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バイナリープリンセス

バイナリープリンセス(改稿版)

作者: やまあらし

 自分とは異なる人が見ている世界が、自分と同じものだなんてどうして言えるのだろうか。

 全く同じものを同じ角度から同じように見ていたとして、どうしてそれが同じように見えていると判断する事ができるのだろうか。

 僕はそれを以前からわかっていたはずなのに、同じ過ちを繰り返してしまったのはなぜだろう。

 ひょっとしたら今でも彼女のことなどつゆほども理解できていないのかもしれない。

 それは、僕らの再開が偶然のことであったからかもしれないし、単純に僕がバカで理解が及ばないだけなのかもしれない。

 でもただ、1つ。

 この出会いが無かったら、僕らの現在の日々は全く別のものになっていたのだろうことは僕にもしっかりと理解できる。

 そう。その言葉が僕の耳に入ってきたのは全くの偶然であり、そこから僕らの新たな物語は始まったのだ。

「世界は0と1でしかない――」

 彼女は小さな声でぽそぽそと、まるで言い聞かせるように言った言葉はひどく哲学的で。どこか諦観のこもったそれは、僕がかつて聞いた言葉とそっくりであった。


 ◇ ◆ ◇ ◆


 大学2年生の初夏。

 新入生を満開でもって迎えた桜の花びらはすでに大分散り落ちていて、新学期のどこか浮ついた空気もそろそろ沈静化してきている。

 春の暖かな陽気は自分の役目は終えたとばかりに引っ込みつつあり、代わりに姿を見せようとしているのは暑い夏の空気だ。今年の夏は去年にもまして暑くなるとここ最近の天気予報は盛んに告げていた。

 その日。

 大学の講義が終わり今日の予定が全て終了となった僕は、残った半日をどうやって過ごすのかを考えようと駅前のファーストフードへと1人向かっていた。

 校内を見回せば、新たに大学の一員となった新入生たちが一団となって次の教室へと歩いて行くのが見える。1年生のうちは必修科目も多いから知っている顔で集まっての移動もできるが、学年が上がると専門の授業も結構多くなるために友達とも予定が合わなくなってくることも多い。

 かく言う僕も1人で歩いているわけだが、それは僕に友達がいないというわけでは決してなく単純に時間が合わなかっただけである。

 店内はお昼時ということもあり多くの人で賑わっていた。

 運良くカウンター席を確保した僕は、冷めないうちに出来立てのハンバーガーを頬張る。

 予定のない日常というのは忙しい時にはとても魅力的に映るが、いざなってみると結構な割合で暇を持て余すことになる。

 余暇を上手に使える人ならばこの時間は趣味などに使われる大事な一時ということになるだろうけれど、あいにく僕にそれと言った趣味はなく余った時間を無意味に過ごすことが多い。

 この隙間時間の使い方が下手なのも、仕事に生きる日本人の魂にまでこびり付いた悪癖なのかもしれない、なんてことを考えて。

 要するに、僕は暇を持て余していたのである。

 これから毎週、こんな風に無駄な時間を過ごす羽目になるのならバイトをするのもいいかもしれない。とりあえず今はお金には困っていないけれど、これから先何がやりたくなるかもわからないし、お金はあって困るようなこともない。

 とはいえ基本的にダラダラしている僕が、そんなバイトなんてものをやるのもあまり現実的な話じゃない。そこの自己分析は完璧だ。きっと辛くなってすぐ辞める。

 なら、どうすればいいのだ。

 暇を暇つぶし方法を模索することによって潰すというあまりにも無意味な行動をしていた僕は、ふと店内の会話に耳を向けた。

「俺と付き合わないか」

 そんな言葉が聞こえたから。

 方向は僕が座るカウンター席の真後ろにある2人掛けの簡易テーブルの方だ。

 僕は不自然に思われないぐらいのゆっくりとした感じで、告白劇が繰り広げられているテーブルの方を振り返った。

 そこには長い黒髪を背中まで垂らした女の子の後ろ姿と、短く切った髪の毛を薄い茶色に染めて軽く跳ねをつけた男の姿があった。2人とも制服ではないから高校生じゃない。この辺に私服の高校もないからおそらく僕と同じ大学生なのだろう。でも男の方は僕と同じとは思えないほどチャラい。アレは僕の苦手なタイプだ。

 男は結構慣れてるのか自信ありげな表情を浮かべていた。きっと同じようなチャラ系の奴らで集まってナンパ自慢とか繰り広げてるに違いない。俺、この間3人も女の子ひっかけちゃってさー、がステータスなのだ。ここには多大に僕の偏見が含まれている。

 そのチャラ男の前の女の子の表情は僕のところからは見えないけれど、後ろ髪の自然なウェーブとか毛先のカーブとか僕のツボだった。まだ顔も見てないけれどかわいいに違いない。ここには多大に僕の妄想が含まれる。

 ちょっと視線を横にずらすと、僕と同じように彼らの様子を窺っている男と目があった。彼の方からなら女の子の顔までばっちり見えるはずだ。情報よこせ。もちろんアイコンタクトは伝わらない。

 不意に告白を聞いてからもあまり動じた様子もなかった女の子が、食べかけのハンバーガーを置いて飲み物を飲んだ。

 彼女は言う。

「……世界は0と1でしかない。

 私も1であなたも1。いるなら1でいないなら0。どれだけ足しても2にはならなくて、あなたと私もずっと1。

 あなたにこの意味が分かるのなら、考えてあげてもいい」

 その瞬間、僕の脳裏によみがえったのは2年前の懐かしい記憶だった。

 真っ先に出てくるのは無表情に見える顔に僕がかろうじて分かるぐらいの笑顔を浮かべて、同じようなことを言った女の子。続いて教室の窓から1人でどこか遠くを見つめる彼女の物憂げな横顔。

 僕が特別な感情を持った彼女は確か少しウェーブのかかった髪の毛をしていたっけ。

 ――彼女かもしれない。

 そう考えた僕は、女の子のことがどうしても気になってたまらくなった。思わず2人の話の行方を真剣に見守ってしまう。

 男は彼女がなにを言っているのかわからないといった顔をしていた。自信満々だった表情から一転、うろたえてオロオロと視線を彷徨わせている。

 女の子の方は何をそんなに困っているのかわからないというように首をかしげていた。

 男の困って彷徨う視線に目が合いそうになって慌てて前に向き直った僕は、まだ残っていたハンバーガーの最後のひとかけらを飲み込む。

 世の中に彼女と同じような考え方の人が何人もいて、それに偶然にも出会ってしまったりするようなことがあるだろうか。

 そう考えて自分でそれを否定する。

 彼女がどこの大学に進学したのかはよく知らなかったが、別に引っ越してしまったわけではないからこの近くにいることは間違いない。だから僕の後ろにいる女の子が彼女だと考えても、おかしいところはないだろう。

