20「Zero Field」
ホシを脱出したプランジたちは、不思議な空間で目を覚まします。
そこには観察者、と名乗る謎の男がいました。
今回はその不思議な空間での話です。
冷たい空間で、プランジは目を覚ました。
「………!」
身体の冷たい床に触れていた部分が冷えきっていて、それで目を覚ましたのだっ
た。
そこは薄暗く、辺りは星空の様に光点がチラチラと散らばっていた。まるでプラ
ネタリウムの様だーーとプランジは思った。上体を起こしたプランジは辺りを見回
した。何処にも投影機の様なものは無く、本当に星空に透明なガラス板が浮いてい
て自分はそこにいる様に見えた。
「……?」
気がつくと、いつの間にか病院服の様なものを着させられていた。身体も洗われ
ている様だ。胸には救急パッドの様なものが貼られている。肋の痛みはあったが幾
分軽くなっている様に思えた。他には誰もいない。
プランジはそっと星空を見上げた。それはかつてイエの屋上で見た様な、素晴ら
しい星空だった。そしてこの風景は何度か見ている。星空が流れたり自身が光った
りしていた時もあった。だが自分はこの風景を何度となく既に体験しているのだー
ーそう思いながらプランジはゆっくりと立ち上がった。何故か、涙が流れていた。
ファイーー!それは、自分が恐らく初めて繋がった人の名前。
その名前が、想いが、体中を駆け巡った。
本当に、この星空の何処かにいるんじゃないだろうか。
プランジは、星空を注視した。光の何処かに、彼女がーーー。
星空は、特に変化も見せずそこに佇んでいた。
* *
リジーは、起きると一人だった。
服装が知らないうちにダボッとした病院服に変わっていた。麻の様な化学繊維の
様な、シャリシャリした素材だった。
辺りはクッキリとした星空の絶景が広がっていた。自分は透明なガラスの上にい
る様で、これはーーそう、前にウィズと共に上昇し、落ちて来るプランジとランデ
ブーした時の風景に少し似ている。ただ、星空は流れていないし行く先にあった恒
星も見えない。ゆったりと星々はそこに揺蕩っていた。
自分は、どうしたのだろうか?
ーー死んだのか?
死ぬ前はどうしていたんだっけーーリジーはしばし考えた。
そう、あれはーー脱出ポッド!
「!!」
リジーはハッと身体に手をやった。リボルバーが無い!
リジーは焦って辺りを見回したが、星空と自分以外は何も無かった。
どうしようーーリジーは座り込んでそっと自分を抱きしめた。
星々はそっと密やかにリジーを包んでいた。そのうち大きめの恒星の一つが、無
音のまま超新星爆発を起こした様だったが、リジーは気付かなかった。
* *
ウィズが目を覚ました時、天頂近くで小さな恒星が煌めいて消えつつあった。
「スーパーノヴァ…」
ウィズは呟いた。少年の頃、こうやって寝転がってホシを見たっけ。自分は、ど
うしたのだろうか。もう何度もこうやって自分を確かめようとした気がする。あの
頃はまだ自分は幼く何も知らないでーーウィズはほんの短い間感傷に浸ったが、す
ぐに現実に戻った。
「!」
ウィズはガバッと起き上がった。全身に痛みが走った。
「つ……」
辺りは星空しか見えなかった。床を見たが、いつぞやの様に自分は透明なガラス
状の上にいて下にもずっと星空が広がっていた。ウィズは自分が病院服の様な物に
着替えていることに気付いた。身体の各所も一応手当がしてある様だ。
思い出してハッと辺りを見回すが、いつも持っているライフルは無かった。
「……そっか……」
まぁどうせ錆に塗れて使えなかっただろうしな、とウィズはあっさりと諦めた。
それにしてもーー自分たちは、脱出ポッドでホシを出たのではなかったか?プラ
ンジやリジーはどうした?そう言えば一緒にポッドに入った筈のネコも姿が見えな
かった。
「………」
ゆっくりとウィズは立ち上がった。少し冷静になると、ウィズはその星空の微妙
な異常に気付いていた。これはーー精巧に出来てはいるが、今迄体感して来たのと
は違う、作られた映像だ。ウィズの全身のセンサーは、ここが閉鎖空間だと教えて
いた。巧みにその気配は隠されているが、ウィズは確信した。更にこの重力も、恐
らく人口のものだ。つまり、ここはフネーー状況から考えると、あの時軌道上に出
現したあの謎の艦艇の中の可能性が高い。
そこまで判断して、ウィズは手を前に出しながら注意して歩き出した。何処かで、
壁面に当たる筈ーー
とその時、星空がフッと消えた。そこは、壁も天井も小さくデコボコした柔らか
そうな素材で覆われた、天井の高い部屋だった。まるでイエの自分たちの部屋の様
だ、とウィズは思った。ウィズはその壁から数メートルのところにいた。
「………」
と、壁の一部が音も立てずに開いた。
「……!」
ウィズは辺りをスキャンして、生命反応が無いことを確かめていた。まさか無人
の艦なのだろうか。
ウィズはそっとその入り口から顔を覗かせ、そして出て行った。
* *
プランジはひとしきり泣いた後、大の字に寝転がった。
少し落ち着くと、プランジは廃墟のホシでのことを考えていた。
ここに来る前のあの謎のモヤモヤ『ファントム』は、いつもよりももっと多くの
怖れや悪意をその身に取り込んでいる様だった。『ファントム』に取り込まれたと
きの感覚。その悪意の一つ一つに、プランジは触れた気がする。だがそれはーー恐
らく会ったことの無い人のものだ。それはどういうことなのだろうか。本当は以前
にホシに来た人達のもので、自分が忘れているだけなのか?それともホシに来る前
の人達のそれか?もしくは『ファントム』がこのホシだけじゃなくて、ずっと多く
のホシたちを取り込んで来た、その記憶の残骸?
記憶と言えばあの廃墟の部屋たちもそうだった。あれはかつてピアノマンが見せ
てくれた過去から未来の自分たちの姿とか記憶が、やがて朽ちて形になったものの
様だった。そしてそれはホシそのものになり、やがてああやって崩れていく。誰も
知らず。その後には何が残るのだーーープランジは、言いようの無い不安がそっと
忍び寄ってくるのを感じた。
ダメだ、また此処にも『ファントム』がやってくるーー。
「……!」
だが、プランジはあの緑色の光のことを思い出した。
『ヒュー』!
