祠と白猫
「ハ……、ハ……」
規則的に吐きだされる呼気が、夏の夜の湿った空気に拡散する。
高鳴る心拍と虫たちの鳴き声をBGMに、少年の足は弾むようなリズムでアスファルトを蹴り、夕立によりできた水溜りを跳び越えた。
時刻は午後七時を過ぎた頃だろうか。チラリと右腕の時計を確認すれば、LEDの青白い光に照らされ、自分の予想に対する答えが確認できた。
ペースが遅い。急がねば。
心持ち、少年は走る速度を上げた。意識して歩幅を大きく、そして吐く息を調整することでペース配分とする。横を流れる電柱の速度が僅かに上がる事を視界の端で確認し、田んぼだらけで見通しの良いT字路を右折。ランニングタイツに包まれた太腿が突っ張るような感覚がある。まだまだ調整が足りない。そう思った。
グレーの半袖シャツにハーフパンツ、そしてその下に黒いランニングタイツを履いた少年は、街灯の少ない夜道を淀み無い足取りで駆ける。
走りは好きだ。だがあくまで趣味の範囲内だと少年は割り切っている。競うことよりも走り切った後の達成感にも似た疲労感が好きなのだ。
「……フゥ」
道路の左手に薄ぼんやりとした街灯に照らされた公園が見えてきた。ゴールが近い。そう思い気が抜けたのだろう、少年は突然目の前を横切ろうとする白い影に気付くのが遅れた。
「あ……」
慌てて足に急ブレーキを掛けたものの、四歩五歩と足が出る。間に合わない。そう思った。白い影は怯えたようにその場で身を竦ませ、
「!」
少年は地面を強く蹴った。結果として生まれたのは一瞬の浮力と、両足に感じる地面の硬い感触と衝撃だ。白い影を大きく飛び越え、しかし着地と同時にランニングシューズのヒモが切れ、ズルリと足裏が靴底を撫でる感触を感じながら、少年は盛大にコケた。
ギャフンという言葉が自然と喉から漏れた。
誰もいない空間に気まずい空気が流れ、少年は起き上がると同時に周囲を見回した。
「目撃者無し。よし」
小さく呟いて服に付いた砂埃を払う。シャツに汗が滲んでいるだけに、湿りと共に手に返るザラついた感触が大いに不快だ。細い眉を顰めるように寄せ、やがてそれは心配のための困り顔に変わる。
さっきの白いのは。
そう思い、周囲に視線を走らせる。見つけた。自分が通り過ぎた足元に、未だに竦んで動けず、身体を丸めている白い猫がいた。白猫ではあるが、ポツポツと茶色い毛が混じり、尻尾は長め。それがなんとなく世渡りの上手そうな印象を受ける。それでいて臆病な猫だ。少年は自然と頬が緩んだのを自覚する。
三日月型に目を細め、抱き上げようと一歩前に進み出る。少年の接近に警戒心を上げた白猫が立ち上がり身体を縮めた。走りだす直前の予備動作だ。怖がられている。そういう自覚があり、小動物に触れたいという衝動もある。極力刺激の少ないように足を忍ばせ、両手は左右に開く。無防備や無害さをアピールしたつもりではあるが、身体を大きく見せた事が結果的に白猫の警戒心を煽った。
「あ」
白猫は瞬時に身を捻り、少年のいる方向から逆方向に走り出した。左側にある茂みの中へと身を隠した白猫を思わず追い、道路から外れそうになったところで足を止めた。視界に映る光景がそう判断させたのだ。
少年が見ているのはちょうど公園から道路を挟んで反対側。木々が生い茂り、木々の間に埋もれるように細い道がある。それが何処に続いているかは少年の視線の先に答えがある。
それは小さな祠だった。
少年の記憶が正しければここは狐系の〝何か〟を祀っているのだと聞いた事がある。小動物は好きだが、しかし霊的なモノ、オカルト的なモノに関してはどうしても好きになれない。辺りは闇に満ち、暗がりにある祠というモノがあまりにも不気味に見えて、少年は動けずにいた。
――猫は。