 だとすれば、彼女は男にナンパされて一緒に昼食を食べて、これなら行けると思われて勢いで付き合おうと言われた、という感じだろうか。彼女持ちがステータスになってる最近では、とりあえず女の子をキープしておく考え方もあると聞いたことがある。

 男の混乱具合から考えて元々結構話をする仲でないことは分かる。少なくとも彼女のことを少しでも知ってればさっきの言葉の意味は分かるはずなのだ。男の理解力がかなり残念な部類なのかもしれないけれど。

 何にせよこの場でカップル成立という展開にならなくて、僕的にはよかったと言わざるを得ない。

 男は周りの視線が気になりだしたのか、少し居心地が悪そうに店内を見回した。そして携帯を取り出すとちょっと操作をして、

「そういえば俺、このあと行くとこあるんだわ。悪いんだけど、先行ってもいいか?」

 誰がどう聞いても嘘だとすぐに分かる。女の子をナンパしてから予定を思い出すアホがどこにいるというのか。

 女の子はまだ半分ぐらい残っているハンバーガーを食べながら、ひらひらと手を振る。男がテーブルを離れるのを目で追って少し横を向いた女の子は、僕の記憶に残る彼女と同じ横顔をしていた。

 僕は席を立つとハンバーガーの包み紙だけを捨て、まだ氷といくらかお茶の残ったドリンクだけを持って彼女の席に近づいた。

 正直、ちょうどフリーになった美少女がいたから思わず声をかけに行くナンパ少年みたいな気分だ。というかもはやナンパだった。 机を回り込み、正面にとらえた彼女は以前の僕が知っているよりもかなり綺麗になっていた。背が小さいのも、少し茶色がかったふわふわした髪の毛も変化なく、いつものどこか眠たそうな表情でもふもふとハンバーガーを食べる彼女は、凶悪なまでに可愛かった。

「……あの、姫川さん、だよね?」

 僕が隣に立って声をかけると、彼女はゆっくりとこちらに向かって顔を上げた。そのままぱちぱちと瞬きをして、僕の顔を見つめてくる。少しの間、二人して見つめ合う時間が続いた。

 やがて彼女は驚いたように少し目を見開いて、

「一条くん……?」

 首をかしげた。


 ◇ ◆ ◇ ◆


 姫川さんと初めて出会ったのは高校2年生の春のこと。

 学年が変わるとともにクラス替えがあり、そこで彼女と同じクラスになったのが最初だ。

 おとなしくて目立たない女子、っていうのが僕から見た彼女の第一印象だった。いつも静かに本を読んでいるか、窓の外を眺めているような女の子で、定の女子のグループにも属さずにいた。他人と積極的に関わりを持つわけでもなく、彼女の纏う空気が話しかけられることも拒絶しているように感じられたため、正直なところクラスの中でも少し浮いた存在だった。

 ただ顔立ちは童顔ぎみで、ぽやっとした少したれ気味の眼がかわいい、小柄な女の子だったから完全な嫌われ者の立ち位置にはなっておらず、クラス内には彼女は放っておくのが一番いい、という結論に落ち着いていた。クラスのアイドルとして触れずにみんなで愛でよう、という感じである。

 僕も夕焼けに照らされ、頬を朱に染めながら外を見やる彼女の儚げな横顔にハッとさせられたことは数知れない。

 そんな彼女と僕の直接の接点は、ベタだけど教室の座席が隣になったことだろう。

 かわいい女の子の書くノートはやっぱりかわいい、というイメージがあった僕はちょっとした好奇心から、彼女が授業の板書ノートを取っているところを覗いてみたのだ。

 正直な話、僕は彼女のノートに唖然とさせられた。

 

 ――彼女のノートは、全て0と1だけで構成されていた。


 まるでコンピューターに入力されたデータのように、女の子の書く小さな文字で理路整然と並べられたそれらは一つの芸術のように、あるいは諜報員が使う暗号のようにも見えた。

 先生は普通の日本語で板書しているのに、姫川さんはサラサラと0と1に変換してノートを取っていく。タイムラグはほとんどなく、彼女には黒板の文字がそう見えているのかと思ってしまうほどであった。

 僕はそんな彼女に強い興味を抱き、少しずつ会話を交わしてみようという気持ちになった。

 初め、今までクラスのほとんどの人が彼女を敬遠していた為か、僕が話しかけてくることに戸惑う様子を見せていた姫川さんだったが、根気よく話しかけていくうちに僕らは次第に打ち解けていった。

 彼女はあまり表情を変えることがなかったが、僕の話を真剣に聞いてくれて、時にうっすらと微笑みを浮かべているように見えた。正面から彼女と向かい合っていないと分からないような、唇を緩ませて顔をほころばせる彼女の表情の変化に気がつけるのは僕だけなのかもしれないと思うと、それだけで優越感に浸ることができた。

 彼女はよく、

「0と1だけで世界は再構成することができる」

 と言っていた。

 彼女曰く、この世界を司る全ての事象・事物は0と1によって成り立っていると言うことだった。

 だけど、そのころの僕には彼女の言っている意味がよく分かっていなかった。

 それが姫川さんの口癖であり、彼女が彼女であるが故の存在証明だったことを僕はまだ知らない。

 高3になり、僕は彼女と話をする度に少しずつ募らせていた思いを思い切って告白した。

「私の全ては0と1で出来てるの。

 あなたが私にそれ以外の世界を見せてくれるのなら、考えてもいい。……あなたなら信じられるから」

 結果的には条件付きのオーケーだったのだろう。

 でも、僕には彼女の言う0と1の世界がなにを指しているのか把握できていなかったため、この言葉がやんわりとした拒絶の用に思えてしまった。私の言うことが分からないのなら付き合う資格などない、と言われているように思えたのだ。