ホシに時々現れるあの緑の光は、やはり前回もいたのだと思う。『ファントム』
に取り込まれていた時、あの存在は確かにプランジの意識に触れ、そっと揺り起こ
してくれた。そのことでプランジは目を覚まし、『飛べ』たのだ。それ以降のこと
はよく覚えていないがーーあの廃墟の吹き抜けでも、確かに自分を助けてくれてい
た気がする。
「………」
ずっと知りたかった、あの存在。いつかそれにちゃんと触れることは出来るのだ
ろうか。
プランジは立ち上がって意識を集中させた。
もしも、今此処から『飛べる』のなら、自分は何処へ行くのだ?
* *
リジーは、長いこと自分を抱きしめてしゃがみ込んでいた。
「………!」
それから立ち上がった時には、もう不安は無くなっていた。いや、無くなっては
いなかったが、自らの力で押さえ込んでいた。いつまでもリボルバーのことを言っ
ていても仕方が無い。此処が何処かは分からないがーー例え何処だったとしても、
また始めるのだ。いつの間にかリジーはそう思える様になっていた。前回、あの『
ファントム』の触手の先に光の弾丸を撃ち込んだ時。そして次々と手の中に弾丸が
現れてくる時。あの感覚は素晴らしかった。自らの中から無限に力が湧いて来る様
だった。プランジが言う『飛ぶ』時の感覚とは、ああいったものなのかもしれない、
とリジーは思った。
「よしっと」
リジーはそっと歩き出した。この星空はーーこの下を支えている透明な床は、何
処まで続いているのだろう。突然足元が無くなったり壁にぶつかったりしない様、
リジーは気をつけて歩いていった。数十歩歩いたところで、手が壁に触れた。
「!?」
リジーは目を見張った。見た目には星空以外何も見えないが、確かに手が何かに
触れている。それは柔らかいフォーム状の感覚で、柔らかい壁の様だった。試しに
足を伸ばしてみると、やはりその柔らかい壁に当たった。
「………?」
そういうことか、とリジーは両手を広げ、見えない壁を触って移動し始めた。少
しジャンプもしてみたが、手の届く範囲に天井は無い様だ。リジーは壁を触りなが
ら移動していた。どうやらその部屋は巨大な円形である様だった。随分と時間をか
けて移動したリジーは、フォーム状の壁の境目というか別部分にたどり着いた。そ
こは高さは二メートル、幅は1メートル程のフォームの無い固い平らなスペースだ
った。恐らくドアだとリジーは確信した。
「えっと……」
そのスペースをくまなく触ってみたが、ノブや取手、押し板の類いは全く無かっ
た。一切の隙間の無い、只の平面だった。
「んー……」
リジーは改めて目の前を観る。何処までも星空が広がっている様にしか見えなか
った。さて、どうすっかーーとリジーは壁を背にしてしゃがんだ。しゃがんで壁に
寄りかかろうとしたが、リジーは背を支えるものが何も無い様に壁を突き抜けた。
「あっ?」
リジーは後ろに転がってくるりと回転してマット運動の様に起き上がった。
「……!」
そこは、寒々とした廊下だった。自分が転がって来た筈の目の前には壁があり、
左右に天井の高い通路がずっと奥まで続いていた。
「……マジ?」
リジーは立ち上がって壁をあちこち触ってみたが、もう何も起こらなかった。こ
れはーーいつものイエの感じじゃないか?
やがてため息を吐き、リジーは歩き始めた。
* *
ウィズは艦内を歩いていた。
まだ身体のあちこちには痛みが残っていたが、どうでも良かった。
その廊下は、金属の様な石の様な不思議な素材で出来ていて、ちょうどイエの外
壁の様だった。天井が異様に高く、時に十字路だったりT字路だったりするがその
間隔はとても広かった。恐らく中の部屋は先程と同じく、それぞれかなりの大きさ
があるのだろう。だがその壁にドアらしきものは全く無かった。先程出て来た入り
口も音も立てずに閉まった後は継ぎ目すら見えなくなっていた。ウィズはその都度
辺りをスキャンしてみるのだが、イエの無限の部屋と同じ様にその時々で廊下や壁
の配置は微妙に変化している様だった。相変わらず生命反応も動体反応も無い。
「マジかよ……」
そうして数時間歩いたが、状況は全く変わらなかった。一体このフネはどれくら
いの大きさなのだろうか。いくらスキャンしてもその全体像は分からない。まるで
ホシの様だーーとウィズは思った。一切窓が無いので此処が本当にフネなのかすら
怪しくなって来ていた。が、ウィズはそれでも微かな人口重力の痕跡は感じていた。
「………」
ウィズはあるT字路で腰を下ろして壁に背を付いた。疲れていた訳ではないが、
小休止だった。
ーーあの脱出から、どれ位経っているのだろうか。胃の空腹感の感じだと数日と
いうところだろうか。プランジやリジーはどうしただろう。一緒にいた筈のネコも
いない。彼らも、同じ様に無限の廊下を彷徨っているのだろうか。そしてそれはま
た交わることはあるのかーー
「………」
もしそうならなくても、それはそれで仕方ない。また、別の何かが始まるとして
も。
ウィズはさらりとそう思った。それは兵士時代から続く、物の考え方だった。
………ニャン。
その時、ウィズは微かにネコの鳴き声を聴いた様な気がした。
「!?」
ウィズは顔を上げたが、前方と左右に広がる通路には何も見えなかった。
ウィズは立ち上がった。普段ならはっきりとその方角が分かるのに、微かな鳴き
声は奇妙な反響を見せ何処から発せられたのか分からなかった。一度だけ聞こえた
その声は、それっきり聞こえなくなった。
「………よし」
ウィズは思った。探してやる。どれだけ時間がかかっても。ウィズは歩き出した。
プランジの様に、前方と決めて歩き出した。
突き当たり迄行ったが何も見つからなかった。右、と感覚で決めてまた歩いた。
何度か十字路に差し掛かったが歩きながら左右を確認しただけで通り過ぎた。次に
突き当たると、何となく左、と決めて更に歩いた。なるほど、迷いを無くすだけで
いちいち考えなくてよくなる。プランジの思考法とはこういう感じなのかとウィズ
