友と友
「どうした? 千秋」
朝、教室内を包む喧騒の中、突如降って来た声が沈んだ意識に覚醒を促す。馴染みのある低い声だ。腕に額を押しつけるように突っ伏していた千秋は、緩慢な動作で顔を上げた。寝不足のせいか頭の奥がぼやける感覚がある。涎の通り道ができた口横を指で拭い、凝りをほぐす動きで首を回す。回す延長で視線を隣に向ければ、
「ん、成政?」
千秋はゆっくりとした動作で隣に立つ男の姿を上から下まで眺める。180cmを超える長身に、半袖から伸びる筋肉と血管の浮いた浅黒い腕。そしてボサボサと伸びた髪の隙間から覗く三白眼。当人の無口な性格もあいまってか、
「寝起きから、相変わらず怖いね」
「ほっとけ」
抑揚無く告げ、成政は口をへの字に歪ませた。表情こそ凶悪だが、毎度のやり取りだけにさほど気にしてはいないだろう。何気ないいつも通りの言葉の応酬に安堵を得る。だからこそ、自然な流れで話題を切り出せた。
「昨日さ……」
千秋は目の前に右腕を掲げて見せる。成政とは対照的に白く細い腕だ。そしてその白さも手首から肘にかけて巻かれた包帯により、より拍車をかけていた。困ったようにハの字型に眉を寄せ、キツく巻かれた包帯を解いていく。衣擦れの音と共に肌の面積が大きくなり、それに比例するように成政の表情は険しさを増す。
「……どうした?」
低く、激情を抑えるような声だ。近くを過ぎようとしていた同級生が驚いて後ろ歩きで去っていった。不穏な空気を感じた千秋は慌てて両手を振り、事の経緯を説明した。昨日の白い手の話から始まり、昨夜まではボンヤリとした痣であった事。夢だと思い朝目が覚めると、それは人の手形になっていた事。しかし痛みなど身体に異常は無いのだと言う事。途中、自分でなにを言っているのか分からなくなってきたところで成政の表情から険がとれた。しかしそれはすぐにこちらを気遣うような表情となり、
「疲れているんだな」
「あれ、同情されてる!?」
あれは絶対に幽霊だよ! と叫び千秋は再び自分の腕に目を落とす。気味が悪いほどにくっきりと青く残った手形。触れれば昨日の記憶がフラッシュバックしてくる。革袋に氷を詰め込んだような、ゾッとするほどに冷たい青白い手、あれは生きた人間の体温ではなかったと思う。もしあの時、反射的にドアを閉めていなかったらどうなっていたのだろう。背筋を冷たいものが走る。
「なんだか、今更ながらに怖くなってきちゃったなぁ」
身震いし、ぼやきながら窓の外を眺める。校舎によって四角く切り取られた空はドンヨリと曇り、今にも降り出しそうだ。天気までもが自分の気分を重くさせている。千秋は今朝から何度目かの溜息をついた。
重たい気持ちを引き摺るように、時間はズルズルと流れた。それでも思ったより授業に集中できたように思うのは、問題事から目を逸らしたいという防衛本能が働いたからだろうか。ホームルームを終えて帰り支度を済ませ、すれ違うクラスメイトと声を交わしつつ教室を出た千秋は、すでに常連と化している喫茶店〝黒蜜堂〟の片隅で一息を吐いた。テーブルや椅子、食器や時計の装飾に至るまでこだわりを感じさせる和風モダンな店内は、窮屈な時間から解放された学生達の声で賑わっていた。愚痴や恋話、他愛ない世間話など、声は重なり、不規則な波音のようなBGMとなる。ふと腕時計に目を落とせば、午後四時を回るところだ。暗くなる前に家に帰りたいが、今の時間に帰っても家には誰もいないだろう。親は共働きであり二つ年上の姉は今頃部活に励んでいる頃だ。昨日の事を思い出せば、今は少しでも一人になる事を避けたいところである。
アップルティーの入ったグラスに口を寄せ、ストローの先を噛む。視界の向こうには巨大なチョコレートパフェを無表情に突いている成政が見えた。シュールだな、と思った自分を反省しながらも、千秋は遠くを見るように口を開いた。
