COLORS
僕はびっくりした。一瞬、自分でもよく分からないような胸のざわめきが起こる。
それはいつもとなんら変わりのない日のことだった。学校が終わって、いつも通り家に帰ろうとしていた道中のこと。
雑踏と雑音にまみれ、モノクロの建物が並ぶ通学路を歩きながら、僕は昨晩の家族会議のことを思い出していた――
「ねぇ悠貴」
「ん」
「来年受験生になるんだし、そろそろ進路のことちゃんと考えなさいよ」
「……」
「そうだぞ、悠貴。お前が思ってるよりもう時間は無いんだぞ。ちゃんと自覚持ってるのか?」
「……」
「何でも後回しにしてると、自分の首を絞めることになるぞ」
「……分かってるよ」
「あんたももう子供じゃないんだから、自分のことは自分で決めなさいよ」
「うん……」
――自分のことは自分で考える。分かってはいるのだけど、なかなか難しいことだ。僕には特に将来の夢も目標もない。受ける大学くらいはおおよそ決めてはいるものの、そこで何をしたいとか、それからどういう道に進むのかとかは、全く考えていない。
「……はぁ」
僕は小さく息をついた。こうして過ごしている毎日が無意味なものに感じられるのは、やはり自分が無欲すぎるからなのか。
色褪せたアスファルトの欠片が、コツンと靴先に当たった。
「あ、携帯忘れた」
ポケットに手を入れて気がついた。学校に置き忘れて来たようで、僕は仕方なく来た道を引き返した。
早足で戻って行くと、珍しく学校の前の信号が赤になっていた。ここの信号で引っかかることなんてほとんどないのになぁと思いつつ、ぼんやりと辺りを眺めていると、隣にも待っている人がいることに気がついた。そして、僕はびっくりした。まさしく青天の霹靂。その人にびっくりしたのではない。その人を見た時、自分の胸がざわついたことにびっくりしたのである。
「……」
もう一度よく顔を確かめてみる。見たことがある顔だ。だけど、どこで見たのか、何という名前なのか、何ひとつ関連情報が思い出せない。人違いなのだろうか。
「あ」
僕の視線に感じた相手が、こっちを向いた。どうしようか迷ったが、信号が青に変わった時、僕は思い切って話しかけた。
「あの」
「?」
「どっかで会ったことありますか?」
ナンパをするときの古い台詞のようだが、僕はいたって真剣に尋ねている。息を三回吸うほどの間があった後、彼女は首を傾げた。
「……人違いでした。すいません」
そう言って歩道を渡ろうとすると、今度は彼女が言った。
「私、あなたのこと知ってる」
「えっ」
「……知ってる」
意味深な眼差しでじっと僕を見つめながら、彼女はささやくようにつぶやいた。
やっぱり。この人は僕と何か接点を持っている。
再び信号が赤に変わり、再び車が流れ始めた。
「どうして僕のこと知ってるの?」
「……」
彼女は黙ったまま、静かに首を横に振った。そして、待っていた信号とは別の方向に歩きだした。
「あ、ちょっと」
僕は慌てて彼女の後を追った。
彼女は大通りを抜けて商店街に向かった。僕は何も言わずに彼女の三歩後ろをついて行く。良妻みたいだなと、心の中で自嘲した。この時点で、携帯を取りに戻るという本来の目的は、完全になおざりにされていた。
この素性が知れないような人に、なぜこうまでしてついて行くのか。自分でもよく分からない。ただ例えるなら、プレゼントを開けるときの感覚に似ている。何とも言えないワクワクが、副腎髄質から滲み出て来るような。突然とも偶然とも言い難い彼女との出会いが、僕の五臓六腑に何かを語りかけている気がするのだ。
いつもと変わらないはずの街並みが、いつもより色づいて見えた。ワンピースの裾を揺らす彼女の歩みが、景色に色彩をもたらしている。
「わぁ」
道の脇で子供がシャボン玉を吹いていた。彼女はそれを見つけて立ち止まった。
「綺麗だね」
シャボンの持ち主に彼女は話しかけた。
