1「青年とホシとネコ」 前編
長く続く話の序章の前編です。
不思議なホシに住む青年とネコ、そしてそこに堕ちてくる事になる
男女の乗った宇宙船それぞれの話です。
青年は夢を観る。
そこは霧の中の荒れ地。青年は走っていた。
先は見えない。ただ、霧の向こうに一点の緑色の光が瞬いていた。
それは遠くでずっと瞬いていて、何かの道しるべの様だった。
青年はそれに向かって走っている。
その側に、誰かが居る様な気がする。誰かと、一緒に走っている様な。
青年は両側を見るが、その姿はボンヤリとしていてよく見えない。
辺りにはあちこちにカメラとか鉄クズとかが落ちていた様な気もするが、
彼らは構わずに走っている。
何か希望に満ちあふれている様な、みなぎった気分で走り続けている。
気がつくと、青年はその不思議なホシにいた。
赤ん坊の頃はよく覚えていない。物心ついた頃から、青年は独りだった様に思う。
かつて色々なことがあった様な気もするが、その記憶はボンヤリとした曖昧なもの
だった。
ある時期からは、ネコが側に居る様になった。そして、二人で色んなことを体験
して来た。
そこは彼とネコの、たった二人のホシだった。
とある宇宙の星図にすら載っていない辺境に、そのホシはあった。その蒼い星は、
星空の中でアイオライトの様に光り、異彩を放っていた。ホシの大きさは直径が三
十キロあまり。全周が百キロ程。青年の有り余る体力なら半日も走れば一周出来る
サイズだった。実際はそんな小さなホシなら超重力になっていたか、もしくは地上
に水分も維持出来ないただの隕石になっていた筈であろう。だがそのホシは、ずっ
とそこに存在していた。そのホシがどうして出来たのかは、誰も知らない。
そのホシのとある平地に建っている大きな塔に、青年とネコは住んでいた。
頂上が見えない程高く、全体が気持ち円錐形になっている、バベルの塔を思わせ
る白亜の塔。その先は上に行くに連れてどんどん細く垂直になっていき、まるで軌
道エレベーターの様に何処までも伸びていた。その先がどうなっているのかは誰も
知らない。
その中に入ると、一階には天井のとても高い部屋が幾つか有り、それぞれに白だ
ったり赤だったり蒼だったりと色分けされた区画があった。青年とネコが主に使っ
ている部屋は白だった。二階にはそういった部屋が繋がったかなり広いスペースが
あり、青年はそこをリビング代わりに使っていた。三階には同じ様な部屋と共にち
ょっとしたバルコニー的な場所もあった。そこは特にキレイな場所という訳でもな
く、青年が作ったゴツゴツとした彫刻が立ち並び異様な姿を見せている。
そしてその上階には、何故か外から見たよりももっと幅の広い、数え切れない程
の部屋が立ち並ぶ廊下が無限に続いていた。そこは廊下が巨大な螺旋状になってい
て、両側に部屋がズラリと並んでいるのだった。その螺旋は上階へと何処までも続
き、その先は永遠に続いているかの様だった。外に面した部屋には時々丸い窓もあ
ったが、内側にある部屋にも時々何故か窓があって別方向が見えていたりと、内部
は非常に不条理な構造になっていた。青年は何度もこの廊下の行き着く先を見よう
と走ってみたが、結局先は見えなかった。最高で一ヶ月以上かけて上を目指した事
もあるが、物資が尽きて死にかけただけだった。
青年は次々に部屋を開ける。
大抵は空っぽなのだが、時々本が詰まった部屋だったり映像ディスクが並んだ部
屋だったり服が鈴生りになっている部屋だったり缶詰が詰み上がった部屋だったり
水タンクで満たされた部屋だったりに出会う。
この塔にはガスも水道も無かったが、それ以外の大抵のものは此処で見つけるこ
とが出来た。その物資によって、青年とネコは飢え死にせずに済んでいた。常にそ
の時必要なものが見つかるとは限らないが、長い目で見るといずれ何処かで見つか
った。何日も何も見つからない日々もあれば、突然持ち出せない程の大量の物資に
出会うこともある。
青年はもう何年も部屋を開け続けているのだが、こちらも未だに全ては開けられ
ていない。
と言うか、一度開けた部屋も次に開けると違うものが入っていたりするので始末
が悪かった。一応開ける度に印なども付けたりするのだが、その印も時々移動して
いたり、あり得ない場所に印が付いていたり、そもそも階数や高さ自体が外から見
えるものとは時々違っていたりと、その時々で塔自体が変化しているようだった。
そしてそのホシ自体も、時々姿を変えることがあった。
毎日ではないが、たまに塔の場所が変わっていたりする。いや、塔の場所と言う
より、その周りの方が変化している様だった。普段は平地に建っているのだが、時
には湖の上に。またある時は山岳地帯の上だったり、氷原の中だったり、深海の底
だったりしたこともある。なので青年が米や野菜などを植えようとしても無理な話
だった。
青年とネコはもう慣れてしまっているので、朝起きて景色が変わっていてもあま
り驚くことは無い。むしろ変化を楽しんでいた。
更にもう一つ、不可思議なこと。
それはたまにこのホシに降ってくる流星。隕石。
たまに降ってくるそれは、青年に試練を与えているかの様だった。
空を流れているだけならキレイな姿を見せているのだが、近くに落ちたりすると
それは大変で、今まで数々のものを壊され、また吹き飛ばされて来た。
青年は一度ムカついて拳で砕こうとして反対に大ケガを負い生死をさまよったこ
ともある。
元来割と無茶をする性格だった様で本来なら既に何度も死んでいた筈だが、何故か
今の所青年は生きていた。
そしてたまに隕石は塔に当たって大ダメージを与えたりもするのだが、その穴や
痕も数日経つと消えていたりする。
この不思議なホシでは、万事そういうことだった。
今ではもう流星など慣れっこで、小さなものなら見切って避けたりも出来る。た
まにやってくる脅威の存在ではあるが、分かっていれば何とかなる、このホシの不
思議なことの一つ。そんな感じだった。
そうやって、青年とネコはこのホシで生きていた。
ーーその日までは。
その日、青年はいつもの様に外に出て岩を削って何かを彫っていた。
これも彼の、走ること・身体を動かすこと・絵を描くことに続く趣味の一つで、
目的を持たずに岩を削りだしていくうちにだんだん形が見えてくるのが好きなのだ
った。バルコニーや塔の外壁には、至る所に彼の作品が並んでいて異様な姿を見せ
ている。
青年は旧地球で言うアメリカ系。つまり雑種だ。骨太でガッシリした体系で、赤
味がかった茶髪に薄い緑色の瞳。彼はその瞳の色が気に入っていた。服は大体無限
の部屋から調達するのだが、タンクトップにカーゴパンツでいることが多かった。
映像ディスクの中で見つけたお気に入りのプロレスラーがよくやる格好だった。
彼は運動神経が良かった。とても機敏に、そして器用に身体を動かすことが出来
た。更に体力は異常といえるレベルだった。何時間もトップスピードで走る事が出
来た。なのでパルクールーー岩や周りの構造物を利用してヒュンヒュンと移動する
術ーーの存在を映像や本で発見した時はこれだ、と青年は思った。もうそれは何年
も練習していて、今では四階程度の高さなら階段を使わずヒョイヒョイと外壁から
昇り降りする事が出来た。
その日も、青年は朝からひとしきりパルクールを練習した後、前日に見つけた黒
のカーゴに着替えて三階のバルコニーでノミを振るっていた。カーゴを見つけた時
に何故か隣にあった英語の辞書の、何となく開いたページにあった単語 ”Plunge(突
っ込む、突進する)”という言葉が何故か妙に引っかかっていて、時々特殊鋼のノミ
の先を狂わせたりした。
側ではネコが興味深そうに観ていたが、時々削った岩の破片が飛んでくるのでや
がて少し離れたところに移動して丸くなった。
「あ、ゴメンゴメン」
青年は屈託無く笑った。
ネコは、そんな青年の感じが気に入っていた。最初に出会った時から、ずっとこ
の青年はこんな感じだった。
ネコは灰色っぽいアメリカンショートヘア。と言っても青年は特に種類には興味
は無かったので、その単語は覚えていない。ネコにしては既にそこそこの歳である
はずだが、今は特に太るでもなく元気に動いていた。その黄色い白目部分に浮かぶ
まん丸な黒い瞳は、穏やかに青年を見つめていた。
その時。
「ん!」
彼は微かな音を聴いた。音というより、それは第六感に近い。
隕石がやってくる感覚、ではある。だがそれはいつもとは何かが違う、独特の感
覚だった。
見上げた彼は、まっすぐにこちらに向かってくる隕石を感じた。
「……?」
青年は思った。自分が今いる三階のバルコニーを掠め、塔の近くに落ちる感じだ
った。だが、これは何か今までとは違うーー?
