10・引っ越し作業
女の子の怪我した膝を洗おうとしたけど、この家は水道が止まっていた。
家の中から救急箱を探して膝の怪我に消毒薬をかける。
女の子はスカートの裾を握りしめて、消毒薬が染みるのに耐えていた。
傷に絆創膏をはって、消毒薬で手についた血を落としてタオルで拭う。
人の死体が四人分ある家で長居はしたくない。警察にはみつかりたくは無い。
空のバッグを見つけて女の子の部屋に。
タンスから服を出してバッグに詰める。
「大事なものがあればバッグに入れて」
女の子は机の引き出しを開けて中のものをバッグに入れる。
櫛とか下着とか入るだけバッグに入れる。
女の子は服が雨に濡れていたから着替えてもらって、その間に靴下とさっきの救急箱もバッグに入れる。
バッグを肩に担いで女の子の手を引いて、玄関にある傘を開いて外に出る。
外は冷たい雨がざあざあ振っていた。
僕の家へと歩きながら女の子の手を握る。小さい冷たい手。
女の子に聞いてみる。
「何年生?」
女の子は応えない。しゃべれないんだったっけ。
「四年生?」
女の子は横に首を振る。
「五年生かな?」
女の子はまた、横に首を振る。
「じゃあ、六年生?」
頷いた。小学校六年生、か。しゃべれないんじゃ、答がハイかイイエで返せるように聞かないと。
「学校は楽しい?」
女の子は首を振る。
「じゃあ、学校は落ち着く?」
女の子は頷いた。
「わかるよ、それ」
父に殴られたお母さんが、僕を叩く。
それが怖くて夜に家で眠れなくなった。
学校の授業中に机で座って眠るようになった。いつの間にか学校は眠るための場所になって、給食を食べに行くところになってしまった。
だから学校は楽しくはない。
だから学校は家よりは落ち着いて眠れるところ。
女の子の手が震えていることに気がついた。冷たくて震えている。
雨に濡れたあと着替えてはいるけれど、まだ髪は濡れている。
寒いのかな?
財布の中身を確認する。まだ少しある。
足りるだろう。
「ちょっと寄り道しようか」
女の子の手を引いて、方向を変える。
女の子の歩くペースに合わせてゆっくりゆっくり歩く。
銭湯についた。以前お父さんに教えてもらったところ。古い建物の昔ながらの銭湯だ。
中に入って傘を閉じる。自販機でプラスチックの札を買って女の子に渡す。
「先にあがってたら待っててね」
僕は男湯に向かう。番台のおじいさんに黄色いプラスチックの札を渡す。続いて女の子が同じようにおじいさんに札を渡す。
あれ?
「女湯はあっちだよ?」
番台の向こう側を指差す。女の子はきょとんとしている。
「その子、何歳?」
番台のおじいさんが聞いてきた。
「あの、小学生です」
女の子は僕のジャンパーをしっかり握っている。
おじいさんはそれを見て、
「他に客もいないから、いいよ。子供なら仕方ない」
「あ、はい」
女の子を連れて脱衣場まで行く。銭湯って何歳までが異性の方に行ってもいいのだったっけ?
