悪夢
ふと目が覚めた時、真っ先に視界に映った物は、月光に照らしだされた青白い天井だ。たしか、空には疎らながらに雲が掛かり、月の光りは弱かったはずだと記憶していた。しかし、部屋の中は白い光りにより適度に視界が確保されている。あれから晴れてきたのかもしれない。
「…………あれから?」
〝あれから〟とは〝何時〟の事を指すのだろう。千秋は疑問に首を傾げる。深く記憶を探ろうにも頭の奥が割れんばかりに痛み、耳鳴りもひどい。とても熟考できるような状態ではなかった。
適度に背中を押し返すパイプベッドの硬い感触から身を剥がす。いつもの見慣れた空間が目に入り、安堵のような溜息を溢す。自分の部屋だ。そう思うだけで、わずかに頭痛が引いていくのがわかる。窓が開いているのか、入り込む夜風が頬や首筋を撫で心地よい。このまま二度寝してしまおうか。そう思い、布団を手繰る。再び背中に押し返すような熱を感じながら、視線は天井に戻る。しかしその過程で千秋は一つの違和に気付く。布団の足側、ちょうど開いた両足の間に大きな膨らみがある事に。枕かクッションが寝相によりずれたのだろうか。両足を閉じるように動かすことでその感触を確かめる。
それは、布越しにも伝わる冷たさであり、硬い感触だった。
それは、徐々に大きさを増し、膝を立てた場合と同じくらいの大きさまで膨れ始めた。
おかしい。そう思った瞬間にはもう事態は動いていた。腰の横に何かが沈む感覚があり、それが何かの体重移動であると千秋は本能的に察す。〝ソレ〟は腰、胸と這い上がり、やがては布団を持ち上げ、こちらに体重を預けて来た。
「――――!!」
布団と己の胸との隙間にできた闇。
闇から這い出るように、ソレは来た。
千秋は始め、目の前の光景を把握できなかった。理解しようにも、理性がそれを許さなかったのだ。視線を逸らしたくても逸らせない。身体を動かしたくても動かせない。あの時と同じだ。そう思い、千秋は思い出す。自分がベッドで眠っていたわけを。昨日の晩に何があったのかを。とめどない汗が噴き出すも、喉に石でも詰め込まれたかのように声が出ない。叫ぶ事が出来ず、ただただ目の前のソレを見つめた。いや、ソレもこちらを見つめていた。
それは、人の顔だった。
それは、青白く歪な顔を持った女だった。
青白い肌に紫色の血管を浮きたたせた女。眼窩は落ち窪み眼球がない。ただ真っ暗な湿りを帯びた双眸がこちらを真っ直ぐに見据えていた。変色した唇がなにかを言いたげに震えており、奥からは凄まじい腐臭がこちらの鼻を突く。生臭い。そう思った。そのあまりの異様に千秋は更に言葉を失った。顔を背けることもできず、瞳を大きく見開いた。ソレはこちらに覆いかぶさるような形で顔を近づけてくる。
……、…………。
その歪んだ口の奥から、ゴポリと水底のような音がした。震える口が音を告げる。低く、籠った声は、
……て………………か。
「!?」
…………って、……たじゃ……か。
白い手が首に巻きつく、動作としてはゆっくりではあるが、その力は一瞬でこちらの呼吸を奪う。おそらく手が動ける状態であったとしても、振り払うことは出来なかっただろう。首にめり込む硬い感触。骨ばった手は死人のように冷たく身体全体の熱を奪う。痛みと苦しさに顔が歪んだ。締め上げられる感覚に胃の内容物が逆流するような感覚があり、それらは絞られた喉で行き場を失ったように暴れまわる。胸が跳ねる。口の端から唾液がだらしなく垂れ、身体を逆くの字に曲げるように、千秋は痙攣した。震え、電流が走ったように身体が跳ね上がるも、上からのしかかる重みは消えず離れず、氷柱のような手が、喉により食い込んだ。
思考すら許されぬような切迫した状況の中、千秋の頭には明確な結末を描かれていた。
…………死、ぬ?