 僕はそのまま姫川さんと関係を続けていくことがつらくなり、だんだんと顔を合わせる回数が減っていき、気がつけば元のように疎遠になってしまっていた。

 それでも、まだ姫川さんへの思いは忘れることは出来ておらず、できることなら付き合いたいとも思っていたのだろう。

 彼女とある程度時間を置いてから再会できたことに、僕は大きな喜びを感じていた。


 ◇ ◆ ◇ ◆


 ひょんなことから僕は姫川さんに再会したわけだったが、彼女はこの再会に特に何かを感じているわけではなさそうであった。

 僕が目の前に現れたときに少し驚いたような表情をしたが、彼女にことわって正面の席についたときにはすでにいつもの昔と変わらない穏やかな無表情に戻ってしまった。

 僕は彼女の様子を観察する。

 以前から彼女は目の前のことに集中すると周りのことを見なくなる傾向にあったのだが、それは今も変わらないようだった。今も目の前の食べかけているハンバーガーに夢中で僕のなど歯牙にもかけない。

 “見なくなる”というのは彼女の集中は意図的に行われているものであって、見えなくなるほど集中力を持っているというわけではないらしい。僕が姫川さんに指摘したときに彼女はそう教えてくれた。

 変わらない、と言えば、彼女の無口で無表情なところもこの2年間で変化は見られないようだった。

 2つが合わさることでどこか近づきにくい空気を周囲にもたらすのだけど、それを乗り越えて彼女とコミュニケーションを取ることで、裏に隠された微細な表情の変化と言葉少なにせよ、会話をしようと頑張ってくれる様子を見ることが出来るのだ。仲良くなった人にしかわからない彼女のポイントである。そう、ギャップ萌えなのである。

 とはいえこの2年間のブランクで、僕が少しずつ積み上げてきた彼女の好感度は約90ぐらいあったところから、50ぐらいにまで下がってしまったようだった。

 要するに僕らの関係はリセット状態までとは言わないまでも、話しかけ初めて少ししてからの、ちょっと打ち解け始めた二人、みたいなレベルまで落ちてしまっていたのだ。

 姫川さんは眠たげに開いたまなこをぼんやりと僕に向けるだけで、僕の質問には微かに首をふるか、うなづくかぐらいでしか反応してくれない。

「どこの大学通ってるの?」

「……」

「何学部を選んだの?」

「……」

 と、全く会話が発展しない。

 仕方なく質問を工夫して、

「どこの大学通ってるの? ここから近い?」

 こくり。

「何学部選んだの? 文系?」

 ふるふる。

「じゃあ理系か。情報系の学部とか?」

 こくこく。

 仕方なく言葉を選んで彼女の反応を確認しつつ、質問を重ねる羽目になった。

 反応を見せる度に、彼女の小さい頭とふわふわした髪の毛が揺れるのを見て楽しむことが出来るのがこれの役得だろうか。

 結局、姫川さんはいま僕の大学から1駅離れたところにある理系の大学に進学したとのことだった。それも女の子には珍しく情報・技術系の学部に行っているらしく、将来はプログラムを書くような仕事につくのが夢らしい。

 僕がそれに、

「やっぱり0と1が関係あるの?」

 と聞けば、こくりと返事が返ってきた。

 僕も2年前とは違って、大学に入ってそれなりに勉強もしたし新しい知識も身についていたから、彼女の言う0と1が何を意味するのかがなんとなくとわかったような気がした。

「“2進法”だよね。姫川さんが言ってるのって」

 そう聞くと、姫川さんは眠たげだった目を少し大きめに見開いて、こくこくと同意の意を示した。

 そして姫川さんは僕の名前を呼んで以来、初めて口を開く。

「2進法を使えば、世界は0と1だけで表現できるの」

「コンピューターの仕組みに2進法が使われているって、聞いたことがあるよ。僕にはそこから先の説明がさっぱりわかんなかったけど」

 やっと彼女が僕の問いかけに明確な返事をしてくれたことを喜びつつ、会話が続くように話を合わせる。

「……2進法は、1になったら繰り上がる進数のこと。

 一般的なのは10進法で、0の次が1、1の次が2で345と続くでしょ。9までいったら繰り上がって10になるの。ここまでわかる?」

 と姫川さん。

 とぎれとぎれだが、説明してくれるつもりらしい。一所懸命に説明しようとしてくれる姫川さんに僕が「うん」と返すと、姫川さんはこくりとして話を続けた。

「0の次が1、1の次が10、10の次が11、11の次は100って増えてくのが、2進法。

 これで10進法の1,2,3,4が表せる」

「ふうん。つまり2進法っていうのは表記の仕方の一種で、10進法の『3』=2進法の『11』になるってこと?」

「そういうこと」

 分かったような分からないような、ぼんやりとしたイメージが僕の頭に思い浮かぶ。

 同じ数字を使っているのに、繰り上がりの基準となる値が違うだけで全く違うものを表すなんてややこしすぎる。どうして10進法ならそれで統一しないのか。

「世界は0と1で表せるっていうのはどういう事なんだ?」

「全ては0と1だけで構成することができるの。

 例えば文字は、2進数の8桁を1バイトとして区切って考えると、1バイトで半角1文字を表せるようになる。

 日本語とか全角の文字は2進数で16桁必要なの、いわゆる2バイト文字と呼ばれてる。数が多すぎて8桁じゃ足りなかったから」

 そこまで言って姫川さんは、理解できてる? というように首を傾げた。

 正直なところ文系の僕にはあんまりピンとくる内容ではなかったけれど、とりあえず同意する。

 それにしても首を傾げた姫川さんもかなり可愛い。

「景色も写真に取ることで0と1で表せるんだよ。

 画像データにすると圧縮されるけど、2進数。音楽も。立体モデリングすれば、地形も作れる。

 これが、この世界は0と1だけの世界に再構成することができるということ」

「つまり2進数でいろんなことが表せるってことなのか」

 僕の呟きに姫川さんは首をこくりとさせた。

「じゃあさっきの断り文句の『2はない』って言うのは、やっぱり0と1だけで構成される2進法は2の存在を認めていないということなの?」

「……聞いてた?」

「うん、ごめん。さっきそこに座ってたから」

 僕は彼女の背後の、今はサラリーマンが座っているカウンター席を指さした。

「そう」

 姫川さんは振り返ることなく、手元のドリンクをちゅーっと飲む。どうやら聞いてたことは不問らしい。

 姫川さんの答えを待つ間に、僕はかつて彼女に言われた言葉『私の全ては0と1で出来ている』というものを思い出していた。

 たった今説明されたことを元にこの言葉の意味を考えてみても、姫川さんは実は数字の妖精だったのだ、というようなぶっ飛んだ正解でない限りはせいぜい『私は2進数が大好きなの』というような意味にしか捉えることが出来ない。

 姫川さんが言うとおりならば、僕ら人間も0と1を使って表現することが出来るのだろうけれど、そう言うことではないのだろう。人間一般に当てはまることをわざわざ、「私」と強調することはしない。何か特別な意味がそこにはあってしかるべきなのだ。

