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束の間

「うああああああああああああ!!」


 空気の震えを肌で感じ、その震えの原因を作っているのが自分の喉であることに気付いた時、千秋の意識は一気に覚醒した。深海から浮力で浮き上がるような覚醒に、眩暈すら覚えながら千秋は身を起こした。

 身を起こしたということは、自分は身を横たえていたということで、なにがどうなったのかと周囲を見回せば、自分の右隣ではメイサが横たわっており、ピクリとも動かない。そしてこちらの左には自分とメイサを心配そうにのぞきこむ成政の顔があった。

 成政は短時間でやつれたような表情をしており、こちらの意識が正常である事を確認すると、


「無事か!?」


 成政にしては珍しい、怒鳴るような大声で両肩を掴まれた。痛いぐらいに力の籠る指を一つ一つ解きながら、千秋は自分でも動揺を隠しきれない口調で言う。


「大丈夫。多分、今はね……」


 先ほどまであった自分の中の異物感。自分の頭の中を徐々に浸食されるような感覚は、何事もなかったかのように鳴りを潜めている。しかし、記憶としての残滓は確かにこちらの脳に焼きつけられている。首が折れた時の感覚を思い出しては、無意識に自分の首を両手で覆い、庇う。痛みが残っていないとはいえ、あれほどの記憶、忘れることなど出来る筈がないのだ。


「成政、僕はどのくらい気を失っていたの?」


「ほんの数分といったところだ」


 そっか、と千秋は息を抜く。そして直ぐに視線を隣へと移す。仰向けに眠るメイサの瞳はきつく閉じられ、苦悶に歪んでいた。血の気が引いて青い顔色をしたメイサの口の周りには先程吐きだした赤い血がぬめ光っている。


「メイサちゃんは?」


「わからん。呼吸はしているようだが、どのぐらい悪い状態なのかは、な」


 良い状況ではないことは確かであった。千秋はメイサの腹に手を置き、口元に耳を寄せる。ほんのわずか、産毛に触れるか否かの呼吸を感じ取れるが、その呼吸はあまりに弱く、風前の灯火といったところであった。

 千秋は自分の上着のポケットをまさぐる。

 ん、という吐息付きで取り出したのは白いボディーをカーボン製の黒いカバーで覆ったスマートフォンだ。千秋は本体側面にあるボタンを押し、操作画面を呼び起こす。


「もっと早くこうしていれば良かった……」


 明かりの灯った画面を人差し指が撫でる。流れる動作でタッチされるのは『119』緊急通報用電話番号だ。すぐにでもメイサを病院に連れて行き、診てもらう必要があった。

発信ボタンをタッチし耳に押し当てる。


「……どうして?」


 千秋は同じ操作を二回三回と繰り返す。しかし、いずれも聞こえてくるのはツーツーといった虚しい電子音だけだった。困惑する千秋に、成政も己の携帯電話から耳を話し冷静な声音で呟いた。


「こっちもダメだ」


 電波は入っているはずなのに。繋がらない。このままでは救急車は呼べず、当たり前ながら助けは来ない。


「あ」


 思わず声が漏れ、成政が目で問うてくる。どうしたのかと。


「待ち人は、来ない……?」


「?」


「これも、ハナヱさんなんだ……。多分、望んだ者は現れない……」


 独り言のように呟き、茫然とした思考の中である一点を見つめる。これが偶然かどうかはわからない。今、自分達が座り込んでいる位置が、あの日、あの嵐の晩にハナヱが立っていた場所だ。そして千秋の視線の向いている先こそが、藤篠ハナヱの命を落とした場所だった。あの時、ハナヱの側頭部に直撃したのは、豪風により飛んできた何かだったのだろう。それは屋根の破片であったり、折れた木の欠片だったかもしれない。

 死んだ事にも気付かず、今も彼を待ち続けているのか、あるいはその場に縛られているのか。縛られているのは、〝場所〟ではなく〝思い〟か。グルグルと、様々な考えが頭を巡った。


「…………っ、千秋、くん」


「メイサちゃん!?」


 弱々しく呼吸を繰り返すだけだったメイサが、不意に目を開けた。表情は目に見えて青い。周囲の暗さが余計にそれを際立たせていた。メイサは身を起こそうと腹部に力を入れるが、


