16「Rest in Peace」
今回、ホシは白夜です。
三人それぞれが夢遊病の様にイエを、ホシを彷徨う話です。
夢の様な話ーーーです。
その日、とある宇宙にあるホシに建っている高い塔・イエは、ずっと昼だった。
低い位置を太陽はずっと通過して、沈む気配は無かった。
「白夜……?」
「あぁ」
「これって、公転面とか地軸とかどうなってんの……?」
リジーのそれは、当然の質問だった。
「さぁ、俺に聞くなよ」
ウィズは今まで何度か星空やこの星系をスキャンしていたが、実のところその全
貌はよく分かっていなかった。恒星と衛星が一つずつ、二三時間少々で一回転、ち
ょうどよくある首都星の感じと似てはいたが、そもそもこの大きさのホシでそれは
あり得なかった。重力もそうだが、明らかにこの恒星系としてのバランスは狂って
いた。そもそも、入って来る情報自体が時によって微妙に違い、ウィズが理解して
いる全体像はあやふやだと言わざるを得なかった。
「……さぶっ」
バルコニーに出た一同は、防寒用の装備で地平線辺りの夕焼けとも朝焼けともつ
かない風景を眺めていた。
そう言えば、そもそもこのホシには季節というものが無かった。代わりに、姿を
変えるその時々で真冬や極寒や灼熱やその他ありとあらゆる温域を経験は出来てい
た。
今日もその過程で使用したダウン素材のものを着込んで、リジーたちは外に出て
いた。唯一プランジだけはTシャツにジャケット姿で飛び跳ねていた。
「…元気だね」
「まぁ、元気になって良かったよ」
ウィズは白い息を吐きながら言った。
初めて恋愛関係になった女性‥ファイが死んでから、しばらくは落ち込んでいた
プランジ。あれから随分経って、ようやく少しだが笑顔も見せる様になっていた。
絵や彫刻やパルクールも、前の様に熱心に打ち込んでいた。
「ホントだね…」
リジーも眩しそうに見つめ、少し笑った。
「フッ!」
プランジは冷たい風の中で壁を蹴って反転した。
以前よりもよりキレが増した感じだった。うん、今日も大丈夫。自分の体は全て
コントロール出来ている。プランジは微笑んだ。
でもーーホシは、そうはいかないけどね。そう思うとチクリと胸が痛んだ。
「…よっと」
プランジはとある作りかけの彫刻の前に着地した。ファイが来る前、仕上がりが
全く浮かばずに放置していたものだ。今はちゃんと見えていた。笑うファイの姿だ
った。
「………」
プランジは息を弾ませながらそっとその固まりに手を置いた。
ーーでも。今は、このままでいい。何故かそう思っていた。既に次の彫刻は着々
と進みつつある。そちらの方はまだ何となくしか形は見えていないけど。
今は、それでいい。そうプランジは思っていた。
「プランジ!」
「そろそろ入るよ」
リジーたちの声が聴こえた。
「あぁ、うん!」
プランジは冷たい固まりをポンポンと軽く叩き、踵を返した。
その日の遅い夕食は、残り少なくなって来た例の麦の稲穂で作ったパンにハムと
チーズを乗せて焼いたものだった。
「後、残りは?」
「二三日ってとこかな」
「まぁ、他に米もカップ麺もある訳だし?」
「だな」
ネコは既にカリカリを平らげ、窓際で外を眠そうに見ている。もう深夜をとうに
過ぎている筈だが、勿論日は出ていた。
リジーが外を眺めながらポツリと言った。
「この白夜…」
「ん?」
「いつまで続くんだろ」
「さぁな…」
ウィズはパンを頬張りながら言った。
「今回は、何か起こるかな」
「そうだね…プランジ、何か感じる?」
プランジはパンの残りを押し込んでモグモグさせてから言った。
「ううん、まだ」
「そっか…」
「リジーたちは?」
「え」
ウィズとリジーは顔を見合わせる。
前回、ウィズとリジーは初めてプランジの様に『ヒュー』…プランジが名付けた、
時々このホシに現れては何かをもたらす緑の光…を伴った流星の気配を感じ、その
輝く光を見た。それ以来『ヒュー』は現れていない。次に来たときも同じ様に感じ
取れるのかはまだ分からなかった。
「…今の所」
「無いな」
「そっか」
プランジはチタンのマグをぐいと空けて一息ついた。
「来てみないと、分からないね」
「まぁな…」
ウィズも窓外の白夜の光景を眺めた。
ホシの風景が変わったからと言って、常に『ヒュー』が現れる訳ではない。ただ、
あの時の感覚はとても素晴らしく全身を振るわせる様でーーまた感じてみたいもの
だ、とウィズは思っていた。
「これってさ」
プランジが言った。
「遺跡の方は、ずっと夜ってことだよね」
「…あぁ」
「明日、行ってみようかな」
「……」
ウィズとリジーは再び顔を見合わせた。
「気をつけろよ」
「うん」
プランジは低い太陽をボウッと眺めながら頷いた。
* *
「!!」
ウィズは目を覚ました。ガバッと上体を起こす。
そこは、ウィズの青の部屋だった。
「……?」
ウィズは辺りを見回した。時間の感覚がずれていた。外は白夜のままだ。いつ眠
り込んだのだ?前日ーーいや、本当に前日だったのかすら定かではないがーー夕食
にパンを食べていたところから全く記憶が無かった。本当に、自分でこの部屋に戻
ったのか?
服装はいつものままだ。ブーツさえ脱いでいなかった。
「……!」
ウィズはふと辺りの気配を窺った。これはいつもの『ヒュー』のやつかもしれな
い、と思ったからだ。だがそんな気配はしなかった。ーー勿論、またプランジしか
感じ取れなくなっている可能性もあるのだが。
ならばこれはーー『ファントム』?このホシに現れる、モヤモヤした邪悪なイメ
ージの何かが引き起こしたものなのか?
ウィズは油断無くアーミージャケットに袖を通し、ライフルを手に部屋を出た。
イエの中は静かだった。ウィズは隣のリジーの赤の部屋へと向かった。
リジーは、ベッドで静かに眠っていた。ただ、あの夕食の時と同じ服装のままだ
った。リジーにはあまりないことだった。まるで酔っぱらいでもしてそのまま寝て
しまったといった感じだった。ウィズは少し考えた。特にアルコールは……あぁ、
少しスパークリングワインを飲んだっけ。しかしそんなに酔う程ではなかった筈。
リジーは3人の中で一番肝臓が丈夫だった。
「……リジー?」
悪いとは思いながらウィズは寝ているリジーにかがみ込み、声をかけた。
返事は無い。いつもの様に美しい褐色の肌に黒髪が映えているだけだった。
「……?」
普段ならば、とっくに飛び起きて文句の一つも言いそうなものだが……いや、パ
ンチの一つも貰っているかなーーなどと思いながら少し肩を揺すった。全く起きな
かった。
「リジー?」
スキャンしてみたが、特に異常は無さそうだった。見事なα波が出ていた。
「……?」
ーー確かに、何かがおかしい様だがーー?