何故そう思ったのかは分からなかった。
「ちょっと、ココにいな」
青年はネコにそう告げると、ノミをいつもの様にカーゴパンツに突っ込みタタッ
とバルコニーの端まで走ってヒョインと飛び降りた。外壁の出っ張りや突っ張りを
利用してパパッと地上に達し、そのまま塔の近くの開けた場所まで走った。
「……!」
青年は空を見上げた。流星は、ハッキリとその姿を捉える事が出来た。直撃コー
スだった。
いつもならすぐにその場を離れただろう。この大きさなら、横方向に数百メート
ルも離れれば大丈夫な筈だ。
しかし、彼の足は動かなかった。いや、意識は動こうとしていたが、何かがそれ
を押さえた。青年の視力10はある目は、そして感覚は、隕石の向こう側にある小
さな緑色の光をとらえていた。
「何だーー?」
今までの流星とは何かが、絶対的に違う。自分の感覚が、そう訴えていた。
ネコはバルコニーの端まで出て来て、フーッと毛を逆立てた。
流星は猛速で近づきつつある。
「……!」
青年は震えつつ全身の力を抜き、ゆっくりと手を広げた。
まるで何かを迎え入れるかの様に。
何故、自分がそうしているのかは分からなかった。直撃すれば確実に死ぬーー何
処かで分かってはいた。だが、今はあの緑色の光に触れるのだーー何故かそう思っ
ていた。
それは、時間にしてほんの数秒のことだったろう。しかし彼らには、まるで数十
秒から数分の事の様に感じられていた。
ネコは、未だに動けないでいた。
青年を守ろうとする心と、逃げようとする自分の本能とがないまぜになっていた。
ゴウゴウと近づいてくる隕石。その時、隕石の向こうにある緑色の光が一際瞬い
て、彼にそっと何か呟いた。青年はそう感じた。
凄まじいスピードの隕石が一際まばゆい光を放ち、彼らを包んだ。
ネコが、目を見開いた。
そしてーー激突。
凄まじい轟音と地響きが辺りを包んだ。
天に長く伸びた土煙。それはやがて収まって行ったが、その先のクレーターには
青年の姿は無かった。
ネコはギリギリで自分の身を守ることを優先したようだった。バルコニーから塔
の三階の部屋に飛び込んで物陰に隠れていた。隕石は割と近くに落ちたが、塔は無
事建っていた。ネコはそっと窓辺から顔を出し、辺りを見回す。青年はどうしただ
ろう?あの時、緑色の光に包まれた時、青年はーー。
ネコは少々罪悪感を覚えながら、バルコニーに出て歩き出した。
数時間後、青年は目を覚ました。
驚いたことに、そこは二人が暮らしている塔とは丁度ホシの反対側にある、スト
ーンヘンジの様な岩の遺跡だった。
勿論、青年は此処に何度も訪れたことがある。思い立って星を走って一周したり
するのにちょうどいい中間地点だった。
そして、青年の最初の記憶もココからだった。誰もいない場所に突然放り出され
た絶望感にしばし打ちひしがれた場所。それから何日かは此処で寂しい時間を過ご
したっけ。ネコと出会ったのも確かココだ。ホシをどれだけ早く一周出来るか試そ
うとした、何度目かの激走の最中だったと思う。
だが何故?
あの時、隕石が自分にぶつかったと思った時、痛みは感じなかった。
あの光に包まれた時、奇妙な幸福感があった気がする。
そしてあの不思議な浮遊感。
いつの間にか、ホシの裏側にいる自分。
全てが、今までこのホシで感じたことのない、特別な感覚だった。
青年はそれを『飛んだ』のだと理解することにした。青年は、クドクド悩むこと
をあまりしない方だった。スパッと物事を解釈して、次に進むことの方が多かった。
それはこのホシで生きていく中で彼が身につけた生き方だった。
以来、彼はその『飛ぶ』感覚を、探し求める様になった。
* *
遠く離れた宇宙。
とあるフネが、辺境の空間を進んでいた。
その一キロ近くある船体は既にアチコチ朽ちていてジャンプも満足に出来なくな
っていたが、何とかごまかしつつ航行していた。その大きさの割には、乗員は三人
しかいない。それぞれが各星系からやってきた、共同調査の為のフネだった。
調査の目的は未開拓の星系の資源及び文明の痕跡の探索。他にも出航時はついで
に、と様々な機器が搭載されてはいたが、使うことになるとは思えなかった。
その船体の九十パーセントを占めるカーゴスペースには、途中で寄った惑星で採
取したリジウム鉱石が満載してあった。調査のついでに貴重な資源も、というより
むしろそちらの方が主目的に近い、よくある民間から資金を出してもらった学術調
査船だった。
そのフネはもう長い間、メインの星系には戻っていなかった。
クルーの三人はそれぞれ自分の分野の仕事をこなし、普段は残り十パーセントの
各ブースで過ごしていた。全員その分野のエキスパートというよりは、辺境で数年
過ごせるだけの適性とそれなりの環境を持った、いわゆるハグレ組タイプだった。
実際調査中に事故で行方不明になることも多い訳で、家族がいる人間はいなかった。
その一人、地質学者の女性はその日、その星系のいくつかの惑星を光学観測した
だけだった。恐らく三十何回目かの誕生日であるその日も、特に変化のない日常が
流れていた。
彼女は薄い褐色の肌に黒髪、紺色の瞳。旧地球のインド系のその美しい外見に似
合わない物憂げな表情は過去に何かあったことを想像させるが、それに触れる者は
このフネにはいなかった。
もう一人は天体学者の男。歳は三十前位か。薄い金髪を短くしていて、焦げ茶色
の瞳に白い肌。左目はやや瞳の色が薄かった。同じく旧地球で言うゲルマン系の長
身でやや優男風ではあるが、好んで着るアーミージャケットの下のしなやかそうな
その体躯はほぼ全身再生治療で、実は軍用のモデルだった。除隊後に転身したらし
く、その過去は誰も知らない。
だが普段は特にその体に秘められた力を使用することも無く、淡々と作業をこな
しているだけだった。
最後の一人は、ほぼブリッジに閉じこもっていてパイロット兼機体整備をしてい
る老人だった。彼は調査と言うよりは無事機体と後の二人を最後まで送り届ける為
にいる様で、残りの二人ともあまり言葉を交わさなかった。食事もブリッジで済ま
せ、残りの二人とは顔を合わせることもごく限られた機会に留まっていた。最初に
会った時は、とうに定年を迎えているだろうに何故こんなフネに?などと残りの二
人は思ったものだが、やはりその程度のフネなのだな、と理解することにしていた。
その日、女性と男は食堂スペース兼デッキで珍しくコンタクトした。ボロ船とは
いえ、まだ人口重力等ライフラインは健在だった。
お互い嫌い合っている訳でも人見知りな訳でもなかったが、何となく離れて座っ
ていた。
「………」
男はいつもの様にアーミージャケット姿で合成肉のホットドッグを咀嚼していた。
調査を始めた当初は制服など着ていたが、長い調査の間にお互い普段着で過ごす様
になっていた。女性もTシャツにショートパンツにスニーカー姿で野菜サラダを食
していた。
一応、女性から声をかける。
「調子はどう」
男は顔を上げてから口の中のモノを飲み込み、たっぷり間を取ってから答えた。
「まぁまぁだな」
一応自分の方が十近く上なのだが、と彼女は思ったが放っておいた。
「一応」
と言葉を発した男に目をやると。
「誕生日おめでとう」
ほぉ、と女性の頬が少しゆるむ。
「覚えてたら次のドックでおごるよ」
と行って男はトレーを持って立ち上がる。
「……ありがと」
無事帰れたらね、とは言わなかった。
男の方も、多分その時になったら忘れている気がしていた。実際前年の誕生日は
かなり過ぎてから思い出していた。忘れずに送ったのは前々回の老人の時で、その