そう思い、首だけで白猫の姿を探す。見れば祠の左横、背の高い雑草の切れ間に白い姿が見え隠れしている。白猫は一度少年に振り向くと、脚を止めた。それが猫の基本習性であることは少年も知っていた。だがこれもチャンスと少年はその場に腰を落とし、再び腕を広げた。
「おいで」
できる限り穏やかに告げる。口元に微笑を浮かべる事も忘れない。精一杯の無害さをアピールしたつもりではあるが、その努力も空しく白猫は再び踵を返すと、茂みの向こうに姿を消した。少年も名残惜しそうにそれを見送ったが、やがては気持ちを切り替え鼻から息を抜いた。
「バイバイ、またね」
いなくなった茂みに声をかけ手を振ると、少年は再度時計に視線を落とし、元のコースに戻った。帰ったら食事よりも先にお風呂だと、高揚した頭で思いながら足音を響かせた。
ランニング後のストレッチを終え、家に戻って風呂に浸かり、過度の運動により失せた食欲を少量の食事で済ませ部屋に戻った頃には、壁にかかった時計の針は午後九時を回っていた。視界の正面で白いカーテンが緩やかに揺れ、生温い空気が入り込んできている。 寝るのにはまだ早い時間だ。明日までに提出しないといけない宿題がある。しかし、身体全体を包む疲労感が勉強机から目を逸らさせた。
「たしか」
読みかけの小説があったはずだ。少年は大股でドアとは対角に設置されたパイプベッドに歩み寄る。三歩も歩けば辿りつくほどに狭く、机とベッド、クローゼットがあるだけの簡素な部屋。少年はベッド横に無造作に積まれた文庫本の上から一冊を拾い上げた。
ベッドに仰向けに横たわり、照明の光りを遮るように眼前に本を掲げる。文字の羅列を眼で追い、時折欠伸を噛み殺す。窓の外ではいまだ虫の声が鳴りやまない。小型の虫だろうか、小刻みな羽音と共に、網戸にノックするような音がする。そこまで知覚すると少年はムクリと身を起こした。いつもの日課がまだであった事を思い出したのだ。少年は机の隅に置かれた霧吹き型のスプレーを手に取ると、風に揺れるカーテンを開く。部屋の明かりに誘われて無数の羽虫が網戸に群がっている。
少年は思わず顔をしかめた。虫は嫌いだ。しかしそれ以上に嫌いなのは、その虫を餌にやってくる緑色の両生類だ。家の周辺に田んぼが多いだけに、毎年その数は多い。世界で一番忌み嫌うものだと自信を持って言える。だから少年はスプレーを構えた。虫がいなければ両生類もやってこない。トリガーを引き、霧状に放出された無臭の液体。網戸用の虫よけスプレーだ。少年はまんべんなくスプレーすると、満足したように頷いた。
「よし」
虫が去った窓の外を何気なく眺めれば、薄暗く広がる闇の中で、頼りなさげに灯る街灯の光りが視界に飛び込んできた。チカチカ、チカチカ、明滅を繰り返す人工の色。何故かその周辺には虫の姿が見えない。雨でも降るのかと空を見上げれば、確かに先程まで大きな満月が浮かんでいた空は、どんよりとした黒雲に覆われ、闇をより濃いものとしている。
ゾワリと、冷たい風がうなじを撫でた。
八月の夜気としては妙に肌寒く感じる。少年は鳥肌の浮いた腕を擦り窓に手を掛けた。閉めれば寝苦しいだろうか。そう考えたのも一瞬で、少年は窓枠に引っかけた腕に力を込める。窓が閉まる。しかしその直前、少年はなにかの視線を感じた。閉じられた窓の向こう、ガラスと網戸越しの暗闇にはなにも見えない。気のせいだろうか。首を傾げつつベッドに戻ると少年は読書を再開した。しかし外の暗さを実感したせいか、急激な眠気が書物を支える指の力を奪った。腕から文庫本が滑り落ちフローリングが固い音を起てた。まだ部屋の照明を消していない事を気にしつつも、少年は睡魔に身を任せた。意識が沈む感覚が心地良かった。
ここまで読んでいただきありがとうございます<(_ _)>
ホラー小説の連載、はじめました。
一応は書き終わっている小説なので最後までサクサク投稿できるかと思います。ちょっぴり修正をしながら。
最後までお付き合いいただければと思います。よろしくお願い致します。