念のため女の子に聞く、
「男湯でいいの?」
女の子は頷いた。もしかしたらここで離れたら置いて行かれるとか心配しているのかもしれない。
服を脱いで洗い場に、女の子も恥ずかしがる様子も無くさっさと脱いでついてくる。
椅子に座った女の子の頭にシャワーでお湯をかける。
「熱くない?」
女の子はコクコクと頷いた。
手についてた血はざっととったけれど、手も足も泥がついている。顔にもついていた。
頭にシャワーをかけたあとは任せようとシャワーを持たせてみたけど、シャワーを持ったままぼうっとしている。
仕方ないので手にシャンプーをつけて女の子の髪を洗う。
「手と足についた泥を落として」
言うと右手に持ったシャワーを左手に当てはじめた。
女の子の肌はやけに白い。だから身体の青いアザが目立つ。お金に困った親が子供を叩いて憂さを晴らす。
どこも同じなんだ。家族ってそういうものかもしれない。
「身体をきれいに洗ってから湯船に入ってね」
僕も身体を洗わないと。シャワーは四ヶ月ぶりくらい。パチンコ屋からとってきたおしぼりで身体を拭いたりはしてるけれど、寒くなってから髪を洗うのは一月ぶりくらい。
湯船のお湯を汚さないようにきれいにしないと。
女の子を見るとタオルにボディーソープをつけて身体を洗っているけど、ずいぶんゆっくりもたもたしてる。
僕もお母さんが死んだあとは、なんだか身体が重くて手を持ち上げるのもしんどい気がしてた。動作が緩慢になった。言われたことをこなすときだけは、それなりに動けたけれど。
タオルにボディーソープをたっぷりつけて女の子の背中を洗う。身体を暖めるために銭湯に来たのに、ここでさっさと湯船に入れないと冷えてしまう。
青アザを押さないように気をつけて優しく肌を擦る。
前だけは自分でやってもらうとして、手と足もさっさと洗ってしまう。人の身体を洗うのは初めてだけど、そんなにむずかしいことでは無い。
他にお客がいなくて助かった。青アザだらけの女の子の身体を洗う男。いろいろまずいような気がする。
シャワーで泡を落として、
「はい終わり、湯船であったまってね」
今度は僕の番。たぶん僕の方が汚ない。
シャンプーを髪につけて手でがしがしやっても、汚れが酷すぎてぜんぜん泡が立たない。シャワーで流してもう一回頭にシャンプーを。
背中にタオルが触れる感触。見ると女の子が僕の背中を洗っていた。
「いや、僕のことはいいから湯船に入ってね」
女の子は頷いた。だけど僕の背中をタオルでごしごしと擦るのはやめない。
これは僕が身体を洗い終わるまでこの子は湯船に入ってくれないみたいだ。
さっさと終わらせよう。ボディーソープを多めに手に掬って手のひらで手足に擦り付けてがしがしとタオルで擦る。
シャワーで流してひととおり終わらせて湯船に浸かる。
広い銭湯の湯船の中で手足を伸ばす。お湯に身体をつけるのはずいぶん久しぶりだ。
最後にお風呂に入ったのはいつだったか。
社員寮にはシャワーしかなかったから。湯船に入るのはたぶん二年ぶりくらいになる。
「ふー」
外が寒かったからか、熱いお湯につかるのが気持ちいい。
女の子は肩を並べるように隣りに来る。
この子はいつからしゃべれなくなったんだろうか。初めて見たときは声を出していた。かすれる声でただ、あああ、と泣いていた。
首には紐で締めたあとがうっすらと赤く残っている。
親に首を紐で絞められて、その親が首を吊って死んでしまって。
それでも親の仇とも言える借金取りにナイフを突き立てる怒りがある分、僕よりましなような気がする。
僕よりはずっとまともなんじゃないかな? 人として。
僕よりおかしいのがいないだけなのかもしれないけれど。
女の子が俯いている。肩が上がってなにか力んでいるような、歯をくいしばってなにかに耐えているような様子。
心配になって肩に手をのせる。
顔を上げた女の子と目が合う。
ふっ、と女の子の肩から力が抜ける。噛み締めていた口が開いて、目から涙がこぼれる。
女の子は手を伸ばして僕の首にしがみつくと泣きだした。声を出さず、声を出せないまま泣いた。女の子の喉がひゅうひゅうと音を立てるので、泣き止むまで背中を撫でた。
暖かいお湯のせいで塞き止めていたなにかが溶けてしまったように、女の子は泣き続けた。泣き止むまで背中を撫でた。
銭湯から出て家に帰る。傘を差してしとしと降る雨の中を手を繋いで帰る。
家の一階のゴミの山を見て女の子は驚いたようだ。
僕が始めてこの家に来たときよりも増えている。二階の階段に行くのも大変だ。
「ひどい匂いだよね」
女の子はうんうん、と頷いた。
