待ツヒト
メイサがいない。それがどういうことなのか、常識的に考えるのであれば、メイサ本人の意思でその場を去ったのだと考えられる。あくまで常識の範囲内であればの話である。しかし、パニックを起こす寸前のような心理状態の中で、瞬間的に千秋の頭に浮かんだ言葉は、
…………連れて行かれた!?
先程までは確かにメイサの気配や息遣いを感じていた。つい先程もうなじに掛かる吐息を注意したところだ。
しかし、千秋は一つの疑念を得る。
あの吐息は本当にメイサのものだったのだろうか。
思い至るやいなや、全身を悪寒が駆け巡った。思わずその場にしゃがみ込み、両腕を摩れば、ジャージの厚い生地の上からでも鳥肌の感触を知ることが出来た。
「……ねぇ、成政」
震える声で隣に並ぶ成政に呼びかける。
「メイサちゃんは、どこに行ったと思う?」
縋るような眼で視線を向ければ、難しく顔を顰めた成政は首を横に降った。
「わからん。だが、アイツはそうそうお前の後ろを離れないだろう」
だよね。と視線を正面に戻す。いつのまにか白猫の姿はない。張り付くような空気もどこか霧散したかのように、辺りは正常な静けさを取り戻していた。今は、白猫の正体を思案する余裕はなかった。チカチカと点滅を繰り返す街灯に背を向け、千秋は走り出す。後ろ、少し遅れて成政が大股で追えば、
「見当は付いているか?」
メイサの居場所のことだ。
「少しはね。多分、あそこだよ」
自分が白猫に初めて出会った場所。心当たりがあるとすればそこしか考えられない。
恐れはある。だが足は動く。成政も同じ事を考えていたのか、その歩みに迷いはない。普段より歩幅を狭め、こちらに歩調を合わせながらこちらに言葉を送ってくる。
「待ち合わせ場所に来る時は、なにか変わった事はなかったか?」
「えっとね、流石に一人で通るのは怖かったから、来る時は別の道を通ったんだ。ほら、ウチから待ち合わせの場所まで行くルートって、3つあるでしょ?」
一つは今駆けている元駄菓子屋が目印な田んぼ道。二つ目は白猫遭遇場所のあの公園。三つ目はそれらを更に遠回りに迂回する経路だ。ただの遠回りであり、通るメリットも無いため普段は使っていない道ではあるが、今回問題無く待ち合わせに辿りつけたということは、その判断は正しかったのだろう。
「だから、さ。必然的に怪しいのは、やっぱりあの公園なんだよね」
三人であらかじめ決めておいた目的地の一つだ。靴音高く、息を軽く弾ませながら徐々にいつものスピードへと乗せていく。背景の流れる速度が一定になり、背後の足音がこちらの音と重なる。
「早く見つけなくちゃ……」
吐いた言葉は後ろに流れ、応じるように成政が隣に並んだ。
風が冷たい。
そう感じたのは、公園の街灯の光りを視界に捉えた頃だった。強く吹く風が公園の木々をざわめかせ、揺れる枝葉の作る黒いシルエットがこちらに対して強い不安感を煽っているようだ。空気感の変容、ここ数日で何度も味わった感覚であり、
「やっぱりここなんだ」
妙に落ち着いた気持ちで納得が出来た。
「千秋、前だ」
短い言葉に促され、千秋は目を細める。街灯が照らす公園前の道路の真ん中、黒い影がモソモソと蠢いて見えた。それは近づくにつれ輪郭が鮮明になり、装飾過多なまでにフリルやレースのあしらわれた衣装が、こちらに背を向け座り込んでいるのが確認できた。その視覚情報を脳で処理した頃には、思わず呟きが漏れていた。
「メイサ、ちゃん?」
