「側妃を迎える。君は毒見役でもしていろ」と言われたので、王宮毒見役を正式に拝命いたしました ~二十日後、殿下は「君の舌でなければ、何も食えない」と仰いました~
「側妃を迎える。君は毒見役でもしていろ」
楽の音が、張りつめた糸を断ち切られたように止んだ。国王陛下ご臨席の秋の宴。香油の甘い匂いが漂い、燭台の金色の火が揺れる大広間の真ん中で、ボードワン王太子殿下は満座に向けて冷ややかに言い放ち、ミルベル子爵家のフロリーヌ様を見せつけるように隣へ立たせた。
注がれる視線が、薄い刃となって肌に刺さる。わたくし、リヴィエンヌ・ラフォレは、腹の底できしむものを押し込み、手の中の扇を静かに閉じた。婚約して十年。成婚は「時期を見て」の一言で延ばされ続け、そのたび期待を畳んできた。その十年、わたくしの舌を育てたのは王宮ではない――先代毒見役だった大叔母の、領の薬草園である。湿った土と干し花の青い匂い、葉の触れ合う音に包まれ、八つのわたくしへ繰り返し授けられた教えがある。
『隣に座る者が、最初の一口を』
教えのとおり、宴のたび隣で先に匙を通してきた。十年で三度、皿を替えさせている。三度目の茸の、傘の裏のかすかな青みは、今も瞼の裏に残る。けれど宮廷の読みは、食い意地。気に入らぬ皿を退ける、我儘な令嬢。癖には俸給も、辞める自由も付かない。
「まあ。お似合いですわ。十年経っても、殿下より先に匙をおつけになる方ですもの」
フロリーヌ様が袖で口元を隠す。布の陰から、口の端だけが上がっている。泣いて縋るのを待つ顔が、二つ並ぶ。積もり続けた失望は、とっくに決意のかたちへ変わっている。……あいにくである。わたくしは膝を折り、腰を落とした。指先は、不思議なほど冷えていない。むしろ体の芯には、長く閉ざされていた扉に手をかけたような、ひそやかな熱が灯っている。
「承知しました。毒見役には俸給と、辞める自由がございます」
「……は?」
殿下の声が裏返り、磨かれた天井へ頼りなく響く。わたくしは顔を上げ、驚きに見開かれた目をまっすぐ受け止める。残る痛みまで息の底へ沈め、澄んだ声で申し上げた。
「殿下はご存知でしたか。毒見役は、王族の婚約者であってはならないのです」
ざわめく広間へ、尚膳局長ドマール様が古びた台帳を抱えて進み出る。二十年、この職の成り手を探し続けてきた人である。毒見役規定全十七条、第二条と第三条。番号から読み上げる声は、乾いて型どおりだ。
『毒見役は官職とし、俸給と危険手当を給する。非番は十日に一日。辞するは、届け一つでよい』
『毒見役は、王族の婚約者ならびに二親等の縁者であってはならない』
言ったとおりの条だった。張りつめていたものがわずかにほどける。大広間のざわめきが、潮の引くように質を変えていく。嘲りから、数えなおしへ。扇の陰で貴族たちの目が泳ぎ、誰もがわたくしの歳月を別の重さで量り始める。その変化は、小さな風が頬を撫でるように伝わってきた。
「……冗談を――」
言い終わるより早く、玉座の陛下が片手を上げて口を開く。低く、岩が床を這うような声に、大広間の空気が震える。
「二十年、空いたままの職である。そなたの家の舌は、王家がよう知っておる。……許す」
「拝命と、御婚約の返上。両の御裁可にございます」
ドマール様が言い添える。辞令は明朝。頭を垂れたわたくしの視界の端で、フロリーヌ様の扇が止まっていた。
◇
勤めの一日目。毒見の間は尚膳局の奥、北向きの石造りの小部屋である。窓の光は白く、卓に並ぶ銀の匙は指先が痛いほど冷たい。王族の口に入る物は、菓子ひとつまで所見を経る。規定第一条だ。膳は膳立てから四半刻を措いて検め、所見を付けて食卓へ上げる。
『早い毒は舌に出る。遅い毒は、四半刻ののちに出る』
手引きの一文だ。四半刻、湯気が細り、香りが静まり、遅い毒だけがゆっくり顔を出すのを待つ。待つあいだに、膳は冷める。
二日目の昼、扉を荒々しく鳴らして殿下が乗り込んできた。苛立ちを刻む靴音とともに廊下の冷気が流れ込み、後ろには台帳を抱えたドマール様が続いている。
「膳が冷める! 昔のように、隣で検めればよかろう」
わたくしは匙を置き、まっすぐ目を合わせて答える。
「規定にございません」
