18「Blue」
今回、イエにエレベーターが現れ、それに乗ったプランジは
上階のとある部屋で青年に会います。
それは一体誰なのか…?っていう話です。
あれから、プランジは少し考えていた。
前回ホシに来たスナイパーのことだ。
あの時の状況がギリギリだったことは分かっているが、撃ち合わずに話す方法は
本当に無かったのだろうか。もしあったのなら、また別の展開になっていたかも知
れないのに。
ウィズにそれとなく聞いてもみたが、「無理だった」と即答だった。ウィズはウ
ィズで思うところがある様に見えた。あのスナイパーとは、過去に何かがあったの
かも知れない。
それからしばらく、ホシは凪の様に何も起こらず静かな日常が続いていた。
ウィズは相変わらず暇を見つけては車を直していたし、リジーも洗濯したり料理
をしたりと普通に過ごしていた。
プランジも、ファイのことから少しずつ立ち直って来ている様だった。彫刻や絵
も普通にやり始めたし、パルクールも続けている。只一つ、このホシでの「死」に
まつわることーーは、何処かでずっと引っかかっていた。ここ最近ホシに来た人達
は皆何処か暗い影を持ち、このホシから消えた、というよりは「死んだ」に近い形
でいなくなっている。
このホシが、少しずつ変わろうとしているのだろうか。それとも、あの邪悪なモ
ヤモヤ『ファントム』が何か影響を及ぼしているのか、それともあの緑の光『ヒュ
ー』がこのホシに及ぼす何かが変わりつつあるのかーープランジはそんなことを思
いながら、今日もイエの上階の無限の部屋に来ていた。
「……」
プランジは何となく入ったガランとした部屋の丸い窓に近づいて、外を眺めた。
ネコはその瞳を不思議そうに眺めていた。
その薄緑色の瞳には、いつもの草原と良く晴れた青空が映っている。
ーーうん、今日もいい天気。プランジは笑みを浮かべた。何処かで気にかかって
いるとはいえ、くよくよ悩むのは性に合わなかった。プランジはその部屋を出て少
し伸びをすると、螺旋状の廊下を走り出した。ネコも何となくついて来ていた。
* *
「プランジは?」
ガレージで車をいじっていたウィズが顔を上げると、リジーがアイスティーを持
って来ていた。
「さぁ…無限の部屋かな」
ウィズは言いながら起き上がり、グラスを受け取ってグッと飲み干した。
「サンキュ」
二人は外の青空が映り込んだ車体を眺めた。
「動きそう?それ」
「まぁな…」
少々埃は被っているものの、実際はほぼ修理は終わっていた。だが、それよりも
ガスが殆ど無いことの方が深刻だった。今タンクに入っている分だと、エンジンを
かけたとしても五分もしないうちに動かなくなることだろう。こんなことならあの
麦畑の時にバイオ燃料でも作っておけば良かった、と後になって気がついていた。
だが既に、動かすことが目的ではなくなってきていた。少しずつ何かを組み上げ
る作業こそが、今は愛おしくなっているのだった。
「…ところでさ」
ウィズはアーミージャケットのポケットに手を入れてゴソゴソやって、車を眺め
ているリジーに手を差し出した。
「ん?」
掌で受け取るリジー。
「わ」
そこには、リジーのリボルバー用の弾丸が二発乗っていた。
「どうしたのこれ」
「ライフル用のをバラして作った」
「器用だね」
「まぁ…一度、試し撃ちしていいか」
「うん」
リジーはグラスを置いてそっと腰のリボルバーに手をかけた。
それはよく晴れた、素晴らしい日の午後のことだった。
* *
「……なんだこりゃ」
プランジは、イエの上方の巨大な螺旋状の廊下のとある部屋の前で立ち尽くして
いた。
走るだけ走った後に、何となく開けたドア。そのドアは表面は他と同じだったの
だが、開けると更に鉄棒が斜めに組合わされて横に開く形の鉄格子があり、その向
こうは大きなケージ状の部屋になっていた。そのケージのすぐ後ろには壁が見えて
いて、その壁と床の間は少し隙間がある様だった。
ネコも目を丸くして鉄格子の匂いなど嗅いでいる。
プランジはやがて気付いた。
「エレベーターだ」
それはディスクで観た古い映画の中に出て来たものだ。勿論、それはこれよりも
小さなトイレスペース程度のものではあったが。
「……?」
プランジはそっと鉄格子を開け、中を覗き込んだ。中は意外と広く、十メートル
四方程はあった。これって外から見たら左右の部屋に食い込んでるんじゃないのか
?とプランジは思ったが、そんなことはこのホシやイエではよくあることだった。
「ニャウ」
側でネコが何か言っている様だった。プランジはそっと振り向いたが、やがてそ
の部屋の中へと踏み出して行った。
* *
ウィズたちは作業用の小さめのテーブルを外に出していた。
バイスにリボルバーを固定し、離れたところからワイヤーでトリガーを引こうと
していた。
「銃、壊れないでしょうね」
「一応加減はしてあるが…」
「大事なんだよ」
「了解」
ウィズは苦笑してワイヤーを握り構えた。
マズルの先は離れたところに置いた空き缶に向けられていた。
「ナムサン」
「何それ」
「旧オリエンタルの呪文だ」
ウィズはそっとワイヤーを引いた。段々テンションがかかっていきシリンダーが
回る。あるところでそれが解放された。
タンッッ!
銃声が虚空に響き、空き缶が宙に舞った。
* *
「えっ!!」
プランジはバランスを崩して膝を付いた。ネコも一瞬飛び上がってプランジの背
中によじ登った。部屋はそのままだが、壁が下へとずり落ちている。いやーーエレ
ベーターの方が上昇しているのだった。それは、プランジたちには初めての感覚だ
った。
プランジは鉄格子横のパネルを観た。特に階数ボタンを押してはいない。という
かそんなボタンはそもそも存在していなかった。鉄格子の上の方を見ると、半楕円
形の時計の文字盤のようなところを矢印がゆっくりと右に倒れて行くところだった。
それが何を意味するのかは分かっていた。だがそこにあるべき階数表示は無い。
「……?」
プランジは頭に立てられたネコのツメの痛みを感じつつ表示を見つめていた。随
分と長い時間上がっていた様な気がした。
ーーチン!