 でもその意味が僕にはわからない。

 姫川さんが条件として提示した、彼女に0と1以外の世界を見せる、ということも結局なんの糸口も掴めずにいた。なにせ姫川さん自身が、世界の全ては0と1で表せるというのだ。異界にでも行かない限り不可能なような気がしてくるのも当然だろう。

「0と1以外の世界か……」

 思わずつぶやいてしまった言葉に、姫川さんがびっくりしたように目を見開いた。

「……覚えてる?」

 そしてそれっきり黙ってしまう姫川さん。

 彼女の反応を見て、僕にはその言葉がどうしても気になって仕方なくなってくる。

 もしかしたら、姫川さんは僕が答えを出してくるのをずっと待っていてくれているのかもしれなかった。

 待っていたのに、僕がだんだんと離れていったことが許せなくて話をしてくれなかったのかもしれない。

 そう考えると、僕はいてもたってもいられなくなり、まだよくわからないことを調べるために家に帰ることに決めた。

 姫川さんの携帯番号とかが変わってないことを確認して慌ただしく席を立った僕の背中に、彼女の言葉が小さくとどいた。

「待ってるから」

 ――うん。待っててほしい。今度こそ答えを出してみせるから。

 その日から、僕の進数探索は始まった。


 ◇ ◆ ◇ ◆


 僕が姫川さんと2年越しの再会を果たしてから数日が経過した。

 その間に僕は時間を見つけては「0と1以外の世界」というものについて、思いついたことを姫川さんにメールしていた。 

 まず考えたのは言葉の正確な定義だ。

 彼女の言う、「0と1以外」というのは何を意味しているのかがよくわからなかったからだ。

 それまで僕が想像していたのは、姫川さんは2進法以外のほかの進法についてももっと興味を持ちたい、と思っているのではないかということだった。

 だから、2進法以外の進法である10進法や16進法を構成する要素である2~9やA~Fについても興味を持ってもらおうと、こんなメールを送ってみたりもした。

「2ってすごいよね。この計算され尽くしたかのようなきれいな弧を描くカーブ。地面にどっしりと身を落ち着けられそうな直線。ほんと神技に等しいほどの形だと思う」 

「8のすごいところを紹介しよう! それは思うに、この対称性にあると思うんだ。縦に切っても、横に切っても左右対称。これは他の数字じゃ味わえない美しさだと思う」 

 実際はそんなこと全然思ってないので、適当なことを並べ立てているだけである。

 そしてやっぱりと言うべきか、姫川さんは、

「2は二進法で10。それで表現できるから必要ない」 

「1も0も左右対称に切れる。こっちの方も十分美しい」 

 と、僕の想像の限りを尽くして考えた数字の魅力を伝えるメールを一息に切り捨てた。

 おまけに、そんな端から見たらわけの分からないやりとりばかりしているうちに、姫川さんは僕の迷走状態をあわれに思ったのか、頭の可哀想な子をいたわるような優しい言葉をメールで返してくれるようになってしまった。

「無理しないで。焦らなくてもいい。待ってるから、もっと落ち着いて考えてみて」

 なんてメールが来たときには思わず2つの意味で泣いた。

 だけど、僕はこの考えを完全に諦めることができなかった。結局、16進法で使われるA~Fまできっちりアピールし、それらが見事に粉砕されてからやっと考え方を変えることにした。

 姫川さん曰わく、10進法や16進法などは、やり方さえ知っていれば2進法に変換することは大して難しいものではないものなんだそうだ。だから、安直な考え方で他の進法をアピールしても無駄だという話らしい。  こうして、何度も姫川さんとメールを交換するうちにわかったことは、彼女が本当に求めてるのは0と1では表せないものだということだ。つまり彼女の言葉を借りて言うならば、「0と1では再構成する事のできない何か」を見つけてほしいというわけらしい。

 姫川さんは僕に謎かけをするように条件を提示したのだからヒントをもらうのはちょっと反則かとも思ったが、姫川さんにそれとなく合っているかどうかを確認してみたら、こくんとうなずいてくれたので、今度は考える道筋は間違ってはいないはずである。

 だがそれがわかったからといってすぐに答えが見つかるかと言えば、全然そんなことはなかった。

 もちろん、全く見つからなかったわけではない。 

 たとえば、感情は簡単には0と1に出来ないのではないか、と考えた僕は姫川さんを誘って映画に出かけた。映画を見て生まれる、面白いとか悲しいとかの感情は姫川さんの心の中に出来るものだから、2進法では表現できないはずである。

 僕の誘いに彼女は快く了解してついてきてくれた。朝、駅前に集合して一緒に映画館に行く様子はどこからどう見てもデートに見えただろう。

 でも映画が終わった後、姫川さんは、 

「映画は0と1で記録されたもの。2進法でも見れば感動するから、なんの意味もない」

 という素っ気ない感想。映画の内容はどうであれ、映像というもの自体が0と1で再構成可能なものであるから、2進法以外の何かを見たいという彼女の願いにはそえないようだった。手がかりは掴めたものの答えの見えぬまま、考えられる選択肢だけがどんどんと減っていくことに僕は次第にやる気が削がれていく。

 でも、別れ際に姫川さんが、

「楽しかった。今日は誘ってくれてありがとう」

 そう言ってくれただけで、僕はまた力が湧いてくるように思えた。全く現金なものである。


 ◇ ◆ ◇ ◆


 そこから先の道もかなり険しいものだった。

 すでに僕にはほとんどなんのアイデアも浮かんで来なくなっていた。

 映画もダメ、音楽もダメ、絵画もダメと芸術系は全滅した。

 海に遊びに行くと言うアイデアもあったが、それをしたところでデートにはなるものの、2進法以外の世界が見えるとはとうてい思えなかったので却下になった。きっと誘えば姫川さんはついてきてくれたのだろうけれど、僕の答えを待っててくれている彼女を答えにならないデートに誘うことは躊躇われた。

 なにより下手に彼女を連れ回しすぎて、僕がもう答えを探していないと思われることが怖かったのだ。そのときそのときで、最前と思われた答えを彼女に提示することが僕のちっぽけなプライドだったのかもしれない。

 僕自身、だんだんと何が0と1で構成可能で、何が構成不可能なものなのかが分かってきていた。ある意味僕も姫川さんの言う、「0と1の世界」に取り込まれてしまったとも言える。