ドマール様も殿下の剣幕に眉ひとつ動かさず、乾いた紙の音を立てて台帳を繰り、第六条を読み上げる。
『検めは毒見の間にて行い、膳立てののち四半刻を措いて所見を付す』
「ならば、温め直させればよいだけだ」
わたくしは首を振る。
「温め直した膳には、また新しい所見が要ります」
鋭い舌打ちが石壁に残る。昔の温かさは、わたくしが官職の外で隣に座り、その場で検めていた無償のぶんである。あのころは、それを親しさと呼べる気がしていた。惜しまれているのが、わたくしではなく温かい膳なのだと気づけば、胸の奥が薄く痛む。
三日目の朝、ミルベル子爵家から〈殿下御茶会の御用〉の胡桃の菓子が届いた。月例の届け物で、宴より前に領を発っていた便である。止める使いが追ってきた様子は、ない。二十年、検める者のいなかった道だ――新任の毒見役のことなど、子爵の耳には〈食い意地の令嬢〉程度にしか届いていないのだろう。
菓子を割る。さくり、と軽い音がし、淡い屑が白布へ散る。焼き色は上等。胡桃の香ばしさにも濁りはない。蜜を米粒ほど、舌の先へ載せる。……痺れ。針の先ほどの、細い痺れが走る。喉の奥に、ゆっくりと灯る熱。それから、干した花の薄い残り香――あまりに薄い。見つけた安堵より先に、これが誰かの喉を通るはずだったのだという寒気が背を這う。膳部の形だけの検分なら素通りする薄さだ。けれど、条を知る舌は名指せる。
月夜草の蜜。所見、〈供にあたわず〉。書きつけた指へ、遅れて部屋の冷たさが染みてくる。
毎朝の立ち会いに控えていたドマール様が、書き付けを覗き込む。
「……月夜草とは。よう名指せましたな」
「大叔母の手引きに、その条がございますので」
ドマール様が封蝋を落とし、第八条を読む。甘い煙の匂いを立てる赤い蝋が、菓子の箱の上で血のしずくのように丸く固まっていく。
『供にあたわずの膳は現物を封じ、所見を添えて、尚膳局と衛兵に回す』
誰も指さない。声も荒らげない。ただ書いて、封じて、回すだけである。所見の一枚が封の上に載り、衛兵の手へ渡った。遠ざかる靴音が石床を打つたび、身の内に重い波紋が広がる。匙を布で拭う。冷たい銀が、かすかに鳴る。手は、動かしていれば震えない。止めれば、見つけたものの重さが指先から迫ってくる。
◇
十月二十日は、隣国の正使を迎える晩餐である。陛下もご臨席。夜の大広間では燭台の火が幾重にも揺れ、磨かれた銀器が光を返し、触れ合うたび涼やかな音を立てている。肉の焼ける香りと香草の青い匂いが漂うなか、検めを済ませても抜けきらない緊張を襟の内に畳み、わたくしは官として末席に侍る。皿を運ぶ合間に、給仕頭がそっと身を寄せ、小声で教えてくれた。
「城下の写本屋で、所見の写しが銀貨二枚で出ておりますよ。先代の頃からの公然の習いだそうで。規定も、禁じておりませんし」
毒の帳でなく、味の評として面白いらしい。厨房が回し読み、料理人の仲間から城下へ渡ったのだという。銀貨二枚。俸給とは別に、宮の外が初めて付けた値である。上座のフロリーヌ様が、女主人の顔で鴨を褒める。
「蜜の照りが、なんともすばらしいこと」
正使のギスラン公爵が、衣擦れの音とともに懐へ手を入れ、折り畳んだ紙を取り出し、卓の上で開いた。卓上の火を受けた白い紙が、ひどく目立つ。写しの類か、と鼓動がひとつ跳ねる。殿下が眉を上げ、冷えた声で制する。
「末席の官の手すさびだ。座興は結構」
「我が国では、これを教本と呼びます」
公爵は静かに返し、読み上げる。ざわめきが潮のように引いた大広間の隅々まで届く、よく通る揺れのない声である。
『二の膳、鴨の蜜焼き。焦がし蜜が勝って、木苺が泣いております。毒は、ございません』
勤め初日の膳の、わたくしの所見だ。読み上げられる自分の文を聞くのは、面映ゆいというより不思議で、書いた夜の、冷めた鴨の匂いまで戻ってくる。公爵は当夜の鴨を一口含み、目を細める。
「今夜は、木苺がきちんと生きている。厨房が所見を読んだ、何よりの証だ」
「同じ献立に手を入れ、出し直したのでございます」
給仕頭が緊張にかすれた声で口を添える。公爵はその言葉を受け、さらに続けた。
「これは、二十年前に我が国の厨房へ渡った先代の写本と、まさしく同じ手の型だ。……殿下は、当代の所見をお読みか?」