軽いベル音がして、部屋の上昇が止まった。
「……えっと……?」
入り口の鉄格子の向こうにはドアらしきものがあった。ノブは無く、押し板があ
った。外へ押して開くタイプのものの様だ。
プランジは鉄格子を開け、そっとドアを押して開いた。意外と扉は重かった。
「………!」
ネコは目をまん丸にして外の光景へ目をやった。
* *
ウィズは穴の開いた空き缶を拾い上げて見つめた。
「まぁ大丈夫そうだな」
「もう一発はどうする?」
「どうしたい」
「……」
リジーはバイスの方のリボルバーを見つめた。
やがてリジーは振り向いて言った。
「…撃ってみたい」
「そうか」
多分そう言うだろうとウィズは思っていた。
空き缶の穴の開いていない方の面を向けて置き、テーブルまで戻ってバイスから
リボルバーを外した。一応シリンダーを開けてカートリッジを確認する。問題無い
様だった。
「んじゃ、気をつけて」
「了解」
リジーはリボルバーを受け取り、先程より少し下がってから狙いを定めた。
「……」
クッキリとした青空に少し目をやってから、リジーは狙いを定めトリガーを絞っ
た。
* *
「……誰?」
「あんたこそ、誰?」
プランジは窓と一つのイス以外何も無い部屋で、一人の青年と相対していた。
ドアを開けると、そこはエレベーターと同じくらいの十メートル四方、天井もそ
れ位ある部屋だった。ドアの反対側にはめ殺しの窓があり、その前の窓を向いた簡
素なイスにその青年は座っていた。
青年は最初肩越しに向いてプランジを確認すると、ゆっくりと立ち上がった。
青い目をした、プランジより少し高い背丈の青年だった。だが少し痩せ気味で、
体重はプランジの方がありそうだった。恐らくプランジよりは少し年上ーーウィズ
くらいだろうか。少し眠そうな目をしていて、ウィズとは別の意味で大人びた表情
をしていた。その作業着とも囚人服とも思えるダボッとしたリネンの上下に素足で
フラリと立った姿は、力を感じさせず同時に何処かしなやかさも備えている様だっ
た。
「俺はーー」
その青年は喋り出した。威圧的でもなく自慢げでもなくぶっきらぼうでもないが、
ただ優しいだけでもないフラットな喋り方だった。
「ここの、持ち主」
「え?!」
プランジは最初意味がよく分からなかった。てっきりまたこのホシに来た人なの
だと思っていたからだ。
ネコがタッとプランジの背から降りて歩き出した。
「えっとーー?」
「って訳で、家賃」
そう言って、青年は軽く手を差し出した。
「あーーえ?」
「タダで住めるなんて思ってないよな?」
「え、えっとーー」
プランジは思わずカーゴパンツを探ったが、永遠のコインランドリー用のコイン
が数枚あるだけだった。
「しけてるんだな」
「す、すいません」
一応謝っておいたが、そもそもそれは本当に真実なのだろうか。そしてプランジ
はそれよりも青年の奇妙な佇まいと窓の外の方が気になっていた。
少し止まったプランジに、青年は眉を上げて言った。
「嘘だよ」
「…え?」
「家賃とか嘘。俺のものはこの部屋だけ」
「あ…そうなんだ」
プランジは肩の力を抜いた。
「あの…窓、いい?」
「?!…いいけど」
プランジは窓に近づいていって外を見下ろした。
「?!ここはーー」
外に広がっていたのは、明らかにホシとは違う巨大な黄色の乾いた惑星の姿だっ
た。
* *
タンッッ!
乾いた音が辺りに響き、空き缶が再び宙に舞った。
「おー」
「割といい腕だ」
「ウィズ程じゃないけどね」
二人は顔を見合わせて笑った。
そう言えば、ブリンキングって楽しいものだったっけ。リジーは久々の爽快感を
感じていた。
「これまた作れる?」
「まぁ数発なら」
「じゃあお願いしようかな」
リジーがそう言いながらテーブルの方へ踏み出した時、フッと膝が抜けてリジー
の身体は前に倒れ込んだ。
「あっ」
ガシ、とその身体を支えたのはウィズの腕だった。
「どうした」
「いや…」
まさかまた目眩が?と一瞬怯えた表情になるリジー。
「………」
ウィズは黙ってリジーを立たせると、リジーの頭をポンポンと叩いて空き缶の方
へ歩き出した。
「…ありがと」
リジーはそっと呟く様に言った。
ウィズは拾い上げた空き缶の穴を少し眺めて、くしゃっと潰してみせた。
二人の上には、雲一つ無い青空がどこまでも広がっていた。
* *
「ずっと此処に住んでるんだ」
「あぁ」
プランジと青年は、窓辺に分かれて腰掛けて話をしていた。ネコはもう警戒を解
いたらしく、青年の膝の上で丸くなっていた。
青年によると、いつの頃からかこの部屋で暮らしていたらしい。それ以前の記憶
は無い様だ。それはちょうど自分とホシの様だ、とプランジは思った。とは言え、
窓から広がる黄色く乾いた大地は特に変化することは無いらしく、青年はさぞ退屈
しているのだろうなとプランジは思った。
「んー、そうでもない」
青年は力の抜けた感じで少し笑った。
「食事とかトイレはどうしてるの」
「メシはサプリとプロテインバー。トイレとかシャワーはあそこ」
と言って青年は窓辺から降りていき、側の壁を触った。ネコもトコトコついてい
った。
音も無く壁が細かい格子状に別れ、パタパタと折り畳まれる様にして消えて行く
と、そこには小さなユニットバスが現れた。ネコはビックリしてまたプランジによ
じ上った。
「いたた…」
プランジが少し痛がりながら見ると、その隣には先程言っていた食料や水の倉庫、
折りたたみ式の簡素なベッドらしきものもあった。
「わぁ…」
そこはイエの無限の部屋の様に、時々自然に補充がなされているらしい。つまり、
この部屋だけで生活は完結しているのだった。
「そっかぁ」
プランジは自分が入って来た入り口の方を観た。押し戸の反対側は通常引く為の
ハンドルなりノブなりあるものだが、そこには何も無かった。
「それ、こっち側からは開かないんだ」
「へぇ……?」
プランジは側に寄って手をかけ力を入れてみたが、ドアは動かなかった。
「あんたみたいに向こうから入ってくる時だけ開く」
「そっか…前にも誰か来た?」
「あぁ、色々ね」
そこも自分のホシと同じだ、とプランジは思った。
「………」
だがーー恐らくそこで辛い経験も色々したのではないだろうか、とプランジは思
った。青年の妙に大人びた感じと深い青の瞳が、そう感じさせていた。
「ふぅん…」
「一応、水」
青年が簡素なセラミックのコップに水を入れて差し出していた。
「あぁ、ありがとう」
プランジは、不思議な気分だった。先程の話だと、どうやら自分は帰る方法を失
っているらしい。それはそれで厄介だがーー今は、この場所が少し気に入っていた。
何ならドアをぶち破るなり窓を破るなり、色々方法はあるだろう。