は思った。それはいつもうまく行くとは限るまい。だが失敗したとしても迷いなが
らよりは後悔が無い。プランジはそうしていつも生きてきたのだなーーとウィズは
感じながら軽やかに歩いた。
それからウィズは数時間歩いた。相変わらず何も見つかってはいない。階段もエ
レベーターも無いこのフロアの全体像は全く分からなかった。だがウィズは歩き続
けた。
やがて、ウィズは初めて行き止まりに出会った。そこは十字路から十数メートル
程入ったところで、周りは同じ様な壁面と天井があったがその突き当たりには明ら
かにスライドドアらしきものが存在していた。
「………」
ウィズは近づき、側のパネルに手を置いた。反応は無かった。
ドア面に手を触れた。同じ様に金属の様な石の様な不思議な感覚だった。中をス
キャンしてみたが全く解析出来なかった。だが、この中に何かがある筈ーー。
「よし」
ウィズは振動波を使ってドアを破壊しようと身構えた。
その時、ドアは突然消え、ウィズは前方によろけて数歩中に入った。
「っと?!」
そこには、天井の高い広い部屋と小さなデスクがあり、その前に背もたれの高い
椅子に中年の男が座っていた。
* *
プランジは、いつしか星空の中を走っていた。
『飛べ』はしなかった。それは相変わらず自分の意志でコントロール出来るもの
ではなかった。
「………」
プランジは手を振って、見えない地面を蹴っていた。
思えば、プランジはいつも走っていた。楽しいときも、辛い時も。ファイと二人
で走ったこともある。よく見ていたあの夢の霧の中では、恐らくウィズやリジーた
ちとも走っていた。
そのことで、いつもプランジは自分を取り戻して来た。今も、こうして星空の中
を走っている。行き先は何処だろう?分からない。ただ、今は何処までも走れる気
がした。肋はまだ少し痛んだがどうでも良かった。
「!?」
プランジは急ブレーキをかけて止まった。気がつくと、星空が廊下に変化してい
た。いつの間に?!プランジは肩を上下させながら辺りを見回す。まるでイエの様
な、天井の高い廊下。
「………」
プランジは見上げながら歩き出した。長い壁と、時々現れる迷路の様な十字路や
T字路。ドアらしきものは無いが、何かありそうな壁だった。プランジは歩きなが
らそれに触れてみた。金属の様な岩の様な質感。まるでイエの外壁の様なーーそう
だ、彫刻刀があれば!と腿に手をやるが、着ていたのはいつものカーゴパンツでは
なく見かけない病院着だった。
「そっか………」
プランジは立ち止まり、その壁に軽く掌底を当ててみた。少しずつ強く、やがて
全力で放っていった。だが壁はびくともしなかった。
「………」
プランジは壁に掌を当てたまま、しばし呼吸をした。
今更ながら、プランジはウィズやリジーたちのことを思い出していた。一緒に脱
出した筈なのに。気がついた時のあの星空で、自分は自分だけの世界にしばらく没
頭していた。あれだけ一緒にいたネコのことすら思い出さなかった。プランジは少
し反省した。
みんな、どうしただろうか?無事でいるだろうか?それとも、また独りで最初か
ら始めるのか?いや、それはただ自分のことだけ、というエゴなのかーーー
その時、プランジは遠くでネコがそっと鳴いた様な声を聴いた気がした。
「!?」
プランジは振り向いたが、気配は無かった。空耳なのだろうか。
ーーーいや!
プランジは走り出した。廊下は何処までも続いていた。
また、出会うのだ。彼らに。
プランジはそう思いながら足を踏み出し続けた。
* *
リジーは長い廊下を歩いていた。
人の気配は全く無い。時々壁を触ってみたりもするが、先程の様に突き抜けるこ
とはなさそうだ。リボルバーは無かったが、リジーはしっかりと歩いていた。出来
れば、プランジやウィズにまた出会いたいものだがーー何処かで、無理かも知れな
いと思っていた。そうそう、あのネコもまたモフモフしたかったな。そう思いなが
ら歩いていた。
廊下は天井が高く、イエの無限の部屋を思わせた。最もあそこは巨大な螺旋状だ
ったし、手を伸ばせばたまには開くドアもあったのだが。今更ながら、自分たちは
色々恵まれてあのイエで過ごしていたのだな、とリジーは思った。此処では、水な
り食料なりが無ければ早々に死んでしまいそうだ。
それにしても、此処は何処なのだろう。あの時廃墟のホシを脱出してから、自分
たちはどうなったのだろうか。ひょっとしてもう死んでいるのか?と思ってリジー
は、それはウィズがよくやる思考法ではないか、と思って少し微笑んだ。
あのホシ、あのイエでの時間は、楽しかったな。もう戻らないのだろうか。
チクリと胸が痛んだ。
「………」
俯いたリジーは、その時微かな声に気付いた。あれはーーネコ?
リジーは立ち止まって振り向いた。乾いた壁にタッという足音が響いたが、それ
以外の音は聞こえない。
「………?」
気のせいか?と振り向いた時、リジーは突如足がフラッとして床に膝を着いた。
「ーー!!」
目眩ーーーー忘れていたが、あれがまた襲って来るーー!
リジーは目を閉じた。動悸が上がっていくのを感じた。いや、これはーーいつか
克服しなきゃいけないこと。リジーはゆっくりと息を吐いて、動悸だけに意識が行
かない様目を開けて前を見据えた。落ち着け、これ以上ーーだが視界はだんだんと
揺れを増していった。リジーは手をついた。ダメだ、意識がーーいや、負けない、
今度こそーーリジーは歪む視界の先で、誰かの足元を見た様な気がした。それは大
柄な男のものでーー古びたロングコートに革のブーツの様なーーー
「あぁ……?」
その人物の顔を見上げる前に、リジーは気を失った。
* *
ウィズは、警戒しながら近づいていった。
そこは、かなり広い書斎といった風情の空間だった。二十メートル四方ほどの無
骨な立方体の部屋。窓は無い。有機LED風の間接照明が異様な雰囲気を醸し出し
ていた。デスクは木製でその上には水の入ったビンとグラスがいくつかあり、その
前の椅子はキャスター付きでデスクに合わない背の高いエルゴノミクスな形状をし