少し後ろ髪を引かれる様だったが、ウィズは立ち上がってプランジの部屋に向か
った。
プランジの白の部屋は、いつも通り殺風景だった。広い部屋にポツンとベッドだ
け。そこでプランジは突っ伏したまま眠っていた。脇と左手の間のスペースでネコ
も丸くなって眠っていた。プランジも、昨日(?)の夕食の服装のままだった。
「…プランジ?」
リジーと同じく深い睡眠状態だった。
同じ様に揺すってみたが起きはしなかった。プランジなので多少乱暴にもしてみ
たが、やはり全く反応しなかった。流石にネコは迷惑そうな顔をして「ウー」と言
って起き出したが。
「マジかよ……」
呟いたウィズの足に、ネコが額をゴンとやった。まだ眠そうな顔のくせに「ゴハ
ン」と言っている様だった。
「あぁ、今やるから」
適当に答えながらも、ウィズは辺りを窺っていた。
そして、リビングの方へと歩き出した。辺りはずっと静かなままだった。
* *
「……ん?」
リジーは、目を覚ました。自分の赤の部屋の天井が目に入って来る。最初は寝覚
めが悪いと思っていたが、いつしか慣れてしまっていた。むしろキレイだと思う様
にもなっていた。
「あれ……?」
リジーはベッドの上で上体を起こした。普段ならTシャツに着替えて眠るのだが、
普段着のままだった。そう、これはーー昨日の晩のまま?
リジーは窓の外に目をやった。白夜の光景が広がっているだけだった。
昨日、と言うかーーあれから、どれくらい経っているのだろうか?時間の感覚が
よく分からなくなっていた。
「……ふぅ」
リジーはフラリと起き出した。ソロソロと窓辺に近づいて、透明なガラス部にそ
っと手を触れた。やけに静かなイエの雰囲気が少し気になった。
気がつくと、側にネコが来ていた。
「ん…どうしたの?」
ネコはいつもの様にゴハンを催促するでもなく、ジッとリジーを見つめていた。
「………?」
リジーはネコの脇に手を入れて持ち上げ、胸に抱いた。ネコは相変わらず不思議
そうにリジーを見ていた。
何だろう…今朝はホシが、イエが、何処か違った雰囲気に感じられた。それが何
処かと言われてもよく分からなかったが。
「…ま、朝ゴハンかな…」
今が朝なのか昼なのか夜なのかも分からないけど、と思いながらリジーはネコを
抱いたままリビングへと向かった。
* *
「んあ」
プランジは、目を覚ました。
そこは、いつもの自分の白の部屋。まず目に飛び込んで来たのは、巨大な毛皮…
…ではなく、目の前で背を向けて丸くなっているネコだった。肩の上にしっぽが乗
り、暖かく静かな鼓動が感じられていた。ゆるやかに上下する横腹辺りを、プラン
ジは幸せな気分で見つめた。
「………」
そう言えば、いつの間にベッドに入ったのだろう。昨日は……ウィズたちとパン
を食べていた様な気がする。スパークリングワインも少し飲んだっけ。でもそこま
では酔わなかった筈。
プランジはゆっくりと起き出した。いつもならカーゴパンツくらい脱ぐのに、普
段着のままベッドに入っていた様だ。ネコが眠そうに顔を上げていた。少し頭がボ
ウッとしていた。やけにイエが静かなのが気になった。
ーーまた、このホシが姿を変えたのか?と窓の外を見たが、昨日と同じ白夜が広
がっているだけだった。
『ヒュー』の気配も、『ファントム』の悪寒もしなかった。
ネコが大口を開けてアクビをしつつノビをした。まだ眠そうにしている。
「……?」
プランジはフラリと歩き出した。
何だろう…このヘンな感じは。
何かが、始まる様な気がしていた。
* *
ウィズはリビングでネコにカリカリを出してやると、辺りに異常が無いことを確
かめてからイエの各所を観て回った。無限の部屋、永遠のコインランドリー、三階
のバルコニー…どこも異常は無かった。ただただ静かな空間が広がっていた。一度
リジーとプランジの様子を見に戻ったが、リジーとプランジは全く起きる気配がな
かった。それからウィズは外に出た。
ネコはカリカリを食べ終えるとそっと窓辺でハコを組んでいた。
外は寒々とした平原が広がっていた。ウィズはイエの側からホシを一周している
道、通称ミチまで出てイエを見上げた。深い青の空にそびえ立つ白亜の塔は、どこ
か空虚に見えた。
ウィズは辺りをスキャンしてみたが、特に何も異常はない。踵を返そうとして、
ウィズは立ち止まった。何となく、ミチの下の空間ーーミチの下をずっと続いてい
る地下の廊下、通称永遠の廊下の辺りの反響音が、いつもと違った様な気がしたか
らだ。
「……?」
ウィズは少し考えて、それからしゃがみ込んで右の掌を地面に当てて振動波を起
こした。ミチの表面が崩れ、空いた穴からウィズは頭を入れて覗き込んでみた。い
つもの様にそこはちょっとしたヒカリゴケが点在していて、照明は無くともどうに
か辺りが見える感じだった。
「………」
ウィズは一度顔を上げてイエの方を観た。
しばし考えたが、やがてウィズは穴を降りた。ひんやりとした廊下は、イエより
も更に静かだった。遠くで微かに潮騒の様な音が聞こえる様な気がした。
* *
リジーはまず、プランジとウィズの部屋を覗いていた。二人ともよく寝入ってい
て、起きる気配はなかった。プランジはともかく、ウィズが反応しないのはおかし
かった。これはーー『ファントム』?それとも『ヒュー』?どちらにしろ、リジー
には気配を感じ取れなかった。
「………?」
ネコを抱いたままリジーはリビングに出た。ネコのゴハン皿には少しカリカリが
残っていた。
「……誰?」
リジーは胸のネコに目をやったが、ネコは素知らぬ顔でゴロゴロ言っていた。
リジーはリビングの四角い大きなベンチに腰掛けた。イエは本当に静かだった。
まるでリジーとネコ以外、誰もいないホシであるかの様だった。…プランジは自分
たちが来る前、ずっとこんな感じで過ごしていたのだろうか。それは少し寂しいか
も。リジーは今更ながらそう思った。
ネコはトッとリジーの胸から降り、リジーの太ももに背中をつけて丸くなった。
「………」
その幸せそうなネコの顔を見ていると、少し笑みがこぼれた。とは言え…妙に静
かなイエの雰囲気は変わりはしない。
しばしその雰囲気を楽しんでから、
「…洗濯でもするか」
リジーはため息を吐いて立ち上がった。
ネコがチラリと身を開けたが、また目を閉じた。
* *
プランジは、静かなイエの中を歩き回っていた。ネコがトコトコ付いて来ていた。
