犬喰症
——ここ数日の母の様子を、私は前にも見たことがある。
座っていてもどこか落ち着かず、時折汗を滲ませている。すっかりと涼しくなった、この季節に。
そんな母のぎらついた瞳が執拗に追う先にいるのは、愛犬のチロ。白い毛並みにつぶらな瞳を持つ、人懐っこい豆柴の男の子だ。
「お母さん、大丈夫?」
「っ、……大丈夫だけど? 何かあった?」
「……ううん、何も」
私に向けられる瞳は、いつもと同じ。
きっと母は自覚がないのだろう。自分の中にあるおぞましい欲望を。その、恐ろしい病を。……だって、前もそうだったから。
「——そろそろ、かな」
「ん?」
「何でもない。お母さん、この週末は家にいるの?」
「うん、のんびりする予定。何だか最近ボーッとしちゃうことが多いから」
「……そうだね。私はチロと出掛けてくるから、ゆっくり休んで」
私は明日、ここを出て行くことを決めた。
母と私とチロの二人と一匹が住んでいるのは、隣家まで五kmほどある、山奥の一軒家。五年前に「療養するため」という名目で引っ越してきた隔離施設だ。
ただ、隔離施設と言っても、行動の制限はほぼなく、母は自分が監視されていることにも気づいていない。つい最近まで山を下りたところにある町へと買い物にも行っていたし、在宅で簡単な仕事もしていた。
ただ、空気の綺麗なところでのんびりと生活をしているだけ。——そう、思っているのだ。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
母へ挨拶をすると、チロと一緒に自室へと入る。施錠することは忘れずに。
「チロ、明日からちょっと遠くに行こうね」
ベッドに寝ころびながらチロに話しかけると、ペロンと顔を舐められた。
チロは滅多に吠えることがなく、こうしてよく甘えてくれる。この子を犠牲にすることなど、考えられない。
電気を消して、布団を被る。チロの体温が温かくて気持ちがいい。
明日からもずっと、この温もりの傍にいたいと心から思う。
「おやすみ、チロ」
ガチャ、ガチャガチャッ
ドンッ、ドンッ
「——っ!」
朝の四時。自室の扉を激しく叩く音で目が覚めた。
「チロ、ちょっと待っててね」
驚いた顔をしている寝起きのチロに声をかけ、扉に近づく。
扉に耳をつけると、向こう側からピチャ、ピチャ、という水音が聞こえた。
「お母さん……?」
「……起キ、てルの? こコ、アケて……クれナイ?」
「——っ! ちょ、っと待ってね。今、起きたばっかりだから……」
動揺を悟られないように言葉をかけ、扉から離れる。用意していたリュックを手に取り、チロを抱きかかえた。
「チロ、お出かけだよ」
小さな声でそう言うと、窓から外へ出る。
ドンッ、ドンッ
「あ、ケて……、こコ、いヌ、よコ、セ……っ」
ドンッ、ドンッ、パキッ
扉の向こうから聞こえる声を遮るように窓を閉めて外から施錠し、足音を立てないように玄関へ回って大きめの南京錠をかけた。これで母が外に出ることはできないはずだ。
チロを車に乗せ、リュックをトランクに入れる。運転席に乗り込む前に思わず目をやった自室の窓には、全身が赤黒くなった奇形のナニカが張り付いていた。
「……お母さん」
そのナニカが、ギョロッとした目でこちらを見ている。激しく窓を叩いているようだが、強化ガラスで作られた窓はびくともしていない。
「ばいばい」
一言だけ残し、私は五年間住んだ家を後にした。
*
「——はい。ええ、窓も玄関も施錠しています。はい、お願いします」
町のコンビニに車を停め、研究施設に報告の電話をする。きっとすぐにあの家に向かってくれるだろう。
「チロ。新しいお家に行くから、少し待っててね」
助手席でお利口さんにしているチロを撫で、ようやく一息つけた。
まだ早朝ということもあって人通りはないが、コンビニの明かりがあるだけでも心が落ち着く。
——五年前。ある日気づいたら、母の様子がおかしかった。