ていた。今、ウィズからは背もたれとその肘掛けに置かれた手と膝を組んだ足先し
か見えていなかった。その中高年らしき男性は長めのコート姿で、その下は古びた
軍服の様な服装にに古びた革のブーツだった。
「………」
ウィズは左手の生体レーザーを軽く構えつつ近づいた。相手は明らかに自分に気
付いてはいた。恐らく壁を操作して此処に招き入れたのもこの人間だろう。
ギシ、と椅子が軋みを立てウィズはハッと左手を構えた。
「それ…今は使えんよ」
「!?」
その中年男性は背中越しに言った。
「その右手の方もね」
「………」
調べている、ということか。もしくはその時に何か操作したのか?ウィズは直感
的にブラフだ、と思った。だが確信は無い。やってみるしかーー
その時、椅子が回転した。
「その直感は、当たっているかな?」
ウィズの目の前に現れたその男は五十前後といったところか。彫りが深く鼻の大
きい旧ヨーロッパ系の顔立ちで苦難の人生をかなり経て来たといった風体だった。
その顔からは微笑とかユーモアなどの要素は取り払われている様だった。体格も良
く、恐らく立つとウィズ位はあるだろう。
「………」
ウィズは男の服装に目をやった。その軍服からは全ての徽章が取り払われており、
形からも何処の星系のものかは分からなかった。データに無い服装だった。
ここは変に張り合っても無意味だ。ウィズは力を抜いて話しかけた。反撃はいつ
でも出来る。
「…此処は?あなたは誰だ?」
「直球だな」
男は椅子を少し回しデスクの上のグラスにビンの水を注いだ。
「だが当然だ」
そしてウィズの方に差し出した。
「………」
ウィズはそれを受け取り、気付かれない様にスキャンした。そちらの機能は今ま
で通り使える様だった。特に変哲も無い只の水だった。
「何も入ってないだろ?」
男は固い岩の様にしゃべった。余裕はあるのだろうが決してそれを見せはしない、
ちゃんと歳を経た初老のそれだった。こちらを和ませようとは更々思ってはいない
様だ。
「…頂きます」
ウィズはぐいっとグラスを上げた。乾いた身体に水分が染み渡っていった。
「手当をしてくれたのもあなたか」
ウィズは慎重に聞いた。男は頷いた。そして片手を上げた。
ウィズの背後で石の様な床の一部が音も立てずにパラパラと回転しそして無骨な
ベンチらしきものがパタパタと形作られていった。
「………!」
ウィズは少々驚いた。どんなオーバーテクノロジーなのか。先程の壁の変形もこ
ういった感じだったのだろうか。そう言えばプランジがイエの屋上で出会ったと言
う青年の部屋もこんな機構の壁だと言っていたっけ。
男は顎でベンチを促した。ウィズはゆっくりとその真ん中に座った。
「さて」
男は膝に肘を乗せて組み、その上に顎を乗せた。
「話をしよう」
「ええ」
ウィズは深く腰掛けたが背もたれに体重はかけず、いつでも立ち上がれる様には
していた。
「まず…」
男が話し出す。
「あのホシは、何だ?」
「……?」
ウィズは眉根を寄せた。ということは、この男も知らないということか?
「……俺にも、よくは分からない」
男はあっさりと応えた。
「だろうな……ずっと観ていたよ」
「観ていた?」
「観察者なのでな」
観察者、と男は言った。それは、何なのだろう。
「此処は、軌道上のフネの中か?あなたはこの艦隊のクルー?」
観察者は再び頷いた。ウィズは畳み掛ける。
「ずっと観ていた、とあなたは言った。それは俺やリジーがホシに落ちた時から、
ということか?」
観察者は首を横に振った。
「ずっと前からだ」
「……!」
とても簡素な話し方だった。ウィズは、何から聞けば良いのかしばし考えた。
先に観察者が口を開いた。
「ゼロ艦隊」
「?」
「そう呼んでいる」
観察者は言った。それは自分はーーということか?
「何しろ存在自体が無なのでな」
「無…?」
と聞き返したところでウィズは気付いた。目の前に確かにいるこの観察者には、
生命反応が無かった。
* *
プランジは走って走って、壁を突き抜けた。
本当はもう目を閉じて走っていて、目を開けると既に目の前に壁が迫っていたの
だ。
「!!」
やばいっ、とブレーキをかけ前腕で顔をガードしたが間に合わず激突ーーはしな
かった。壁がそのまま抜けて、プランジは中へと転がった。
「痛……」
そのまましばらく踞って痛みをやり過ごすと、プランジは顔を上げた。
そこは薄暗い部屋だった。青い間接照明がある、天井の高い白い部屋だった。プ
ランジは一瞬イエの自分の部屋かと思った。奥に簡素なベッドがあり、そこに誰か
寝ているのが見えた。近づいていくと、女性の様だった。
「……リジー?」
それは、確かにリジーだった。自分と同じ病院服の様な衣服を身に着け、横たわ
っていた。
静かに、眠る様な表情だった。
「………」
プランジは口元に耳を寄せて呼吸していることを確かめた。念のため胸にも耳を
当ててみる。柔らかい胸の感触の奥で心臓も無事鼓動を続けていた。
「ふぅ……」
プランジは安心して、リジーの隣に肩肘を付いて横になった。
どうやら独りでは無さそうだ。ウィズとネコは、どうしただろう。お腹もすいた
な。リジーはちゃんと起きるだろうか。まさかこのまま眠ったままだったりはーー
それにしても、此処は何処なのだろうか。いつの間にかイエに戻ってたりはしない
よね?などと取り留めも無く考えを巡らせつつ、プランジはやがて眠りに落ちた。
* *
「で、そのゼロ艦隊のあなたたちは、何をしている?」
ウィズはベンチに座ったまま聞いた。いつの間にか上体が少し前傾していた。
「あなたたち、と言うのは正しくない」
「ーー?」
「一人だからな」
「……!」
ウィズは小さく息を飲んだ。相変わらず目の前にいる監視者に生命反応は無い。
だが確かに
存在はしている。少なくともそう思える。現に先程グラスを受け取ったではないか。
ウィズは知らないうちに全身のセンサーが誤作動を起こしているのではないかと思
った。もしくは起きた時からずっと悪夢の中なのか?それとも本当に、この不思議
な存在一人だけが艦隊をーー?