軽く見回っただけだが、イエには他には誰もいない様だった。ウィズやリジーの
様子も窺ったが、深く寝入っていて起きる気配がなかった。最初死んでいるのかと
思ったが、寝ているだけで特に生命に危険は無さそうだった。
「んー……」
プランジは一人でパンをかじってから、残りをネコにやると3階のバルコニーへ
出た。外は相変わらず白夜のままだった。そうして作りかけの彫刻やらパルクール
やらを数時間試した。特に昨日(?)と変化は無い。ちゃんと自分の体はコントロール
出来ている。
ただーーやはりこのホシは、そう簡単にはね。
そう思って、プランジは地平線近くの低い太陽を眺めた。
「………」
やはりこれは『ヒュー』の仕業なのだろうか。それとも『ファントム』?そのど
ちらの気配も、今は感じ取れなかった。…あれ以来ーーファイがいなくなって以来、
『ヒュー』にも『ファントム』にも出会っていない。ホシは、淡々とした日常を続
けていた。
プランジは低い太陽の反対側を眺めた。その向こうは闇が広がっていた。
「ふぅ……」
プランジは深く息を吸って吐いた。
今でも時に、感情が溢れそうになる時はある。ただ、涙はもう出なかった。ただ
拳を心臓に当てて、しばらく息を止めたりはする。そしてそれでも収まらない時は、
ただ力の限り走った。単純で、それでいて効果があるやり方だった。「時が解決す
る」とウィズは言っていたっけ。「落ち込むだけ落ち込んでも良い」って言ったの
はリジーだったか。今はただ、それを待っている。でも、忘れたくはない。絶対に。
今のプランジは、そんな感じだった。
「………」
プランジはじっと地平線の向こうの闇を見つめた。その先に、何かがある様な気
がした。
一度バルコニーに面した窓の側にいるネコをチラリと観てから、プランジはバル
コニーから飛び降り、タタッとイエの外壁を降りた。そして、遺跡の方へと走り出
した。
ネコは、ジッとその姿を見ていた。
* *
「!!」
ウィズはハッと目を開けた。また時間の感覚がずれていた。一瞬自分が何処にい
るのか分からず焦って宙に手を広げたところで、そこが永遠の廊下であることを思
い出した。
「………!」
ウィズはそっと辺りを窺った。永遠の廊下は相変わらず、照明はボウッと光った
ヒカリゴケだけの薄暗い空間だった。そして、ウィズは自らの掌を眺めた。
ようやく分かった。ーー間違い無い。突然、眠りに落ちたのだ。自らの意志では
無く。そして、その間にも夢遊病の様に移動していたのではないか?だから今朝方
(?)もーー。
「ナルコレプシー」。突然、眠気が襲うと言う病気の名だ。だがこのホシのそれ
は、更に強烈なものの様だった。
「マジかよ……」
ならば、プランジとリジーもそうだったのだろうか。ウィズは廊下の来た方と思
しき方向を振り返った。先程までは見えていた筈だが、既に入って来た穴は見えな
くなっていた。これはいつものホシの所作なのか、それとも寝ている間にかなり移
動して来たのかーーそれは分からなかった。そもそも、前後方向すら怪しくなって
いた。
…この状態であの二人を置いて来て、大丈夫だったのだろうか。
「………」
だが、既に永遠の廊下のどの辺りまで来ているのかは分からない。ーーだが!
ウィズは壁をよじ登り、振動波で天井に穴を開けた。ミチの上に顔を出すと、そ
こは既に夜のエリアだった。ぐるりと見回したが、イエの先端は何処にも見えない。
勿論遺跡の気配も無かった。ウィズは星空を見上げてスキャンし現在地を探ろうと
したが、例によって奇妙にキレイな星空は、何の回答ももたらさなかった。
「ダメか……」
ウィズは下の廊下を覗き込んだ。来た方向はともかく、ミチの伸びている方向は
分かっている。後はどちらに進むかだがーー現在地は完全に夜の真ん中当たりで、
どっち方向が昼のエリアに近いのかは分からなかった。ホシ上の生命反応も探って
みたが、寝ているせいなのか微弱な反応がホシの真反対辺りにあるだけだった。
「…こっちだな」
今進んでいる方、に決めてウィズは永遠の廊下へと降りた。
その時だった。
「!!」
突如、生命反応を近くに感じてウィズはザッとライフルを構えた。
「……?」
ウィズはスコープを左右にザザッとやったが特に何も無かった。
何だ?この反応はーー。それは永遠の廊下の先の方だった。ウィズはライフルを
構えたまま慎重に進んだ。反応はやがてハッキリとしてきてーーそれは人の様だっ
た。それも、安らかに眠っているそれだった。
ウィズは、油断無く近づいていった。
* *
リジーは、三階のバルコニー脇のスペースで目を覚ました。リジーは床に座り込
んでいて、フリースのブランケットがかかっていた。
「……?」
確か、洗濯をしに永遠のコインランドリーに向かっていた筈だが。どこで間違え
た?自分は此処で何をしているのだ?いや、そもそもいつ眠りについたのだ?
リジーは窓の方へ目をやった。外は相変わらずの白夜だった。窓際にはネコがい
て、ヤレヤレといった感じでリジーを見下ろしていた。
「……!」
どうやら、眠り関係で何かが起きているのは間違い無さそうだった。
リジーは、ブランケットに目をやった。自分でかけたのか?と思ったが、勿論覚
えは無い。
リジーはブランケットをかけたままそろそろと立ち上がり、窓際のネコに近づい
て頭を撫でた。ネコは気持ち良さそうにゴロゴロ言っていた。
「………」
それからリジーは白夜の太陽を眺めた。
ーー白夜になってから、一体何日経ったのだろうか。もはや日にちの感覚は分か
らなくなっていた。ウィズやプランジが起き出してくるのはいつだろうか。ひょっ
として、このままずっと独りってことは無いよね?いや、一応ネコはいるけど…な
どと思いながらネコの方に目をやった。ネコは微妙に目線を外して、部屋の奥を見
ていた。
やがてリジーは、ネコの目線の先に気付いた。
「……?」
振り向いたリジーは、その先の壁の側のイーゼルの前にあるイスに人影を発見し
て驚いた。
「えっ!?」
思わず声が出た。
背中しか見えないその人影は動かなかった。リネン系の長Tシャツに古ぼけたチ
ノ。浅く腰掛けていて、上体は少し左に傾いていた。明らかにプランジでもウィズ
でもない。
「………」
リジーは辺りを窺った。『ヒュー』の気配は無い。隕石が落ちた様な跡も無かっ
た筈だ。だがこうしてまた誰かがこのホシに来たということは…?
