遭遇、そして消失
「命に代えてもね」という言葉を、千秋は聞いた。それは囁くような、メイサ自身が己に言い聞かせるような、そんな響きを持っていた。
本気で言ってそうだから困る。
顔が赤く、熱を帯びている。そんな自覚がある。そしてその反応こそがメイサの言う〝君はヒロイン属性だね〟という謎評価なのだろう。千秋は下がった眉尻を更に下げ、困ったように頬を掻いた。
「あのね、二人とも。こんなことに付き合わせちゃって言うのもなんだけど、無理だけはしちゃダメだよ?」
言って、千秋は二人の顔を見渡す。
左、仏頂面で首を鳴らす成政がいる。
右、飄々と胸を張るメイサがいる。
千秋の言葉に、二人はお互いの視線を合わせると首を左右に振り、
「「わかった」」
「わかってないよね!? ねぇ、どっち? どっちなのさ!?」
瞬間的な叫びも、ひと際強く吹いた夜風が攫っていった。風によって揺れる稲穂の音と共に、肩を震わせたメイサの、堪え切れない笑い声が重なって聞こえた。緊張感の欠如。なんとも緩い空気だと千秋は思った。この空気こそが成政やメイサが意図して作りだしたモノなのだろう。自分の不安を取り除くために。
千秋は呼吸を深くした。冷えた空気が肺を満たし、熱を持って吐き出される頃には、既に靄掛かったような憂鬱な気分も嘘のように晴れていた。腹が据わった。そう感じ取ったのだろう。成政が背を向けて歩き出す。
「行くか」
背中越しの言葉は疑問形ではなかった。
千秋は頷き、靴音を響かせ成政の背中を追う。後ろからはメイサが付いて来てくれる。何も心配することはないのだと、そう自分に言いきかせて。
今夜は随分と湿度が高い。
千秋は何度目かの溜息をついた。気温こそは高くないものの湿度と緊張により、汗ばんだ背中や胸にインナーが張り付いて気持ちが悪い。ジャージの上からインナーを摘み、風を取り込みながら、視線は前方を見据えた。直ぐ目の前にはボンヤリと薄く、月明かりを反射させた白いワイシャツの背がある。
成政の背だ。
光りの少ない夜道を淀みない足取りで行く成政の背には、『うなじ美人』という字がワイシャツから透けて浮かんでいた。いったいどこに行けば売っているのだろう? 疑問に首を傾げながらも周囲を見回す。
辺りは暗い。前方の成政とは歩数にして二歩分の距離だ。成政が白いシャツを着ているからこそ見えているものの、それでも輪郭がぼやけて見えるほどに光量が足りていない。まるで別世界へ紛れこむような道のりだ。日頃より見慣れた風景が、夜が深まっただけでこうまで表情を変えるものかと、千秋は焦燥にも似た嫌な感覚を得ていた。まるでうなじを生温い風に撫でられ、産毛が逆立つような、そんな感覚だ。
というより、
「メイサちゃんはさっきから何をやっているのさ!?」
勢いよく振り返れば、シンガリを務めていたメイサがこちらの背に張り付くように接近していた。彼女は口の両端に両手を添え、尖らせた唇の先端から湿った吐息を吹き出している。メイサは口の形をそのままに、言った。
「キミのうなじに息を吹き掛けているっ!!」
「意図がわからないよ!!」
思わず叫び、時間帯を考え口を噤む。自分達が歩いているのは別世界ではなく、住み慣れた村中だ。暗闇の中で見えづらいが、ちらほらと明かりの消えた民家が並んでいる。なにかあれば近所問題に発展する恐れがある。三人が向かっているのは千秋の自宅からそう遠くない、千秋が異変に遭遇したという問題の田んぼ道なのだ。昨日と同じように元駄菓子屋の角を右に折れ、緑両生類の声がワラワラと広がる田舎道を突き進む。圧倒的に生き物の気配が足りないこの状況において、普段であれば顔を顰めるほどに苦手な両生類の声も、どこか心強いものと認識できた。しかしそれは逆に、不安の大きさを物語っているのだろう。いつも決まって不安が高まったところで何かしらの現象が起こっている気がするのだ。デジャヴにも似た感覚が、より一層千秋の心に鉛を落とした。
「わふ――」
トンと、メイサに気を取られている間に、何かに正面からぶつかった。それは身体が当たった瞬間に一歩前へと踏み出し、衝撃を前へと逃がす。
成政だ。
前を歩いていたはずの成政がいつの間にか足を止め、正面の闇を探るように目を凝らしている。どうしたのだろうと、千秋は成政の脇から顔を出し、正面を覗き見る。相変わらず暗く狭い視界の中、遠くの街灯の光りを頼りに目を細めれば、成政の目が何を追っていたのかを知ることが出来た。
「あ」
そんな間の抜けた声が千秋の喉から漏れ出た。
白い猫の姿が、そこにはあった。夜の帳から這い出るように、その身を街灯の下に晒す白猫は、ノロノロと緩慢な動きでこちらに近づいてくる。自分達に気付いている様子はない。ふと、何かの気配を察知したのか白猫が足を止める。足元に落としていた視線は真っすぐこちらを向き、
――――。
目が合うやいなや、低く伸びのある声で鳴いた。その声が何を意味するのかは、人間である千秋には理解できないが、とてつもなく不吉な予感が頭をよぎったのは確かである。危険を感じ成政の制服の裾を引っ張れば、成政も何かを察したのか、千秋の動きを手で制す。制した上で一歩二歩と慎重な動作で猫に近づこうとしている。千秋も続こうと踵を浮かせたその時だ。白猫が急遽身構え、こちらにむかって大きく口を開いた。その動作を千秋は知っている。威嚇だ。尻尾を膨らませ、毛を逆立たせながら、白猫はこちらに向かって唸るような声を挙げている。
威嚇は怯えだ。千秋はそう思っている。だからこそ、強い違和感が頭の奥をチリチリと焦がすような、焦燥感となって駆け巡る。
「……なんで、なんで怯えているの?」
口にしたことで、確固たる疑念として千秋は思う。
〝なぜ、白猫の側が怯えているのか〟
本来であれば、それは逆ではないだろうかと、そんな風に思う。何かが引っかかり、その何かを探ろうと深く考え込もうとする。しかし、
――――。
うなじに生温かい吐息が当たった。
産毛を撫でるような柔らかなそれを、吐息と判別できたのは、先程のセクハラ経験があったからこそだ。千秋はうなじを庇うように片手で押さえ、振り返ることなく言葉を背後へと飛ばす。
「メイサちゃん、ちょっと、セクハラしてる場合じゃないよ?」
背後のやり取りに異変を感じたのだろう、眉間にしわを寄せた成政が小さな動きで振り向いた。その瞳はこちらを心配するものであり、続く動きでこちらの背後へと視線を向ける。ただなにげなく、ついでといった動作だったのだろう。しかし、成政の表情が固まる。それは思わぬ事態への思考の遅れを意味していた。成政は口を開く。見たままの不可解を問うために。
「千秋」
それは問いの言葉を迷うような、そんな間を持って伝えられた。
「……黒崎はどこだ?」
え? という疑問が頭に浮かび、グルリと体を回して背後を振り返る。どんよりと広がる暗がりに、一瞬、千秋は自分が目を開いているのか閉じているのか、判別がつかなかった。塞がれたような視界。そんな中、目を凝らして暗闇の中を覗こうとした。しかし、
そこに、黒崎メイサの姿はどこにもなかった。