その日はどうしても外せない仕事があったため、翌日に有給をとって病院に連れて行く予定だった。……だけど、仕事が終わって帰った私を迎えた母は、全身を血まみれにして倒れていたのだ。
母の傍には大量の血と何かの肉片や骨、そして、元の色がわからなくなっている毛が散らばっていた。
「うっ……」
あの日の光景を思い出すと吐き気がする。
母の傍にあったそれらは、私がまだ学生だった頃からずっと一緒に暮らしていたシーズーの女の子。チロのお姉ちゃんとして、優しく面倒を見てくれていたランちゃんの変わり果てた姿だった。
プルルルルッ
「……はい」
「桜井さん、おはようございます。高橋です」
「高橋さん……おはようございます」
あの日、母が奇病の発症者ということがわかり、研究に協力する代わりに保護をすると申し出てくれた研究施設の所長さん。
検診という名目で、研究員の人が母の様子を見に来る時にも必ず付き添い、何かと親身になってくれていた人だ。——私達が、あの家で穏やかに暮らせていたのもこの人のお陰だった。
「五年間、お疲れ様でした」
母の報告を聞いたのだろう。いつも通り淡々とした口調だが、その労いの言葉には温度を感じた。
だけど私は、「お疲れ様」と言われるようなことは何もしていない。ただ普通に暮らし、最後はチロを連れて逃げてきただけなのだから。
「しかし、随分とギリギリになってしまったみたいですね」
「そう、ですね……最期に寂しい思いをさせたくなくて」
自分の身体が奇病に侵されていることなど、知らずにいた母。
ランちゃんのこともチロのことも愛し、ランちゃんが亡くなった時は誰よりも涙を流していた母に——その本当の理由など言えず、散歩中の事故だと説明した。
「でも、ありがとうございます。母に最期まで、人としての生活をさせていただいて」
「いえ。こちらも、研究としての血液は定期的にいただいていましたし……献体登録は、特効薬作りに大きな進歩をもたらしてくれるはずです。何と言っても前例は百年近く前のものでしたので」
母が患った病の名前は「犬喰症」。
り患したら最後、完治することのない病だと説明された。
「昭和の初期はまだ医学が発達しておらず、病ではなく呪いの類だと言われていました。でも現代の医学ならきっと、治せるようになるはずです」
「そう、だと嬉しいです。この病で亡くなる方や、犠牲になるわんちゃんがいなくなれば……母もきっと、報われます」
突然襲われる、「犬を食べたい」という、抑えきれない欲求。そしてそれが叶わなかった時に起こる、身体の変形。
実際に目の当たりにしても、どこか信じきれない。……あの、おぞましい生き物が自分の母だったなんて。
「……現在、うちの者がお母様の保護に向かっております。詳細の報告は、また後日に」
「はい。よろしくお願いいたします」
「まずは、ゆっくりと休んでくださいね」
「ありがとうございます」
電話を切り、息を吐く。
母は、どうなったのだろうか。家の外には出られないはず。身体の変化はどこまで進んだのか……あの、身体を纏っていた赤黒いものが血液なら、それだけでももう……。
「行こっか、チロ」
想像を消し去るように、わざと明るい声でチロに話しかける。——私は、この子を守ったのか。それとも、母を見殺しにしたのか。
この感情が消えることは、きっとないのだろう。だけど願わくば、ランちゃんの分まで、長く一緒に。
「新しいお家でも、たくさん思い出作ろうね」
*
——脈、確認。意識なし。出血過多。試作抗体製剤投与、要経過観察。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
私が見た夢を元に、初めてホラー作品を書いてみました。
もし楽しんでいただけましたら、ブクマや評価、リアクションなどをポチッとしていただけると嬉しいです。
感想もお待ちしております。