しばし気を落ち着けてからリジーは立ち上がり、そうっと近づいた。死んでいる
訳ではなさそうだ。よく見ると僅かに肩が上下している。…寝ているのか?前に回
り込んだリジーはそっと顔を覗き込んだ。
「……もしもし?」
答えは無い。微かな寝息が聴こえるだけだった。
男は黒髪で、痩せていた。白人系の様だが少し肌が褐色がかっていた。伸び放題
のヒゲで顔の下半分は覆われていたが、中々の美形だった。何故かどこかで会った
様な、懐かしい感じもした。
「………」
リジーはイスを持って来て、隣に座った。膝に頬杖をついて、しばらくその男の
寝顔を眺めていた。
ネコはその様子をじっと見ていた。
* *
「はっ!」
プランジは、目を見開いた。
そこはイエの反対側にある遺跡の真ん中で、プランジは立ち尽くしていた。
「え!?」
プランジは辺りを見回した。いつもと同じ遺跡に見えたがーー空は一面の星空だ
った。それが白夜の裏側のものなのか、ただの星空なのかはプランジには分からな
かった。
「………」
プランジは力を抜いた。何故此処にいるのだろう。何故立ったまま寝ているのだ
ろう。遺跡に向かって走っていた所までは覚えているのだが。プランジはそっと自
分の掌を見た。…これはやはり記憶障害的な何かが、起こっているらしかった。
…とにかく、どうやってかは分からないが、遺跡までは来た。後はどうする……
?プランジは遺跡の縁に出てみた。そこはいつもの草地が広がっていた。前回の稲
穂で一杯だった時を思い出して、少し胸を押さえた。
次にプランジは、ファイの絵が置いてある遺跡の裏の壁に行ってみた。絵は前に
置いた時と同じ様にそこにあり、プランジを少し安心させた。手に取った一枚、稲
穂と夕日をバックに笑顔を見せているファイの絵を、プランジはしばし眺めた。
「………」
絵の中のファイにそっと触れ、別れを惜しみつつ絵を戻した。
…大丈夫。この先、もしこの絵が無くなったとしても、自分は何とかやっていけ
る。
そう思ってプランジは自身の体に力を込めた。
「………フッッ」
そうしてプランジはバッと遺跡を飛び出し、辺りを走り始めた。
それはファイとも一緒にやった、特に目的などない疾走だった。あの時と違い、
体にぶつかる麦の稲穂はない。プランジは力の限り、走った。
遺跡の周りを数十周も走った頃、プランジはある気配に気がついた。
「ん!」
それは、ファイ以来初めての、外から来た人の気配。
プランジは立ち止まり、息の荒いまま周囲を見渡した。特に、何も無い様に見え
た。
「……?」
気のせいだったのだろうか。
そうして遺跡の方へ数歩下がろうとした時、プランジは足元の何かにぶつかって
後ろにキレイにひっくり返った。
「え?!」
回転した先でバッと立ち上がったプランジは、そこに誰かが倒れているのに気が
ついた。
こんなに近くなのに気付かなかった?プランジは焦ったが、その誰かは動かない。
「……?」
まさか自分が蹴躓いたせいじゃないよね?プランジは走っていってその側にしゃ
がみ込んだ。どうやら男のようだった。プランジには背を向けているが、肩がゆっ
くりと上下していた。ウィズやリジーの様に、眠り込んでいる様だった。
前に回り込んだプランジは、その男の姿を見つめた。病院服っぽい薄緑の服を来
た男は、静かに眠っていた。少し褐色がかった少し荒れた肌と痩せこけた頬が、病
人であることを感じさせていた。そして、何処かで会ったことがある様な妙な感じ
も覚えていた。
「あの……?」
プランジは何度か呼びかけたが、返答は無い。
「………」
プランジは肩を揺すろうと、手を伸ばした。
* *
「はっ!」
ウィズは再び目を覚ました。また時間の感覚がずれていた。少し頭がボウッとし
ていた。
「……?」
そこは記憶を失う前と同じ、永遠の廊下の中だった。ウィズは頭を振って、状況
を把握しようと勤めた。
「!」
そうだ、あの時倒れていた人間がーー!思い出して見回すが、辺りには誰もいな
かった。生命反応をスキャンしてみると、1キロ程先に同じ様な反応があった。
「………」
先程眠り込んでから、どれくらい経ったのだろうか。その間に何が起きたのか。
あの生命反応がもし動いていないとするなら、自分は先程よりも少し永遠の廊下を
戻っていることになる。どうにかして寝ている間のことを知りたいものだがーーだ
が、今は!
「よし」
ウィズは意を決して走り出した。また突然眠りに入ってしまっては何も事態が進
まない。一気に距離を詰めて、ウィズはその誰かを視認しようとした。永遠の廊下
は割とまっすぐなので、ウィズの高精度な目はすぐにその先に倒れている人影を確
認した。
「!?」
倒れている人影は、どうやら女性の様だった。慎重は170位、女性にしては少し
長身か。短い黒髪に薄い褐色の肌。ピッタリしたリネンのTシャツ姿はどこか中世
的で、薄いブラウンの長いスカートから見える素足は痩せて見えた。
そこに着くまでの間に、ウィズはその女性の体を粗方調べ、特に病気などはない
ことを確認していた。
「大丈夫か…」
と呟いたのは女性のことではなく、自分が眠りに落ちないかということだった。
そのまま眠りに落ちることなくウィズはそこに到達し、その女性をそっと抱き起
こした。ざっと身体検査をしたが、例によって名前や出身星等が分かるものは何も
無かった。唯一、ポケットに小さなガラス瓶があり、ドラッグらしきものが四粒程
入っているだけだった。
「………」
ウィズは、その顔を見つめた。痩せて頬が落ちてはいるが、美しい顔をしていた。
胸も薄く中世的で、同じ顔、同じ肢体の青年がいてもおかしくなかった。
…何故だろうか。何処かで会った様な、懐かしい感じもした。
ウィズは、周りに他に何も無いことを確かめてから女性を抱き上げ、歩き始めた。
理由はよく分からない。ただ、イエに連れて行こうーーそう思った。
女性は軽く、骨格は頼りない感じだった。
なるべく揺らさない様に気をつけて、ウィズは歩いていった。
* *
リジーは、ベッドで目を覚ました。
「あれ……」
赤い天井が目に入って来る。自分の部屋だ。まどろみが気持ち良い感じだった。
そうしてリジーはゴロリと体を丸めて横になった所で、頬が枕ではなく男の胸に
当たって驚いた。
「!!」
リジーは目を見開いて頭を浮かせた。まさか!?