「お母さんに買ってもらったの!」
「そうなんだ」
満面の笑みを浮かべる女の子に、彼女も微笑んだ。
「もう一回吹いてみて」
優しくうながされ、女の子はストローにふうっと息を吹き込んだ。
大小の様々な泡が太陽の陽を反射して、虹色に輝いている。そのシャボン玉は風に乗り、女の子の前に立っていた彼女を包み込んだ。
綺麗だ、と僕は思った。
「おねえさん、きれい……」
女の子も僕と同じ感想だったようだ。彼女は少し照れたように顔を赤らめ、ありがとうと言った。
再び歩き始めた彼女は、今度はとある露店の前で足を止めた。
「……」
並べられた商品をじっと見つめている。僕は彼女の近くに寄った。
「何か探し物?」
「……これ可愛い」
彼女は左端に置いてあった、小さなストラップを手に取った。木でできた、茶色いキリンのマスコット。僕はそれを見て、あっと声をあげた。
「それ同じの」
そう言って僕は、自分のスクールバックについているストラップを彼女に見せた。
「ほんとだ」
彼女は嬉しそうに笑った。
「何かいいよね、これ」
こくりこくりと満足そうに頷く彼女。そしてじっと僕を見つめる。
「ん?」
「私、お金持ってない」
「え」
屈託のない笑顔でそう言われると、僕は財布を出さないわけにはいかなかった。三百十五円をよく知りもしない赤の他人のために払う。今日の自分はどうかしてると思いながらストラップを渡すと、彼女は大切そうに受け取った。
「ありがとう」
たったその一言で、その瞬間の表情だけで、三百十五円なんて朝飯前になった。
それから僕達は並んで歩きだした。行き先は二人とも知らない。ただただ、同じ方向に同じ歩調で向かっている。不思議だった。あの道も、電柱も、看板も、水たまりも、そこに映った空でさえも、全てが息づいて見える。
僕は歩きながら、横目でちらりと彼女の様子をうかがった。透けるような白い肌に、鳶色の細い髪が流れている。ただのひとことではとても形容できない様子だった。
何かないかと言葉を探していると、彼女も視線をこっちに向けた。
「……」
「……」
別に照れる訳でもなく、僕らは黙って視線を交わらせていた。
「キリン、好きなの?」
僕は尋ねた。
「うん。これ本当に可愛い」
彼女は手元のキリンに注目を移した。長いまつ毛がゆっくりと伏せられるのを、僕はじっと見守った。
「これを可愛いって言う人、初めて会った」
僕も可愛いとは思うが、友達曰く、気持ち悪いと可愛いの間のグレーゾーンらしい。
「価値観なんてそれぞれだもん」
「確かに」
僕が吹きだしながら言うと、彼女は小首を傾げながらも微笑んだ。
「十人十色でいいと思うけど」
「うん」
「それでもやっぱ、価値観が近い人がいると嬉しい」
手を伸ばせば届きそうな蒼が今日の街を覆っている。ビルの間からこぼれる隙間風は、泣いているようにも笑っているようにも聞こえた。
「びっくり」
彼女は僕をじっと覗き込むようにして、
「私も同じように思った」
また嬉しそうに目の端を下げた。
僕は静かに彼女の手を取った。下心とかではなしに、ただ本能的に手を取った。彼女のほうも驚いた様子は無く、抵抗もせずに右手を取られた。
よく分からない安心感。そしてよく分からない居心地の良さだった。
彼女と色々と話をしてみると、自分とよく似ていると感じた。同じタイプの人間っているものだ。
気付けば僕達は、住宅街の中にひっそりとある、緑の豊かな小さな湖に辿り着いていた。
「……ねぇ」
「ん?」
歩みを進めながら僕は尋ねた。
「君には将来の夢って何かある?」
「夢?」
「うん。夢」
自分と考え方が似ている彼女に、このことを聞いてみたかった。それによって、僕も将来を考えるヒントになるんじゃないかと思ったのだ。
彼女は一瞬考える素振りを見せたが、すぐに答えた。
「絵を描く仕事」
「!」
本日二度目の青天の霹靂。僕は思わず立ち止まってしまった。
「……?」