プランジはグラスを持ったまま窓際に移動した。少し飲んで肩に乗ってきたネコ
に残りの水を差し出すと、ネコは顔を突っ込んで舌をペロペロさせて飲んでいた。
「そういえば、ネコ用のゴハンって、ある?」
「んー、シリアルを砕くしかないかな」
「そっか」
じゃあ多分、それも大丈夫。プランジは外を眺めた。
空は砂のせいか少し黄色がかっていた。それは、上空までずっと続いている様だ
った。
「青空が、見えたらいいのになーー」
「…アオ?」
青年が不思議そうに聞いて来た。
「えっと、……?」
話してみると、青年には青みがかった空が観えているらしかった。いや、空だけ
ではなく部屋やプランジも、視界全体が青いフィルターがかかって見えている様だ
った。
「それはーー」
プランジは思い出していた。
ホシで晴れた日に目を閉じてずっと太陽の方を向いていて、そこから目を開くと
世界がまるで青いフィルターがかかった様に見えたりする。それはほんの十数秒で
元に戻ってしまうのだがーーそれが青年の場合はずっと続いているということだろ
うか。
プランジは青年の瞳をじっと見つめた。その深く蒼い瞳は、何処までも澄んで見
えた。
* *
「プランジ、遅いね」
バイス付きのテーブルを片付けたウィズとリジーは、何となくイエの側を散歩し
ていた。
「まぁな…」
ウィズはリジーの少し後ろを歩きながら水筒を差し出す。
「…ありがと」
心配してくれているのだな、とリジーは少し笑んだ。水筒を受け取ってフタを開
け一口飲む。
先程よりは少し気分は落ち着いた様だった。
今、二人はイエの側を通ってホシを一周している道:通称ミチの上を歩いていた。
二人の右手には、白くそびえ立ったイエが見えている。
「………」
ウィズは何となくイエの上方を見上げていた。いつもと少し上の方のディテール
が違っている様にも見えたが、いつものことなので特に気にはしなかった。思いつ
いて辺りを探ってみたが、特に『ヒュー』…このホシに時々現れる緑色の光の気配
はしなかった。
「この辺りだっけ?」
リジーが振り向かずに目を足元に落としたまま言った。
「ん?」
「ほら、雪原の地下室で閉じ込められた時」
「あぁ……」
それは、プランジとリジーが恐らくこのホシとは違う場所で閉じ込められた時の
話だった。ウィズは雪の中必死に探して、『ヒュー』のお陰でようやくこの辺りの
地下にいるリジーたちを発見したのだ。
ウィズたちは立ち止まってミチの地面を眺めた。
「色々あったよな」
「ねぇ」
二人は、しばしミチの上で佇んでいた。
「……下、観てみるか?」
ウィズは左手の掌を見せた。そこのパーツは振動波を起こせ、ミチの下を通って
いるであろう永遠の廊下へと穴を開けることも出来た。
リジーは少し考えて首を振った。
「ううん…今はいいかな」
「…了解」
二人は顔を見合わせて笑んだ。ゆったりとしたいい気分だった。
* *
「じゃあ、そっちのことを聞こうか」
ネコは再び青年の膝の上でピクリと耳を動かした。
青年とプランジは一通り部屋を見て回るとまた窓辺に座り、お互いのことを話し
ていた。
青年は、「生きる力が足りない」のだと言った。それでも、此処で生きているの
だと。プランジはよく分からなかった。自分も同じ様にある種閉鎖空間で過ごして
はいる。だが時に映像を見たり、パルクールや彫刻や絵に勤しんだり、ただホシを
走ったりと色々行動は起こしていて、それはそれで楽しくはある。ただーー全てが
自分一人の自己満足で終了しているのではないか、と言われればそれまでなのかも
しれない、とも思っていた。最近になってウィズやリジーたちと過ごす様にはなっ
たものの。そしてホシに来る人々たちとも多少は交流を持つ様にはなったものの。
「でも、所詮自分の世界内のことじゃないか、って思ってる?」
「…かな」
青年は相変わらず大人びた表情で薄く笑んでいるだけだった。
プランジはーーこの人は、若く見えるが一度人生を過ごした人なのだ、と思った。
自分は、やっぱりまだまだなのだ。だからこそ、ファイのこともーー。思い出して
胸がチクリと痛んだ。
「ホシとマルの話、しようか?」
「え?」
青年がぽつりと話し始めた。
「何か描くもの、ある?」
「あ、えっとーー」
プランジはカーゴパンツを探って、デッサン用の短い鉛筆を渡した。
青年は窓辺に☆マークを描いた。ネコはその様子を興味深げに眺めていた。
「これがあんた」
そしてその☆マークを◯で囲んだ。
「これが世界」
「……?」
「だから、狭いと思うんだろ」
プランジは頷いた。
「動こうとしても☆の尖ったとこがいつも壁に当たって痛む」
「…うん」
青年は乾いた感じで続けた。
「でも、それは尖った方に動くからなんだ」
「?」
青年は☆マークの回転方向に矢印を描いた。
「こっち方向なら大丈夫」
「まぁ、そうだね…」
「もっとグリグリ動いても当たらない方法を、やがて見つけてく」
そして青年は☆マークを一つ、別に描いた。
「それが分かれば、壁なんて無い、広い世界に出たのと同じになる」
☆マークから広い軌道が無限大マークの様に描かれた。
「…まぁ、言葉遊び的な感じだけどね」
青年は少し笑んだ。
「うん…」
プランジは、やはりこの人は自分ーー別の人生を歩んだ、自分なのではないかと
思った。もしくはこの先色々経験して人生を終える辺りに差し掛かった自分ーーそ
の姿なのではないか?
その時、ホシは、イエはこんな風に変化しているのかもーーそんな思いが浮かん
だ。
「そっかぁ…」
プランジは窓の外へ目をやった。相変わらず黄色く乾いた大地と煙った様な色の
空が見えていた。だがこの光景も、青年には蒼く見えているのだ。
「………」
プランジは少し切なく思った。
「……!」
プランジはふと、遥か下の黄色く乾いた大地に、人影を観た様な気がした。
「……?」
それはプランジの20はある視力でも遠すぎてはっきりとは分からなかったがー
ープランジには男女ーーウィズとリジーが歩いている姿の様に見えた。
* *
ウィズはイエに戻りつつ、視線を感じた。
それはイエの上方ーー細く長く伸びた先で、先程少しディテールが変わった様に
見えていた辺りだった。
「どした?」
先に歩いていたリジーが振り向いて言った。
「いやーー」
ウィズの高性能な眼は、その中の窓の一つへと寄っていった。そこには人影が二
つある様な気がした。
「誰かいる」
「え?」
「あれはーー?」
ウィズは自らの極限の目で寄ったが、その人影ははっきりとは見えなかった。
普通に考えればプランジなのだが、そのガラスの向こうの姿は妙にボンヤリとし
ていて見えなかった。側に小さな影も見えるので恐らくネコだろうと予測は出来た
が、ならばもう一人は誰なのだ?