「ぐっ……!!」


 苦痛に呻き、クタリと力尽きたかのように地面に四肢を投げ出した。それでも、メイサは何かを伝えようとしていた。発声がしづらいのだろう、メイサは指を動かし、千秋に近づくように告げる。千秋はメイサの身を支え起こしてやると、指示通りその口元に耳を近づけた。すると、

 カプり

 メイサの唇がついばむようにして耳を甘噛みしてきた。


「おあぁぁぁぁぁ!!」


 ビクリと肩が震え、思わず手を放す。すると重力に引かれ、メイサの頭は当然のように地面へと吸い寄せられる。


「おふ」


 鈍い音と共に肺から押し出されるように呼気が漏れた。それでもメイサはどこか満足気に天を仰いでいる。口の周りが血まみれなだけに、かなり恐ろしい絵面えづらである。

 千秋は耳を押さえ、顔を真っ赤にして叫ぶ。


「メイサちゃんはなにがしたいのさ!?」


「キミの耳が、そこにあったから、ね」


「変態です!」


「……なにをやっているんだ、お前ら」


 やり取りを見ていた成政が呆れ混じりの溜息を吐き、近くに腰を落としてきた。

 息も絶え絶えのくせに、よくもふざけられたものだと、小言をこぼしながらもその表情には幾分かの余裕が戻ってきている。しかしながら状況はあまり変わっていないのだ。一刻も早くメイサを病院に連れて行かなければならない。


「これからお前を病院に連れていく」


 あぐらをかいた脚に手を置き、有無を言わせぬ口調で成政が言う。それに対しメイサは抵抗するでもなく、静かに目を伏せ、ああ、と一言呟いた。


「いいのか?」


「連れて行くといったのは、キミだよ?」


 それに、とメイサは前置きし、


「彼女ならもう、現れることは無いだろうさ」


「?」


 さらりと言い放つメイサの言葉に、千秋は首を傾げる。


「どういうこと?」


 考えてみても、自分達はなにもしていないどころか、終始、その場の状況に流され続けただけのように思える。それでも彼女は、藤篠ハナヱは満足したというのだろうか?


「満足は、していないだろうね」


 メイサは左手で髪を掻き上げる。べったりと張り付いた前髪を横に流し、「支えてくれるかい?」と言って千秋の手を借りて身を起こす。


「ん」


痛みに顔をしかめながらもゆっくりとした動作で座位姿勢をとったメイサは、身体を傾け自分の耳を千秋の胸に押し当てるようにして全体重を預けて来た。千秋が身を固くしたのは一瞬で、すぐに左右から腕を回して支える。心配そうに顔を覗きこめば、そこには予想以上に疲弊した青白い顔がある。


「大丈夫?」


「あぁ、大丈夫だとも」


 言葉とは裏腹にメイサの息は荒い。先程の大量の吐血から見て、内臓を傷つけていることは容易に想像できた。だとすれば熱も上がってきているかもしれない。

 千秋は背中を支える腕とは反対の手でメイサの膝下に腕を入れる。


「おお♪」


「あ、いや、そこまで期待に満ちた反応されても困るんだけど……」


 よ、と一声を発し、千秋は脚の力だけで立ちあがる。両腕で仰向けのメイサを持ち上げる、いわゆるお姫様抱っこだ。重心を僅かに調整し、腰よりも脚の力を意識することで全体的な負担をできる限り減らす。それでも、


「う……」


「……重い、と言わなかったことは評価しておくよ」


 メイサが苦笑を洩らす。あくまで平静を装いながらも、千秋は震える声で言う。


「とにかく、僕の家まで運ぶよ。電話は期待できないかもしれないけど、父さんや母さんが車を出してくれるかも」


 この公園から千秋の家まではさほど離れていない。メイサを抱えたままでもなんとか辿りつくことは可能だろう。この役割だけは成政に変わってもらうわけにはいかなかった。腕をプルプルさせながら一歩一歩確実に地面を踏む。

 腕の中の重量を意識しないようにするためか、千秋は先程の会話の続きを促した。


「ね、ねぇ、あの人がもう現れないって? 携帯も繋がらないのに」


 藤篠ハナヱの影響は確実に残っている。それでも彼女が消えたと言うのは、どうにも気になる矛盾と思える。


「消えてはいない。〝キミの前には〟現れないということさ」


 怪訝な顔をするこちらの表情に頷き、言葉を続けた。


「彼女はキミの中に入った事で認識したのさ。キミが周治さんではなく、千秋くんだということをね。あかの他人に憑きまとっていてもしょうがないからねぇ」



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