 不意に思いついたことがベストアンサーのように思えて興奮するのだけれど、その後すぐに頭を冷やして考えると0と1で構成されているものだと気がついてしまうのだ。しかし再構成可能かどうかがすぐに分かるようになっても、再構成不能なものはそう簡単に思いつかない。避けるべき道は分かるのに、とるべき道は見つからないというもどかしい感じが僕を襲っていた。

 先の見えない袋小路から抜け出そうと、ヒントを求めて大学で理系に進んだ友人に2進法で表現できないものについて聞いてみたりもしたが、答えらしい答えはもらえたことがなかった。

 そもそもそんなことは考えたこともなかったっていう人が大半であり、答えの多くが「すぐには答えられないからちょっと待ってくれ」というものになるのも無理はなかった。

 それに、聞いておいてひどいとも思うかもしれないが、待っていれば良い答えがもらえるというのも期待していない。

 安堵すべきは、姫川さんに明確に誰かと付き合おうというような意志は見られないことだろう。彼女の容姿もあり、密かに人気の高い女の子であることは彼女自身の話から聞いていても明らかなのだが、あまり興味がないのかどれにもいい返事はしていないようだった。ランクをつけるのなら、条件付きのオーケーが出た僕が一番彼女に近いところにいると考えてもいいかもしれないほどだ。

 じっくりと時間をかけて僕が答えを探していられるのもそのおかげだった。 

 僕の心では、あの再開した日の姫川さんの「待っているから」という言葉だけが原動力となって、答えが見つからず挫けそうになる気持ちをどうにか支えていた。


 ◇ ◆ ◇ ◆


 ある日。

 僕は大学が終わった後に駅前で姫川さんと待ち合わせして、ちょっとだけ遠出をすることにした。

 いわゆるデートっていうやつだ。

 僕らは、もう何度もこうやって二人だけでどこかに行くということを重ねていた。まだ付き合うという返事はもらえてなかったけど一緒に出かけて、彼女も出かけることを嫌がってはいないようだから何も問題ないだろうと考えている僕がいた。彼女に最善の答えを出し続けようというプライドは風前の灯火だった。

 むしろ、僕はすでに0と1以外の世界について考えることを半ば諦めつつもあった。姫川さんには悪いが、僕はこうやって二人だけでどこかに行くだけで十分幸せを経験していた。だから、彼女が本当に僕以外の誰かと付き合うという日が来るその日まで、このままの関係を続けていくだけでもいいか、とすら考えていた。

 もちろん、「待ってる」と言ってくれた彼女の言葉に応えたいという気持ちも大きいのだけれど。

「見つかった?」 

 僕らが電車に乗って揺られていると、不意に隣に座っていた姫川さんが尋ねてきた。

 最近では、僕らの会話は最初のころと比べものにならないぐらいにつながっていた。姫川さんが自分から積極的に話してくれるようになったということが一番大きい。一年以上ブランクがあった上に、いろいろと思うところがあって(主に僕の事情だけど)疎遠になっていた僕らの関係は、以前の状態にほぼ戻ったと言っても過言ではなかった。 

「ううん。考えてはいるんだけど、最近はなかなか見つからないね」 

「そう。私は待ってるから」 

 ちょっと口を尖らせて残念そうに言って、姫川さんは前を向いてしまった。 

 今日の姫川さんは、涼しげな白のワンピースに小さなハンドバッグを持っていた。いかにもという夏にぴったりの格好だ。普段はあまりおしゃれはしない彼女がそんな格好をしていたから、大学もその格好で行ったのかと少しびっくりしたが、聞くところによれば一回家に帰って着替えたそうだった。小柄な姫川さんに今日の服装はかなり似合っていて、僕としてはこんなに可愛い彼女は大学で他人に見せるのはもったいないと思うほどである。だからここは、彼女が僕と出かけるときだけこんな格好をしてきてくれたことを喜ぶべきだろう。こんなに可愛い姫川さんを見ることが出来ただけでも、今日誘った甲斐があるというものだ。

 でも実は、僕はまだ彼女に今日の行き先を教えていない。ただ「一緒に来て見てもらいたいものがある」とだけ言って来てもらっていた。

 そして今日見せるものを、僕が彼女に示す最後の答えにしようと考えていた。

 ネットでいろいろ探していたときに見つけたとある景色のきれいな場所。それが僕の答えだった。もう下見にも行ってその景色の素晴らしさは身を持って体験している。姫川さんに見せるのに相応しいもの、その景色は確かに持っていると感じさせられた。

 0と1ですべてを表現しようとする2進法は、景色さえも写真として再構成することは可能だと最初に会ったときに姫川さんから教えられた。ただ、映画とも写真とも違って生で見る景色というのには人の心を動かす力があると僕は思っている。だから、この素晴らしい景色を見た彼女は、少しぐらい0と1のことを忘れてくれるんじゃないか、というさしたる根拠もない結論である。 

「さあ、着いた。ここからはバスで少し行くだけだよ」

 電車を降りた僕らは、駅前のバス停からバスに乗る。そのバスをちょっとだけ町をはずれたところにある寂れたバス停で降り、僕は自然に姫川さんの手を取って歩き出す。目的地はこの道の先を右手に曲がったところにあった。

「いいかい? この先の角を曲がるんだ」

「何があるの?」

「それは見てからのお楽しみってことで」

 そうして、僕らは、角を曲がる――

 道を曲がった瞬間に姫川さんにもわかるように、僕は目の前に広がる黄金の太陽の海を腕で示した。 

 それは広大な敷地を利用した、満開のひまわり畑だった。そろって太陽の方向に顔を向けるひまわり達が、ちょうど太陽を背にした僕らの方を向いて咲き誇っている。

「すごい……きれい」 

 いつもあまり感情を見せてくれない姫川さんもこの時ばかりは、言葉の端々から感動が漏れ出していた。

 僕の手を握っていた姫川さんの手がするりと離れて、彼女は自分と同じくらいかそれ以上の背丈をした大きな、ひまわりの海に向かってゆっくりと近づいていった。

 僕らの登場を歓迎するように、ひまわりたちは大きな葉をまるで手を振るように風に揺らした。

「目の前に広がる、雄大な景色の圧倒的な情報量。それから、それらが生み出す感動。これが僕の最終的なの答えじゃダメかな?」 

 僕はひまわりを眺める姫川さんの背中にそう告げた。

 例え、写真に収めたとしてもこの景色の素晴らしさをすべて収めきることは難しいだろう。ひまわりの間を吹き抜ける風がひまわりをそっと揺らす、その光景の美しさと感動は映像にも映しきれない。葉が擦れ合い奏でる爽やかなハーモニーは何にも代え難い質を持っている。