「疑念は分かる」
観察者は見透かした様に言った。
「同じだ。ずっとそう思って来た」
「同じ……」
つまり、観察者自身も自らの存在が何なのか分からないということか。あのホシ
のプランジの様に。
「………」
ウィズは考えた。
「…で、あなたは」
そして最初の質問に戻った。
「ここで何をしている?」
「言った通りだ。観察している」
観察者は表情を変えずに言った。
「だがーー」
ウィズは考えながら続けた。
「俺たちが脱出する時に、あなたはあの隕石を撃った筈だ。そして以前にも何度か」
「………」
観察者は黙った。殆ど表情は変化しなかったが、微かな逡巡が見て取れた。
「確かに、観察を越えた」
「何をした?」
「ホシを助けた筈だった」
「筈、と言うことはーー違った?」
「違った」
「どんな風に?」
観察者はまたしばし黙った。
「ーー思った風には、なりはしない」
「………」
ウィズは眉根を寄せて観察者の表情を見つめた。
「だが、してしまう。それが、人間だろ?」
「……?」
妙な言い回しだった。まるで人間で無い者が人間を語っている様な。
「つまり…」
ウィズは考えながら言った。
「あなたは何度も介入している。その結果が今のホシだと?」
「そうでもあるし、そうでもない」
観察者に後悔の表情は見えなかった。むしろ手が届かない、思う様にならない歯
痒さや無力さの方が勝っている様に見えた。
「それにーー」
「?」
「ホシを本当に変えているのはーー」
観察者はウィズを指差した。
「?!俺?」
「それまでは誰も入れなかった」
「………」
ウィズは、自分がホシに来た時のことを考えていた。あの時も、この観察者は見
ていたというのか。あれから何度となく星系をスキャンして助けを探し続けていた
というのに。
それにしても自分たちがホシを変えていたとは?いや、確かにホシの「外」から
来た存在ではあるが、既にもうその一部になっているのではないか。
「あれから、ホシはドラスティックに変わった」
「…………」
ウィズは思った。まだ本当に理解は出来ていない。だがーーウィズは顔を上げた。
「……本当にそうか?」
「とは」
ウィズは観察者をまっすぐ見つめて言った。
「プランジは確かに色々変わったんだろう。だがそれは成長だし、それまでもホシ
はその時々に変わった姿を見せていたんだろうし、結局俺たちも所詮その中の一つ
でしかないんじゃないのか?」
それは、最近になってウィズが心の隅で思っていたことだった。
「プランジ……」
観察者は眉を少し上げて呟いた。
「……そうでもあるし、そうでもない」
そして観察者は繰り返した。
「………」
ウィズはしばし間を置いて、口を開いた。
「じゃあーー聞いて良いか?」
ウィズは確信に触れることにした。
「あの黄色い光を放ったのはあんただったとしよう」
観察者はそっと眉を上げた。
「ではあの緑色の光は何なんだ?」
「『ヒュー』か」
「!?知っているのか」
「前からそう呼んでいる」
「………?」
偶然なのか、それとも必然なのか。ウィズはしばし考えた。
「あなたはその存在を、知っている?」
「知ってはいるーーが正体は分からない」
「何故」
「それを調べる為に、此処にいる」
「じゃあ観察というのはーーホシやプランジじゃなくて、『ヒュー』を?」
「……そうでもあるし、そうでもない」
「………」
ウィズは考え込んだ。『ヒュー』についてはあまり新情報は無さそうだった。こ
の存在は、一体何なのだろうか。
「じゃあーー『ファントム』のことは?」
観察者は瞬きをした。ウィズにはそれが初めてのものに思えた。
「『ファントム』…?」
「あのどす黒いモヤモヤだが」
「あぁ…」
「それは名前が違うのか」
観察者は首を横に振った。
「特に名前など無い。ホシによく起こる現象の一つだ」
「雨や、台風の様に?」
「そうだ」
「何度か死にかけたぞ」
「自然現象でも人は死ぬ」
「………」
禅問答の様だ、とウィズは思った。まだまだ聞きたいことはあるのだがーー焦っ
ても、何も出て来なさそうだった。
観察者は心が読めるのか口を開いた。
「そろそろ休むと良い」
左手を上げて壁を指した。またしてもパタパタと壁の表面が翻り、向こう側の部
屋が現れた。
「……プランジ!?」
ウィズは立ち上がった。
そこには今までの部屋と同じ様な空間があり、簡素なベッドに寝ているプランジ
がいた。よく観ると側にいるのはリジーだった。二人とも自分と同じ病院着風のも
のを身につけている。そしてその二人の側でネコも丸くなっていた。
「ずっとここにいたのか」
ウィズは背中越しに観察者に問う。観察者は姿勢を変えずに応えた。
「ずっとはいない。先程合流した」
「………?」
「食料はそこだ。しばらく休むと良い」
「あ、あぁ……」
ウィズは数歩進んで、二人の様子を確かめた。
背後でまたパタパタと壁が閉じていった。
* *
リジーもプランジもネコも、無事な様だった。
ただすやすやと、眠っていた。
「………」
スキャンしたリジーの体内は、廃墟のホシで見たあの時のままだった。いつの間
にーー、とウィズは思った。
ウィズは部屋の隅に数個並んだ無骨な金属の椅子に腰掛け、側のバスケットに入
っていたリンゴを齧った。割とうまい完熟したリンゴだった。これは一体何処で育
てているのだろうか。齧りながらそう言えばこのフネのことを聞いていなかったな、
とウィズは思った。
此処は本当にあの謎の艦隊の一つの中なのか。
彼らーーと言うかあの観察者は、一体何者なのか。何を知っているのか。
『ヒュー』や『ファントム』について他に何か知ってはいないか。
そして、ホシとは?そこで育ったプランジとは?
相変わらず分からないことだらけだった。これではホシの上にいるのと大差はな
い。
「ふぅ……」
ウィズはため息を吐いた。今日は長い日だった。ホシを脱出して以降、何日が経
過しているのか分かりはしないが。
あの観察者は、ずっと前から見ていたと言っていた。それはいつからだろう。見
ていたのはこのホシだけなのだろうか。ずっと前の自分たちのことは、見ていなか
ったのだろうか。既にホシに来る前のことなど遠い昔のことになっていたが。いざ
こうして「外」に出てみると意外と未練のかけらが残っているものなのだな、とウ
ィズは思った。もしも観察者が自分の全てを見ているのなら、この左目をくれた女
性のことを知ってもいいかーーなどとウィズは考えた。
そう言えばーーとウィズは思い出して、手の中の半分くらいになったリンゴを見
つめた。振動波もレーザーも使えない、と観察者は言っていたっけ。
「………」
少し考えてウィズは試してみるのは止めにした。使えなかったからと言って、そ
れが何なのだ?ウィズはリンゴを体内に押し込むとバスケットを下に置いて数個の
椅子の上で横になった。簡素だが高い天井がイエの自分の部屋を思わせて少し和ん
だ。今は休んでおこう。この先何が起こるのか分からない。やがてウィズは眠気に
襲われた。
夢の中で、タッとネコがベッドから飛び降りた様な気がした。
* *
ネコの声を聴いた様な気がして、プランジは目を開けた。
「………?」
プランジは浮いていた。
「え!?」
そこは薄暗い広大なフロアだった。ちょっとした運動場くらいはある。床から天
井までは百メートル位、プランジはその中間に浮いていた。床や天井は走っていた
あの廊下に似ているが、照明が落ちていたのでもっと硬質なものに見えた。そして
壁の一面はガラスになっていてその向こうには星空と、黒い巨大な棒状のものが数
十機見えた。
「わぁ……」
無重力状態、というやつだろうか。あの日ウィズやリジーと出会った時に感じた
ものだ。自由落下の時のそれとは違う、スピード感とか風圧の無い、無の浮遊。と
言うことは、やはりここはホシの「外」?