恐る恐るその胸の先にある顔に視線をやると…それは、先程イスで寝ていたヒゲ
の優男だった。
「え?!」
バッと自分の体に目をやる。何も着てはいなかった。続いて優男の方を見ると…
チノだけは脱いで寝ている様だ。
「……ビミョー」
リジーは裸の上体を起こした。フリースの毛布がハラリと落ちる。少し肌寒かっ
た。
「ん……」
優男が少し声を上げたのでばっと毛布で胸を隠す。だが寝言だった様で、優男は
また静かになった。
「ふぅ…」
見ると、足元にネコが丸くなっていて、顔だけ起こしてリジーを見つめていた。
「…なによ」
ネコは、フゥと言った感じでまた目を閉じた。リジーは少し片眉を上げる。
それからリジーは一応Tシャツは着て再び優男の胸にうつぶせになり、顔を見上
げた。そんな感覚は久しぶりだった。優男の胸板は薄く少々頼りなかったが、昔懐
かしい感じをしばし楽しんだ。
…結局、何かあったのだろうか?リジーは優男の顎髭を引っ張ったりしながら、
考えていた。多分、無いとは思うけど。あったとしても…この男ならまいっか。そ
う思いながら優男が起きるのを待った。
だが一向に起きる気配は無かった。
「………」
リジーはやがて起き出して服を着た。思い出して、そこら辺に脱いであった優男
のチノを探った。悪いとは思ったが起きないのだから仕方が無い。中にあったのは、
古ぼけた紙袋に入った、小分けされた二つの粉薬だった。
「……?」
袋の汚れた表面には、例によって病院名や効能などは書いてなかったが、「一日
一回」の文字は何とか読めた。…何かの病気なのだろうか?あぁ、ウィズが起きて
いれば成分とか調べてもらえるのに…そう思って、リジーはもう一度様子を見よう
とウィズたちの部屋へと向かった。
* *
プランジが次に目を覚ましたのは、遺跡の真ん中だった。
いつもの様に大の字で寝転がっていた。
「んあ……」
プランジはしばしボウッとしていた。突然、意識が途切れるーーそのことはやは
り少し恐怖だった。だが同時に何処かワクワクもしていた。
「!」
プランジは直前の情景を思い出した。そうだ、あの倒れていた男性はーー?
辺りを見回すと、側の壁に寄りかかって立て膝のまま眠りについている男性を見
つけた。あの時倒れていた病院服の男性に間違い無かった。
「………」
プランジは近づいていった。覗き込んでみると、微かな寝息と共に薄い胸板が軽
く動いている。薄い褐色がかった肌は荒れ、やはり頬は落ち込んでいた。
「あの……」
声をかけてみたが、反応は無い。
少し揺すってみたが、起きはしなかった。やがて、プランジはふと気がついた。
「…!」
右手の側に、見慣れないシリンダーの様なものが落ちていた。
プランジは拾い上げて、ジッと見つめた。全体は半透明で、中に空の試験管の様
なアンプルの様なものが入っている。先端は少し細くなっていて、反対側にはフラ
ッシュライトの様なスイッチがあった。
「…何だ?」
プランジはそれを調べる中で、何となく押してみた。
バシュッ!
「うあっと」
細くなっている方から圧縮空気の様なものが出て、プランジはそれを取り落とし
そうになって慌てたが、何とか落とさずに床スレスレでキャッチした。
「あぶなっ」
男性の前で一息ついて、プランジはそのシリンダーを見つめた。
そうだ、これは注射器ーーどこかの映像ディスクで見たことがある気がした。あ
れはディスカバリー何とかと言ったっけ。
プランジは男性の方を見つめた。
と言うことは、この人は何処か悪いのか?と言うか、先程倒れていた時は見えな
かったがこの注射器は持っていたのだろうか。そして自分が寝込んでいる間にちゃ
んと起きていて、自分でこれを打ったというのか?
プランジは悪いと思いながら病院服風の薄緑のパンツのポケットを探った。アン
プルが一つだけ見つかった。
「……?」
プランジはしばし考えた。これは、どれくらいの間隔で打つものなのだろうか。
他に何もない以上、この男性に聞くしかないのだが…恐らくこれがラストの一本、
ということなのだろう。それが無くなったら、この男性はどうなるのだろうか?
漠然とした不安がプランジを包んだ。
* *
ウィズはまた目を覚ました。
そこはやはり永遠の廊下で、いつもの廊下よりも少し開けた場所だった。ウィズ
は壁に寄りかかって眠っていた様だった。流石にライフルは肩からかけ、手も添え
ていたが歴戦の兵士としてはかなり無防備だったことだろう。
それよりも驚いたことに、ウィズの目の前の足の間には先程の女性が背を向けて
座っていて、後頭部を見せたまま寝息を立てていた。
「ん…?」
ウィズは後ろからそっと覗き込んだが、よく顔は見えなかった。
どうしてこの体勢なのだろうか?ひょっとして自分は彼女を運びながら突然眠り
に落ち、その後起きたこの女性はこの細い体で自分を背負ってここまで来たという
のか?
「おい?」
後ろから揺らしても、やはり女性は起きる感じではなかった。
「………」
もう一度左右を見渡してから、ウィズはそっと女性を後ろから抱きしめた。
…何故そうしたのだろう。多分、先程抱き上げた時からずっとこうしたかった様
な気がする。とても懐かしい気がした。知っている様な気がした。だが勿論、そん
な記憶は無い。
ーーもしも、この女性が自分に角膜をくれたあの人であったならーーそんなこと
をしばし考えてから、ウィズは手を下ろした。
「…ゴメンな」
苦笑しながら女性を避けて立ち上がり、再び前で抱き上げた。その時、女性の手
からあの小さなガラス瓶が落ちて割れた。
「!!」
忘れていたーー!
ウィズはさっと女性を下ろして辺りを探った。だが、あったのはガラス片と金属
のキャップのみで、先程入っていた薬は見当たらなかった。
「ーー?」
ウィズは辺りを一通りスキャンしたが、やはり薬の気配は無かった。何処かで落
として、ウィズの記憶が無い間に移動した、とも考えられるがーーこの女性の体力
でウィズと装備を引きずってはそう動けない筈だった。と言うことはーー
「飲んだのか…?」
ウィズは女性の方をチラと見た。あのガラス瓶には効能とか何時間に何錠等の表
示は一切無かった。だがそれを飲んでしまったということは、もう次に飲む分が無
いということだ。
そもそもあれは何の薬なのか?女性に気を取られて、成分をスキャンするのを忘
れていた。女性の体は衰弱している様だが、特にガンとか心臓病の様なスキャンす
れば見つかる異常は無かった。ならばーー?