時は立ち寄ったステーションでチタン製のドッグタグを買ったっけ。
「……」
男はトレーをオートの食洗機に突っ込んだ。たったこれだけでも、彼らに取って
は丸一日の十分な会話だった。
必要なこと以外は特に話さなかったし、それでいて何処か信頼はしていた。お互
いの傷には触れないーーというような暗黙の了解があった。それが、この単調な任
務が続く閉鎖空間でうまくやっていくにはちょうど良い方法だった。それが普通に
出来る二人だったことは、お互い幸運だったと思っていた。
男がデッキを出ようとしたタイミングで、スピーカーから軽いハザード音と女性
タイプの電子音声が流れた。
「30分後、本艦ハ予定通リジャンプインシマス」
二人は顔を見合わせる。
「そうだっけ」
「だったな」
「あれくらい自分の声でいいのに」
「まぁ無事ジャンプ出来ればいいさ」
そんな会話を交わして二人は別れた。今日は結構話した方だな、とお互い思って
いた。
その時、側の窓から彼等がいた居住スペースのすぐ外の食用の農業モジュールの
基幹部に少しユラっとしたカゲロウの様な揺らめきが見えたのだが、彼等はおろか
船体のセンサーの全ても何も感知していなかった。それは前回のジャンプ以降微か
に現れ始めた、何かの兆候だった。
* *
青年はその日、洗濯をしていた。
朝起きると外は生憎の土砂降りだったが、この雨は直に止む、と何故か青年は確
信していた。天気を読んだ訳ではない。着々と変わるこのホシの天候に、規則性や
予兆などそうそうありはしなかった。
塔の中には、無限の部屋と同じ様に両側にズラッとマシンが並んだコインランド
リースペースがあった。入り口から入ると中央の通りと共にランドリーマシンが数
列、ずっと奥まで永遠に続いている。窓は無く、壁がボウッと青白に光っている。
勿論此処も、青年は何日もかけて走ったことがあるが結局先を見たことはない。明
らかに外から見た塔の幅よりは奥に行っている不可思議さ加減で、青年は「無限の
部屋」に対してこちらを「永遠のコインランドリー」と呼んでいた。
青年は無限の部屋から見つけて来たコインで、ランドリーを端から順番に使って
いた。そのコインも常に一種という訳ではなく、様々な種類があってどれで動くか
は試してみないと分からなかった。無限の部屋たちと同じく、このマシンも全てを
使い切ることはないだろう。
今も入り口からは結構離れた場所で、青年はゴウゴウと回るドラムを腕立て伏せ
をしながら眺めていた。
このマシンは液体ではなくミストで衣類を洗う様に出来ていた。電源が何処にあ
るのかは分からない。その水もどこから来ているのかは分からない。思えば塔にあ
るトイレもミスト系のものだった。塔にはそれ以外の水道やシャワーは無く、プラ
ンジが無限の部屋から水を見つけてきては手製の簡易シャワーで身体を洗ったりし
ているのだった。一度あまりに水が無くてこのマシンからどうにか水を取り出せな
いかと試みたことがあるが、どうにも分解出来ず、蹴り飛ばしたマシンが爆発した
程度だった。ーーそうそう、あの時も死にかけたっけ。
腕立て伏せは指立て伏せに変わっていた。
ネコはほんのり暖かいランドリーの上でハコを組んでいた。
ーーこないだあんなことがあったのに、青年はケロリとしている。
ネコならばいつものことだろうが、人間にしてはどうなのか?とネコは常々思っ
ていた。
根が明るいのだろうか。
でもネコは知っている。時には近寄りがたい程落ち込むこともあるのだ。
「そんな難しいカオしなーい」
ネコはハッと顔を上げて、立ち上がった青年へ目を向ける。
いつもの屈託の無い笑顔を見せてネコをひとナデしてから、青年は止まりつつあ
るランドリーに手をかけた。
外に出てみると、予想通りあれだけ土砂降りだった空はすっかりと晴れていた。
「んー、気持ちいい」
イエの側でこれまた自作の物干し竿スペースでキレイに洗濯物を干し終えた青年
は、心地良い風にしばし目を閉じた。
いつの間にかネコも側に来て気持ち良さそうに風を感じていた。
「フゥ……」
ーーあれからアチコチを走り回ったりしたが、特にホシに変わった事は何もない
様だった。あれ以来流星も来なくて、あの『飛んだ』感覚を思い出そうとしても記
憶がボンヤリとしていてよく思い出せなかった。
夢だったのか?いやいや、現にあの時、遺跡から長いことかけて塔まで帰って来
たりした筈。塔に着いた時にはネコが心配そうにかけよってきたではないか。ーー
ゴハンの時間だったということもあったけど。
「………」
青年は、塔を見上げた。
丁度太陽が塔の先の辺りに隠れて白く飛んだ逆光になっていて、空の白から蒼へ
のグラデーションが目を見張る様な光景だった。このホシの太陽は小さかったが、
未だに十分な光量と熱を有していた。
青年はフッと笑んだ。これもまたいつか、絵か何かにしよう。
そう思った時だった。
「!!」
またしても青年の感覚は、隕石の気配を感じとった。
いや、またと言うよりは、あの時以来の、緑色の光が見えるヤツだ。
青年は側の開けたところまで走っていって宙に目をやる。地平線近くに向かって
横切る一筋の軌跡。その先には紛れもなく、この間の緑の光点が見て取れた。
「行って来る!」
青年は迷わず走り出した。力の限り腕を振って、常人をはるかに越えた驚くべき
ペースで青年は落下点へと急いだ。一応一緒に走り出したネコも軽く振り切ってい
た。
今度は何が起こるのだろう?
分からないが、何かが、あそこにきっとあるハズーー。
勿論、隕石が地表に到達するのには間に合わなかった。丘の向こうで派手な土煙
が上がっている。激突の衝撃や揺れに耐えながら、青年は走った。
まだ土煙の残るクレーターの側で、青年は見つけた。誰か倒れている。見たとこ
ろ女の子らしい。
「これはーー?」
青年は、本やディスクでは観たことがあったが、恐らく実物の女性を見るのは初
めてだった。
記憶の彼方で、母親的な存在がいた様な気はするが。
だが勿論、目の前の其れは全く違うジャンルのものだ。
「……」
青年は辺りを見回した。他には誰もいない。何かで来た感じでもない。青年は空
を見上げた。ーー流星に乗ってやってきた?いや、いくら不思議なことばかりのこ
のホシとはいえ、それでは流石に死んでしまうだろう。女の子の体はヨゴレやかす
り傷は無く、まるでピクニックにでも来て寝てしまった、といった体だった。
歳は10歳前といったところか。紺のミニスカートから幼いーーと言いつつ女性
になりつつある足が覗いている。少し大きめのジージャンにクタクタのデイバッグ
がかかっていた。長く少し赤味がかった黒髪と旧地球でいうオリエンタル系の顔立
ちが可愛かった。
青年は恐る恐る声をかける。
「大丈夫?」
返事は無い。
軽く肩を揺すってみた。
「うーん」
女の子が寝返りを打ちつつ唸って、青年はビクッと離れた。
ネコが追いついて来て、初めて見る青年以外の生物に目を丸くして見ていた。
女の子は動かない。青年はもう一度、今度は額を触ってみた。熱は無いようだ。
だがその眠りは深く、その後揺すっても全く起きなかった。
青年は少し考えてから、女の子を背負って塔まで連れて行った。
ネコも、特に危険は感じなかったので興味深そうについてきていた。
自分の白い部屋のベッドに連れて行き、青年が食べ物を用意して戻ってくると、
ちょうどネコが顔をなめて女の子を起こしたところだった。
「あ、起きた?」
女の子は眠たそうに答える。
「おはよ……っていうかここどこぉ?」
青年は少し考えた。
どこだろう?
