9・あのとき欲しかったことを
朝になった。ようやく女の子が手を離してくれた。
女の子は一睡もしないまま彫像のように固まって天井からぶら下がる二人を見つめていた。
蓋を開けないままのホットのココアはすっかり冷めてしまった。
それを女の子は左手で握りしめている。
女の子は立ち上がってふらふらと自分の部屋に行って、ランドセルを背負って戻ってきた。
「学校に行くの?」
女の子は口をパクパクさせてから、ひとつ大きく頷いた。
「そう、行ってらっしゃい。僕も帰ります」
女の子はまた頷いて玄関から出て行こうとした。
「あ、ちょっと待って」
女の子を呼び止めて女の子の首にかかったままの紐を外す。
「はい、行ってらっしゃい」
僕は外の人通りが途切れるのを待ってから外に出た。
僕の家に帰って二階に上がる。仕掛けていたネズミ捕りに一匹かかっていたので、ネズミを捌いて焼いて食べる。壺からきゅうりの酢漬けを出してポリポリとかじる。
ネズミ捕りを仕掛けなおして、もうひとつのネズミ捕りを見る。修理が途中になっていたもの。
針金で開いたところを塞いで、ネズミの入るところを調整すれば使えそう。
ちょいちょいとなおしてこれも一階に仕掛けておく。
少し寝ようと横になる。
お父さんはまだ帰ってこない。
あの女の子はこれからどうするのだろうか?
お母さんが死んだときを思い出す。
父がお母さんを殴る。いつもの見慣れた光景。お母さんは抵抗するけど、力ではかなわない。
父がいつものようにお母さんの髪を掴んで、いつものように壁に頭をぶつける。だけどそのとき、お母さんはいつものように起きてはこなかった。声も出さずに静かになった。
それを見て父は驚いた顔で固まっていた。
いつものように起き上がってくるのを待っていた。しばらくはそのまま見ていた父は、急に我にかえったように動きだした。
お母さんの持ってた財布と封筒を掴んで、外に走って出て行った。
それが父を見た最後の姿だった。
お母さんのそばに座り込み、お母さんが起きるのか起きないのかを見ていた。
うつ伏せに倒れたお母さんの頭のあたりから、カーペットにじわりじわりと広がっていく赤い血を見ていた。
救急車を呼ぼうかと考えたけれど、うちには病院に払える治療費なんてない。
お金は父が持って行ってしまった。
それにこれでお母さんが楽になれるのなら、それもいいんじゃないかと考えていた。
朝までうつ伏せに倒れたお母さんを見続けて、起きてこないことを確認して、それから家を出た。
そこから離れたかった。
どこか遠いところに行きたかった。
父とお母さんが恋愛の果てに親戚と家族一同の反対を押しきって結婚した、と父の兄に聞いたことがある。
好きあって結婚して子供ができて、
好きだった相手を殴り殺して逃げる。
そんな結果になるのなら、僕は誰も好きになりたくなんかない。
一人で生きて、一人で死にたい。
でも僕一人ではなにもできなくて、できるようになったのも老人殺しと子供の誘拐だった。
お金があるときは、父とお母さんは仲が良かった。二人でピアノの発表会で演奏する僕を見にきたときは、仲の良い夫婦だった。
父の勤める会社、父の兄が社長の会社の経営が傾いてからは父とお母さんの間にいさかいが増えた。
お母さんが文句を言うのを父が殴って黙らせるのが日常の光景になっていった。
お金があれば、お金さえあれば、
家庭は穏やかで平穏だと知った。
だけど、そのお金のために僕がしてきたことは、何度死んでも償いきれない。
何人殺したか、憶えたくないから数えてない。
何人拐ったか、憶えたくないから数えてない。
だから見つけたい。お金が無くても生きていける方法を。お金に振り回されない生き方を。
もう少しでそれが見つけられそうな気がする。
それがあれば、それさえあれば。
誰もが心を軽くできるように。
お父さんに助けられてようやくその答がみつかりそうなんだ。僕には。
では、あの子は?
まるで昔の僕のような、まるでもう一人の僕のようなあの女の子は。
これからどうなるんだろう?