「多分、プランジだが…誰かといる」
「?!また、誰か来たってこと?」
ウィズとリジーは顔を見合わせた。特に隕石の反応は無かった。『ヒュー』の気
配も今のところ感じなかった。
「…どゆこと?」
「そりゃあまぁ、いつもの、かな」
「……」
「さて、どうするか」
ウィズは再びイエの上方に目をやった。
白亜の塔はいつも通りの青空に映えた凛とした佇まいを見せていた。
* *
「ウィズ?」
プランジには、二人の影が立ち止まりこちらを見上げている様に見えていた。ネ
コも、じっと下方を見つめていた。
プランジはガラスを叩いた。
「リジー!」
結構な力で叩いたものの、その分厚いガラスはびくともしなかった。
「多分無理」
青年は冷静に言った。どうやら試したことがあるらしかった。
「……」
プランジは先程のセラミックのコップを手に取った。ネコは察して窓辺から飛び
降りた。
「それ…」
「ゴメン、此処壊すかも」
「いいけど…多分無理」
それもやったことがある様だった。
だがプランジは力をためてガラスに向けコップで掌底を放った。
ガッ!
プランジの身体が衝撃に震え右手と肩の骨が軋んだ音を立てたが、ガラスには傷
一つ付かなかった。
「………!」
プランジは部屋の中を見渡して少し躊躇した。
「…いいよ」
「え」
「好きなだけやってみても」
「…ゴメン」
「壊れたとしても、そっちのイエみたいにいずれ直るから」
最後まで聞かないうちに、プランジはドアに突進していた。
まずは肩口からぶつかった。それから蹴りに掌底にといつもの調子で衝撃を与え
続けたが、ドアはビクともしなかった。
「………」
そう言えば、向こうからの押し戸だったっけ。プランジは少し息を整えると、カ
ーゴから彫刻刀を取り出してドアと壁の隙間に当てた。
「……!」
壁は固く、チタンとはいえ容易に刃先は入らなかった。
「クッ……!」
ネコは怯えた様に耳を下げてその様子を見つめていた。
「………」
青年は窓辺でイスに座って、遠くの空を見つめていた。
「やっぱり、帰りたい?」
やがてぽつりと青年は言葉を発した。
「……え?」
プランジは肩を上下させながら振り向いた。
青年は背中越しに尋ねる。
「帰らなきゃ、いけない?」
「………!」
プランジは一瞬だけ考えて、こくりと頷いた。考えるまでもなかった。
「………」
青年は少し驚いた様な顔をして、それからゆっくりと笑った。
「いいね……」
「……え?」
プランジはフッと力を抜いた。それほど、深い笑みだった。
「…悪い」
「ん?」
青年は立ち上がって、ドアの方へ歩いて来た。
「多分、俺が望めば開くんだ」
「な…え…?!」
「だから悪いって…今の今まで、望まなかったし」
青年は悪びれずにドアの前に立ち、力を入れてそれを押した。
「え?」
ドアは軽い感じで開いた。プランジは眼を丸くしたが、それ以上に扉の向こうか
ら吹いてきたそよ風にハッとなった。
* *
ウィズは、外壁を登っていた。
最初は永遠の廊下をかけ上がっていたのだが、開けても開けてもその外の風景は
高さが上がらずやがて窓を破って外壁を登り始めたのだ。
ウィズは器用に出っ張り等を利用し、また時にはワイヤーなども使いながら着実
に上がっていった。流石にプランジのパルクール程とはいかないが、十分早い速度
だった。
だが、プランジの見えた窓辺りはまだまだ先だった。
「………」
ウィズもプランジと同じく、イエの頂上を見ようと今までに何度か挑戦はしてい
た。だが数日を要しても結局たどり着くことはなく、諦めていた。かつて、自分た
ちがこのホシに来る直前でプランジが見たと言うイエの頂上。話に聞くそれは、と
ても素晴らしいものに感じられていた。そして一度、あの深海の底で見たかなり離
れた場所にある別の頂上のこともーー。
だが、今は頂上じゃなくていい。プランジたちがいるところまででいい。あの高
さなら、丸一日登ればーーいや、このイエやホシに限って、油断は禁物だ。それは
ウィズも覚悟の上だった。
だがーー何故、自分はこうして登っているのだろうか?黙って帰りを待つ、と言
う選択肢もあったのではないか?と今更ながらにウィズは思う。
でもまぁーー行かなきゃな。そう感じていた。
リジーは、再びイエの外に出て登っているウィズを見つめていた。
最初は自分も一緒に行こうかと言ったが、ウィズに一人の方が早いし何かあった
時に下で待っている人間がいた方が良い、と言われて残ったのだった。
「………」
今もリジーは上方を見上げて立ち尽くしていた。
何か、自分に出来ないだろうか。そう思いながらリジーは何となく握ったままだ
ったリボルバーを眺めた。恐らく、またこのホシで何かが起きているのだろう。だ
がそれが何なのかは分からない。じわりと奥底で焦りが渦巻いていた。
その時、リジーは何かの音を聴いた様な気がした。
「……?」
リジーは後ろの方を振り返った。特に何もない、いつもの草原が広がっているだ
けだった。
「何……?」
リジーは再びイエの上方を見上げた。先程まで見えていたウィズの姿は既に見え
なくなっていた。
「?!」
リジーは焦ってその姿を探した。まさか、落ちたりしてないよね?
散々イエの周りを回ったりしたが外壁にウィズの姿は見えなかった。リジーは呆
然とした。
また、このホシで一人なのかーー?
リジーはフラッとよろめいてハッとした。
目眩ーー!