彼とネコにとっては唯一の世界だが。明らかに違う存在であるこの子にとっては
?
だから彼はこう言った。
「大丈夫」
「キミを傷つけるモノは多分いない」
女の子は少し考えてから微笑んだ。
「……夢?」
次の日、青年は元気になった女の子に塔を案内した。勿論行ける範囲で。ネコも
トコトコついて来ていた。
女の子は単純に目をキラキラさせていた。
「すごーい、これ全部ホントに一人で住んでるの?」
「ネコがいるよ」
「うちなんてオヤがウルサくて大変だよ」
ふと女の子が言った言葉に、青年とネコは顔を見合わせた。
オヤ?何か引っかかった様な、懐かしい感じがする。
ーーそうなのだ。ディスクで観る映画の中で、よく出て来る「オヤ」という存在。
プランジにはその記憶が無かった。だからいくらそれを映像で観ても、そういう話
が出て来ても、中々登場人物の気分にはなれずにいた。無限の部屋で動物の図鑑な
どを見つけても、そこには「オヤ」「子供」「成長」と言う概念がいっぱいだった。
頭では理解しているものの、青年はその存在の事は実感としてはよく分からなかっ
た。自分も、何処かで生まれてはきたのだろう。誰かに育てられはしたのかもしれ
ない。だが遺跡で突然気がついた、十数歳より前のことは覚えていなかった。記憶
が有るような無い様な、不思議な感じだった。
聞いてみると女の子も自分で呟いたものの、ハッキリとした記憶は無かった。自
分が何処から来て、オヤがどういう感じだったのか。自分の名前さえ、思い出せな
かった。
「同じだね」
「そだね」
だが二人とも、暗くはならなかった。それが二人の共通した感覚だった。それは
元々そうなのか、このホシの不思議な雰囲気がそうさせていたのかはよく分からな
い。
「でも、大丈夫」
「ホント?」
「んー多分」
「ホントー?」
「イヤ多分」
青年は笑った。女の子も笑った。ネコは小さくニャンと鳴いた。
それからも青年はあちこちを案内した。
無限に部屋が続く廊下。
永遠のコインランドリー。
寝て起きると場所が変わる、この塔周り。
塔の反対側の遺跡。
「あー、こういう時はスマホがあればなぁ」
時々、女の子はデイバッグを漁りながら呟く。それが小さな通信機器のことだと
言うのは少ししてから分かった。映像を撮ったりする機能もあるらしかった。
「でも別に、誰に送る訳でもないんだけどね」
友達らしき人間の記憶も無かった様で、勿論それも青年と同じだった。
デイバッグの中には、ちょっとした化粧品とかノート程度のモノしか入っていな
かった。やはり、元いたホシや場所を類推するものは何も無かった。着替え等身の
回りのモノは早速無限の部屋から見つかったので特に問題は無かったのだが。
「わーちょっとデカイかも」
その日も、二人とネコは買い出しーーというか拾い出しに無限の部屋に来ていた。
ダブダブのオーバーオールを当ててみて、女の子は笑った。
「ここ、何でもあるんだね」
「すぐ見つかったから、今日は運がいいよ」
ホシで数日を過ごした女の子はそれら不思議な現象を普通に驚き、普通に面白が
った。青年は、少し誇らしい気分だった。
ある夜、青年は星空にネコと女の子を連れ出した。軽いキャンプ気分だった。
ささっとテントを張り、いつも通り缶詰素材を適当にバーナーでアレンジして食
べさせた後、一同は夜空を見上げて寝転んだ。ネコは普通に丸くなっていたが。
「すごーい、こんなにホシが見える!」
女の子のそんな様子に、青年は微笑んだ。以前は、映画で見た様なもっと明るい
都市部に住んでいたということだろうか。
「観たこと無いってことは、アタシのホシじゃこうはいかなかったんだよね」
「……」
青年は少し考え込んだ。
ホシーーここも、ホシだ。他とは違うのだろうか?
此処とは違うホシが他にもある、という当たり前のことに、そして分かっていた
つもりで分かっていなかった自分に、青年は初めて気がついた。
「…ねぇ」
「ん」
「キミのホシってどんな?」
女の子はキョトンとして青年を見る。
「んー…」
女の子は少し、考え込んだ。
「やっぱり、思い出せないな……イエのことも」
「イエ……」
それは、オヤと住む場所のことだ。青年にはイマイチよく分からなかったが。
「お父さんとお母さんがいて……」
と言ったところで、彼女の目から突然ポロポロッと涙が流れた。
「?!どうした?」
青年は起き上がった。
女の子は身体を起こして、肩を振るわせた。
「あたし、謝らなきゃ」
女の子は、デイバッグに付いていた小さなキーホルダー位の大きさの人形を握り
しめた。
「帰って、ちゃんと謝らなきゃ」
「……?」
「せっかく作ってくれたのに、アタシヒドいこと言った…」
何か、思い出したのだろうか。青年はどうしていいか分からなかった。彼女が何
を言っているのかも分からなかった。ただ、どうにかしてあげたくて、彼女をそっ
と抱きしめた。
「他に、誰もいなかったのに……」
いつのまにか、夜空は厚い雲に覆われていた。やがてスコールがやってきて、激
しく地面を叩き始めた。青年は女の子を抱え、側に建てていたツェルトの中へ駆け
込んだ。ネコは既に濡れない様にフリースの毛布に潜り込んでいた。
女の子は泣き続けている。
青年はずっと頭を撫でて少しでも気持ちを落ち着かせようとしていた。
「大丈夫、大丈夫だから」
何かが、此処へ来る前にあったのだろう。もしかしてそれがホシに来た理由なの
か?自分は、どうすればいい?何が出来る?青年には分からなかった。自分のこと
は置いておいて彼女の全てを理解してあげるには、青年はまだいささか経験値が足
りなかった。青年はオロオロと目を泳がせていた。
ネコはそんな様子を、毛布の中からジッと見つめていた。
その時。
青年はまた妙な感覚が体を浸食しはじめているのに気がついた。
女の子の体が、僅かに緑色に光り始めている。
「?!」
青年は妙な不安に襲われ、より強く女の子を抱きしめた。
「大丈夫だ、大丈夫よーー」
全然大丈夫ではなかった。ただ、青年は自分の為に呟いていた。
だがその光はどんどん増して行く。
ネコも何事かと毛布から顔を出してあまりの眩しさに目を細めた。
やがてその光はどんどん大きくなってーー青年がその光に耐え切れず目を閉じた
その刹那、女の子の体は霞の様に消えてしまった。
静寂が、辺りを包む。
全く重みを感じなくなった両手を下ろし、恐る恐る目を開けるが、勿論そこには
誰も居ない。
ネコと青年だけだった。
青年は身じろぎ一つしなかった。
何が起こったのか分からなかった。
ネコが寂しげにニャオンと一声鳴いた。
「…………」
ーーいなくなった。
何も、出来なかった。
大丈夫、だなんて何故言ったんだろう?