「どうしよっかなぁ」
成政が、パフェに刺さるウエハースを素手で口に運びながら視線をこちらに向けた。続きを促すような沈黙だ。だから応じるように声を返す。
「オバケの事。僕、絶対に狙われてるよ」
「霊の仕業だと、言い切れるのか?」
「オバケじゃないとも言い切れないよ?」
成政の言葉に、間髪入れず切り返した千秋は右腕の痣を眺める。青々と、痛みを感じさせることなく存在を主張する痣は、今にも動き出しそうなほど鮮明に形を残している。
「心辺りはあるのか?」
無いんだよねぇ、と柔らかい背もたれに身体を預け、ズルズルと天井を見上げる。昨日の晩やそれよりも前の記憶を呼び起こそうとしばらく唸ってみるも、
「あーダメ、脳が融ける」
そんな千秋の様子に成政がクツクツと口の端を吊り上げ笑い出す。それを見た新人らしいウエイトレスがビクリと身を震わせ、早足で通り過ぎる。
「なにか罰当たりな事は?」
「あったら一番先に考えるんだけどねぇ。ほら、昨日は一緒にゲームセンターに行ったでしょ? それ以降はジョギング行ったくらいだし……。あ、猫に触ったかな」
「猫?」
成政が眉を寄せ首を傾げる。
「あ、触ったと言っても、実際には触る前に逃げられちゃったんだけどね。可愛かったなぁ。また公園に行けば会えるかなぁ」
思い出すように目を細めれば、鮮明に思い出す事が出来る猫の模様、若干茶色が混じった白色。長めの尻尾が非常に愛らしい。フフフと口元を緩ませ、架空の猫を撫で始めた千秋に、新人らしいウエイトレスが身を竦ませながらアップルティーの残るグラスに水を継ぎ足していった。
「それ」
「猫?」
「それもそうだが、お前の言う公園には、他に何がある?」
ふと、千秋は視線を宙に彷徨わせた。公園といえばブランコなどの遊具であるが、おそらく成政が言わせたいのはソレではないだろう。もっとオカルティックで例の公園にある物。そこまで考えたところで千秋は思い至る。正確には、あまり考えないようにしていた事だ。
「あの、祠かぁ……」
成政が無言で頷きを送ってくる。
「でもでも、僕はあの時、祠には近づいてないよ? 怖いからあまり見なかったし」
「怪しいのはそのぐらいだ。何か、否定したい理由があるのか?」
否定の言葉を並べるのは、あまり認めたくなかったから。それでも薄々感じていた事が自分の中で確信に変わり、千秋は諦めたようにテーブルに突っ伏した。グラスを抱くような姿勢だ。ついでとばかりにアヒル口でストローを咥え、氷の音を立てつつ啜る。驚くほど薄くなったアップルティーに「うぇぇ……」思わず舌を出して顔をしかめた。
成政はいつの間にかパフェを食べ終え、グラスに付着したクリームを綺麗にスプーンで拭っている。その成政がギロリとした三白眼でこちらの手付かずの餡蜜を睨む。千秋は餡蜜を成政にサーブしながら、観念したように口を開いた。
「だってさ、あの祠って、お稲荷さんでしょ? もしその霊だとしたら――」
千秋は言葉に詰まる。周囲の喧騒から人の気配を感じ取る事で気を落ち着かせ、
「昨日、僕の腕を掴んだのは、人間ですらないって、そういうことだよ?」
自分で発した言葉に、全身の産毛が逆立つ感覚を得た。
寒気だ。人間の霊にしろ動物の霊にしろ、どちらも怖いことには変わりないのだが、あの時、あの場所に、ドアを挟んで立っていたモノは人間の姿を借りた人間以外の〝なにか〟だったのだ。これが胸騒ぎというものなのだろうか、ザワザワした感覚がいつまでも胸で燻っているような、そんな感覚に襲われ額から嫌な汗が零れ落ちる。鏡を見なくてもわかる、自分の顔は相当青くなっている事だろう。正面に座る成政の表情を見ただけでわかる。
「千秋?」
心配の色を含んだ声に、千秋は軽く手を振る事で応じる。言葉は出てこなかった。
しかし、変わりとばかりに声が来た。
「おやおや、千秋くんに成政くん。奇遇だねぇ」