リジーはガクと膝を付いて大きく呼吸した。
落ち着いて、今は落ち着いてーー。
「!?」
その時、リジーはまた微かな音を聴いた。それは、地下の何処かで、何かが小さ
く崩れる様な音。
「何ーー?」
握っているリボルバーがふわっと暖かく光った様な気がした。
「!!」
そういうことかーーリジーは、全てが繋がった様な気がした。
振り向いて再び後ろを見る。そこには草原とーーそう、さっきウィズと歩いたミ
チがあった。
音がしたのは、その地下ーーかつて閉じ込められた、雪原の下の地下室があった
場所。
何故かリジーは確信していた。あの時の様に、同じホシに見えるが違う場所に、
プランジもウィズもそれぞれ別れてしまったのだ。それが再び繋がるにはーー自分
も、あの場所に行かなければ。
リジーはミチへと走っていった。
ミチには、小さな亀裂が入っていた。少し力を入れて蹴るとそこはあっさりと崩
れ、人が通れるくらいの穴が開いた。
「………」
リジーは、周りが崩れない様にそうっと中を覗き込んだ。
* *
ドアの向こうは、草原だった。
ドアをくぐるまでもなく、一、二歩進むとドアや先程いた部屋は消えていった。
「………?」
青年は気にせずスタスタと歩いていった。
「ここが、あんたのホシ?」
プランジは辺りを見回しながら歩いて来た。ネコはプランジの肩の上で不思議そ
うな顔をしている。
「いやーー似てるけどーー」
地平線の感じはホシの小ささを思わせるが、勿論イエの姿は無かった。
だが、既に何処か懐かしい、この感じはーー一体何なのだ?
二人と一匹は、ゆっくりと歩いていった。
「……!」
プランジは少し先に、小さな丘があることに気がついた。何故か先程までは気が
つかなかったものだがーー
「あぁ………」
プランジは、気がついた。歩きながら、自然に涙が溢れて来ていた。
ネコがタッと肩から降りて、先に走っていった。行った先の丘の上にはーー小さ
な石盤が埋まっていて周りに小さな花が咲いていた。
「……あれは?」
「墓だ…」
プランジは走り出し、石盤の側にしゃがみ込んだ。
「やっぱり……」
ーーファイの墓。ファイが死んだ後、ウィズたちと作ったものだ。プランジは自
分が刻み込んだ『ファイ』の文字をそっとなぞった。だがその石盤やその周りは、
既に数十年を経たものの様に古くなっていた。
「これはーー?」
「あんたの頭の中、って感じかな」
プランジは青年の方を振り向いた。
「……え?」
青年はゆっくりとプランジの側に座り込んだ。
「良い場所だな…」
「あ…あぁ…」
青年は目を閉じて日の光を浴びていた。
「あの部屋でさ」
そして、青年はそっと話し始めた。
「前にも何人か、来たんだ」
「うん…?」
「俺はもう部屋で過ごすことにしていたから、特に興味は無かった。あんたが来た
ときの様に、時々相手をしていた」
「うん……」
青年は目を開いて言った。
「正直、どっか飽きてたんだ」
少し苦笑の表情を浮かべる。
「みんな、少しだけ話をすると消えていった。あんたのホシの様に」
「……」
「何なんだろうなーー今思うと、所詮自分の青フィルターでしか感じてなかったっ
ていうかーーでもだからこそあの部屋にいたっていうか」
プランジは、青年の言っていることが、何となく分かる気がしていた。
プランジのホシに来る人たち。時にぶつかったりもするが、本当に悪い人、自分
に害を為す人はいなかったのだ。恐らく前回のスナイパーでさえ。それは、そうい
うホシだからーーというか、自分のフィルターを通してくる人だけが現れているの
ではないか、ということはずっと何処かで感じていた。それは、自分の弱さでもあ
るのだろう。そのせいで、ファイは死んだ。そしてだからこそ、あの時ファイと見
た『外』へ、自分は憧れを感じるのではないだろうか。
「俺はーー」
プランジは、口を開いた。
「どうだったの、かな」
青年はチラリとプランジを見てからまた空に目を移した。ネコはいつの間にか青
年の側で丸くなっていた。
「そりゃあ…眩しくて少しザワザワする」
「え」
「だから、ドアを開けようって気になった」
青年は笑った。
「まぁ、ジタバタしてもいいが、捻れないでいるんだな」
そういうと青年は上体をゴロリと地面に預けた。ネコはピクリと眼を開けたが、
またゆっくりと眠る様に眼を閉じた。
「………!」
プランジは、その時青年の頭の下に移動した左手の薬指に、古い指輪を見つけて
いた。
「………」
プランジは、尋ねなかった。
何故、気付かなかったのだろうか。
恐らく、青年も色々あったのだろう。外見は自分と同じ位に見えるが、やはりこ
の人はかなり人生を過ごしているーー自分なんかよりも、いっぱい経験をしている。
自分もいつか、こうなれるのだろうか。
「その子さ」
青年が呟く様に言った。
「え?」
「どれだけ好きだったかは分かる」
「うん……」
「ドアの外に現れた位だ」
「そう…なのかな」
「でもまぁ…」
青年は寝転がって後ろ手に組んだままプランジの方を向いた。
「この石盤にこだわりすぎないことだ」
「……」
プランジは少し眼を見開いた。
「いるのは此処じゃなくて、此処」
青年は遠い方の手を石盤から頭の方へと向けた。
「さっき帰ろうとしたのは、この石盤じゃなくてあの二人じゃないのか?」
あ、とプランジは普通に思い出した。
青年は気持ち良さそうに笑って眼を閉じた。
プランジは辺りを見回した。相変わらずイエの姿は無い。
そうだーーー帰らなきゃ。
プランジは手を伸ばして青年の前に丸くなっているネコを抱き上げた。
ネコはフニャ、と言った。
* *
リジーは、地下室にいた。
今までは、永遠の廊下だった筈のミチの地下。そこは、あの時閉じ込められた地
下室になっていた。天井が崩れて岩が散乱している以外は、プランジと過ごしたま
まの様だった。
「………あった」
リジーは、あの時の絵本を見つけた。それは岩の下に隠れる様に落ちていた。手
に取ると、少し埃が舞った。
「………」
収まるのを待ってから、リジーはそっと表紙をめくった。誰が描いたのか分から
ない、幼い頃のプランジを描いたと思われる絵本。プランジは覚えていないと言っ
ていたが。登場して来る女の子は、自分たちがホシに来る前にプランジが会ったと
言う少女なのか、それとも今思えばファイのことだったのか。…そう言えば両方で
もあったんだっけ。
「フフ……」
思えば、このホシに来てから色々あったんだな、とリジーは思った。
何度か死にかけたっけ。でも、その度にプランジやウィズやーー『ヒュー』に助
けられたんだっけ。…でも今は、あたしが何とかしなきゃ。
リジーは天井を見上げた。開いた穴からは真っ青な空と、白亜の塔イエの先端が
見えていた。
「………」
リジーは、再び腰のリボルバーがフワッと暖かく光るのを感じた。
* *
「!?」
ウィズは、ハッとした。
直前までイエの外壁を登っていた筈なのに。今、ウィズは見慣れない丸い広場に
いた。
「………?」
何だ、この違和感はーーウィズは奇妙な光景に鳥肌が立った。
丸い広場の先は、何も無かった。それ以外は、無限に深い星空が広がっていた。
「これはーー」
恐らくあれだ、と思いながらウィズは広場の端へと歩いていき、下を覗き込んだ。
「やっぱりーー」
果たして、そこはイエの頂上だった。見慣れたイエの外壁っぽい垂直の壁がずっ
と下まで続いていた。その先には、小さなホシが豆粒の様に見えていた。プランジ
が言った通り、注意して見なければ星空にイエの円柱が浮かんでいるだけにも思え
る光景だった。
「ようやく、見れたのか…」
ウィズは、その縁に腰をかけた。
相変わらず、どうやって此処に来たのか?空気がどうなっているのか?重力は?