あの派遣会社に見つかれば、僕とは違って外国に売られることになるだろう。
もしかしたらその方が幸せになれるかもしれない。
外国の金持ちの養子になるのかペットになるのかわからない。それはこのまま日本で生きるよりもましな生活になるかもしれない。
だけど、
お父さん、どうすればいいんですか?
ポケットの中のサイコロを握る。
1、2、3、が出たら女の子のところに行こう。
4、5、6、が出たら女の子のことは忘れよう。
サイコロを振ろうとして、出た目に任せようとして。
女の子の顔を思い出す。虚ろな目から涙を流しながら天井からぶら下がる二人を見ていた横顔を。
サイコロを握りしめた手が開かない。
僕はサイコロを握りしめたまま、振らずに外に出て走った。
女の子の家まで行ってみたけど、女の子はまだ帰っていなかった。警察もまだ来てはいないから、あの女の子は家のことをまだ誰かに話していないのだろうか?
この近くの小学校は何処だろう?
歩いていけるようなところにあるものは。
女の子の家の前で腕を組んで考えてると、雨が降ってきた。
駅まで行けば傘がある。ここの駅は客の忘れ物の傘を駅で貸し出しているから、それをとりに行こうか。
それに駅の前にはこの辺りの地図があった。それで近くの小学校を探してみようか。
駅に向かう道の途中で、あの女の子を見つけた。
ぼんやりと雨にうたれながら歩いている。
ランドセルは背負ってない。靴は片方無くて靴下で歩いている。
顔も泥だらけで膝から血が流れている。
あぁ、こんなところまで昔の僕のような。
駄目だ、もう放っておけない。
ぼんやりしたままの彼女の手をとって背中に背負う。
雨にうたれながら彼女の家に行く。着替えさせて暖かくしてやらないと。
女の子は抵抗もしない、脱力して身を任せている。なにも考えたくない、なにもしたくない、なにも感じたりしたくない。なにもかもがどうでもいい。
昔の僕と同じなら、そんなことで頭がいっぱいになっているんじゃないだろうか。
彼女の家の前には黒い自動車が停まっていた。玄関にはスーツの男が二人。玄関のドアを叩いている。
「クソッ」
男のひとりが喚いて玄関のドアを蹴飛ばすと、ドアが開いた。
男達は顔を見合せて、しばらく話しあってから二人とも女の子の家の中に入って行った。
あぁ、もう、僕は本当に間が悪いのか運が無いのかな。
悩んだ分、妙な隙間にすっぽりと嵌まってしまう不運だ。
そのとおりですね、お父さん。
女の子を下ろす、ジャンパーの下の脇の下のホルスターのナイフを確認する。
「ここで待ってて」
女の子の家に近づく、あの二人が警察だったら逃げよう。
警察じゃ無かったら首吊りの死体の発見を遅らせるために殺そうか。
家の中から男の声がする。
「クソが! 金も返さずに死にやがって!」
借金取りのようだ。
ありがとうございます。殺す理由を教えてくれて。
首吊り死体を見ている男の背後から一人目の背中、腎臓の辺りを背中から刺す。
「ぁぁあああああ?」
左手で男の背中を押してナイフを抜く。振り向いたもう一人の顎の下を真下から突き上げて貫く。
「てめふっ!」
てめえ、とか言おうとしたのかな? ナイフを捻って引き抜く。
背中を刺したスーツの男が仰向けになってもがいている。
「お、お前、どこのもんだ? なな、なにをしたか、わかってんのか?」
立ち上がろうとして、脚がきかなくてズルズルともがく。
「ここの女の子を無事に保護したいので、この家のことをまだ警察に知られたくありません。死体の発見を遅らせたいので口封じさせていただきます。すみませんが死んで下さい」
「あ? ぁあっ?」
僕に凄んでも背中から深く刺したから、もう助からないんですけど。
背中を押さえてもがくスーツの男の向こう側に女の子がいた。
ついて来てしまっていた。あまり見せたくなかったのだけど。
女の子は倒れた男を見ると憎々しげに睨み、スーツの男を蹴りだした。女の子は口をパクパクさせながら男を蹴る、蹴り続ける。
声が出てないから何をいっているのかわからない。