プランジは空中を泳いでガラス面の近くまで来た。黒い円柱たちは静かに浮いて
いた。
「………」
窓の端から船体が見えないかとぐるりと見渡してみたが、自分がいる場所の全体
像は全く分からなかった。この場所も、同じ様な黒い円柱の中なのだろうか。
ニャン。
ネコの声がした。プランジが振り向くと、ネコが下方の空中で手足をシパシパさ
せながら必死にニャウニャウ言っていた。
「あぁ……」
プランジは窓を蹴って空中を進み、ネコをキャッチした。そのまま進んで再び床
を蹴り、窓際の方へと浮遊する。
「無事だったんだ…」
プランジは優しくネコの頭を撫でた。ネコはずっとニャウニャウ言っていた。一
体何を言っているのだろうか。プランジはいつものようにパンツのカーゴを探ろう
としたが此処に来て以来の病院着だったことに気付いた。
「ちゃんと食べてる?」
ネコは取り立てて痩せたりはしていない様だが。何とかして水と食料を探さない
とな。
プランジがそう思った時だった。
「!?」
プランジは気付いた。誰か、いるーー!
プランジは振り仰いだ。天井にーーいや、本当はプランジの方が逆さまでそちら
が床の方だったのかも知れないがーーキャスター付きのエルゴノミクス形状の椅子
に座った初老の男の姿があった。古びたコートに軍服姿で全く動かないその佇まい
は、無機質そのものだった。
「え!?」
その男はそこだけ重力があるかの様に、天井に向けて座っていた。プランジとは
逆さまの状態で、二人は相対していた。
「え、えっとーー」
「プランジ」
「!?」
その男は軍服の様な制服に長いコートを羽織っていた。
「自分でそう名付けたのか」
「……?」
誰だ。向こうはこちらのことを知っている様だがーー?
「先に言っておく」
男は硬い石をその固い表情の内に押さえ込んでいる様だった。
「好きじゃない」
「………」
初対面なのに?とプランジは思った。最も、向こうはこちらのことを何かしら知
っている感じだった。過去に会って忘れている、ということもあるかも知れない。
「だからという訳じゃないが」
男は表情を全く変えなかった。
「この艦隊は、時々黄色い光を放つ」
「ーー?」
何だ。何を言っているのだーー?
「意図した訳では無いーー筈だが」
「…………」
何だ?何を言っているのだ?ドクン、と心臓が高鳴った。
男はプランジから全く目を離さなかった。
* *
ウィズは気がつくと艦内ーー本当にそうかどうかは定かではないがーーを歩いて
いた。
前に歩いていた廊下とは違い、薄暗く幅の広い一本道だった。
「マジかよ……」
ウィズは病院着のままだった。身体の各所の痛みは幾分引いている様だ。あの部
屋からいつの間に此処に移動したのか。一体どれ位の間意識を失っていたのだろう
か。
そして、プランジやリジーたちは一体どうしたのか。
「!!」
ウィズの身体のセンサーが生命反応を探知した。その機能は一応生きている様だ。
正しく作動しているかは分からないがーーその反応は一本道の先だった。誤作動で
ないことを祈りながら、ウィズは走った。十分程走ると、その姿は見えて来た。リ
ジーが壁に寄りかかって横になっている。
「……!」
良かった、直ぐに出会うことが出来た。
ウィズはスピードを上げ、リジーの元へ急いだ。本当にどれ程この艦は長いのか、
とウィズは思った。リジーは、海老の様に丸くなって寝ていた。まるでそのお腹を
守っている様に。ウィズはスキャンして異常が無いことを確かめると、そっとリジ
ーを起こして壁に背を付かせた。その旧インド系の顔立ちは少し疲れはあるものの
未だその美しさを保っていた。
「………」
ウィズはゆっくりとその隣に腰掛けた。
リジー、あんたの中にはまだ微かな存在だが、赤ん坊がいるよ。
ウィズはそう心の中で語りかけた。
それが誰の子かは分からない。でもそれは素晴らしいことじゃないかーー。その
子は、どんな人生を送るのかな。
リジーは眠り続けていた。
ウィズはその頬にそっと触れ、その暖かさを感じた。
* *
「じゃあ、今まで見た黄色い光はーー」
男はゆっくりと頷いた。
プランジはようやく理解した。ネコを放し、グッと力を込めた。爪が掌に食い込
んだ。ネコは声を上げた。
「あんたが、ファイを?」
男は僅かに表情を変えて言った。
「そう名付けたのか」
「!!」
プランジは再び窓を蹴った。今度は全力で。その男の方へ猛速で迫った。男は、
表情を変えずに座っていた。受け入れるというのかーー?プランジの全力のパンチ
が顔面に入ろうとした瞬間、その男の椅子はすっと動いた。
「!?」
プランジの拳は空を切り、プランジの身体は床に叩き付けられて反動で壁へと跳
ね返った。
「ぐあっ…!」
治りかけていた肋が再び折れて激しく痛んだが、プランジは再びキッと男の方を
見据え、迷わず壁を蹴った。今度こそーー!やはり直前で椅子が動いた。まるで攻
撃が分かっているかの様に。そのキャスター付きの椅子はまるで意思があるかの様
に、男をギリギリで移動させていた。プランジはしたたかに壁に身体を打ち据え、
激痛と絶望に身をよじった。
「すまないな」
男は少し哀しそうな顔で言った。まるでその避ける動作を自らの意思で行ってい
るのではないかの様に。
「うぅっ……」
プランジは歪む視界の中で椅子の男を睨んだ。肋がかなりやばい状態になってい
るのが分かった。
「何故だーー」
プランジは声を絞り出した。
「何故!」
プランジは全身で叫んだ。
* *
「……!?」
ウィズは、またネコの声を聞いた気がした。
だがその声は激しく叫ぶ様な、真剣な咆哮だった。
「………」
ウィズは辺りをスキャンしたが、リジーと自分たち以外の生命反応は無かった。
相変わらず艦の全体像も分かりはしない。だが、ウィズは何かを感じていた。それ
はーーそう、『ヒュー』だ!ホシに時々現れる、あの緑色の光。その存在が何なの
かは分からない。だが導くもの。今、その存在が近くにいる!