疑問形なのは、ソレがあまりにも普段のメイサとかけ離れた雰囲気を醸し出していたからだ。波に晒される海藻のようにゆらゆらと、身体を一定のリズムで左右に揺らし、首が定まっていないのか、身体の動きに追随する形で大きく揺れている。ソレは、千秋の声にビクリと肩を震わせると、身体の揺れを止め、ゆっくりとした動作で振り返る。首と視線の動きだけで振り向いたその姿はあまりにも異様で、首の角度はあり得ないほどに曲がり、目は大きく見開かれたままこちらに焦点を当ててくる。
「――――っ!」
喉元から迫り上がる声を、千秋は必死に呑み込んだ。一歩、二歩と後ずさった時、背中を成政に支えられた。は、という吐息が漏れ、振り向き仰げば、そこには渋面を浮かべた友の顔がある。
「あれは黒崎なのか? なにがあった?」
千秋が言葉に出せなかった疑問を成政が引き継ぐ。無論、その疑問に答える者などいない。両者の間で張り詰めた緊張が沈黙を作る。成政も、メイサに対してどう対応すればいいのかを決めあぐねているようだ。
そんな気まずさがどのくらい続いたのだろうか。
先に動いたのはメイサの方だった。
メイサは視線や姿勢をそのままに、また無言のまま身体を揺らし始め、次第にそれは糸が切れた操り人形のようにべシャリと身体を地面に打ち付けた。座った姿勢からそのまま横に突っ伏したような姿勢だ。突然動きを止めたメイサ。駆け寄ろうとする、千秋の腹に太い腕が後ろから巻き付いた。
「成政?」
「待て、様子がおかしい」
様子がおかしいのは重々承知だ。だが、成政の言葉の意味を、千秋はすぐさま理解することになる。それは成政の不審に彩られた視線の先を辿った時だ。
メイサが新たな動きを見せていた。
それはゆっくりと緩慢な動きであり、一つ、一つと手を伸ばし、アスファルトに爪を立てる。パリッと嫌な音が耳に響いた。
爪が割れる音だ。
腕を伸ばしては地面を掻き、身体を引っ張り上げる。顔は地面を向き、肩まで伸びる黒髪が表情を覆い隠している。メイサは地面を這う動きでこちらに向かって近づこうとしている。その事実に気付き、千秋は血の気が引く感覚を得た。これはあきらかに異常事態だと、脳がけたたましくも警報を鳴らしている。メイサは今、なにを考えているのだろう。あれは本当にメイサなのだろうか?
目の前の光景を受け入れられず、呆然と立ち尽くすこちらに対し、メイサはその距離を確実に詰めていた。腕の力だけで身体を引き摺り上げて来たメイサの腕や指先には赤く血が滲み、痛々しい様が視認できた。メイサに対して手を伸ばすか逃げ去るか、決断できずに立ち竦んでいると、後ろから腕が引かれた。成政がこちらを肩に担ぎあげるようにしてメイサに背を向け走り出す。
「まって、成政! メイサちゃんが!!」
「断る!」
叫ぶこちら、珍しく声を荒げた成政が遮る。焦りを帯びた声音に気圧され、押し黙るこちらに対し、成政は息を挙げながら言葉を繋げる。
「アイツのことは後だ。今は逃げる」
「後っていつ!?」
「わからん」
どこに向かって逃げているのかもわかっていないだろう。千秋自身、この状況を打開する手段は持ち合わせていない。反論する余地は無かった。成政の肩に腹を押し当てる形で担ぎあげられた身は、遠ざかるメイサの異様をただ見つめることしかできなかった。
「――――?」
ふと、千秋の視線の中でメイサが顔を上げた。前髪が鼻の上を撫で、街灯の黄色い光がメイサの青白い顔を照らしだす。
「!?」
千秋が目にしたものは、メイサの顔にある二つの黒い空白だ。
黒崎メイサの双眼は、眼窩が落ち窪み、本来眼球があるべき場所に真っ黒に塗りつぶされたかのような黒い空白が存在している。
それは、つい先日、千秋をベッド上で襲ったあの女の顔によく似ていた。