青年は、今まで感じたことの無い絶望感にドップリと浸かっていた。
* *
フネでは、ちょっとした異変が起こっていた。
全アラートが不規則に反応し、エンジンのパワーバランスも安定を欠いた。それ
は予定通りの何度目かのジャンプの後のことだった。ブリッジの老人からは予定外
のコースに出た、とだけ連絡が有り、以降は途絶えていた。
男は、何となく感づいていた様な気がする。とはいえ、男の全身に存在する軍用
センサーの類いも全く原因を把握出来てはいない。
何かが来る、いやいるーーそれは幾多の戦場を潜り抜けた者だけが持つ、独特の
感覚だ。
男は、自室に隠し持っていたスナイパーライフルやナイフ等の整備を始めていた。
使うことが無ければ良いのだがーー恐らくそうもいかないだろう。
女性も、少し不安げに時を過ごしていた。
計器が時折ダウンするので仕事にならず、自室でコーヒーを入れたりしていた。
毛布にくるまってベッドに腰掛けた彼女は、そっと息をつく。今日は少し苦いコー
ヒーだった。
「ふぅ……」
女性は毛布をかけたまま立ち上がり、側のトランクスペースから今ではお守り代
わりになっているこの時代としてはかなり旧式のリボルバーを取り出していた。こ
れを手に入れたのはいつのことだったか。既に遠い記憶の中だった。
眺めつつボーッとしていた女性は、少しフラっとしてリボルバーを取り落としビ
クッと目を見張った。
……『目眩』。
それは彼女が最も恐れるモノだった。
女性は自分を取り戻そうと深呼吸を繰り返した。
「………」
徐々に穏やかな呼吸が戻って来た。
ーーこうしていても、仕方が無い。女性は何とか自分を抑え、リボルバーを拾っ
て動ける服装に着替え始めた。
「……」
男は手を止めて考えていた。
女性と同じ様に、男にも恐れることがあった。
男は、かつて軍にいた頃はかなり優秀な兵の一人だった。
特に近接戦闘に優れ、一度大ケガを負い再生手術を受ける時も彼は迷わずそれ用
の体を望んだ。その後の幾多の戦場で、男はほぼ無敵だった。あまりに多くの血が
流れ、やがて周りも彼を恐れる様になった。男はやがて疲れ、スナイパーに転向し、
仲間から離れて単独行動をするようになった。
スナイパーとしてもかなり優秀だった男は、ある辺境の惑星の戦場で、不思議な
相手と出会った。
今と同じ様に、その敵は彼の身体中のセンサーには全く反応せず、彼を翻弄した。
それは彼にとって恐怖だった。一度だけ視界に捉えたその姿は人でもケモノでも無
い、ユラユラとした黒い影に覆われた、異形のものだった。
その敵は、男の手術でも唯一残っていた頭部のみにダメージを与え、その左目を
奪い取った。
今男の片方よりも薄く見える左目に入っているのは、科学の翠を集めた当時は第
一級のセンサーだったが、男には今でもその喪失感が色濃く残っていた。
今、左目が抉り取られた時の感覚が肌がピリピリする程感じられる。
「……!」
だが、行くかーー男は立ち上がった。
男は、フル装備で広い船内を油断無く見回っていた。
とある十字路で、男は最近では珍しく制服姿の女性と顔を合わせた。見慣れない
リボルバーを持っているのが気になった。
「出てたのか」
「結局、何が原因?」
「まだ分からない」
「……けど?」
男は彼女の表情を窺う。勘のいい女だ。と言っても大部分の女はそうだろうが。
男は正直に答えた。
「何か、イヤな感じだ」
ーーそう言えば、数週間前から、フネが何度か航路を外れることがあった。その
度に微修正で元には戻っていたが、実は前々から何かあったのだろうか?
「何か、ヤバい」
曖昧すぎる表現だがーー男は正直にそう答えた。
「何か……」
この男はその手の冗談は言わない。女性はそれが分かっているので特に騒ぎはし
なかった。この男なら、出来るだけのことはするだろう。もしそれでもどうにもな
らなかったら、それはこの男の責任ではない。
そして自分も、そこそこ足掻いてダメだったらその時はその時ーー彼女はそう考
える方だった。それが、今現在の処世術だった。そこまで生に執着はしないーー何
かが既に一度終わった観が、彼女を支配していた。
「死にそうな時は先に言って」
「…そうする」
男は、出来れば彼女の命は守りたいものだと思った。
その瞬間、フネは大きく揺れた。
二人は絡み合って倒れつつ壁に掴まった。男は器用に女性のクッションになって
いた。
「あ、ありがと」
「あぁ」
各所のアラートが点滅し、廊下のあちこちがブロックごとに閉鎖されていった。
男が側のコンソールに手をかけ、ブリッジに連絡を入れる。
「爺さん、どうなってる?」
雑音と共に老人ではなく機械的な女性の声がした。
「各所エアーブロー発生。ZDブロック閉鎖、システム再起動チュウ」
「…ちっ」
「確かにヤバそうだね」
そう言っている間に側のシャッターが下りてパワーが落ち、二人は予備電源の微
灯を残して暗闇に取り残された。
* *
あれから、青年はホシ中を探し回った。
数日続いた土砂降りも関係なかった。塔が湖に沈んだ時も、構わず外へ出た。周
り中雪で埋まっていても、恐れずに立ち向かった。流石に何度か死にかけはしたが。
だが、女の子は何処にもいない。
青年ももう、どこか感覚的には分かっていた。
『もう、このホシにはいない』。
ーー何故?
あの緑色の光は、何だったのか?
あのせいなのか?
あの時自分を『飛ばした』緑色の光が、女の子を連れて来て、また連れ去ったの
か?
青年には分からなかった。
今までは理不尽に変わるこのホシの状況をそれなりに受け入れて来たが、今回は
少しばかり違っていた。
ネコは彼のことを心配していた。
こう言う時に、青年には頼る相手がいない。
話相手さえも。
自分が話せたらいいのに、そして自分の思っていることを伝えられたら、とネコ
は切なく思った。
その日、ホシは一日中夕焼けの様なオレンジ色の世界だった。塔の周りはずっと
遠浅の水面が取り囲み、何処までも続いていた。
青年は新しく部屋で見つけた医療用ガムを試してみながら、塔の外壁の一部を修
理していた。
あれから彼は、この塔のことを「イエ」と呼ぶことにしていた。
イエの外壁は岩の様な金属の様な素材で、時間はかかるが彼にも多少の修理とか
変更は可能だ。やり方は本なりディスクなりに載っている。とは言え隕石にやられ
て空いた穴すら自然に塞がっていることもある訳で、とりたてて修理が必要という
訳でもなかった。青年は修理と言うよりは少しずつ、その外壁を彼の彫刻や絵やア
ルミ箔で作ったモニュメントで埋め尽くそうとしていた。
青年は手を休め、地上数十メートルの高さから地平線を見やる。
「……」
地平線まで空も水面もオレンジ色に染まり、天頂に向けてキレイなグラデーショ
ンがついた絶景だった。
側のネコも気持ちよさそうに丸まっている。
ホシでこんなキレイな風景を見る度に、こういう瞬間がいつまでも続けばいいな、
と彼は思っていた。
ーーあの子が来るまでは。
今はもう、何かが違っていた。
青年はゆっくりと横になり、目を閉じて気分に浸った。
でも……多分、いやひょっとしたら、また来るかもしれない。
それまでは……どうする?
知りたい。
……何を?