ウィズは立ち上がり、そっとリジーを抱え上げた。
「!!」
突然目の前の景色がフワッと変わった。そこは何度も体験した、星空の中に浮か
ぶ透明な床だった。そして目の前には黒々とした円柱が何本も浮き、その前には脱
力して浮いているプランジとそれにしがみついてニャウニャウ言っているネコ、そ
して椅子に座ったままの観察者がいた。
「プランジ!」
いつの間にか、ウィズは自分が無重力状態にあることに気付いた。プランジも何
とか意識はあるが動けずただ浮いているだけの様だ。何故か観察者だけはその場で
重力がある様に床に着いた椅子に座ったままだった。
「何をした?」
「………」
「応えろ!」
観察者は黙っていた。肘は肘掛けに置き、組んだ手の上に顎を乗せてプランジの
方をじっと見つめていた。が、何処か動揺を必死に押さえている様にも見えた。
その時、星空の中の一番近い円柱の向こうから、夜明けの様に光が見えた。それ
は緑色の様な黒っぽい様な見たことのない光だった。
「あぁ……」
ウィズはそれを見つめた。円柱は斜めにアウトしていき、そこに見えて来たのは
ーーホシだった。一同をその光が照らし出した。
「!………」
ホシは、表面が遺跡の状態のままに見えた。そしてその内部から緑色の光とどす
黒い何かの光ーー恐らく『ヒュー』と『ファントム』のものだろうーーが激しく燃
え盛るコロナの様にホシの上を暴れ尽くしていた。
「ホシがーー」
自分たちが脱出してからどれ位経ったのだろうか。今更ながら、それは小さなホ
シだった。直径が三十キロ、全周百キロ程の本当に小さなホシ。そこで自分たちは
過ごし、そして今はーーー。
「少し前から、こうなった」
観察者は呟く様に言った。
「やつが、そうなったから」
「………!?」
ウィズは観察者が何を言っているのか分からなかった。
「く……」
プランジが呻いた。プランジも、そのホシの姿を視認している様だった。
「か、帰るーーー」
プランジは意識も朦朧としている様だった。だがその目はすっとホシに向けられ
ていた。
「止めた方が良い」
観察者は冷たく言ったが、その中では今にも感情が溢れ出てきそうだった。
「プランジ!じっとしてろ」
ウィズが声をかけたが、プランジはずっとうわ言の様にブツブツ言っていた。
「く……」
壁なりあれば蹴って向かうのだが、とウィズは唇を噛んだ。手足を掻いてはいる
が容易には近づけそうもなかった。
「戻っても、もう何も無い」
観察者は動かないまま言った。
「何だーー何を言っているーー何なんだ!」
ウィズは動きながら怒鳴った。
「……観察している」
観察者はぐっと自分を抑える様に言って黙った。
「………」
ドクンッ。
その時、一同はある脈動を感じた。プランジの身体がフワッと光った。
「!!」
「ニャッ」
「何!」
観察者が身を乗り出した様に見えた。
プランジの身体はどんどん光っていった。ウィズは思った。『ヒュー』だーーそ
してプランジは、『飛ぼう』としている!?
「戻るんじゃない…」
観察者の声が少し震えていた。何かを押さえ切れなくなった様だった。
「もう、終わりなんだ」
「……?」
何だ?とウィズは思ったが、それよりも光り続けるプランジから目を離すことが
出来なかった。
「クッ…」
リジーを反対側に飛ばせば反動でプランジの方に向かえるのは分かっていた。だ
が妊婦を危険に晒すことは出来なかった。もし近づくことが出来ればーーもしも届
くなら、一緒に帰れるかも知れないのにーーだがそれは既に不可能だった。
「帰るんだ……」
プランジはそっと呟いた。その瞬間、プランジとネコの姿は強く光り、そして消
えた。
* *
プランジは、混濁した意識の中でファイのことを思い出していた。
怒りに我を忘れ、その度に跳ね返されたその中で、ファイはずっと哀しい笑顔を
見せていた。そして前回思い出した、ずっと誰かに当たっていた精神的に幼い自分
が重なっていた。そうだ、今も俺はこうしてーーー。やがて身体が動かなくなった
時、光が見えた。それは優しい緑色の光で、いつもの様に自分を導いてくれている
様に感じた。そう、『ヒュー』。自分はずっとそれと一緒にいたのだ。
やがてホシの無惨な姿が見えて来た。それはあの時、廃墟に降り注いだ隕石によ
って荒れ果てていた。そしてその上で『ヒュー』と『ファントム』が戦い、ホシを
破壊している様に見えた。
すんなりと、プランジは「戻ろう」と思った。自然に身体が光り始めるのが分か
った。そう、帰る道はすぐ側にあったのだ。いつもの、身体の中から何かが沸き上
がる様な感覚。全身に力が漲り、そしてプランジは『飛んだ』。ネコも一緒なのが
分かった。
構わないかい。
大丈夫。
そう意識で会話した様な気がした。
* *
ネコはウィズと共にホシを脱出して、気がつくと冷たい空間に独りでいた。
そこは天井が高く広い空間でイエのプランジたちの部屋を思わせたが、少し薄暗
く何処か暖かみに欠けていた。ネコは起き上がって辺りを見回したが全く何も無か
った。ウィズはどうしたのだろう?プランジやリジーたちは無事だったのだろうか
?一通り部屋の周りを歩いてみたが、出口らしきものは無かった。何度か鳴き声を
上げたが反応するものはいない。此処は一体何処なのだろう?歩き疲れてネコは部
屋の隅で踞った。妙に落ち着かなかった。
いつの間にかネコは寝入っていた。恐らくホシに残ったであろう、あの小さなプ
ランジの形をした光の存在、『ヒュー』は一体どうしただろうか。あれだけ不安そ
うにしたまま恐らくあの邪悪なモヤモヤ『ファントム』と共にホシに残って、その
後どうなったのだろうか。それでもネコはまた『ヒュー』に会いたいものだ、と思
った。自分にしか見えない、プランジたちには見えないあの存在は、自分にとって
同種ではないが同じく人ではないもの、何処かで通じ合えるものであったのに。
やがて夢の中なのか、ネコはプランジたちの姿を見ていた。此処と同じ様に広い
廊下を、ウィズは歩いていた。プランジは走っていた。リジーも彷徨っていた。ネ
コは声を上げたが、彼らには届かない。三人とも脱出ポッドに乗っていたときとは
違う、病院着の様なものを身につけていた。だがある時、彼らは何かの声に反応し
た様な仕草を見せた。ここだ、ここにいるよーーネコは力の限り鳴いたが、その声
がちゃんと届いているのかどうかは分からなかった。
ネコは目を覚ました。部屋はやはり広くガランとしていたが、薄く蒼い間接照明
が部屋の端から光を放ち、幾分明るくなっていた。
「……!」
ネコは、いつの間にか部屋の中央に簡素な金属っぽいベッドがあり、そこに誰か
寝ているのに気がついた。近づいてみると、それはリジーだった。先程廊下を彷徨