ウィズはもう一度丹念に体をスキャンしてみたが、特に何も見つからなかった。
「………」
ウィズは思いついて、女性の口をそうっと開けてみた。錠剤のカケラとか何か残
っている成分があるかと思ったからだ。
そうして自分の指を突っ込むのが躊躇われたのでーーウィズは、自分の口を女性
に近づけた。
「………」
何処か、少年の様に心臓が高鳴っていた。
* *
リジーは、ベッドの上で目を覚ました。一瞬何が起こったのか分からなかった。
リジーは入り口の方を向いて海老の様に体を丸め横になっていた。そうだ、あの
優男がーーリジーはまどろみの中反対側へと体を向けた。優男の肩口に触れる筈の
頭はそのまま冷たいシーツに沈み込んで、リジーはハッとした。
「え…!?」
そこでリジーは思い出した。
さっき、ウィズたちがまた寝ているのか確認しようと部屋へ向かったんだっけ。
でもーー何故また戻って来ている?そしてあの優男はどこだ?
「うそ……」
リジーは起き出して辺りを見回した。服もあの薬の包みも勿論見当たらず、優男
の存在自体が無くなった様だった。
リビングにも行ってみたが、全く人影は無い。
「マジ……!」
次第にリジーは焦ってきた。
3階のバルコニー前の部屋に行ってみると、窓際に人影が見えた。優男は、窓際
のイスに腰掛けて寝ていた。
「………ふぅ」
リジーは安心して、近づいていった。
優男はバルコニーの方に気持ち体を向けて座っていた。最初に観た時の様に浅く
腰掛け、少し左に傾いた状態で静かに寝息を立てていた。窓際の手すりにはネコが
いて、ハコを組んで目を閉じていた。
「ったく、心配させて…」
もはや起こそうとは思わなかった。リジーはまたイスを持って来て、優男の側に
座った。
「………」
ゆっくりとその顔を眺めた。そっと前髪に触れたりした。
時折ネコが目を開けてそんなリジーの様子を眺め、また目を閉じたりしていた。
「……そうだ」
リジーは気付いて、辺りを探った。あの包みの薬は、大丈夫だったのだろうか?
それはすぐに見つかった。部屋の隅に、空になった包みを丸めたものが二つ、転
がっていた。
側には少し水が残ったコップも置いてあった。
「え…?」
やはり自分が寝ている間に起きてここまで移動して、一人で薬を飲んだというこ
となのだろうか?だが残っていた分を飲んでしまった今、この先優男はどうするの
だろうか?
「………」
リジーは優男の元に戻ってポケットを探してみたが、やはり何も無かった。
「大丈夫なの……?」
リジーは優男の両頬に手を当て、正面から顔を覗き込んだ。
その少し褐色がかった痩せた頬は固く、苦労を感じさせた。その懐かしい様な切
ない様な不思議な感覚に、リジーはしばし戸惑った。
「………」
リジーは少し考えて、何となく唇を近づけていった。
* *
プランジは、草原で目を覚ました。
「んあ……?」
プランジはハッとして体を起こした。そうして自分が例のシリンダー型の注射器
を手にしていることに気がついた。
「あれ?」
観ると、注射器の中には空のアンプルが入っている。
「………?」
遺跡は背後数十メートルのところにあった。プランジは辺りに何も無いことを確
認してから、遺跡まで走っていった。
遺跡の縁に、男性は座って柱に寄りかかって寝ていた。
「………?」
相変わらず、何故か寝ていて起きない状況は同じ様だった。
プランジは男性のポケットを探ってみた。
「やっぱり……」
先程見たラストの一本は男性のポケットに戻しておいた筈だったが、それは無く
なっていた。恐らく自分が寝ている間に男性は起き、最後の一本を使用したという
ことなのだろう。
「………」
プランジは、手の中のシリンダーを見つめた。
これは一体、何の薬だったのだろう?それが無くなった今、この男性はどうする
のだろうか。自分はそれに対して何が出来るのだろうかーー。
だが、その答えは無い。このホシで、それはいつものことだった。
プランジはシリンダーを脇に置いて、男性の横に並んで座り、星空を見上げた。
白夜ーーその夜の部分は、いつまでも寒々とした空を形作っていた。
プランジは膝を抱える様にして座り、顎を乗せた。何も出来ない自分が、ファイ
の時のそれと被ってチクリと胸が痛んだ。
「………」
プランジは顔を伏せた。あぁ、まずい。そうしないと、また何かが溢れるーー。
風が少し出て来ていた。
「!!」
プランジは顔を上げた。
気配を、感じた。それは、久方ぶりの『ヒュー』の感触。それは強く優しく、プ
ランジを包む様だった。
「これはーー!」
そしてプランジが立ち上がろうとした時、その手を男性の手が掴んだ様な気がし
た。
「え!?」
プランジは驚いて男性をみた。
男性は先程と同じく壁に寄りかかって俯き加減で目を閉じていた。そのダラリと
下がった手はプランジの手を掴んではいなくて、立ち上がろうとしたプランジの手
が触れているだけだった。
「……?」
少し考えて、プランジはそっと手を重ねた。
* *
その時、ウィズは目を覚ました。目の前には女性の顔…ではなく、石の柱があっ
た。
「?!」
あっと思った時にはもう額が柱にぶつかっていた。
「つ……」
ウィズは混乱した。意識が途切れる前、女性に口づけしようとしていたのに。今、
ウィズは壁際の柱を抱きかかえる様にして片膝をついていた。
「……?」
ウィズはぐるっと辺りを見回した。
廊下よりも少しだけヒカリゴケが多く気持ち明るいその場所は、ひんやりとして
いて静かだった。辺りに女性の姿は無い。
「どこへーー?」
ウィズは、ゆっくりと立ち上がった。側に落ちていたライフルを拾う。彼女の反
応は、何処にも無かった。ウィズは、立ち尽くして呆然としていた。
その時、ウィズは感じた。
「……!」
それは、ファイの時に初めて感じた、『ヒュー』の気配。ウィズは辺りを見回し
た。辺りには柱以外何も無い。だが、ウィズは確信した。
この柱はあの時ーーピアノマンが触れた、あれと同じだ。記憶の塔ーーそしてそ
の後この永遠の廊下でプランジに見せたと言う、あの無数のイメージをもたらすも
の。そして、それはファイとプランジが『飛んで』いる時に見た無数のホシのイメ
ージ、その時ホシにいたウィズやリジーにも感じられたあの無限の広がりを持った
あの世界にも、触れられるものーー。
そして、これはあの女性のーー?