何もかも。
このホシのこと。あの緑色の光のこと。無限の部屋のこと。永遠のコインランド
リーのこと。あの遺跡のこと。あのイエの頂上のこと。自分に分からない、全ての
ことを。
そんなことを考えながら、青年はいつのまにか眠りに落ちていた。
ネコが時折、耳をピクピクとさせていた。
次に青年が目を開けるとーーまず目に飛び込んできたのは、雲一つ無いありえな
い程クッキリとした星空だった。
彼は飛び起きた。そこは、ちょっとしたグランド程度の平面だった。何処かの屋
上らしく、星空とその面以外は何も見えなかった。
「……?」
青年は立ち上がり、辺りを見回した。
『飛んだ』のか?でも今回は緑の光は見なかったハズ。いや、寝ていたのだから
分からないがーー。青年はそんなことを考えながら平面の縁まで行って下を覗き込
んだ。
「!!」
青年は目を見張った。下は遥か遠くだが、立っている平面からほぼ垂直に降り立
った外壁は見覚えがあった。
「…イエだ」
驚いたことにそこは、イエの頂上だった。勿論、まだ一度も到達はしていない高
さだ。
更に青年は目を凝らした。外壁のずっと下の先は、星空に溶け込んで何も無い様
に見えたからだ。
「……?」
よく見ると、星空の宇宙とそれがキレイに映り込んでいる水面ーーもはや小さく
見えるホシの半球とが、境目が分からない程溶け込んでいた。まるで宇宙空間にイ
エの円柱だけが浮かんでいるような錯覚さえ起こさせる光景だった。
「……わぁ」
一体空気はどうなっているのだろうか。とりあえず呼吸は問題無く出来ている様
だが。
青年は、しばらくその屋上スペースを歩き回ってみたが、階下に降りるドア的な
ものは身当たらなかった。床面にノミを当ててみたりもしたが、穴を開けるのは大
変そうだった。一通り辺りを確認してから、青年はその中心に寝転がった。一応側
で眠そうにしていたネコも撫でてみたが、いつになく大人びた顔でニャオンと鳴い
て目を閉じただけだった。
外壁からは、何とか壁伝いには降りられそうだ。…何日かかるかは分からないが。
ーーでもいい。
それでも、今はこの絶景に身を浸していたかった。広すぎる星空の中で、一人ぼ
っち。青年は今、そんな気分だった。
「……」
あの時、二人で見たのと同じ星空。でもこの星空は、下から見上げるのとは少し
違っていた。この星空の何処かに、あの女の子はいるのだろうか。女の子のホシは
あるのだろうか。青年の胸がチクリと痛んだ。…また、会えるといいな。
そして思った。そうか、これが「外」の感覚なのだーー。そして他の色んな人た
ちも、この星空の中にいる。それぞれのホシに。自分が知らないことは、このホシ
の上だけじゃないーー。
青年はそう思いながらネコと共に全身で星空を感じていた。
その時、その星空の向こうでチラリと黄色い光が瞬いたが、無数に煌めく星々の
中に埋もれて、青年たちは気付かなかった。
* *
あれから数十時間が経った。
フネは時折揺れる以外は、平静を保っていた。人工重力も酸素も今のところ途切
れる様子は無い。壁面のボックスにあったライフキットのおかげで、男と女性は何
とか生きながらえていた。外の様子は一切分からない。ブリッジの老人とも全く連
絡が取れなかった。
脱出経路を探したり、食料・緊急用酸素の確保をしたりと一通りのことをやって
しまうと、二人にはすることがなくなっていた。出来れば船外作業用のスーツが有
ればもう少し安心なのだが、生憎そのロッカーまではまだかなり遠かった。
なので二人は壁に寄りかかって座り、珍しくお互いのことを話していた。
男は軍に居たこと、昔はかなり多くの生命を奪ったことがあること、そこで再生
手術を受けたこと。もはや自分に元々の身体は、一部しか残ってはいないこと。
女性はかつて子供がいたこと、そしてある時目眩を起こして倒れ、その時に子供
がいなくなったこと。散々探しても、全く手がかりが無かったことーーだから、女
性は『目眩』を極端に恐れていたのだった。
「もう、後悔や涙なんて繰り返し過ぎてその時のことがホントかどうか分からなく
なる位」
「…その時のダンナは?」
「さぁ……どうしたっけ……ホントはいなかったのかも」
女性はサバサバとした感じで独り言ちた。
「このフネに申し込んだのも、他の場所を探したかったからっていうのは表向きで、
ホントはもう何もかも捨てて、違う所に逃げたかったのかも」
「そっか…」
男は黙って手元に目を落とす。
こういう時に「その気持ち、分かる」的な言葉が男は嫌いだった。それが却って
傷つけることもある。とは言え、それが同時に踏み込めない弱さでもあることも分
かっていた。
「……」
女性は、男のそういう所は気に入っていた。無駄にしゃべる男よりもずっといい。
だからこそ、十年近く誰にも話していないことを話したのだった。
…ただ一つ、彼女が手にしているリボルバーのこと以外は。
「俺の目な」
「え?」
「左目はこんなだが、右目は生身だ」
「うん」
「ただ……角膜手術を受けてる」
「再生、じゃなくて?」
「その時はそんなご大層な設備は無くてな」
男は乾いた笑いを浮かべた。
「そっか」
「誰のものかは知らない。女だ、ということだけしか」
「へぇ……恩人だ」
「多分な……ただ」
「ただ?」
男は、そっと女性を見つめた。
「だから俺は、どちらの目も自分のじゃない……本当は違うモノを見てるんじゃな
いかと思うことがある」
「……」
女性は男の瞳をじっと見つめた。澄んだ、焦げ茶色の瞳だった。左の方が少し薄
く見える。
「キレイなのにね…」
「……」
男もジッと女性を見つめ返した。旧インド系の整った顔出ち。その紺色の瞳に、
自分が写っていた。それもまた、自分ではない様に見えた。
「そう言えば」
女性は話題を変えた。
「アンタの名前、何だっけ?」
男は少し目を見張る。
「マジか」
「ゴメン、正直」
苦笑する彼女に男はアッケにとられた。
「……仕方ないな」
と言いかけて、男は気がついた。
自分でも自分の名前が分からなかった。そんな筈は無い、と思うのだが何故か全
く出て来なかった。それに……この女の名前は何だった?自分も覚えてはいない?
いやいや、ちゃんと自己紹介はして昨日までは覚えていた筈。
「………?」
そんな事、ある訳がない。男は思った。
何かが、起こっている。普段とは違う、何かがーー。
「どした?」
黙った男に女性は目を向けた。
ひょっとして怒った?だが、本当に名前は覚えていなかった。
ーーあれ?そう言えばあたし自分の名前もーー思い出せない!?
そんなバカな!?
だがその時彼女の目は、男の奥の壁の微かな歪みを捉えた。
「……何か居る!」
男は咄嗟に女性を連れて後ずさり、左腕に仕込まれた生体レーザーを構えた。
確かに壁の一部がユラユラと蠢いている。
いや、壁というよりはユラユラした何かが壁を抜けようとしていた。
「?!」
それは、ほぼ無音だった。
だがその半透明なユラユラした何かはすっかり壁を抜け、ゆっくりとこちらに近
づいてくる。大きさはバスケットボール大、形は大きめのウミウシの様だ。
「何なの!?」
女性も一応持っていたリボルバーは構えたものの、流石に恐怖を感じていた。
男もそれが何なのか分からなかった。左目のセンサーからは何の情報も感じ取れ
ない。視覚以外は全く「無」だった。体温も重量も、心拍すら聞こえはしない。
だがーーしかし。男は思っていた。
「まさか……アイツか?」
あの謎の戦場で出会った謎のモヤモヤ。
だが、あれはもっとドス黒くて気持ち人型っぽく、目で追えない程素早かった様
な……。
「下がってろ」
試しに出力を弱めてレーザーを放つ。予想通り突き抜けて壁の表面に極小の穴が
開いた。
ユラユラの体は全く反応していない。
だが、その頭部的に見える場所は確実に二人の方を向いた。
少しウネウネした後、その何物かは飛びかかって来た。
「クッ!」
男は女性を抱えて反対側へ飛んだ。
得体の知れないものを、分からないまま相手にしてはならない。男は心得ていた。
右の掌のメタル部分を壁に当て、振動波を起こし壁を破壊した。
「ちょっと!」
「非常時だ」
別方向へ走り出す二人。ライフキットの入ったバッグを掴むのも忘れなかった。
ユラユラの何かのスピードはそう上がっては無いようだ。
「サスガにフネごと破壊は出来ないしな」
本気を出せば出来るのか、と女性は思ったが今は走るしかなかった。
* *
青年がネコにつつかれて起きた時は、ベッドの上だった。