 0と1だけでは完全に再現できないほどのすばらしい景色。これが今の僕に出せる最高の答えだと確信していた。 

 姫川さんは何も言わずにひまわり畑に見入っていた。そんなに離れてるわけじゃないから僕の言葉が聞こえなかったはずはない。僕には不自然な沈黙を彼女が纏っているように感じられた。

「……そう。この景色が一条くんの出した結論なんだね」

 やがて、ひまわりの方を向いたままそう言った姫川さんの声は暗く、沈んでいた。彼女のオーラを感じたひまわり達が風になびきながら、そっぽを向いたような気がした。

「一条くんは……なにもわかってくれてなかったんだね。0と1の世界についても。私についても」

 首だけでこちらに振り返って俯いた姫川さんは、僕を一瞥するとひまわり畑の方に一歩踏み出した。彼女は何かを振り切るように小さく首を振り、一歩一歩踏みしめるように歩みを進めていく。その先にはひまわりが乱立する天然の迷路しか存在しない。

「一条くんだけだったんだ。0と1の世界にこんなに興味を持ってくれたの。期待してた。あなたなら、私をこの0と1だけの檻から出してくれんじゃないかって」 

 姫川さんがゆっくりとひまわりたちに飲み込まれていく。彼女の小柄な姿が大きなひまわりの影からちらちらとのぞく。 

「キミは知らないよね。私、そういう病気なんだって。精神病の一種。私の頭の中でね、どうしても0と1がこの世界を再構成しようとするの」

 僕には、ひまわり畑に入っていく姫川さんの姿が、まるで黄金に輝く海に一人沈んでいくように見えた。

「何もかもが0と1で出来てる、そんな世界を見たことのない一条くんにはわかるはずないものね」

 ひまわりの海の外に取り残された僕の耳に彼女の言葉だけが届く。あれだけひまわりを揺らしていた風はぴたりと止んでしまっていた。

「ごめんなさい。私のわがままで無理難題を押しつけてしまって」

 ――ちがう。こんな言葉を聞きたかったんじゃない。

「ありがとう。キミは一生懸命考えて、いろいろなところに連れて行ってくれたよね。0と1以外の世界じゃなかったけど、どれも楽しかったんだよ」

 ――ちがう。こんな風にこの言葉を聞きたかったんじゃないんだ。

「私、一条くんのこと、嫌いじゃなかったよ。……ううん。なんでこんなこと、キミに言ってるんだろう。キミに言ってもしょうがないことなのにね。ごめんね」

 そう言った姫川さんの後ろ姿が、ひまわりに隠れて完全に見えなくなる。ここで彼女を見失ってしまったら、僕はもう二度と彼女と出会うことは出来なくなるのではないかという錯覚に襲われた。

 彼女に本当に言いたいことは全然違うのに。まだ彼女に伝えたいことは沢山あったのに。僕はどこで手段と目的を違えていたのだろうか。とにかく、僕は姫川さんの言葉を最後の別れにしたくなくて叫んだ。

「待ってよ!」

 でも、どうする手段も考えも持たない情けない僕がかける制止にどれだけの効果があるだろうか。

 0と1の世界について少しはわかった気になっていた。でもホントはわかった気になっていただけで、全然わかってなかった。どんな時でも0と1について考えてしまうということがどんなことなのかなんて、残念ながら僕には理解できなかった。 

「いままで私のことを考えててくれてありがとう」 

 通り抜ける風がすっかりひまわり畑に飲み込まれてしまった姫川さんの声をささやきとして僕に届ける。 

「ま、待ってよ、姫川さん! 僕もっとがんばるから! 君のこときっと理解するから! 0と1についてもっと考えるから!」 

 僕には彼女を理解しきるのは不可能だったけど。0と1の世界なんてさっぱりわかってなかったけど。

 ただ一つわかるのは僕の前から消えていこうとする彼女を見るのがこんなにもつらいということ。

 このまま姫川さんに好きな人ができて、その人と付き合うようになるまでずっと一緒にいられるだけでいいなんて、そんなのは大嘘だった。僕が逃げてただけだった。姫川さんはこんな僕に期待してくれてたのに、弱気になった僕が彼女の期待を裏切ってしまったのだ。

 0だった僕の心にはいつの間にか姫川さんという1がしっかりと存在していたから、今更元のような0に戻るなんて無理だった。離れていこうとする彼女をこのまま放っておくことなど、絶対に僕には出来そうになかった。僕が、耐えられなくなっていた。

「……だから。だから、お願いだ! 待ってほしい!」

 僕の思いを乗せた心からの叫びも吹き抜ける風に押されて、姫川さんには届かない。

 姫川さんを追って飛び込んだ海は、彼女の姿を隠すように広がっていて、ひまわりたちは僕をあざ笑うようにザワザワ揺れた。

 彼女の消えた方向へひまわりをかき分け突き進む。先の見えない海を、おぼれそうになりながらも懸命に泳ぐように。

 彼女を見失ってはいけない。その思いだけを胸に抱いて。


 ◇ ◆ ◇ ◆


「一条くんには無理だよ」

 ひまわりが途切れて少しひらけた場所で、やっと見つけた姫川さんは僕の方を向いて言った。

 彼女の寂しそうな笑顔が、僕の心を深くえぐる。

「そんなことない。僕が、きっと…だから……!」

 いざ姫川さんを目の前にすると、僕はもう何を言ったらいいのかわからなくなった。彼女にかけたかった言葉があったはずなのに、僕が本当は伝えなくちゃいけないことがあるのに、泣きそうな姫川さんの儚げな笑みはそれらを全て忘れさせるだけの衝撃を僕に与えた。泣きたいのは僕のはずなのに、姫川さんの頬には涙がつたっていた。

 それだけ僕に期待していてくれたのだろうか。

 そう思うと無性に彼女が愛しくなって、ただがむしゃらに駆け寄ると力一杯に抱きしめた。思うだけでこんなにも胸が痛くなるほど愛しく思う彼女を、僕は絶対に離したくなかった。抱きしめているのは僕のはずだったが、それはさながら大海原で溺れないように彼女にしがみついているように見えたことだろう。

 突然のことに、姫川さんは驚いたように小さな身体をびくりと震わせて身を固くした。そして抱擁から逃れようと両手で僕の身体を押してもがいた。明らかな拒絶に僕は更に悲しくなったが、ここで彼女を離してしまったら僕らの関係は永遠に変わらないどころかまた、元のように疎遠になってしまう。僕は彼女の全てを感じたいと、固く腕の中の少女を抱きしめた。強くしたら壊れてしまうのではないかと思うほど華奢な少女の身体は、確かに僕にその存在を伝えていた。

