に詰まっている。
開けると、アルミの鉄の匂いに混じり、少しだけチョコレートの甘い匂いが鼻をくすぐる。この匂いを嗅ぐとなんともいえない懐かしさが押し寄せ、胸がもやもやとするのだ。
特別嫌な思い出がある訳ではない。むしろ記憶はほとんどないに等しい。ただ匂いというのは本能的な何かを呼び起こすらしく、僕は不安とも似つかない、この複雑怪奇な感情を表すに相応しい言葉を探している。
何年越しにみたお菓子の缶は埃に覆われており、蓋の部分が茶色く錆びていた。僕の記憶しているマスコットキャラクターのネズミは、描かれておらず、アヒルの帽子が大きく描かれたデザインだった。
もう十年も前になるから、ネズミも逃げ出してしまったのかもしれない。そんなことを思いながら、蓋に手をかけた。錆び付いた蓋は、キィキィと鳴きながら外れた。
缶の中からはチョコレートの甘い匂いがした。正確にはした気がした、だ。
もう十年は経っているこの缶から、匂いなどするはずもないのだが、僕は確かに感じた。きっと僕の中の記憶がそうさせているのだろうと思う。僕は、抑えきれない好奇心で中を覗くと、たくさんのビー玉がこちらを見つめていた。
その時ーーーーーーー、ふと思った。
僕は、あの頃と変わらない瞳で、ビー玉を見つめているだろうか。
ビー玉に心の中で話しかけたが、答えはもちろんなかった。そんなファンタジーが起きるわけがない。ましてやビー玉が喋るなど。
逆さまにして、カーペットの上に玉を放つとカチャカチャとぶつかり合う音がした。
「本当に……きれいだ……」
美しさは見た目だけではなく、その音にもある。おはじきでもスーパーボールでもなく、ビー玉にしかないものだ。僕はこの音が大好きで、よく一人でビー玉弾きをしては、音の心地よさに酔いしれていた。
時間を忘れて指先で転がし遊んでいると、ポケットの中のスマホがまだかと暴れだす。
「あっ、やべ」
急いで着信のボタンを押し、相手が喋る間も与えず開口一番に謝罪する。とにかく大きな声で。僕はこの方法で、数々の困難を乗り越えてきた。
相手の出方を待っていると、受話器の向こうはしばらく無言だった。急いでいたせいで着信先の確認すらしていないことに気づく。まさか的外れな相手だったのだろうか。不安になり一度スマホを耳から離そうとした途端、盛大な溜息が聞こえた。あぁ、やっぱり彼だ。溜息一つでも分かる、透き通った無色透明のビー玉みたいな声。途端に嬉しさが込上げてくる。
「なに笑ってんの」
いつもよりもワントーン低めの声が不機嫌さを全面に醸し出している。彼のストレートな感情表現が好きだ。どんなときでも取り繕うという事をしない。
しかし、無意識に笑うなんて、自分でも思いがけないほど嬉しかったようだ。
「えっ、笑ってた?」
口元が自然と緩む。もうこの時点で笑っていることは明確なのだが。
「……病気だよ、それ」
本気で呆れている彼の顔が想像できた。声をきいていると顔が見たくなる。
「早く会いたいなぁ」
彼のストレートさを見習おうと、思ったことを口にする。すると彼は決まってこういうのだ。
「…………気持ち悪い」
この時の声がなんともいえない、それはそれはイイ声なのだ。心からの不快を音に乗せた、獣が低く唸ったような声。思わず受話器を握る手が強くなる。そんな僕の興奮もよそに彼は口早に続けた。
「つか、誰のせいだと思ってんだよ。会いたいなら早くこい、馬鹿」
プツリ、と通話終了の合図がこだました。
彼と僕の関係を言葉にして表すならば仕事仲間だ。それ以上でも以下でもない。僕のことをたまに同性愛者だと勘違いするものもいるが、それは違う。
僕は恋したものが好きなだけなのだ。
はじめて恋した相手は野に咲く鈴蘭だ。今にも楽しい音色を奏でそうなフォルムも、純白で滑りのよさそうな質感も。どこをとっても綺麗で、僕の理想だった。
しかし花は枯れる。僕の恋はつかの間の夢なのだと思い知った。
半年前、生まれて初めて本気で人間に恋をした。
長いまつげに太いアイライナーがくっきりと描かれ、キラキラと光る目元が印象的な女性だ。
僕が恋した理由は実に簡単である。瞳の奥の輝きだ。
まるで作り物のような眼球に僕は吸い込まれそうになり、一瞬で虜になった。
たまたま臨時の講義で出向いた大学で、数学の講義をとっていた女性である。必死でメモをとる彼女の瞳がそれは美しく、視線が交わると心臓を鷲掴みにされたような気がした。
しかしこの恋は二週間で終わりを迎える。
臨時の講義で再び彼女の大学に出向く機会を得た。なんとか接触を試みようと、その方法ばかり考えていた講義は上の空だったに違いない。
今回は午後からの講義だったし、彼女はいないだろうと踏んでいた。いるはずのない面影を探し、教室に一度視線をさ迷わせる。
すると二つの眼球がこちらをじっと見つめていた。
吸い込まれるような、逸らすことすらかなわないこの美しい瞳は。交わったのはほんの一瞬。弾かれたように僕は、講義に集中しようとホワイトボードに向かった。
落ち着け、まずは彼女の席の確認をし、それから動向を探る。まるでストーカーのようだが、彼女の情報をこれっぽっちも知り得ない僕に、他の方法はない。
一息つくと、もう一度生徒に投げかける体を装い教室に向き直る。そして先程目を奪われた場所に視線を走らせる。
するとそこには、コソコソとこちらを伺いながら悪戯っぽく笑い合う男子生徒がいた。彼らは僕の視線に気づくと何事もなかったかのように、こちらに視線を向けた。その時僕は絶句した。
なんと彼もその瞳の持ち主だったのだ。