とかあり得ないことはたくさんある。
だがーープランジの言った通り、この絶景の場所は、このホシと「外」とを繋ぐ
唯一のものなのかも知れない。此処の雰囲気は、ホシの上とは何処かが違う。ホシ
にたどり着いて以降、初めて自分はその「外」にいるのだーー。
ウィズは、膝から下を縁から垂らしたままゆっくりと横になった。
「………」
リジーは、どうしているだろう。
プランジは、どうなった?
恐らく此処よりは下にいるのだろうがーー。
このホシは、『ヒュー』は、自分たちに何をしようとしているのだろうか。
ウィズは、眼を閉じて少し笑んだ。
ボウッと左目の辺りに、暖かさを感じた。
* *
「え……」
ネコを抱いて立ち上がり何気なく振り向いたプランジは、先程までは無かったド
アに気付いた。それは、無限の部屋のよくあるドアに似ていた。
「………」
プランジは青年の方を見た。青年は上体を起こして片手を後ろに付いた姿勢で事
も無げに笑んで頷いていた。
プランジはそっとそのドアに近づいていった。抱かれたままのネコも興味深げに
そのドアを眺めている。
「開ける…よ」
プランジはドアノブを回し、手前に引いた。ドアは普通に開き、中には斜めに組
合わさった格子があってその向こうに広めの空間が見えた。
「……!」
どうやら、上がって来たエレベーターの様だった。だがドアを閉めてみると、そ
こにはドア以外何も見えはしない。手品の様な不思議な空間だった。
「多分、それで帰れる」
プランジは振り向いた。青年はやはり、後ろ手に付いたままゆったりと座ってい
た。
「あの……あなたは」
プランジは何かを言おうとしたが、うまく言葉に出来なかった。
「……それはいい」
青年はずっと笑んでいた。
「青フィルターは晴れたし、俺は俺で大丈夫」
「………」
思えば、この空間に来た時から空は蒼く澄んでいた。
プランジは何処か懐かしい感覚で、ファイの墓の前に足を投げ出して座っている
青年を見つめた。
それは、この先いつか自分が見せる風景と同じだろうか。
「…ありがとう」
「いえいえ」
ネコがタッとプランジの肩に乗った。
「……」
プランジはそっと微笑んで、青年から眼を離さずネコの身体を撫でた。ネコは気
持ち良さそうにゴロゴロ言っていた。
プランジは、ドアを開け格子を開いてエレベーターの中へと入っていった。
* *
「!!」
「フギャ」
気がつくと、プランジとネコはエレベーターの中で浮いていた。自由落下の時の
あの内蔵がフワッと浮き上がる感覚が全身を包む。凄まじい速度で落下しているの
だろう、部屋の各所が軋んだ音を立てていた。そして、周りの鉄格子の向こうは壁
ではなく星空だった。
「……!」
どれ位の間落ちていたのだろう。イエがどれだけ高いのかは分からないが、いず
れ下にーーいや、このホシなら無限に落ちていくことも、あるのかも知れない。
だが。ーー戻らなきゃ。
プランジは浮いたままネコをそっと抱えた。
帰るのだ。
『飛んで』。
ファイがいなくなってからしばらく、あの感覚は取り戻せなかったがーー今なら、
出来る気がする。
その時、フワッと周りの壁が光った様な気がした。
「ん!?」
ネコもプランジも、眼を見張った。その壁はチラチラとした緑色の光を発しなが
らどんどん透明に近くなっていきーーまるで透明な部屋ごと星空の中を落ちている
感覚になった。
「わぁ……」
それはいつか、イエの頂上で見た世界と似ていた。そして、ファイと一緒に『飛
んだ』時に見たあの流れていく星空とも。
「………」
チクリと胸が痛んだが、それでもプランジの口元には笑みが浮かんでいた。ネコ
はその表情をまん丸な眼でじっと見つめていた。
「クッ!」
ウィズは、上からのGに耐えていた。
先程感じた左目の奥の暖かさ、その次にやって来たのは揺れだった。危うく頂上
の端から落ちるところだったのをギリギリで回避し頂上の真ん中辺りに移動したウ
ィズは、突然下から突き上げられる様なGに膝を付いた。頂上が、イエが、凄まじ
い速度で上昇している様だった。
「これは……!」
イエが、伸びている?それとも上の部分だけが飛んでいるのか?そしてこの場所
は何処へ向かおうとしているのかーーそしてウィズは、膝が付いている床部分が、
チリチリとした緑色の光を伴ってどんどん透明になっていくのに気がついた。
「………!」
床の下のその先は、ずっと先まで見通せてーーやがて周りは星空の中でチラチラ
とした透明な円盤状の床だけで宇宙を飛んでいる様な感覚になっていった。飛んで
いる先には、知らない恒星が見えている。
これはーー死ぬのか?ウィズは一瞬そんな気分に囚われた。
だが、こんな綺麗な終わりなら、十分だーーそう思った。
「あっ!」
リジーも、上昇を続ける光の部屋の中で、手をついて座り込んでいた。
手の中のリボルバーは、ずっと光っている。あの時、リボルバーを抜くとそれは
光を放ち、その時、地下室が揺れた。そして突然上昇のGがかかった。振り仰いだ
天井の穴からはイエがどんどん下がっていくのがしばらく見えていたが、それもや
がて角度的に見えなくなっていた。
リジーは、Gに耐えながらも絵本とリボルバーは離さなかった。
「………」
リジーは、これが最期なのだろうかと思った。でも、此処を指し示したあの感じ
ーー恐らく『ヒュー』のそれである感覚は、間違いではなかったと思う。
その時、床がフワッと緑色の光を放った。
「……!」
それはチリチリとした光を伴い、地下室の床を、壁を、どんどん透明に変えてい
った。
「わぁ……!」
その向こうに見えてきたのは、星空だった。
透明な部屋ごと宇宙を上昇している。そんな感覚だった。
「何……?」
Gに耐えながら、リジーはその絶景にワクワクする自分を抑え切れなかった。
「……!」
そしてその先ーー恒星が見えている方に、何かが見えて来た。
「……ウィズ?!」
それは、自分と同じ様に上昇していると思われるウィズの下からの姿だった。相
対速度はリジー側の方が早いのだろう、やがてその姿はハッキリと分かる程近づい
て来た。
「ウィズ!」
リジーは呼びかけたが、聞こえはしない様だった。
「…!」
ウィズは、気配を感じて振り向いた。
そこには、自分と同じ様に透明な光の空間と一緒に上昇して来るリジーの姿があ
った。
「リジー!」
ウィズは叫んだが、その声はどうやら届いていない様だ。向こうは向こうで何か
言っている。
よく観ると、リジーは上方を指差して何か言っていた。
「…?」
ウィズが見上げると、そこには遠くから猛速で近づきつつある人影が見えていた。
「…プランジ?!」
プランジは、下から近づきつつある二つの人影に気付いていた。
「ウィズ!リジー!」
叫んだが、その声は届かない。だが、二人が来てくれたーーようやく帰って来た
のだ、という安心感は確かにあった。
さてーーどうする?プランジは思った。この先、落ちていけばどうなる?あの二
人も、このまま上っていけばどうなる?プランジは瞬時に判断した。此処は、あの
時の様に二人を連れて『飛ぶ』のだ。だが互いの速度が速すぎて、すれ違うのはほ
んの一瞬だ。やれるのか?いや、やるしか!
