憑依
「ちょ、降ろして!」
ジタバタと手足で宙を掻きながら、悲鳴にも似た声を挙げる。しかし、こちらの腰をホールドしたままの腕は緩まる気配も無く、上下の振動を伴ってメイサとの距離を空けていく。
「降ろして、それでどうなる?」
「わからない! わからないけど! 僕だけは逃げちゃだめなんだ!」
「自分が巻き込んだと、そう思っているのか?」
冷静な声音の奥に押し殺したような感情があることを、千秋は感じとった。後ろ向きに担ぎあげられたこちらからは、成政の表情を窺い知ることはできない。それでも、こちらに振り向こうともしない後頭部や、成政の肩や指先から感じる強張りは、日頃の彼の冷静さからは想像もつかないほどに激情を抱え込んでいるに違いなかった。
千秋は再び押し黙る。戸惑いが思考を停止させたのだ。成政は重く口を閉ざし、千秋は言葉を発しようと口を開くが、結局は失敗し、言いかける言葉は意味を成さず夜気に霧散した。
互いに黙り、沈黙の中で地面を打撃するように走る足音だけが鳴り響く。そしてその静けさを破るのもまた――
「成政! 後ろ!」
――――!!
千秋の声に被せるように、後ろから叫び声が挙がった。それは〝お〟とも〝あ〟とも聞こえる響きであり、地鳴りのように低く震えるような声だった。千秋は揺れる視界の中、ソレを捉えていた。随分と小さく、遠くなった街灯の明かりの下、地面を這っていたメイサがフラフラと立ち上がったのを。
メイサは力無く両肩を下げ、両肩に引っ張られるかのように身は前傾した。指先が地面に触れそうなまでに身体を前に沈め、前方に崩れたバランスを踏みとどまるような動きで足を踏み出す。一歩、二歩と、それは単発的な歩みから連続となり、歩みは走りとなってこちらに向かって速度を重ねてくる。
髪を振り乱し、首や肩は不規則に揺れている。バランス感の欠片も無いフォームにも関わらず、ソレは確かにこちらとの距離を詰めてきた。
成政が後ろを確認するため振り向いたのだろう。千秋の視界が腹部を支点に180度回転し、前方の薄暗さに向けられたと同時、放られた。
今まで腰を固定していた腕は解け、代わりに身体全体を浮遊感が包み込む。成政が意図的に手を放したのだ。千秋は勢いを持って宙に転がる身を更に捻り、地面に向き合うと、四肢の間接を使って着地と同時に衝撃を地面に逃がす。四つん這いのような姿勢で地に足を着けた千秋は反射的に成政を見る。行動の意図を探ったのだ。
しかし、成政はこちらに一瞥もくれることなく次の行動へと移っていた。成政が踏み出し近づいたのは電信柱であり、コンクリートの柱に針金によって括りつけられているのは色褪せた看板だ。飲酒運転防止を呼び掛けた標語を記したソレを、成政は躊躇い無く剥がしに掛かる。左手を電柱に着き、右手で看板の上端に手を掛ければ、
「むん」
錆びた針金が軋んだ音を立て、長方形の看板が歪に形を変える。力任せな引き剥がしに、看板を構成するトタン板や木製の骨組みが悲鳴を上げ、負荷に耐えきれなくなった針金が弾け飛んだ。
成政は電柱から毟り取った看板を盾のように前方に突き出す。
直後、肉を打つ音と共に衝撃がトタンの盾にぶち当たった。
成政が押されるように後ずさったのを千秋は見た。全体重を乗せていたのだろう。看板の両端から白く細い腕が生えるかのように飛び出ており、それは成政の首に向かって伸ばされていたが、寸でのところで動きを止めている。腕がこちらに伸びているということは、受け身も取れずに正面から激突したということだ。ぶつかったのが常人であれば意識を刈り取るには充分過ぎる衝撃であっただろう。常人であればだが。
「――――!」
動きを止めたのも束の間、成政が力を抜きかけたその時、看板越しに伸びた両腕が再び首を探して暴れ出した。看板を押し出すことで距離を取ろうとするも、
「成政!」
力に押され。成政が背中から地面に倒された。倒されたことによってメイサの黒い髪が踊り、その不気味な様を再び露わにした。低く、獣のような唸り声と共に馬乗りの姿勢となったメイサは、看板の下敷きになっている成政の首に己の手指を巻きつけ、締め上げる。
「が、ぁ、……っ!」
成政の喉から呼気が絞り出される。苦悶により長い手足が狂ったように暴れまわるも、看板越しという無理な姿勢に乗っているメイサは揺るがない。否、首から上は今も不自然に揺れている。それでも喉に押し当てられた十本の指は沈み込むように食い込むばかりだ。
千秋が硬直していたのも一瞬。
千秋は四つん這いの姿勢からクラウチングスタートと同時にメイサの背後に回り込む。
「メイサちゃん! …………っ!?」
両脇から手を差し入れ、羽交い締めにする。しかし、後頭部で組もうとした手が回らない。メイサの腕の力が強過ぎるのだ。その華奢な身体のどこにそれほどの力があるのか、戸惑いよりも恐怖心が胸を突く。そしてなにより、触れた肩や脇から伝わる体温が――
……冷たい!?