「本当に?」
「本当だよ」
こんなことってあるんだろうか。動悸が激しくなるのを誤魔化すように、僕はつばを飲み込んだ。ふと、握った手のひらから伝わる微かな熱と鼓動が、どこか懐かしいような感情を呼んだ。
「私知ってるよ」
じっと見据えてくる彼女の目はとても綺麗で、僕は切なくなった。
「あなたの夢も絵を描くこと」
夢がないなんて真っ赤な嘘だった。本当は、画家になることが僕の夢だった。小さい頃から絵を描くことが好きで、クレヨンや色鉛筆を引っ張り出してはよくお絵かきをしていた。真っ青な海や野原の緑。綺麗な色を目にすればすぐに描き付けた。
だけど、年を重ねて行くうちに、その夢がいかに非現実的なものなのかということを思い知らされた。この現代、絵で生計を立てられるのはほんの一握りの人だけ。自分にそんな才能が無いということは、とうに分かっている。
結局、誰にも告げることなく、この夢は心の奥底で煙のように消えて行くのを待っていた。
「いいんだよ」
「えっ」
彼女は何か納得したようにうなずく。
「まだ青写真なんて描けなくても、自分のやりたいことやればいいと思う」
彼女の口から発せられた言葉は何一つとして偽りがなく、真っ白だった。
「今からでも全然遅くないよ」
きゅっと彼女の手に力が込められたのが分かった。応答するように僕も握り返した。
「ありがとう」
僕は、僕の精一杯のありがとうを伝えた。なんだか泣きそうだった。
でもどうして、彼女は僕の夢を知っていたのだろうか。そもそも、彼女はどうして僕を知っているのだろう。そして、僕はなぜ彼女の顔に見覚えがあったのだろう。
「ねぇ」
僕は少しためらいながらも彼女に問いかけた。
「どうして君は僕の夢を知ってるの?」
「……」
彼女は僅かに瞳に戸惑いの色を見せた。
「どうして君は……僕を知ってるの?」
彼女が返事に困るだろうということは、なんとなく予想できた。それでも僕は聞きたかった。
「教えて」
「……」
すると彼女は黙って僕の手を引いた。湖の岸に近づく。そしてその水面に自分の姿を映した。
「見てみて」
僕はゆっくりと覗いた。
そこに映っていたのは、「僕」だった。
「……そうか」
僕はようやく分かった。
「君は『僕』だったんだね」
水面に映った「僕」は静かにうなずいた。
「私はあなたの心だよ」
顔を上げると、彼女は憂いを含んだような微笑みをこぼしていた。
「そりゃ見覚えがあるわけだ」
僕は苦笑いをして、それから彼女を抱きしめた。
「ありがとう。おかげで道が見えた気がする」
「うん」
彼女も僕を抱きしめ、ありがとうとつぶやいた。言葉をかみしめるように何度も何度もつぶやき、僕らはここにいた証を確かめ合った。
子供たちの黄色い声が遠くから聞こえる。
僕と彼女は真っ直ぐに向かい合って、じっと視線を交わした。
「それじゃあ」
「うん」
息を三回吸うほどの間があったあと、僕らの声が重なった。
「さようなら」
振り返った時には、もう、そこに「僕」の姿は見当たらず、美しく色づいた景色だけが残っていた。
物語を書くにあたって、私はヒップホップアーティストのKREVAさんからヒントを得ました。もともと根っからのファンで、昨年初めてコンサートに足を運んだのですが、そのMCで彼が2013年8月28日発売のシングル、『BESHI』の歌詞作りのことを話していました。歌詞を考える際にKREVAさんは「色」の表現にこだわったそうで。
色彩の描写もですが、その他にも日本語には色にちなんだ表現がたくさんあります。「隣の芝は青い」「白旗をあげる」などなど。KREVAさんはそれらの表現をリリックの中に散りばめてラップをしています。
なるほど、面白い。これは小説にも応用するべきだ!そう思って今回の作品に着手しました。
気になった方はぜひ、KREVAさんの楽曲もチェックしてみてください(^o^)オススメです。