「………」
ウィズはゆっくりと手を伸ばし、その柱に触れた。
「あぁ…」
『ヒュー』の気配。その震える様な感覚が、ウィズを包んだ。そして光り輝くイ
メージが、ウィズに流れ込んで来た。
リジーは目を見開いた。目の前には優男の閉じられた瞳と前髪があり、唇は彼の
それに触れていた。
「!!」
リジーは優男の頬に手を当てたまま身を引いた。ヘンな感じだった。唇の、そし
て体の妙な感触。オトコと触れたというより、家族や兄弟とのそれに近い様な、奇
妙な感じ。
「何…?」
リジーはしばし躊躇した。
「!!」
潮騒の様な音が聴こえた。そして感じたのは、あの『ヒュー』の感触。それはホ
シを包む様に、リジーに触れた。
そして、体に流れ込んで来る無数のイメージに、リジーは目を見開いた。
「!!」
プランジも、『ヒュー』の気配を感じていた。重ねた男性の手から流れ込んで来
る記憶のイメージに、体を揺さぶられていた。
「これは……!」
それは確かな、誰かの記憶。
その誰かは、体が弱かった。物心ついた頃から母親はいなかった様だ。記憶の片
隅に微かに残るその姿は、いつも胸にチクリと痛みを残す。父親らしき保護者も、
やがて去っていった。その理由は、自分なのだーーとその誰かは感じていた。入退
院を繰り返し、無限の薬物の影響の果てで、誰かは両性具有になっていた。現実味
の無い浮遊感の中で育った誰かは、いつしか睡眠薬を常用する様になっていた。そ
うすれば誰かの体は実在を離れ、意識の中へとダイブ出来るからだった。雑多なド
ラッグとは違う。あれは意識をも混濁させる。自分は自分でちゃんと存在していて、
その上で意識の中に沈んでいきたいのだーー誰かはそう思っていた。
リジーは、それを無くした子供だと思った。
ウィズは、かつて自分に角膜をくれた女性だと思った。
プランジは、そのどちらでもある、とある病人がーーそして自分と同じ様に現実
感を失い、孤独に沈もうとしている誰かが、このホシに来たのだと思った。
そして、それは同一人物だったのだーー全員が、そう体感した。
それは無数のイメージの一つ、数ある過去と未来の中のほんの一つだったのかも
知れない。
だがそれは『ヒュー』が見せた、それでも静かに戦っている、誰かのイメージだ
った。
そして誰かが、事切れる間際に見せたそれぞれの自分の、最期のきらめきだった。
* *
プランジは、白の部屋で目を覚ました。
足にはネコが寄りかかった体重の重みが感じられていた。
「あ……」
プランジは、ゆっくりと体を起こした。外はまだ気持ち薄暗い白夜の様だった。
ネコがチラリと目を開けて見た。
「えっと……」
何か夢を見た様な、そこで重要な何かを見た様なーー不思議な感覚だった。
プランジは起き出した。昨日(?)と同じ服のままだった。
ウィズの部屋を覗くと、ウィズはベッドの上でライフルを持ったままボウッとし
ていた。
「……ウィズ?」
ウィズはフラリと顔を向けた。
「あぁ」
「何かーー」
「あぁ…」
ウィズも、どこか思い出せない夢のことが引っかかっていた。
「………」
二人はしばらく顔を見合わせていた。
やがてリジーが眠そうに目をこすりながらやってきた。
「ンぁ……」
「あ…、おはよ」
「ん~…なんかヘンな気分」
「リジーもか」
「…も?」
リジーはそこで顔を上げた。
「………」
「……ん?」
ウィズもベッドから出て戸口にやってきた。
「あ!」
リジーが声を上げた。
「どうした」
「何か、思い出した?」
覗き込む二人。だがリジーは窓の方を指差していた。
「夕焼け!」
リジーは入り口付近に走っていった。
「あん?」
「ホントだ」
プランジも走っていった。
外に出ると空はオレンジ色に染まり、太陽はようやく地平線に沈みつつあった。
「キレイ……」
「久しぶりだよね」
「ようやく、白夜が終わったみたいだな」
ウィズも近づいて来た。
三人は、オレンジ色の光に包まれていた。
「…今回、『ヒュー』は何をしたんだろ」
リジーがぽつりと言った。
「さぁな……」
「夢を、見せてくれたんだよ」
プランジが微笑みながら言った。
「夢?」
「お前、覚えてるのか」
訝しげに聞く二人。プランジは首を横に振った。
「ううん……何となくだけど」
「………」
ウィズとリジーは顔を見合わせて、プッと吹き出した。
「何だよ」
「しょうがないの」
ひとしきり一同は笑った。
そうして、一同はイエの中の方へ戻って行った。
「晩ゴハンいる?」
「パンはもう無いよね」
「何かしら出来るよ」
「それよりもシャワーを浴びたいな」
「アタシも」
「じゃあ一緒に入る?」
「ちょっと」
「それもいいな…」
「ダメでしょ」
話しながら奥へと向かう一同。
ネコは、そんな様子を入り口前のベンチで背中で聞いていた。
そのまん丸なガラス玉の様な目には、沈みつつある夕日がキレイに映り込んでい
た。
ネコは、今回も小さな光のプランジ『ヒュー』と一緒に、ホシの成り行きを見守
っていた。
最初にネコが気付いたのは白夜になった後のあのディナーの時だった。窓際にい
たネコの前に、あの小さな光のプランジ『ヒュー』が現れた。それは久しぶりのこ
とだった。『ヒュー』はしばらくネコと目を合わせてから、窓の外に目をやった。
プランジの言う緑の光『ヒュー』の気配は無い。だが、光の方の『ヒュー』の側に
いると、いつもの様にホシの上で起こっていることがネコには全て見えていた。
「3人いる」ーーネコは目を見張った。イエの無限の部屋の廊下に、遺跡の側に、
永遠の廊下に、3人の人間がいつの間にか現れてゆっくりと歩いていた。ネコは側
の『ヒュー』に目をやった。『ヒュー』は、興味深そうに微笑んで見ていた。ネコ
もしばらくその様子を見ていたが、やがてあることに気がついた。3人は辺りが見
えているのかいないのか分からない感じでフラフラと歩いていたが、その歩みは、
行動は全くシンクロしていた。これはーー?ネコは不思議に思った。それと同時に、
ディナーの席のプランジたちはどこかボウッとした感じでそれぞれの部屋へと向か
った。
そして、その日プランジたちが眠りについてから、事態はまた変化した。ネコも
3人の姿を追っていたものの、いつの間にか眠ってしまった。次に起きると、何故
かネコはプランジの側にいて、ベッドの前にウィズがいた。プランジは全く起きな
かった。何処か、何かがおかしかった。妙に眠い、頭がボウッとした感じだった。
そしてウィズの後方に、小さな『ヒュー』も浮いていた。『ヒュー』は全てを見て
いる様で、イタズラっぽく笑っていた。ネコは起き出してウィズにゴハンを貰った。
その後ウィズは出て行った。ネコは三階のバルコニーに陣取り、ホシの様子を見守
った。そうだ、あの現れた3人はーー?ネコは側に浮いている『ヒュー』の姿を見
つめた。3人の姿は、感じられなくなっていた。『ヒュー』は何も答えず、興味深
そうにホシを眺めていた。ウィズは、プランジとリジーが起きないことを確かめる
と外に出て行った。誰かが呼んでいる様だった。それはあの3人のうちの1人なの
だ、とネコは思った。
それからネコはリジーの様子を観に行った。ちょうどリジーは起き出したところ
で、やはり様子がおかしかった。どこかボウッとしていて、眠気が何処かに残って
いる様な不思議な感じ。思えば昨夜一同が眠りにつく時も、様子がどこかおかしか
った。ネコはリジーに抱かれて歩きながら、ついてくる『ヒュー』に目をやった。
『ヒュー』はいつもの様に興味深げにそれを見ていた。そしてリジーがウィズとプ
ランジの部屋に目をやるとーーウィズは寝ていた。ネコは驚いた。先程外に出てい
ったのではないのか?