っていたのは、夢だったのか?ネコはベッドに飛び乗ってリジーの顔を覗き込んだ。
リジーは深く眠っていた。特にケガは無い様だ。ネコは髪をとかしたり頬に頭突き
をしてみたりしたが、リジーは起きなかった。ネコはそっとその腹に乗ってハコを
組んだ。暖かい人肌の感覚がネコを和ませた。呼吸に合わせて小さく上下しながら、
ネコはリジーの心臓の音を聴いて喉をゴロゴロと言わせた。その時突然、ネコは分
かった。リジーの中に、新しい生命が宿っているということを。勿論まだ心音など
聞こえない。だがネコは確信した。ネコはそうっと腹から降りて、脇の間のスペー
スで横になった。
次にネコが見たのは、ベッドに寝ているリジーの元にプランジがやってくるイメ
ージだった。だがそこにネコ自身はいなかった。何故なのだろう。浮遊霊か何かの
ように、その光景をネコは俯瞰で眺めていた。プランジはリジーを見つけて安心し
た様で、リジーの側に横になっていた。
ネコの見ているその景色は、瞬間で入れ替わった。そこは同じく広い簡素な部屋
で、ウィズと椅子の男が相対していた。言葉はぼそぼそとしていてよく聞き取れな
かったが、話している内容は何故かネコには分かった。『観察者』という存在。今
までの自分たちをずっと見ていた人間がいるということ。だが、ネコには少し気に
なることがあった。観察者の存在が、プランジたちやファイたちの様にホシにいた
人間とは全く違う、「無」に近かいものだったからだ。そのことはウィズも感じて
いる様だった。ネコは言いようの無い不安を感じていた。
次に意識したとき、ネコはプランジやリジーの側で丸くなっていた。微睡んだ中
で、恐らくウィズのであろう大きな手に優しく頭を撫でられて自然に喉がゴロゴロ
言っていた気がする。あぁ、ようやく三人が揃った。また新しい世界が始まるのか
も知れないーーネコはそう思った。
やがて目を覚ましたネコは、タッとベッドを飛び降りた。ウィズも既に寝入った
様だった。残っていた食料を口にしていると、壁の一部がいつの間にか開いている
のに気付いた。ネコは何かを感じて外へ出た。外は、プランジたちが彷徨っていた
あの天井の高い廊下だった。誰かが呼んでいる?誰だろうーーネコは走った。ひょ
っとしたら、あの小さな光の『ヒュー』が現れたのかも知れない。ネコは長い廊下
をずっと走っていた。だが何も発見出来なかった。やがて、その廊下はまた星空へ
と姿を変えた。透明な床の上を、ネコは走っていた。ネコは立ち止まって辺りを眺
めた。そこには、ホシの姿が見えていた。全体が廃墟となったホシ。宇宙に浮かん
だその姿は、赤黒く錆に覆われていた。そこはあの隕石の破片に寄るものなのかあ
ちこちで炎が吹き上がっていた。自分たちはかつてあそこにいたのだ。このホシは、
この先どうなってしまうのだろうか。ネコは少し切ない思いに囚われた。
「!?」
ネコは気付いた。その星空の下方に、椅子に座った先程の観察者がいたのだ。先
程感じた通り、その存在は「無」だった。それは、じっとネコを見つめていた。ネ
コはいつでも逃げられる様に姿勢を低くして構えた。だが何処へ逃げるというのだ
?
「 」
観察者が何か喋った。
「ーー!」
ネコは目を見開いた。
突然ネコの視点が、観察者のそれと同化した。観察者から見た星空の中に佇む自
分の姿を目にして、ネコは混乱してフギャーッと声を上げて飛び上がった。その瞬
間ネコの身体は宙に浮き始め、またネコは驚いた。無重力状態になったのだ、とい
うことは分かった。だが観察者とその椅子は特に浮き上がった様子も無くその場に
ずっとあった。その視点すら観察者側からのものでネコは更に混乱した。
いつの間にか、風景は変わっていた。星空とホシだった風景は壁に囲まれ、一面
だけが窓の広い空間に変化していた。窓の外は星空と、見慣れない巨大な黒い円柱
がいくつも浮かんでいる。観察者はその床にくっついたキャスター付きの椅子に座
っていた。そして、いつの間にかプランジがそこにいた。ネコは声を上げ、プラン
ジの方へと浮遊していった。ネコはプランジに抱かれたが、その視点もまた観察者
のものだった。プランジは観察者に気付いた。観察者はーーネコは、話し始めた。
今まで見たあの黄色い光の柱は、この艦隊たちが放ったものであること、それは同
時にファイの時のあれをも含んだーー当然プランジは激高した。プランジは壁を蹴
って飛びかかって来た。それは当然だーーネコは思った。衝撃を覚悟したその時、
椅子が動いた。それは勿論ネコの意思では無い。観察者の意思でもない様に見えた。
プランジは壁に激突し、身もだえた。それから何度もプランジは飛びかかり、その
度に椅子は避けプランジは ダメージを負った。それをネコは浮いたネコ視点と観察
者視点の両方で混乱したまま目撃していた。あぁ、当てさせれば良いのに、むしろ
当たってあげたいのにーーネコはそう切なく思った。
やがて、ウィズがリジーを抱えてその場に現れた。そして目の前の巨大な黒い円
柱がスライドしたその向こうに、どす黒い色と緑色の二つの光が暴れ狂う廃墟のホ
シの姿があった。あぁ、いつの間にかホシがあんな姿にーーあれは恐らくあの邪悪
なモヤモヤ『ファントム』とプランジが名付けた方の緑の光『ヒュー』なのだろう。
それが今、ホシの上で光と影の様に争っている。それでホシが崩壊しようとしてい
る。それはプランジの感情そのままだーーあの中で、小さな光の方の『ヒュー』は
一体どうしているのだろうかーーネコは二つの視点でそう思った。プランジは虫の
息の中でそのホシの姿を視認し、帰ろうとしていた。ネコはーーいや、観察者は、
そこで動揺を見せた。「行ってはダメだ」というようなことを口にした。何故なの
だろう?「終わり」だとも言っていた。何のことだ?只の観察者である筈なのにー
ーそれはネコの「置いていかれたくない」という気分をも取り込んでいるからだろ
うか。それとも実はそもそも自分こそが観察者だったというのか?ネコはずっと混
乱していた。
その時、ネコは、一同は『ヒュー』の脈動を感じた。プランジの身体が光り始め
た。ネコは一方の感覚でプランジにしがみついた。これはーー『ヒュー』が呼んで
いる!?ネコは混乱していたが、とにかくプランジと共にもう一度ホシへ行こうと
思った。あの小さな光の『ヒュー』にまた会うのだ。ネコは例の身体の中から何か
が沸き上がってくる様な感覚を覚えた。それは何度目かの、不思議な感覚だった。
そして、プランジとネコは『飛んだ』。
その光の中で、確かにネコは「大丈夫だよ」と言った。
プランジと一緒ならば。




