こぼれるもの
告げられた言葉の意味を思い、千秋は立ち止まり、立ち尽くす。
自分でなぜ足を止めたかもわからいないまま、重苦しい空気がその場に流れた。メイサの不思議そうな目がこちらを覗いている。隣で成政も足を止めた。
「どうしたんだい? 千秋くん」
投げかけられた疑問に、千秋は返答に詰まった。自分の中での言葉が見つからない。否、己れの感情がどこを向いているかもわからなかった。ただただ、漠然と思っている事がある。
「……それってさ、ハナヱさんは――」
不意に、ハッとこみ上げるような吐息が漏れた。それは唐突過ぎて自分でも驚くほどの感情の波だ。息が漏れたと同時、自分の頬を何かが伝い落ちた。始めは汗だと思った。手で拭おうとして、手が塞がっていることに気付くと、それは白く細い指に拭われた。
メイサが窮屈そうに左手を伸ばし、千秋の頬や目尻、目がしらを拭ったのだ。
自分は泣いている。そう自覚した時には遅かった。
「それってさ……、ハナヱさん、今でもあの人を待っているってことでしょう?」
60年以上も来ない男を待ち続け、これから先もただ一人、亡霊として現世に縛られ続けるのだ。焦がれる気持ちが怨念に変わった今でも変わらず、暗い夜道で。
彼女はきっと、嬉しかったのだろうか。
彼女自身に時間という概念があるかは定かではなかった。しかし、60年の時を経て、ようやく掛けられた言葉に、彼女はどう思ったのだろうか。
死人に口は無い。ましてやその心理を読みとることなど不可能であろう。
しかし、確かに彼女は待ち人の登場に期待したはずだ。
奥歯が、軋んだ音を立てる。
「……ごめんね」
「千秋、くん?」
「ごめんね、メイサちゃん。僕は、キミがこんな状態になっているのに、彼女を……」
言葉がスムーズに出てこない。それでも下唇を噛み、溢れそうな感情の波を堪え、千秋は意を決したように言った。
「ハナヱさんを助けたいと思ってる……」
歪み、ぼやけた視界の中、メイサがどんな表情をしているかは分からない。呆れているのかもしれないし、女々しく思われているかもしれない。それでも、千秋は音を聞いた。それはいつもの、メイサが千秋の頼みごとを聞き入れる時の、鼻から息を抜く音だ。
「キミは、本当に良い男だね」
言われた言葉に千秋は息を詰める。
「僕は、……泣き虫だよ」
表情を隠そうとそっぽを向くも、大した意味は持たないだろう。
そんな千秋の様子にメイサがケタケタと笑う。力の抜けた、心から楽しげな声音とともに、腕の中でメイサの身体が震える。
「キミは昔からそうさ。目の前で困っている人がいれば、どんな人間にも手を差し出してしまう……。成政くんや、〝私〟の時も……」
昔を懐かしむように、メイサが目を閉じる。眠ってしまったのだろうかと心配になるほどの間を置いて、目を開けた時にはその顔にはいつもの不敵な笑みが浮かんでいた。
「救おうか、彼女を」
「え?」
こともなげに言ったメイサに、千秋は思わず間の抜けた声を発した。思わず落としそうになったメイサの身体を慌てて抱き直す。
「なにを不思議そうな顔をしているんだい? 助けると言ったのは君だよ。まったく、キミも成政くんも、後先の事を考えてから話さないと、将来的に損をするよ?」
言葉とは裏腹に責めるような色は見えない。抱かれた姿勢で器用に胸を張るメイサに可笑しみさえ覚え、千秋はクスリと笑みを零した。
「降ろしてくれるかい?」
ちょうど、腕が痺れてきていたところだった。千秋は指示通りゆっくりとメイサを横たえる。手を離すとき、一瞬メイサが残念そうな表情をした気がした。
「クッ! ボクから、降ろしてなんて言うことになろうとは……!!」
否、一瞬と言わず、全力で残念がっていた。
悔しそうに足をばたつかせるも、腹部に力が入ったのだろう、メイサの身体が一瞬くの字に折れ、クタリと地面に両足を投げ出した。
成政が呆れた溜息を吐いてメイサの顔横にしゃがみ込む。まるで気遣うようにメイサの額に手を置くと、
「バカが」
「冷たいね!? アスファルトのような男だよ! キミは!!」
うっ、と再び左手で腹を押さえうずくまる。
心配そうに見つめる千秋と裏腹に、成政は容赦が無い。
「で、どうするんだ?」
しゃがみ、立てた膝の上に伸ばした肘を乗せる。指の先に煙草を挟んでいたならば、完璧な不良座りだ。泣きマネを始めたメイサの頬を指で突く。鬱陶しげに顔を反らしながらも、メイサの答えは早かった。
「呼べばいいと思うよ?」
「ハナヱさんを……?」
問い返しに対し、メイサは首を振る。口の両端を吊り上げる笑みを見せ、形の良い唇が次の音を作る。
「彼女ならここにいるさ。呼ぶまでもなくね。しかしそれだけでは役者が足りないだろう?」
勿体ぶるような、こちらに答えを誘導するようなその口ぶりに、千秋は頭を捻る。自分が求める答えは、すでにこちらの頭の中にあるはずだ。でなければメイサはこんな回りくどい訊き方はしないだろう。
現に、心辺りはある。
自分やメイサが知っていて、この事件に関わる存在。
思い至るやいなや、千秋は疑問として口に出していた。
「もしかして、……周治、さん?」
恐る恐るといった問いかけに、応じる声があった。
メイサや成政の声ではない。
――――。
いままで幾度となく耳にしてきた、獣の声。赤子の声を引き伸ばしたような不気味な声が、水面に波紋を広げるように響き渡った。
千秋が振り向いた背後には道路沿いに背の高い草むらがあり、それらは風もなく揺れ、ザワザワと音を起てている。視線を僅かに下げれば、それはいた。
長い尾を揺らめかせ、黒目を大きく広げた、白い猫がノッソノッソとゆったりとした足取りで近づいて来ていた。その姿に、こちらを警戒した様子は無い。三人の視線を一点に集め、無造作に歩み寄る白猫は千秋の足元まで来ると、ごろりと身体を横たえた。このまま毛繕いでも始めそうな雰囲気すら出ている。千秋は思わず手を伸ばす。いまなら触れられるかもしれないと、淡い期待が身体を突き動かす。しかし、千秋の手は、その柔らかそうな体毛に触れる既のところで静止した。千秋の目が、暗がりに映える白毛の中に一つの違和を見つけたからだ。
それはいつからあったのか、初めて見た時は無かった筈だった。
いや〝見えてはいなかった〟というのが正解なのだろうか。
白猫の白い毛に混じる茶色い毛。露出した脇腹の中心に握りこぶし大で広がるそこには、
苦悶に歪んだ男の顔が貼り付いていた。