女の子がいなくなって以来、久しぶりにあの走る夢を見た様な気がした。
ゆっくりと目を開けると、どアップのネコとその向こうに白くて高い天井が目に
入ってきた。
「……?」
そこは、イエでいつも自分が使っている白の部屋だった。
またか、という感じではある。『飛ぶ』なら『飛ぶ』で、教えてくれないものだ
ろうか。ーーって誰が?と青年はそっと自分で突っ込んでみたりする。
「……」
青年はゆっくりと身体を起こした。
ーーそれにしても、あの頂上の雰囲気は素晴らしかった。今まで知らなかったが、
イエの頂上はああなっていたのだ。そして今まで見た事のない、あの「外」の景色。
あの雰囲気に、何日か浸かっていても良かったのに。
とは言え、青年はいつまでもクヨクヨしていないで早々に起き上がった。何時の
間にか、青年は少し元の自分を取り戻していた。
ネコも昨日(?)のことなど無かったかの様にトコトコ先に歩いていく。歩きなが
ら青年を振り返ってゴハン、という調子で軽く鳴いた。何故かいつもより全体が少
し薄汚れている様な気がした。また洗わなきゃ、と青年は思った。勿論嫌がるだろ
うが。
その日のイエの外は、見渡す限りの草原だった。
名前は分からないが青年の胸まであろうかという丈の草で、ホシ一面が覆われて
いた。
「……」
青年は洗いざらしのシャツに細身のカーゴに着替えていた。
周りが見えないのでネコは青年の肩に飛び乗った。よく晴れた青空だった。
青年はいつもの、何かを発散したい、そして表現したい気分になっていた。
「………」
青年はアテもなく歩き出した。
トボトボと。
やがてそれはゆっくり歩きになり、普段の歩きになり、早歩きになり、小走りに
なり。
「……走るよ!」
青年はそのうち、トップスピードで走り始めた。草の先がバシバシと青年の頬を
叩く。ネコも目を細めて耐えながら懸命に肩でバランスを取っていた。
息が上がって行く。それでも、青年の有り余る体力はそのスピードを落としはし
なかった。
草原は何処までも続いていた。空は澄み切って、太陽が草原を照らし出している。
青年はその溢れる光の中を草をかき分け、ずっと遠くまで走っていった。
「ハァ、ハァ」
数時間でイエの反対側、例の遺跡の辺りに到達した。恐らく今までで一番早かっ
たことだろう。だが青年はそんなことどうでも良かった。
遺跡はこの間とは違い、太古からその姿である様に、植物に覆われて朽ちていた。
勿論、明日にはまた違った姿を見せるのかも知れない。このホシではいつものこと
だ。
青年は、荒い息のまま遺跡の中心で寝転がった。遺跡は中も草があちこちに生え、
ちょうど良いクッションになっていた。ネコもやれやれと側でノビをする。ネコが
この遺跡に来るのは久しぶりだった。
段々、呼吸が整っていく。心地よい体のだるさに身を任せつつ、青年は思った。
もう、頃合いかなーー。
また、無限の部屋を、探しに行こう。
あの廊下の先を観に行こう。
今度は結構長くかかるかも知れないが。
絵を描こう。
また彫刻を彫ろう。
洗濯もしなきゃ。
永遠のコインランドリーの先も知りたいし。
パルクールだってもっともっと早く、色んな動きが出来るハズ。
ネコベッドも新しくするか。
ホシもイエも、もっといっぱい探検しよう。
姿を変えた、その全てをまだ観てはいないのだから。
ーーそしていつかまた、あの「外」の世界に触れることがあるだろう。
気がつくと、ネコが顔の側まで寄って来て額を青年の頬に軽くぶつけ、そのまま
丸くなった。
「……」
青年は微笑む。
分かっているさ。また二人の日常が始まる。
ーー始めなきゃ。
頬に毛並みの心地よさを感じながら、青年はまどろみかけた。
と、ネコがビクッと何かに反応して顔を上げた。青年も何か気配を感じて目を開
けた。
ーー静かすぎる。
いつの間にか、空は薄曇りになっていた。雲はどんどん厚さを増していく。二人
は身体を起こし、ゆっくりと辺りを見回した。先に気づいたのはネコだった。
見上げた雲の中の一部が、薄く光っているように見えた。
まるで上からスポットライトで照らしているかの様に、雲の中がボンヤリと光っ
ている。それは隕石ではない。色も緑ではなかった。黄色のような白色のようなユ
ラユラとした光。そしてそれは、どんどん近づいてきている様だった。
「……?」
青年とネコはソウッと立ち上がり、光の方を見やる。
初めて見る、黄色系の光。それは緑の光とは違い、妙な違和感を二人に感じさせ
ていた。
だがその向こうに、例の緑の光がいる。
青年は、そんな気がしていた。
* *
その数時間前。
あれから壁を数枚破壊して、男と女性はフネの脱出ブロック近くまで来ていた。
最後の扉は何とか壊さずに開けられたので、一応気密は保たれていた。
あの謎のモヤモヤは、一応振り切ったらしい。
フネは相変わらず挙動が不安定だが、相当なスピードで進んでいるらしかった。
それはもはや暴走に近いレベルだ。ブリッジの老人は、一体どうしているのだろう
か。
男は壁の配線をいじって自分とフネのメイン回路を繋ぎ、状況把握を試みていた。
女性はあちこちの壁のライフキットから必要そうなものをバッグに詰め込んでいた。
「何とかなりそう?」
「今の所はな」
だがブリッジとは全く繋がらなかった。バイパスにバイパスを重ね、脱出ポッド
を何とか起動させるのが精一杯だった。
「……?」
ふと、側の小窓を覗いた女性は、ぞっとした。
角度的に一部しか見えなかったが、フネの数倍はあろうかという巨大な黒いモヤ
モヤしたものが船尾に迫っているのが見えたからだ。
「何あれ」
「ん」
男も立ち上がってそれを視認した。それは大きく、形も不明瞭だったが、少なく
ともその質感は先程見たモヤモヤと、そしてかつて自分が出会ったアイツと同じも
のの様な気がした。男は怖れたが、それを口にはしなかった。
「分からん……でも、どうやらアレから逃げてるらしい」
しかも、それは宇宙空間をこれだけの速度で進んでいる。知っている限り、そん
な生物はいないーー。男がいくら解析しても何も分からなかった。
何にせよ、今は脱出すべきだ。
その時、船尾のそれは咆哮する様にうねり、口らしき場所から直線的な黄色い光
を放った。
「ビーム?!」
「うあっ」
光はフネを掠め、二人は揺れと閃光に翻弄された。
「いや……レーザーでもない」
揺れの中、男の左眼は今の謎の光を解析しようとしていた。
「俺の知らない武器ーー?いや、そもそも兵器なのか?」
その後何度か黒いモヤモヤは謎の黄色い光を吐いていたが、奇跡的にフネに直撃
はしなかった。そもそも当てる気が無いのか、それともまだかろうじてブリッジで
生きている老人が巧みに躱しているのかは分からない。
「クソ…」
男は先ほどの揺れでオフラインになった回線を何とか繋ぎ直そうとしていたが、
中々うまくは行かなかった。どうやら稼働可能な脱出ポッドは1つのみで、それも
いつダウンするか分からない状態だった。
「………」
女性は、何が起こっているのか分からなかった。
ただ、ともすれば目眩を起こしそうになる自分を、必死で抑えていた。
女性は、半ば諦めていた。
あぁ、自分は結局あの子に会えないままなのかーーいや、それはもう遠い昔に諦
めたハズじゃなかったかーー。
彼女は、手の中のリボルバーを痛い程握りしめていた。
「あぁ…」
窓の外を時折横切る黄色い光は、むしろキレイな、何処か別の場所への道票の様
にも見えた。
彼女がボンヤリと外を眺めていたその視線を何げなく戻した時ーー。
「また来た!」
女性の声に男が振り返ると、最初に出会ったモヤモヤが反対側の壁を抜けようと
しているところだった。
「チッ」
男は振り返ってそのモヤモヤを視認した。
ーーもう追いついた?
やるしかないか?だが勝算など無い。
手前の壁を壊せば、脱出ポッド周りは今真空だ。自分たちが死ぬ。
外側の壁を壊して吸い出すか?いや、その後自分たちはどうする?
そもそもあのモヤモヤは気流の影響を受けるのか?受けたとしても先に自分たち
の方がーー。
つまり、今は相対するしかない。
男は即決して女性を背中側に押しやってライフルを構えた。通常弾が効くとも思
えないのだがーー。
モヤモヤは、動きを止めずまっすぐ二人の方へ進んで来た。
先ほど会った時より、幾分大きくなった様な気がする。今は小型のアザラシ位は
あった。
その何かは、先ほどよりも心無しかユラユラが細かく、少し赤い光がチリチリと
中で揺らめいている様にも見えた。
「ん…?」
男は眉をひそめた。
これはーー?