 どれだけ姫川さんが身動きをしようとも小柄な少女の力では男である僕にかなうはずもなく、やがて彼女は力が抜けたように、ぽすんと僕の胸の中に収まった。姫川さんの小さな身体をすっぽりと覆うように僕は強く強く抱きしめる。結局、答えを見つけることはできなかったけど、僕がそれで彼女を諦めることなど到底できそうになかった。それどころかもう一生、彼女を手放したくないとさえ思っていた。

「……いじわる」

 突然、彼女が僕の胸の中からくぐもった声でそんなことを言った。

「え?」

 驚いて思わず少し力を抜いた僕の腕からするりと姫川さんが抜け出す。そして僕が何かを言う前に彼女はさっと距離をとった。

「一条くんはずるいよ。いじわるだよ……」

 姫川さんの目は涙で濡れていた。一瞬、僕の抱擁がそれほどまでに嫌だったのかと後悔の念に駆られるが、彼女の言葉がその考えを打ち消した。

「私がどれだけキミを待っていたのか、キミは知らないんだよね」

「……それは、空白の2年間のこと?」

 僕の問いかけに姫川さんは頷くことで答える。

「……怖かったの。こんな目で世界を見ている私が、誰かを好きになってもいいのか。私に、キミの思いを受け止めるだけのものがあるのかわからなかった。時間が、時間が欲しかった。そしたら、キミに「0と1以外の世界を見せて欲しい」なんて言ってた。本心じゃなかったのに」

「……」

「一条くんが、私の答えを聞いてだんだんと離れていくのがとっても寂しかった。でも、自信がなかったから……」

 僕は今にも泣いて崩れ落ちそうな表情で語る姫川さんの頭に手を伸ばした。小さい子供をあやすように、ぽんぽんと彼女の頭を優しくたたいて諭す。

「もういいんだよ。僕も自信がなかったから。姫川さんのいう「0と1以外の世界」を見つけることの出来ない僕に、君に近づく権利なんてないんだと思ったんだ。本当はずっと後悔してた。告白なんてしなければ僕らの関係はあのままだったのかもしれないって」

 結局。僕らはお互い弱かったから、相手と一緒になる自信を持つことが出来なかったからすれ違っていただけだった。最初から僕らの答えは出ていたのに、ありもしない答えを探して二人して本心を隠して道化を演じていただけだったのだ。

「ねぇ。もう一度やり直してもいいかな?」

 僕は尋ねる。お互いの心がやっと通い合った今では、何をやり直すのか言うのは無粋だろう。姫川さんも何も言わずに、こくりと頷いた。

「じゃあ、改めて……」

 なんだか改まって彼女に告げるのはこそばゆい気がした。ここに到達するまでがかなり長かったように思う。紆余曲折を経て、という言葉が本当によく当てはまるだろう。でも、やっと。僕らの関係は新たに、新しい生活が始まるのだ。

「……姫川さん。僕は君が好きです。どうか、付き合ってくれませんか?」

「私も一条くんのこと好きです。よろこんで」

 いつの間にか日が傾き、沈みかけた太陽が空を、ひまわり畑を、それから彼女の頬を赤く染めていた。不意に赤くなった顔を俯かせた姫川さんが何かを言う。

「えっ?」

 聞き返す僕に、姫川さんは顔を上げた。

「……ぎゅっ、てしてほしい」

 そう言った姫川さんは、僕の答えを聞くまでもなく勢いよく腕の中に飛び込んできた。そして今度は姫川さんの方から力一杯抱き締めてくる。彼女の力じゃ全然きつくはなかったけど、僕もそれに応えて力一杯抱きしめた。そうしているだけで、なにも考えなくても幸せだった。

「……ホントに一条くんはいじわるだね」

 僕を両手で抱きしめたまま胸に埋めていた顔を上げて、彼女が呟いた。

「どうして?」

「こんな風に答えをくれるんだもん」

 姫川さんの言いたいことがわからなかった僕は、小さく首を傾げる。彼女の希望する答えは最後まで見つけることはかなわなかったはずだ。

「……ずるいよ。こんなの。こんな解決方法。私、何も考えられないもん。もうよくわかんない。0と1なんて見えない。ただ……キミとこうしているのがあったかくて気持ちいい」

 そう。僕一人がどれだけがんばっても見つからなかった答えは、姫川さんと共にいるだけで簡単に見つかってしまった。僕らがすれ違っている間は決して見つかることのなかったのに、その答え自体は僕らのほんのそばに転がっていたのだった。

「それは、よかった」

「うん。キミは私の欲しいものを全て手に入れてくれたんだよ。本当にありがとう」

 姫川さんの頬を再び涙がつたう。でも今度は間違えない。彼女は嬉しくて泣いているのだった。

「なんか、あれだけ探し回ったのがバカみたいに思えてきちゃうな」

 僕は呟く。結局答えはすぐ近くにあったのにすれ違ったまま見当違いに探し続けていたのだ。見つけた答えに一喜一憂して、姫川さんと正面から向き合おうとしていなかった。本当にバカみたいだった。

「なんで、そんなこというの?」

 だが、そんな僕の自嘲の笑みは姫川さんの機嫌を損ねることになったらしい。抱きついたまま僕の顔を上目で見た彼女の唇が不満げに尖っていた。不意に僕はそんな姫川さんの唇から目が離せなくなった。姫川さんが僕に身体を預けたまま爪先立ちになるのを彼女の潤んだ瞳が、だんだんと近づいて来たことから悟った。

 僕らの距離が0になる。

 地平線にその身体を半分以上埋めた太陽は、いつまでも一つになっている僕らの影を長く長く伸ばしていた。あんなにひまわりたちを揺らしていた風もいつの間にか止んでいて、身動き一つをしないひまわりたちが僕らの新たな始まりをそっと祝福してくれていた。


 ◇ ◆ ◇ ◆


 それからの僕らの関係について少し語ろう。

 僕は姫川さんの出した条件である「0と1以外の世界を教える」ということを図らずも彼女を力一杯抱きしめることによって答えることに成功したわけだったが、それで彼女はもう2進法の景色を見なくなったのかと言えば全くそんなことはない。そもそも、彼女の2進法の世界というのは生まれ付きの性質のようなものであるから治るとか治らないとか言う問題の話ではない。