プランジは抱えているネコを背中にやった。ネコは背中にツメを立ててしがみつ
いた。
ウィズも、リジーも、それを理解した。お互いのスペースでGに耐えながら、プ
ランジの方へと出来るだけ近づこうとした。プランジは二人の間を抜けるコースを
突き進んでいる。プランジは自由落下の上体で手足を広げ、出来るだけスピードを
落としつつ二人の方へと手を伸ばした。
「掴まって!」
冷静に考えれば、その相対速度でもし捕まえられたとしても脱臼程度では済まな
いだろう。だがここはホシだ。いや、既にホシではない場所なのかも知れないがー
ー今なら、大丈夫。プランジはそう確信していた。
「……!」
ウィズも、今回は触れさえすれば何とかなるーーそう思っていた。
リジーも、とにかくプランジの手に触れようと力一杯手を伸ばしていた。
ネコはその真球に近い瞳で、近づく二人と希望に満ちたプランジの顔を、見比べ
ていた。
三人は猛速で近づきーーありえないことだが、同時に手が触れた。
「!!……」
ネコは、一瞬だが三人と自分が緑色に光るのを感じた。そしてあの感じーー身体
の中から何かが沸き上がって来るかの様なあの感覚ーーに身体を振るわせた。
そして、一同は『飛んだ』。
* *
プランジの脳裏には一瞬、あの青年の顔が浮かんだ。それは星空の向こう、ある
ホシの上のあるイエで、青年が一人で住んでいる姿。そしてその青フィルターが取
れ、乾いた大地が瑞々しく生まれ変わるイメージーーそれはいつか、自分も至るか
も知れない道。
『捻れないことだ』
そう言っていた。それはかつてあのピアノマンも言っていたこと。
「了解…」
プランジは光の中で、そう呟いた。
ウィズは、光の中を上昇しながら、下方に落ちていくイエの頂上のイメージを見
ていた。あれはかつて深海で見て、届かなかったイエの頂上。自分は、もうそれに
届いたのだ。そして、今またプランジに手を引かれ、次の場所へとーーそういうの
もいいな。ウィズはそう思った。
リジーは、自分のいたあの地下室が、自分たちを置いて光の中上昇していくイメ
ージを見ていた。プランジの手を握ったもう片方の手には、リボルバーとあの絵本
がしっかりとあった。
だから、もういいのだーー何故かリジーはそう思った。
ネコは、流れる星々の中で、光る三人を見ていた。いや、光っているのは自分も
だった。
「ニャウ」
ネコは、側にいる『ヒュー』…幼いプランジの姿をした光の存在を見た。
今回ネコは、最初からその『ヒュー』と共にいた。
プランジが無限の部屋の窓から下を見下ろしていた時、既に『ヒュー』はプラン
ジの側に現れ浮いていた。『ヒュー』は興味深そうにプランジの顔を見ていた。そ
してプランジが廊下を走り出した時も、はしゃいでヒュインと飛んでいった。ネコ
はその姿を追って走り出した。そうして『ヒュー』はプランジを追い抜き、とある
壁の前で止まった。そこには周りと同じ様なドアがあったが、ネコには何かが違っ
ている様に見えた。プランジも無意識にその雰囲気に気付いたのだろうか、その前
で止まった。ネコはプランジがドアを開けるのをじっと見ていた。
『ヒュー』も、それを期待を込めた感じで眺めていた。
開けた先にはエレベーターがあった。ネコもプランジも実際に乗るのは初めてで、
それがいきなり動いた時にはネコは飛び上がった。『ヒュー』は浮いているので何
ということも無く、いつもの無邪気な笑顔を見せていた。着いた先のドアを開ける
とそこには別世界が広がり、一人の青年がいた。ネコはその姿を一目見て、プラン
ジの様だと思った。違っているのは、その経験値だけーーそんな感じだったので、
ネコは抵抗も無くその膝に乗った。少し体温が低かったが、ネコは安心して喉をゴ
ロゴロ言わせて丸くなった。
青年はプランジと同じ様に記憶が無く、閉鎖空間で過ごしている様だった。そし
てその目は青フィルターがかかった世界を見ていた。ネコは何故か、その青フィル
ターのかかった世界を自分のことの様に感じ取ることが出来た。それは側にいて同
じく興味深げに青年を見ている、『ヒュー』のお陰だったのかも知れない。その蒼
い世界は、澄んでいた。同時に乾いているようでもあり、一瞬で瑞々しいものにも
変わる不思議な世界だった。それはプランジの見ているものと何処か似ている、と
ネコは思った。
青年はプランジに☆と◯の話などしていた。それはまるで自分の子供に人生を解
く父親の様だった。だがそれはかつてネコが見たあのプランジの両親らしき印象と
は何処か違っている。それは何なのだろうか。ネコはしばらく考えた。ネコなりに
考えて思いついたのはーー恐らく、この青年はウィズやリジーの様な存在と出会わ
ずにそれでも捻れないで過ごしたプランジの様な人間なのではないか、と言うこと
だった。恐らく別世界に、そういうバージョンのプランジもいることだろう。それ
でもプランジなら、どの世界でもちゃんと捻れずに人生を送り、こうして淡々と時
間を過ごすことが出来る筈ーーそう思いながらネコは話を聞いているプランジの顔
をじっと見つめた。『ヒュー』も、恐らく同じ様なことを言語ではなく感じている
のだ。ネコはそう思った。
眼下の地表にウィズやリジーらしき姿が見えて、プランジは帰ろうとしていた。
ネコにはウィズたちがいるのが、あの雪原の下の地下室の時の様に、ホシとは違う
場所なのが分かっていた。そして今プランジや自分たちがいるのもまたーー。さて、
ここからどうするのだ?今回はどうやって帰るのだ?とネコは『ヒュー』の方をじ
っと見つめた。『ヒュー』は笑んで、青年の方を見ていた。青年はプランジを懐か
しそうに眺め、プランジがどれほどやっても開かなかったドアを開け、その外の草