ネコが次に目をさますと、ネコはプランジのベッドにいた。ネコは少し混乱した。
やはり、何かが起きているーープランジはまだ寝ていた。唇をなめたり頬に頭突き
してみたりその赤みがかった茶色い髪をツメでとかしてみたりしたが、一向に起き
る気配がない。これはやはり、ホシに何かが起きているのだーーネコはそう思った。
そしてようやくプランジが起き出した。プランジについていくと、やはりウィズと
リジーはそれぞれの部屋で寝ていた。ウィズもリジーも別の場所にいる筈なのにー
ーネコは側の『ヒュー』に目をやった。確かにウィズは永遠の廊下にいたし、リジ
ーは永遠のコインランドリーにいた。なら目の前で寝ている二人は、誰なのだーー。
ネコは三階のバルコニー前で陣取って、『ヒュー』と共に成り行きを見まもって
いた。プランジは遺跡へと走り、リジーはネコのいるバルコニー前の部屋へとやっ
てきた。その時、一瞬ホシがビュワッと揺れた。リジーたちは気付かなかったが、
ネコも『ヒュー』も、それは感じ取った。そしてホシにはーーあの3人が現れた。
その一人の優男風の男は、ネコの視線の先、リジーの背後に現れた。永遠の廊下の
ウィズの前には中性的な女性が、遺跡のプランジの前には病人風の男が現れていた。
3人とも眠り込んだ状態だった。
ネコと『ヒュー』は、その邂逅を見守った。最初3人の人間たちは先程のプラン
ジやウィズの様に、起きる気配がなかった。そのうち、プランジ・ウィズ・リジー
の3人は、突然夢遊病の様にフラッと移動して、それから気を失う様に眠りについ
た。あぁ、昨夜のあれはこういうことだったのかとネコは思った。そして一同が眠
りについた後、ホシにやってきた3人はゆっくりと目を覚ました。3人は歩き回り、
目の前にいるプランジたちを不思議そうに眺めたりとひとしきり行動すると、それ
ぞれ薬を取り出して飲んだ。そうして、3人はまた眠りについた。
あれは、睡眠薬か何かだということなのだろうか。ネコはそれをじっと見つめてい
た。3人が眠った後、ウィズたちはまた起き出して、それぞれが行動に戻る。それ
を繰り返していた。それぞれが、目の前の人間に対してそれぞれの思いを抱いてい
る様だった。
ネコは時々リジーのベッドに移動したりして過ごしながら、『ヒュー』と一緒に
ホシの行く末を見守っていた。現れた3人は起きては薬を飲み、また眠りに入る。
やがてその薬が無くなっていくことに、3人はどこか怖れを抱いている様だった。
そしてプランジたちとの眠りの間の間隔は短くなっていきーーやがてプランジたち
が眠りに入る前の夢遊病状態の時に3人は起き出した。3人はそれぞれウィズたち
に触れ、言葉は交わさないものの何かを感じ取っている様だった。リジーたちも一
応反応はしている様だったが、その時のことを次に起きた時には覚えてはいなかっ
た。そして現れた3人は最後の薬を飲むとき、皆静かに覚悟を決めている様な表情
を見せた。それは、それぞれ目の前にいるプランジ、ウィズ、リジーたちがそうさ
せたのだーーネコはそう思った。それは決意ではなく、強制でもなく、希望への道。
ようやく訪れた、最期の時。そんな感じだった。そして3人は最後の薬をボウッと
した状態のウィズたちに渡し、飲むのを手伝わせていた。プランジたちは記憶の無
いままそれを行い、そして全員が眠りについた。
その後に起きたウィズたちは、それぞれ3人の薬が無くなっていることに気がつ
いた。そして何故かーー何か、感じるものがあったのだろうか。リジーたちはそれ
ぞれ、そっと寝ている3人に触れようと近づいた。その時、ネコの隣の『ヒュー』
はパッと目を見開いた。同時にホシも、ビュワッと揺れた。そしてウィズの目の前
にいた女性はその姿をあの記憶の塔に変えーーその一瞬、プランジたちは記憶が戸
切れたようだがそれは眠りに落ちた訳ではなくーーあの3人に触れた一同は『ヒュ
ー』の気配を感じ、そしてそこから溢れ出した無数のイメージを感じ取った。それ
はホシに来た3人がまだ一人だった頃からのイメージ。哀しみと死とそれを受け入
れて生きていた誰かのイメージ。静かに戦っていた誰かのイメージ。そしてネコは
見た。そのイメージの中で、あの3人の体が光り、一つになって消えていくのを。
ーーネコははっとした。遺跡や永遠の廊下や3階のバルコニー前の部屋から、一
同の姿が見えなくなったからだ。ネコが側の『ヒュー』を見ると、ちょうど『ヒュ
ー』はネコに微笑みながら消えていくところだった。
ネコは一階のプランジたちの部屋に向かった。それぞれの部屋で、一同は普通に
眠っていた。その眠りは深かったが、もう起き出さないという感じではなかった。
ネコは安心して、プランジのベッドに飛び乗って足の辺りに寄りかかった。
今回も、色々あったけどーーこれは全て白夜が見せた幻だったのかもしれないな、
と思いながら。
起き出したプランジたちは、何も覚えてはいない様だった。だが、心の奥底には
何かが残っているのだろう。またいつか、それに触れることもあるのではないだろ
うか。
ネコは目を細めながらそう思った。
夕日は、地平線の向こうに隠れつつあった。
久しぶりの、ちゃんとした夜が始まる。
あれほど寝たというのに、まだ少し眠いのはなぜだろうか。
ネコはそんなことを考えながら大きく口を開けてアクビをした。