骨ばった硬い感触も含め、まるで布で包んだ氷を抱いているかのような感触だ。そしてなにより千秋を困惑させたのは、メイサの髪に混じる異臭だ。日頃からメイサが愛用している椿系のシャンプーの香りではない。ドブ川のような鼻を突く匂いに混じる、吐き気を催すような明らかな腐臭。思わず鼻と口を手で抑えそうになる衝動を、成政の苦しそうな呻き声が吹き飛ばす。駄目、と、千秋は首を振り、腕に力を込め直す。ズルズルと外れそうになる腕の位置を慌てて調整しながら、
「――――」
ふと、メイサの唸りが止んだ。
そう感じた時、千秋は自分が目をきつく瞑っていることに気付いた。腕に力を入れる際、目にも力が籠っていたのだろう。声は止んでも腕の中で暴れまわるようなメイサを必死に抑えつけながら、千秋は目を開けた。
眼前。黒い双眸がこちらをのぞき込んでいた。
千秋が見ているのはメイサの後頭部ではない。
顔だ。
ありえない。そんなことすら思う余裕が無い。自分は確かにメイサの脇から肩を挟むように抑えつけており、成政の首に向かって伸びる白く細い腕も健在だ。それはつまり――。
メイサは身体の向きをそのままに、首を回して千秋と向き合っていた。
鼻と鼻がくっつきそうな距離で、黒い二つの空洞がこちらを見ている。それは不自然に小首を傾げ、メイサの唇が三日月状に裂けるように開いた。
笑ったのだ。
千秋は今度こそ、喉を突き上げる己の叫びを否定しなかった。口が限界まで開き、自分でもゾッとするほどに大きな声が喉を走り、目の前の異形にそのまま叩きつけられる。気が狂わんばかりの絶叫だった。それでもメイサは笑みを止めなかった。そればかりか。
「あ」
メイサの身体が成政から剥がれた。ソレは、首の角度に身体を合わせるように千秋に身体を振り向かせると、そのまま千秋を押し倒した。背後、アスファルトに背中や頭を強打し、意識が飛びかけるが、事態はそれを許さなかった。衝撃に顔を顰める間もなく千秋の首に手指が巻きつく。喉を潰す勢いを持ったその圧迫感は、激しい痛みを伴っていた。痛みと共に喉に伝わる恐ろしく冷たい感触が、こちらの体力と気力を削ぎ落していく。足元側で咳き込む成政の声を耳にしながら、千秋は腕を振り乱す気力もないまま声を漏らす。
「どうし、て……?」
今、メイサの〝中〟にいるモノは、どうしてこんなことをするのだろう。千秋は遠くなる意識の中で疑問する。無論、それに答えてくれる者はいない。唯一答えをくれそうなメイサは今、自分に跨り首を絞めつけているのだ。思うことがある。成政は大丈夫だろうか。今自分が死ねばメイサは元に戻れるのだろうか。元に戻った場合、自分の下で冷たくなった死体を前に、何を思うのだろうか。
〝キミの事は僕と成政くんが絶対に守るよ〟
〝命に代えてもね〟
そんなメイサの言葉が頭に蘇る。
ほんの数十分前のやり取りが妙に懐かしく感じ、後悔とも自嘲ともとれるような笑みが苦痛に歪む表情に混じる。自分は死ぬ。確実に死ぬ。覚悟とは違う、諦めの思考が頭を支配する。喉が絞まり、止まった血流が頭の奥で圧迫感にも似た熱を持つ。意識を手放し、楽になろう。そう思った。だから最後の足掻きとして無理に首を捻って喉を開く。絞り出すように発せられた言葉は掠れ、音を成さなかった。それでも、唇が必死に言葉を紡ぐ。それはこちらが発しようとした言葉とは裏腹に、
たすけて。
瞬間。ベコリと金属が凹む音と共に風が大きく動いた。
それには知覚と同時に結果が現れた。風を面ではなく線で斬るように、横倒しにしてもなお大気を巻き込むようにスイングされたトタン製の看板が、馬乗りになっているメイサを掻っ攫うように薙いだ。
看板がメイサの右肩にめり込み、メイサと看板、どちらの骨ともつかない軋み音を伴って振り抜かれた。首や腹の圧迫感が一気に消え、新鮮な空気が喉に流れ込んでくる。咳き込む身体を折りながら、千秋の視線はあるものを捉えていた。
成政だ。
野球選手さながらの見事な振り抜きからのフォロースルーをみせた成政は、破砕した看板を手に言葉を作る。