ひょっとして、恐れているのか?だとしたら何に?
「………」
男は思った。勿論自分たちじゃない。ならばーー。
その時、フネは再び大きく揺れた。
男は女性を抱き上げて窓際へ飛んだ。
ラインを繋いでいたパネルが火花を上げる。
壁の向こうが破壊されるのが分かった。
窓から覗くと、後方のドス黒い固まりは、船尾を飲み込みつつあった。カーゴの
リジウムが連鎖爆発を起こしている。飲み込まれた先はどうなっているのか、よく
は分からなかった。
目の前の小さな方のモヤモヤは、もはや窓際の二人には反応していなかった。
壁の向こうを浸食しつつあるより大きな存在に、毛を逆立てて威嚇している様に
も見えた。
コイツはーーいや、コイツらはーー何だ?
そして脱出ポッドを失った今、どうする?
男も女性も、今は為す術は無かった。
* *
青年とネコは、雲の上からの黄色い光の方を見つめていた。
どんよりと更に分厚くなった雲の上から光る何かは、どんどん近づいてきている
様だ。
二人は、これから起こるであろう何事かに身構えていた。
と言うより、妙な高揚感に肌が泡立って仕方が無い感じだった。
黄色い光は見る間に大きくなっていき……やがてドン!と言う音と共に巨大な光
の柱が雲から立ち降りた。
「!!」
青年とネコは揺れる大地にしっかり踏ん張って、何事も見逃すまいとしていた。
ホシに立ち上がる黄色っぽい光の柱。その光は小さく明滅しつつ、どんどん強さ
を増していた。
「コレは……!」
勿論、二人とも初めて見る光景だった。
その黄色い光は時に強く、ホシを、そして二人を揺さぶった。何かが、変わろう
としていた。
その時、それと雲の接点辺りから光の輪が同心円状にスっと広がり、青年とネコ
の上空を通過してそれぞれの地平線へと広がった。
「!?」
驚いたことにその輪の内と外で明るさや天気が、そしてその直下の草地だったと
ころも、光の輪の通過に合わせて砂漠へと姿を変えていた。
「あぁ……!」
光の輪は一度だけではなく、速いタイミングで何度も通過して行く。
その度に、ホシはどんどん姿を変えていた。
昼になったり、夜になったり、青白の世界だったり、宇宙だったり。
砂漠だったり、雪原だったり、水の底だったり。
青年とネコははその光景を亜然として見つめた。
ーー何かが起こっている。でもそれは危険なものとは限らなくてーー何処かキレ
イで素敵な、何かをホシに、自分にもたらすものなのかもしれない。青年は、そん
な様な気がしていた。
「ーー来るーー!」
そして、同じく体の中から沸き上がる、何か。
それはあの日、流星にーーあの緑色の光に触れて『飛んだ』時の感覚だった。そ
して、あの頂上で見た「外」の感覚、それに触れた時の高揚感も何処かで感じた。
目の前のこの黄色い光はーーいつもの緑の光とはやはり違うのか?
ネコもその現象を驚いて見ていた。
今まで寝て起きると大地が変化していたのは、こういうことだったのか?
だがネコは、そんなことよりも側の青年の方が気になっていた。
ネコには、見えていたからだ。
「!!」
青年が口笛を吹くかの様に口をすぼめ、ヒューッと息を吐いた。青年自身、何故
そうしたのかは分からなかった。
その瞬間、青年の身体はフワッと緑色に光った。そう、それはあの時の、身体の
中から何かが沸き上がる様な、懐かしくて素敵な、あの感覚ーー。
同時に、光の柱はその色を強い緑色に変えて辺りを照らし出した。
ネコはその強烈な光に目を細めた。
ーーそして彼の体は、『飛んだ』。
眩しさに細めたネコの目には、光った瞬間の幸福そうな青年の表情が焼き付いた
がーー次の瞬間、彼の体はかき消す様にいなくなった。
* *
男と女性は、既にカーゴスペースを失って蛇行しているフネの後方の一ブロック
で謎のモヤモヤを目の前にしていた。それは、辺りの空間に向けて威嚇をする様に
どす黒いモヤモヤの中で赤い光をチラチラとさせていた。
「……」
女性は、男の肩越しに見えるそれを、邪悪な何かだと思った。
それは、かつて目眩を起こした間に息子を連れ去った何物かとイメージ的には同
じだった。あの時白くぼやけた視界の中で、微かに蠢いていた何か。それは目眩を
起こす度に、体中がゾワッとする感覚を思い出させる。
震える手で握ったリボルバーは、いつでも自分を撃てる様準備はしていた。元々、
その為に手に入れた物だった。
「……」
男は、最後まで可能性を探そうとしていた。
得体の知れない何かと戦わねばならないなら仕方が無し。それが今、自分達と違
う物と相対しているのなら、何かしらチャンスがあるかも知れない。
ただ、あの時自分を翻弄したアイツが目の前のモヤモヤで無いことを祈ってはい
た。
もしもアイツならーーチャンスなど無いだろう。
揺れはどんどん酷くなっていた。
やがて、目の前のそれと相対した後方の壁から、巨大なドス黒いモヤモヤがゆっ
くりと壁を通過して来た。
「デカい…!」
恐らく顔(?)らしき部分だけなのだろうが、それでも十数メートルはあった。そ
れほど巨大なのに、音も無く壁を通過してくるのが奇妙だった。
小さい方のモヤモヤは、さっきよりも更に逆立ってそれを威嚇しているようだ。
「なあ」
男はそれから目を離さずに女性に声をかける。
「一応出来るだけのことはするが……」
「…おごる話」
遮った女性に男はチラリと目をやった。
「まだ生きてるよね」
強いな、と男は思った。体力的なことでは勝てても、本質の部分で強い女性には
所詮敵わないのだ。
「アイアイサー」
と男は元気づける様に微笑を作ってみせた。
「コレ、使わせないで」
女性は覚悟した表情でリボルバーを見せて笑んだ。
やはりそうか、と男は思った。ならーー頑張らないとな。
その時、壁のスピーカーから雑音と共に、聞き覚えのある声がした。
「二人とも………無事………」
「じいさん!?無事か!」
向こうにはこちらの声は届いていないようだった。
途切れ途切れの声は、機器の問題だけではない何かが起きていることを感じさせ
た。
「目の前のホシ……不時着さ……ブロックを……」
「おい!」
そこで雑音にかき消され、スピーカーは切れた。
窓から前方を覗くと、小惑星に近いサイズの蒼いホシが見えた。
だが、この辺境にそんな天体は無い筈だった。
「…?」
女性はその蒼く美しすぎるホシに、逆に何かしらの不安を覚えた。あそこは…天
国なのか?
「ギリギリでこのブロックを切り離すつもりだろうが」
女性はハッと我に帰る。
男は冷静に状況を判断していた。
「多分、間に合わないな」
それに、ジョイント部が今どうなっているのかも分からない。無理に切り離した
途端クラッシュするかも知れなかった。いや、そもそもあのホシの大気圏がどの程
度か分からないが、この状態で突破出来るのか?あの青さ、反射率からして、普通
に大気はあるようだがーー。
男は油断無くモヤモヤの様子も窺った。二体のモヤモヤは、スピーカー音にも全
く反応していなかった。大きい方がどんどん壁からはい出しつつあり、小さい方が
じっと下がらずに身構え、実際はモヤモヤなのだが本当に毛を逆立てている様に見
えた。
やがてその間に、小さなドス黒い光が現れつつあり、両者ともそこに向かってモ
ヤモヤの端をのばし始めた。
「?!」
男はゾワッとした。何かがーーヤバい。男の経験がそう告げていた。
まるで小さなブラックホールでもあるかのように黒々と明滅している光に、モヤ
モヤのチロチロとした先端が触れようと近づいたその時ーー。
そこに、緑色の光をまとった青年が現れた。