女の子をおぶってゴミの上を歩く。そのまま二階まで運ぶ。
ネズミの開きとカラスの薫製と大根で鍋にしようか、と考えていたけど女の子は僕の背中で眠ってしまっていた。
食べるのは明日でもいいか。
女の子を布団に寝かせる。布団はひとつしかないので僕も同じ布団で眠る。
寒い夜も二人だと寒くなかった。
朝になって、僕は正座をしていた。
お父さんが干物ボックスの上に座って僕を金色の目で見下ろしている。
『自分ひとりの面倒も見れない奴が、子供を拾ってきてどうするんだ?』
「それはそうなんですけど」
夜中にお父さんが帰って来ていた。
お父さんは僕が起きるのを待って、僕が目を覚ましたら、
『まず、そこに正座』
と、なった。女の子も僕の横にちょこんと正座をしている。
『子供を連れて来て、しかも人二人殺して後始末もしていないとなれば、警察がうるさいだろうな』
派遣会社にいるときは殺しのあとの始末のいろいろなことは会社がやっていた。代わりの殺人犯をでっち上げたりとか。警察や保険会社とも関係していろいろある。そこにまたお金が流れている。お金がいろいろなことをうやむやにできている。
今の僕にはそういったものはまるでない。
『ここで冬を越すつもりだったが、逃げるためにもさっさと引っ越しするか』
「あてがあるんですか?」
『使えそうなところをいくつか見てきた、で、その小娘はどうする?』
「連れて行きます」
『上手くいくと思うのか? その娘はお前とは事情が違う』
「上手くいかなくても連れて行きます。この子は僕と同じです」
お父さんは天井を見あげる。
『同病相哀れむ、か? で、小娘。お前はどうしたい?』
女の子はお父さんが話をするのに少し驚いていたけど、自分に聞かれたので慌てて口をぱくぱくさせる。座ったまま手を振って、たまに僕の方を見て、お父さんに向けて口をぱくぱくさせる。
声が聞こえないから何を言っているのかわからない。口を見てもわからない。
お父さんを説得しようとしているみたいでいろいろ話しているようだ。お父さんはじっと女の子を見ている。
『そうか。そこまで覚悟が決まっているならついてこい。そのあと、お前が手にしたものでなにをするかはお前が決めろ』
女の子は手をついてお父さんに深々と頭を下げる。まとまったみたいだ。お父さんには女の子の声が聞こえているみたいだ。
『それなりに頭の回る小娘だ。似た者同士が呼びあったのか』
「なんて言ってたんですか? 僕にはわからないんですけど」
『あとでその子から聞け。紙とペンでも用意して。さて、決まったなら引っ越しだ。持ち出すものをまとめておけ』
お父さんは干物ボックスから飛び降りると二本の尻尾を振って身体を震わせる。
すると、お父さんの輪郭がぼやけてお父さんのいたところに黒いツナギを着た日焼けした肌の人間の青年が立っていた。
『この姿を憶えておけ。あとで、あなた誰ですか? とか聞かれて説明するのは面倒だ』
大学生ぐらいに見えるかっこいいお兄さんだ。
『車をとってくる』
いつもなら気がついたときにはそこにある、という感じで物があったけれど自動車はそうはいかないみたいだ。
人に化けたお父さんは下の階に下りていった。
女の子が目を丸くして驚いている。
「お父さん、人に化けられるんだって。僕も初めて見たけど」
女の子は僕とお父さんが行った階段を交互に見る。
「うん。あの黒猫さんが僕のお父さん。いろんなことを知ってて教えてくれる。とても頼りになるんだ」
女の子は不思議なものを見るように僕を見る。
「いっしょにいれば、そのうちわかるよ」
なんとなく女の子の頭を撫でる。
『てきとうに詰めて、出発だ』
お父さんが家の前に停めた灰色のバンに荷物を積む。玄関と二階を往復して。
女の子のバッグ、布団、毛布、工具セット、七輪、炭の入った袋、水を入れたポリタンク、干物ボックス、鍋にフライパン、食器、釣りざお、バケツ、パチンコ、鳥かご、ネズミ取り、調味料の入ったポーチ、ランプ、懐中電灯、カセットコンロ、麻雀牌、オセロ、将棋、作っておいたネズミとカラスの薫製肉、漬物の入った壺、獲物の解体用に作った道具類、
ずいぶんと物が増えたんだ。
『出発するぞ』
お父さんが運転席に乗ってエンジンをかける。
僕は助手席に、女の子も前に乗りたがったのか僕の足の間に入ってきた。
僕は助手席の窓から住んでいた家を見る。
一階と庭がゴミ袋に埋められた生ゴミとネズミとゴキブリだらけの家。
お世話になりました。
ありがとうございました。
バンが走り出す。
また新しい生活が始まる。
次はどんなところに住むのだろう?
きっと楽しいところになるだろう。