原へと導いていった。
同時にネコは、別世界にいるウィズやリジーがプランジを助け出そうと努力して
いることも感じていた。ウィズはイエの頂上で、リジーはあの地下室で、それぞれ
自分の奥底に触れながらプランジを心配していた。一見それぞれが別世界にいるよ
うで、それは何処かで繋がっていた。どんどん近づきつつ、重なりつつあった。そ
のことは青年も全て分かっている様だった。それは、側にいる小さな光のプランジ、
『ヒュー』がいるからなのだーーネコはそう思っていた。
ドアの向こうの草原は、長い年月を経たファイの墓周りだった。それは未来のホ
シの姿。プランジがどう生きてきたかの証の場所。そして、この青年もまたプラン
ジと同じ様に最愛の人を得、そして失ったのだ。ウィズやリジー的な人物はいなか
ったが、たった一人、繋がれる人を得ていたのだ。だからこうして一人で過ごして
いられる。そのことをようやくネコは理解した。プランジも何処かでそれは分かっ
ている様だった。
やがて、帰る扉が現れた。プランジとネコは、エレベーターの中へと進んだ。ド
アの向こうでは、青年と『ヒュー』が微笑んでいた。ドアが閉まる瞬間、ネコはハ
ッとした。ネコはそこで感じ取ったのだ。青年は、そこで人生を終えるのだという
ことを。「青フィルターが晴れた」と言うのはそういう意味でもあったのだ。人は
所詮、自分のフィルターを完全に排除など出来はしない。ただ、長い間生きていく
中で、それをなるべく薄くすることは出来る。そうして青年は成長してきて、最期
にこの場所でその記憶をとり戻し、人生の終わりを理解したのだ。プランジは気付
かなかった様だが、いつの間にか、墓標の文字は少し変化していた。それはネコに
は読めなかったが、恐らく青年が生涯愛した人の名であったろう。ネコは全身が逆
立つ様な思いに震えた。
『ヒュー』がドアの向こうへと見えなくなった瞬間、何かが繋がった。突然エレ
ベーターは落下を始め、その壁はどんどんチラチラした透明な光へと姿を変えてい
った。透明なエレベーターは、星空の中を落下していた。同じ様に透明なスペース
で、ウィズとリジーは上がってきつつあった。こうして、三つの別世界がようやく
繋がるのだーーネコは体感した。プランジはすれ違い様、二人に触れて『飛ぼう』
としていた。プランジもウィズもリジーも、それがギリギリの状況なのだと分かっ
ていたが、ネコはそれが何処か予定調和である様に感じた。それは今は見えなくな
っているあの小さな光のプランジ『ヒュー』の力ではなく、もっと大きな存在ーー
ホシなのか、それともプランジが名付けたあの緑色の光『ヒュー』の力なのか。そ
もそも、三人をそれぞれ包んでいるこの光の箱自体がそれの一つである様にネコは
思った。今回のことは、『ヒュー』がこのホシの、そしてプランジの別の未来を、
しばし垣間見せたものだったのではないだろうか?
ネコは三人と一緒に『飛び』ながら、そんなことを思った。そこには、いつの間
にかあの小さな光のプランジ『ヒュー』がいて、微笑んでいた。
恐らく、三人とも『飛んで』いる間の記憶は無いだろう。また、このホシで人が
死に近い形でいなくなった。でも、今回はそれでいいのだーーネコは光の中でゆっ
くりと目を閉じた。
* *
「う……」
ウィズは、目を覚ました。そこは草原だった。それはいつものホシの姿に見えた。
だがーー此処は本当にホシなのか?
とウィズが思った瞬間、大音響がした。
「!?」
ウィズは上体を起こした。
その破砕音は、振り返った先のイエの中腹からだった。その外壁をぶち破って爆
発が起こり、派手な白煙が上がっていた。
「あれは……?」
「多分…」
ウィズが向くと、プランジが頭を抑えながら起き上がるところだった。
「エレベーターが落ちたんじゃないかな」
「エレベーター?!」
リジーも目を覚ました様だ。ネコも側で目をぱちくりさせている。
「そんなものあったのか」
「見つけた。それで落ちてたんだ」
「へぇ………!」
もう一度無限の部屋の廊下に行ってみてもそれは既に無いのだろうな、とウィズ
は思った。外壁には穴が開いていたが、いつも通り放っておけばまたいつの間にか
塞がっていそうな雰囲気だった。
そこで三人は、手を繋いだままだったことに気付いた。
「あっと」
「失礼」
「………」
一応手は離したものの、三人ともあのホシに来た時の感じを思い出していた。
あのとき以来、また三人で『飛んだ』のだ。そして、このホシに帰って来た。そ
れは素晴らしい、そして懐かしい様な感覚だった。
「あ」
「どうした」
プランジは側の地面に目をやった。そこは、ファイの墓の前だった。
「………」
プランジはそっと石盤に触れた。
ウィズとリジーはそっとその様子を見守った。
「ここでさ、ある人に出会ったんだ」
「ここで?」
「あぁ…別のホシのここかも」
「あぁん?」
「それは…イエの上の方で一緒にいた人?」
「…あ、やっぱり見えてた?」
「あぁ、そこまで登ろうとして大変だった」
「あたしもさ、こっちはこっちで色々あったんだよ?」
「そっか…」
また話さなきゃな…と、プランジは暖かい気分でイエを見上げた。
ネコが石盤に触れたままの手にゴンと頭突きをして、手の甲の上にどっかりと座
り込んだ。
ネコの腹の暖かさを感じながら、プランジはファイの墓がこのホシから無くなっ
たりしなくて本当に良かったと思った。
ふと思いついて、プランジは太陽を見上げてそっと目を閉じた。
しばらくして目を開き、青フィルターに覆われた世界を懐かしい感じで眺めた。
そこにはネコやウィズやリジーがいてーー見上げたその先には、イエの上方の窓辺
で佇んでいる青年の姿が見えた様な気がした。