それでもこの男のことを知ってて蹴っているのだから、お前がいなければ、とか、お父さんとお母さんを返せ、とか言っているのだろうか。
「本当に借金を回収する気があったんですか? 追い詰めすぎですよ」
「くっ、やめろぁっ、がきっ、あがっ」
男は手を振って、なんとか女の子の蹴りから逃げようとするけど、もがく度に背中から血が流れていく。もう一人の男のほうは即死みたいだ。動かない。
僕はもがく男にトドメを刺すためにナイフを持ち上げる。女の子が男を蹴るのをやめてじっとナイフを見ているのに気がつく。
「えっと、……使う?」
女の子が頷いたのでナイフを渡す。
「お、おい、やめろ、やめてくれ」
「そんなに怯えるのなら、恨まれないようにすれば良かったんですよ」
「おい、頼む、やめろ、そいつ止めてくれ」
「どのみち助かりませんよ。それに、どんな生き物でも追い詰めたら反撃するものです。そこに借金なんて関係ないです」
女の子が両手でナイフを逆手に構えて、大きく振り上げる。
男のもがく腕が邪魔なので、僕は男の手首を踏みつける。
「やめへぎぇ!」
女の子がナイフを振り下ろす。
スーツの男の右目に深々とナイフが刺さる。びくんびくんと痙攣してから男は動かなくなった。
僕にとっては理由はあっても、八つ当たりのような殺人だった。この二人を無視して逃げてもよかった。
でもこれが女の子にとって正当な復讐であればいい。僕が初めて仕事以外で、お金のため以外で犯した殺人だった。
どっちが悪いかでいうなら借りたお金を返さないほうだろう。だけどそれは死ななければならないほどに悪いことなんだろうか?
だったら借金の借用書に最初から、返済できないときは命で購え、の一文を入れておくべきだ。
もしかして、僕が知らないだけで今の借用書にはそんなことが書かれていたりするのだろうか?
女の子は男の目に刺さったナイフを抜こうとして、深く刺さりすぎて抜けなくて困っていた。すんなり抜けたなら死んだ男を何度でも刺していただろうか。
「ちょっと貸して」
女の子の手をナイフから離させて、僕がナイフのグリップを握る。
「コツがあるんだ」
一度ナイフを軽く押し込んで、縦に動かしてから引き抜く。
ナイフについた血と脳を男のスーツで拭う。
女の子は僕のことをじっと見ていた。
僕も女の子をみて聞いてみる。
「これから、どうする?」
女の子は応えない。
「警察に行く?」
女の子はなにも応えない。
「じゃあ、僕と、いっしょに行く?」
女の子は頷いた。
僕も昔は派遣会社の担当さんに拾われて、金がほしけりゃ仕事を紹介してやるって言われてホイホイついていった。
あのときはなにもかもがどうでもよくて、言われるがままについていって、言われるがままに仕事をしていた。
この子も引っ張っていく人がいれば誰にでもついていってしまうのだろう。
僕じゃ無くてもいいんだろう。
それでも、
「僕もまだ半人前なんだけどね」
ナイフをホルスターにしまって、女の子の手を握る。
「君を一人でも生きていけるようにしてあげる。いや、してあげたいんだ」
女の子の目を見ながら言う。
不思議なものを見るように僕を見ていた。
つい口にしてしまったけれど、これで僕がなにが欲しかったのかやっと気がついた。
助けて欲しかった。
助けが欲しかった。
連れて行ってほしかった。
連れ出して欲しかった。
お母さんが死んでしまうなら、いっしょに死にたかった。
父が逃げるのなら、財布じゃなくて僕の手を掴んでほしかった。
置き去りにされて、どこにも行けなくて。
それでもここじゃないどこかに行きたくて。
生きたくて。
生きていてもいいところに行きたくて。
この手を引いて連れて行ってほしかった。
僕がいてもいいところへ。
昔の僕がして欲しかったことを、
今の僕は女の子にしている。
この子がそれをいらないというなら、
手を離してここで別れよう。
だけどこの子が、強く僕の手を握りしめたので、
手を引いて立たせて連れて行くことにした。