限界まで開かれた眼の端に涙が溜まった。それはたちどころに溢れ、頬を伝い、シーツに黒く染みを作る。急速に遠ざかる視界、千秋の全身から力が抜けた。
ゴトリという重く響いた音と共に、肩に強い衝撃を受けた千秋は驚きに身体を跳ね上げた。気をつけの姿勢でフローリングの床に足を着き、突如覚醒した意識に眩暈を覚える。
「夢……?」
呟きに見下ろせば、自分はパジャマ代わりのジャージ姿だ。中学時代の代物がサイズピッタリで着れている。夢であってほしい。
厳しい現実に思考がダークサイドに落ちようとしていたが、千秋は悪い考えを振り払う。成長期はこれからだと。成政クラスは無理だとしても、せめてメイサの身長は追い越せるだろう。多分。きっと。もしかしたら。
とにかく今は寝汗がひどい。目覚めた今でも明確に浮かぶ、あの夢の出来事が汗の原因であることは明白だ。背中にじっとりと張り付くシャツが不快で、すぐさま脱ぎ捨てた。夏の終わりが近いせいか、解放感と共に、ややヒンヤリとした空気が汗を掻いた肌に鳥肌を立たせる。
「着替えは」
クローゼットを開けば何かしらあるだろう。しかし、今からだと制服に着替えた方が良いだろうか。頭の中で考えを転がし、やがては、
「シャワーが先か……」
結論に至る。
脱ぎ捨てたシャツを肩に掛け、クローゼットへと足を向ける。どのみち着替えは取り出さねばならない。しかし、ダルさの残る身体はふらりと上体が傾き、右手は周囲に支えを求め彷徨う。よろけた拍子にベッドに手を突いてみれば先日できた紫色の痣が目に付いた。視界に収めただけで夢の光景がフラッシュバックする。ふと、嫌な予感を覚え、千秋は上半身裸のままクローゼットの近くに設置されたスタンドミラーの前に立つ。見た瞬間、千秋の背筋が凍った。思わず鏡から後ずさり、盛大に尻もちを着いた。ドスンという音が響き、すぐにけたたましい足音が聞こえて来た。
「千秋! どうしたの!?」
開け放たれたドアから顔を覗かせたのは、もともと中性的な顔立ちの千秋を、そのまま女性に転換したようないでたちの少女だ。少女は焦りの表情を浮かべ、千秋よりもやや鋭い視線がすぐに焦点を合わせて来た。
「千秋!!」
視線が交差するやいなや、空対地ミサイルのような勢いでこちらの胸に目掛けて跳び込んで来た。首に両腕を巻きつけるように抱きついて来た少女はもの凄い力で締め上げる。
「いだだだ! 姉さん、痛っ! 首が、首が絞まる!」
あの夢の後ではシャレにならない。
千秋はホールドを解こうとしない姉を引き剥がし、慌てて尻と足の動きだけで後ずさるようにベッドの上へと緊急退避する。さらに跳びつこうとする姉に掌を示す事で制止とし、
「姉さん! 性格的に無理だろうけど落ち着こう! 冷静になって今の現状を考えよう!」
柔道選手のような構えで息を荒くしていた姉の動きがピタリと止まる。姉は獣的な動きで首を傾げ、ポツリと現状確認のつぶやきを落とす。
「千秋が、目を覚ました……。フォオオオアアアアア!!」
「ぬわぁぁぁぁ!?」
奇声と共にダイブしてきた。
抱きつかれては押し返し、締められては引き剥がしと、散々じゃれあうように暴れまわった二人はやがて力尽きたようにベッド上で倒れこむ。お互い息を整えるような間を置いて、どちらともなく身体を起こす。
「……姉さん、結局何がしたかったんだい?」
「いや、なんだか感極まっちゃって」
見れば、目尻に涙が浮かんでいる。ついでに言うと目ヤニも浮いていたのでそれは見ないことにした。多少冷静さを取り戻した姉は、目尻を拭いながら改めて千秋の両頬を両手で包むようにホールドした。
「なんともない? 頭が痛いとか、吐き気がするとか。気分が悪い所はある?」
「大丈夫だよ姉さん。どこも具合悪くないよ。ただ……」
そういって千秋は視線を落とす。自分では確認できない。それでも姉には確認できただろう。自分が鏡で見たモノを。それは。
自分の首に浮かびあがる、紫色に変色した人の手形だった。