殿下は答えない。掲げかけた杯が火を映したまま止まり、その手だけが行き場を失くしている。沈黙が長引くほど、末席にまで張りつめた冷たさが伝わってくる。
重く沈んだ空気を割るように、ドマール様が事実だけを言い添える。
「毒見台帳は尚膳局に。……お求めは、まだ一度もございません」
公爵はゆっくりと席を立つ。靴音が磨かれた床を打つたび、鼓動まで拾われる気がした。まっすぐ末席へ進み、わたくしの前で足を止める。見上げた先で揺れる燭の火が、値踏みも侮りもしない、揺れない目を照らしていた。
「この鴨、塩をしたのはいつです?」
「焼く半日前に、二度に分けて。皮目は強く、身は薄く――今夜は、そのように頂きました」
わたくしの答えに、深いうなずきが返る。詰めていた息が、ようやく細く抜けていく。そのとき、公爵が低く、しかし広間の隅まで届く声で告げる。
「その舌は毒を見る舌ではない。膳を仕立てる舌だ」
◇
十日目は、規定の非番だ。朝の淡い光のなか、王都屋敷の薬草園は朝露で重く、摘んだ薄荷を揉むと、涼やかな香りが鼻へ抜ける。湿った土の冷たさに心をほどいていると、使いの侍従が砂利を蹴って駆け込んできた。肩が激しく上下し、息が喉につかえている。
「殿下の朝餉が……出ないのです」
規定第五条。
『所見なき膳は、供にあたわず』
代役は二十年いない。積もり積もったその空白が、朝の庭へ冷たい影を落とす。
「尚膳局長様いわく、お役が空のあいだは規定も眠り、膳部の検分で回った、と。いまは条が生きております」
頭をかすめた嫌な予感を顔に出さず、目だけで先を促す。侍従の喉が、ごくりと鳴る。
「非番を返上せよ――との仰せにございます」
「規定にございません」
昼、日差しが葉を透かすころ、ドマール様が詫びに来た。土と薄荷の匂いが残る庭先で、老いた背が痛ましいほど深く折れる。責める気などないのに、みぞおちがきゅっと縮む。
「非番は、王命でも動きませぬ。……先の御代、それを動かした王が、毒見役を二十年失いました」
戻り際、老いた局長は薬草園をひとわたり見回して、先代もこの草を、と小さく言い残す。大叔母のことだ。王宮の戸棚には、わたくしが検めて封のまま納めた乾酪と堅麺麭がある。封の所見は日を跨ぐから、殿下は飢えない。ただ、温かい膳が無いだけだ。
夕刻、庭に長い影が差すころ、先触れとともにギスラン公爵が見えた。市を歩きたいのだという。思いがけない誘いに戸惑いながらも、穏やかな横顔に歩調を合わせ、香辛料の山が夕日に赤く染まり、呼び声と荷車の軋む音が交じる市を抜ける。屋台で汁を二椀。野菜の匂いを運ぶ白い湯気の向こうで、公爵が椀をひとつ、こちらへ置く。
「今日は、検める舌ではなく、味わう舌でいらしてください」
十年、隣で検めてきた。香りと色を探り、喉を通るわずかな違和感に神経を澄ませる。それが一口というものだった。人の椀を検めず、誰かの無事のためでもなく、自分のために飲む一口は、初めてだ。……温かい。塩気が冷えた喉をほどき、その奥の、役目に閉ざしてきた場所までまっすぐ届いて、灯りをともす。椀を包む指に熱が移り、泣く理由などないのに目の奥がかすかに痛んだ。隣の公爵は、椀をとうに干している。迷いも警戒もない。検めではなく、ただ旨いから飲む速さである。その当たり前が、ひどくまぶしい。
日暮れ、汁の温もりを掌に残したまま屋敷へ送られて戻ると、薄闇の戸口に二度目の使いが立っていた。姿を見た瞬間、ほどけていたものがまた固くなる。
「殿下は本日、乾酪と堅麺麭のほかは何も。……フロリーヌ様の菓子にも、お手をつけず」
封と回付の騒ぎは、もう宮中に知れている。侍従が重い口上を述べる傍らで、公爵がこちらの揺れを見透かしたように笑う。その笑みは、冷えかけた心へふたたび椀の熱を戻すようにやさしい。
「私の国の膳なら、温こうございますよ」
◇
二十日目、二度目の非番。わたくしは官でなく、伯爵家の娘として謁見の間へ召された。今日、王宮に温かい膳はない。
石の床から冷えが靴底を這い上がり、高い窓の光は刃のように細い。フロリーヌ様は列の端で、青ざめた指を重ね、目を伏せている。卓に置かれるのは、赤い封蝋も冷たく硬いあの菓子の箱と、わたくしの所見の一枚。監察官の声だけが、広い天井へ乾いて響く。読み上げは、長い。