「大丈夫か?」
その平静な一言により、千秋は緊張が一気に緩むのを感じた。まだ何も解決していない。分かっていても、安堵により腰が抜けるのを防ぐことは出来なかった。力の入らない足腰。震えが足から肩や腕に伝播し、身体を抱え込むように蹲る。限界を超えた恐怖心が、冷気のように身体を包んでいる。しばらくは立てそうにない。それどころか身を起こす事すらままならない。
だから千秋は声だけで尋ねた。
「成政、メイサちゃんは……?」
声に、ああ、と応じ、成政が視線を走らせる。そしてそれがすぐに緊張に強張るのを千秋は見た。釣られて首を身体ごと反対方向に回せば、そこには道路から少し低い位置にある幅2メートルほどの用水路がある。そしてその用水路の中心、1メートルほどの深さの中、脛まで水に浸かったまま俯き立つ、全身ずぶ濡れの黒服姿があった。
転がり落ちた際に引っかけたのだろう、レースはほつれ、千切れた葉の欠片などがあちらこちらに張り付いている。メイサはゆっくりした動作で身体についた葉を細い指先で摘まんでは剥がしを繰り返す。背筋を凍らせながら固唾を飲んで二人が見守る中、突然といった動きでメイサは俯いていた顔を上げた。そしてその動きには明確な言葉すら伴っていた。
「痛ぅ……。いかんね。右腕が完全にイカれてしまったよ。」
上げられたメイサの顔、張り付いた前髪の隙間からはネコ科を思わせるの大きめの瞳が、呆れと共に細められている。先程までの双眸をくり抜いたかのような黒い空白など、始めから存在などしていなかったかのように無くなっていた。否、本来は存在しないものだったのだから、この場合は、
「元に、戻ったの……?」
希望を込めたこちらの問いに、メイサは疲れが色濃く滲む表情を弛緩させた。片手を立てて応じようとし、右腕が動かないことに気付き軽く呻きながら、
「こうして僕の言葉が通じているということは、概ねそうなのだろう」
メイサは歯切れ悪く返すと、水路の縁に左手を付く。すると、片手で昇ろうとするメイサに、千秋が手を伸ばすより先に前に出る者がいた。成政だ。成政は無言で手を差し伸べると、メイサもおどけた表情で応じた。
「こう、足を高く上げるとスカートの中が見えてしまうね?」
「お前を女と認識したことはない。ここしばらくはな」
いたずらっぽく笑うメイサに間髪入れず冷淡に返すと、成政は縁に足を掛けようとしていたメイサを腕の膂力だけで引っ張り上げた。引き摺り上げたと言ってもいい。
「キミ、ボクへの対応が雑なのはそういうことだね!? 胸が非常に痛むよ!? ついでに言うと右腕が滅茶苦茶痛い!!」
釣り上げられた魚のように地面に打ち上げられたメイサは片手でうつ伏せの身体を起こす。すると、身を起こす動きに合わせて右肩より下が、重力に引かれるようにぶら下がった。まるで骨が無くなってしまったような動きだ。ブラブラと揺れるそれに視線を釘付けにされながら千秋は茫然と尋ねた。
「えっと、……折れてる?」
「ん、おそらくはね」
頬を引き攣らせて返すメイサに対し、千秋は立ち姿勢から流れる動作で膝を着き、額を地面にこすりつけた。ジャパニーズ・DOGEZAスタイルだ。
「ごめんなさい!」
平身低頭、千秋は額を割る勢いで頭をアスファルトに打ちつけながら、詫びた。これまでの経緯を思い出し、あらゆる事への詫びのつもりだった。しかし、メイサは濡れた前髪を掻き上げ、なんでもないといった表情を浮かべた。掻き上げた手はそのまま移動し、スカートの端を絞り、水滴を落とす。メイサはゆっくりとした間をもって口を開く。
「キミが謝ることは何も無いと、ボクは思っているよ。むしろキミ達を危険な目に遭わせてしまったボクの方こそ詫びなければならない」
そんな、と千秋は言いかける。しかし、その言葉を遮るようにメイサが言葉を重ねた。「それに」という前置きで始まり、
「多分、そう言い合うのにはまだ早いと思うね。事態はまだ終わってはいないのだから」