 僕には姫川さんの視界がどういう風に見えているのかは想像することしかできないけれど、彼女は今までもそのままで日常生活を送ることができたわけだし、これからも彼女自身と何とか折り合いをつけてやっていくのだろうと思う。でもそれは、僕が彼女に示した答えが結局無駄になってしまったということではない。むしろその答えが僕らの関係を一変させたともいえよう。

 まず、彼女は僕らの出した答え、つまり”全力ハグ”が気に入ってしまった。人と人はどう足掻いても、どんなに相手のことを考えていても完全に一緒になることも思いを完全に一致させることもできない。姫川さん風にいえば、自分と相手の関係は何処までいっても1と1でしかなく、2にはならないのである。

 それはある意味僕らの関係にも、当てはまることだろう。僕らの距離は限りなく近づいたけれど、どんなに彼女のことを考えていても、彼女がどれだけ僕を必要としていても、僕らは完全に分かり合うことは出来ない。それは最初のすれ違いからも言えることだ。それでも少しでも相手のことを感じていたい、一人でいることに対する不安を解消したいと願った彼女が見いだしたのがこのハグだった。

 僕が彼女を初めて抱きしめたあの日、姫川さんは包み込まれるような暖かさと安心感を得ることが出来たらしい。僕が彼女の視界をふさぐことで2進法の世界から彼女を救い出し、同時に彼女に温もりという安心を与えたということのようだった。そして彼女はこのハグを生活の中で安心するための一番のより所としてしまった。すなわち、

「大学終わった。充電が足りないから迎えにきて」

 こういうことである。充電というのは、彼女の携帯の電池の話とかではない。姫川さんが一日を0と1の世界を感じずにいるために必要なパワーを補給するということだ。そしてそれは、姫川さんをぎゅっと抱きしめることによって行われる。単純に言ってみれば「大学終わったから抱きしめにきて」ということになるだろう。こんな電話が毎日、姫川さんの履修している講義が終わるとともにかかってくるのである。

 僕と姫川さんの大学は電車で数駅しか離れていないで、僕が文系専攻で彼女が電話をかけてくる頃には一日の行程を既に終えているというフットワークの軽さを生かして、毎日自分の講義が終わったら移動して喫茶店で待機するようになっていた。大変だと思われるかもしれないが、もともと何もなくても姫川さんのところには毎日行く予定だったし、なにより姫川さんがハグが必要だって言うんだから、それができる僕が行くことにそれ以上の理由は必要じゃない。

 ちなみに、充電時間は1分以上10分未満ってところ。小柄な姫川さんがつぶれてしまうんじゃないかというぐらいにぎゅーっとするのだ。

 姫川さんはわりと人目を気にしない性格のようで、他の人が見ていても平気で僕に抱きついてくるから、彼女の大学で僕らはベタベタのカップルとして有名になってるとかなってないとか。とにかく、僕を見つけると嬉しそうな笑顔で腕を広げて小走りに近づいてくる姫川さんは、そのふわふわした長い髪と小柄な容姿もあって幼く見え、それがまた凶悪なまでに可愛いのだ。ほわっ、と僕の腕の中で顔をほころばせまるで子供のように抱きついてくる姫川さんをいったい誰が止められようか。もう僕らの暴走を止められるものは何一つ存在しないだろう。

 一度、僕らの関係を大学の友人に話してみたら、

「のろけるのもいい加減にしろ。そんな隙だらけの彼女がいるなんて羨ましいとちょっと思ってたけど、お前ら甘々過ぎだよ。聞いてるこっちの口から砂糖が出るわ!」

 と、怒られた。でも、姫川さんは普段は0と1の世界のお姫様だったから、この隙は他の誰も見ることの出来ない僕だけに許された隙だった。お互い大好きなだけに、っていうのはちょっと寒いか。

 それにしても。僕は相変わらず彼女のことを“姫川さん”と呼んでしまっている。付き合い始めてすぐに彼女は、僕の呼び方を“一条くん”から“怜くん”にバージョンアップしてくれたのだが、僕はどうしても“姫川さん”と呼ぶのに慣れすぎてしまっていて容易に呼び方を変えられそうになかった。

 “姫川さん”と呼んでしまったときのペナルティーを決めたのはいいのだが、それが充電なのもやっぱり問題があるのだと思う。一日の終わりの別れ際に、

「今日は何回呼んだ」

 と、わりと真剣な顔をして申告してくる姫川さんにも、絶対に非がある。彼女の表情は怒ってるのに、目が期待でキラキラしてる彼女を見たいが為に“姫川さん”と呼ぶのをやめられないというのもあながち間違ってない。一日呼び方に注意して、一度も“姫川さん”と呼ばなかった日の別れ際には、

「今日は0回だった……」

 と、出来事ととしては喜ばしいことのはずなのに、とっても残念そうに口を尖らせる姫川さんがいた。その表情だって十分にかわいいのだけど、やっぱり彼女には笑顔が似合うから僕はわざと間違えて“姫川さん”と呼ぶようにしている、つもりだ。

 そんな充電ばっかりしてる僕らだったけど、0と1の世界が嫌いになったわけじゃない。忘れたいわけでもない。むしろ、常に感じることがなくなった分だけ、その世界に愛着がもてるようにもなった。

「世界の全てを1と0で再構成するのが私の夢」

 彼女の言うそれは現実と何一つ変わらない、完全なバーチャルリアリティの世界のことだろうか。それとも彼女自身が世界を旅していろいろなものを見たいということだろうか。姫川さんが見たまま2進法で入力していけば、コンピューターの中に現実そっくりの世界が作り出せるようになればきっと仮想現実の設計などももっと捗るのではないだろうか。

 まあ、僕には専門的なことはわからない。でもそんな僕でも姫川さんとやっと同じ土俵に立ったと言えることがある。

 それは、僕も姫川さんと同じくらい0と1の世界が好きになったこと。

 そして、僕らがたどり着いたこの境地すらも0と1で再構成することのできる日が来るのを楽しみにしてるっていうことだ。今、姫川さんは大学で一つの研究をしているらしい。それは、彼女の視界を再現するコンピュータープログラムだそうだ。完成したら真っ先に僕に使わせてくれると約束してある。僕はその、彼女の見ている0と1の世界を画面を通じて共有することが出来る日を心待ちにしている。

 そしていつの日か、自由にコンピューターの中の世界に姫川さんと行ける日がくるのではないだろうか。僕には、彼女の生まれ持った性質と熱意があれば、それが可能になる日もそう遠くないうちに訪れるような気がしてならなかった。


 [了]

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