「香料屋の書き付け、仕入れは三月前より、値は常の三倍。殿下が所見を経ずに口にされた菓子、二度。……月夜草の効き目は、気の昂ぶりと傾きの長引きまで。見初めは六月、仕入れより前にございます」
心は、薬では作られていない。監察官が、結びに膳律を読み上げる。
『王族の膳に無届けの物を加えた者は、その効能を問わず、毒を盛った者として扱う』
「ミルベル子爵は爵位を返上、所払い。娘は宮より下がれ。ボードワン、謹慎ひと月。側妃の話は白紙とする」
陛下の声が、冷えた石壁へ揺るぎなく渡る。フロリーヌ様の咎は、確かめずに座ろうとしたことと、わたくしを嘲ったこと。父の罪まで背負わせぬ裁きに、肩の力がわずかに抜ける。
「あたくし、菓子のことは……ほんとうに、何も知りませんでしたの」
背を向けた小さな肩は、薄い布越しにも分かるほど震えていた。丸まった輪郭を見れば、疑いより先に痛みが胸を刺す。多分、本当だ。そう思えることが、少し苦しい。それから陛下が、逃がさぬ目でこちらを見た。
「三年前の秋。膳から下がった茸が何であったか、余は調べさせておる。……そなたは今日まで、誰にも言わなんだな」
「……鈴白茸に、ございました。膳から下げた、三度目でございます。火を通しても、抜けませぬ」
謁見の間が、息を呑んだように静まり返る。衣擦れさえ止み、古い記憶の冷たさが喉の奥によみがえった。殿下がこちらを向いた――十年で、一度も見たことのない、驚きと悔いにひび割れた顔で。
「婚約を……やり直したい」
わたくしは首を振らない。痛みがないわけではない。それでも、振る必要が、もうない。あの頃の願いは、冷たい膳を重ねるうち、自分で選ぶ明日へ姿を変えていた。
「毒見役は、王族の婚約者にはなれません。殿下が、そうお命じになりましたのよ」
殿下は退かない。わたくしの沈黙を、まだ迷いだと思っている。その思い込みとわたくしの間に、積もった年月がひっそり横たわる。
「ならば、職を辞せばよかろう」
その言葉が届くより早く、陛下が、刃を差し入れるように遮る。
「余は同じ裁可を、二度は書かぬ」
短い声が、玉座から冷たい石のように落ちた。殿下の頬から血の気が引く。それでも殿下は唇を開き、最後の札を切る。
「君の舌でなければ、何も食えない」
「十年、隣で検めて参りました。俸給を頂く身になったのは、この二十日でございます。……殿下がくださった官職が、わたくしに、辞める自由もくださいました」
届けは紙一枚。迷いはもうない。その場で書き、乾ききらぬ墨の匂いとともにドマール様へ渡す。受け取った手が、台帳の上で決意を支えるようにそっと言い添えた。
「成り手の文が、既に二通来ております」
職は、生き返っている。二十年空いていた席に、俸給と、写本の評判と、辞める自由が付いたからだ。わたくしが得た道が、見知らぬ誰かの明日へも続いている。その事実が、小さな誇りになる。
台帳室で大叔母の手引きに書き足しを納め終えると、紙と革の匂いがこもる静けさへ、折り畳んだ書面が差し出された。官の畳み方をした、指に滑らかな上等の紙。辞令かと思って両手で受け、顔を上げる。差し出していたのはギスラン公爵だった。紙からは、かすかに蜜蝋の香りがする。
「辞令ではなく求婚状です」
毒見役でなく、食卓の主として迎えたい、とある。目を落としたまま、いつもの癖で混ぜ物を探して読み返す。二度、三度。罠はなく、わたくし自身を選ぶ言葉ばかりだ。信じるほど胸が落ち着かず、紙を押さえる指の先が、少し熱い。
「所見を申し上げますわ。……混ぜ物、なし」
公爵が、初めて声を立てて笑った。朗らかな音に、頬の強張りがゆるむ。……良い塩梅だ、と。冬には迎えを寄越します、と言う。台帳室の淡い光まで、柔らかく見えた。わたくしは求婚状を胸元に納める。紙の温もりから、まだ知らない食卓が心に浮かぶ。それでも、明日の膳を数えるときの声で答えた。
「次の毒見は、わたくしの結婚式の膳からですわね」
連載版はこちらです
https://ncode.syosetu.com/n4170ms/
短編で描けなかったところも丁寧に書いていきますので、ぜひお楽しみください(●´ω`●)




