5.事情聴取①
「その事件が発生したのはつい昨日の夕方のことなのですが――」
ヘイスティングス警部は応接間の一同を見回すと、昨夜彼が事件を捜査することになった経緯から語り始めた。
***
昨夜午後7時頃、警部はロンドン警視庁本部の自分の執務室で書類仕事と格闘していた。
すると、一人の男がノックもせずに部屋に入ってきた。
卵型のやや薄い頭――上司のフェアファクス主任警部だった。
警部は反射的に立ち上がった。
「フェアファックス主任警部」
「まだ帰らないのかな?ヘイスティングス」
警部は顔を顰めた。
主任警部がこの時間に部下の執務室に顔を出すなんて、追加の仕事を持って来たに違いなかった。
「先週申し上げた通り、明日はミセス・ヘイスティングスの誕生日なので、今日中に色々片付けたいのです」
彼は飾り棚の上にある家族写真をちらと見た。
末っ子を膝に乗せて笑みを浮かべている女性が明日40歳になる彼の妻ミセス・ヘイスティングスだ。
「それで、どうしたのです?主任警部」
主任警部は「ふむ」と言ったきり、黙り込んでしまった。
気詰まりな沈黙が流れる。
「……事件ですか?」
結局は部下である警部が先に折れて沈黙を破った。
「ああ、しかも殺人だ」
「私に捜査しろということですね?承知しました。ただ、明日だけは絶対に早めに上がります」
警部は現場に行く必要がありそうだと判断して、ハンガーに掛けている帽子に手を伸ばした。
しかし、主任警部の視線に気が付いて手を止めた。
「……現場はリッチモンドなんだ、ヘイスティングス」
――リッチモンド!
ヘイスティングス警部は数回瞬きをした。
――捜査を始めたら数週間は帰れないぞ。
リッチモンドはロンドン郊外にあるのどかな田園地帯だ。
警視庁本部からは列車を使って片道一時間弱かかる。
殺人事件の捜査となれば、時間の節約のため暫く現地に詰めることになるだろう。
「地元警察署の警部ではだめでしょうか?」
「私としては君にお願いしたいね」
主任警部は少し眉を寄せて呟いた。
「殺されたのは、地元の女性参政権運動組織<郊外女性参政権運動同盟>――通称<SWSA>――の幹部の女性なんだ」
警部は主任警部に気づかれないよう一瞬だけ眉を寄せた。
彼は政治が大の苦手だった。
犯罪と違って善悪がはっきりしないからだ。
「だから、去年伯爵家の殺人事件を解決した"優秀な"君を送り込みたいんだよ」
そう言われて警部は若干の罪悪感を抱いた。
厳密にいえば、その伯爵家の殺人事件を解決したのは彼ではなく、ある高貴なレディだった。
ただ、彼女の名誉に差し障る事情があり、ロンドン警視庁の中で彼女の関与を知っているのは一握りの者だけだった。
記憶に浸りかけていた警部は我に返った。
そして、主任警部と捜査方針のことで議論をした――ほとんど口論になった。
しかし、最終的には――。
「ああ、もう!わかりましたよ。おっしゃる通りにします。ただエヴァレット巡査部長を付けてください。せめて優秀で忠実な部下がいないと」
「いいだろう。彼はもう今日は帰ったから明日からだな」
主任警部は口調こそ冷静だったが、先ほどの口論のせいで顔はほのかに赤かった。
警部は今度こそハンガーから帽子を取り、それを深くかぶった。
「早速現場に行ってきます、主任警部」
「ああ、地元の巡査に駅に迎えに行くよう電話しておく」
それから主任警部は更に二、三の忠告を警部に与えたので、彼は密かにため息をついた。
駅に向かう警部の足取りは重かった。
***
リッチモンド駅に着いた警部は、地元の巡査が運転する自動車で早速事件現場に向かった。
現場の建物は、駅から自動車で10分ほどの商業地区にあった。
通りに停車した自動車から降りながら巡査は早速説明を始めた。
「被害者は地元の事務弁護士の夫人ミセス・グリーヴスです。30代前半で美人な上に資産家で、女性参政権運動組織<SWSA>の会員でした」
警部は美人で金持ちの女性参政権運動家を想像した。
彼女を殺害する動機は、色々ありそうだ。
恋愛、金、政治――政治的な動機だとしたら厄介だ。
「<SWSA>は法律の範囲内で活動する穏健派の女性参政権運動組織です。会員はリッチモンド在住の教育のある中産階級の女性が中心で、代表はミセス・プレストンという法廷弁護士の未亡人です。組織の活動資金の8割方は被害者の支援で賄われていました。彼女は株で大儲けした親戚の遺産を5年前に相続したのです。その辺りは主任警部からお聞きになっていますか?」
警部は頷きながらも深い溜息をついた。
フェアファックス主任警部との捜査方針をめぐる”口論”のことを思い出したからだった。
警部はその記憶を振り払うように続けて質問した。
「それで、事件の概要は?」
「今日の夕方、被害者のミセス・グリーヴスが<SWSA>本部で殺害されているのが発見されました――刃物で背中を一突きされていました」
「刃物は見つかっているのか?」
「はい。ナイフが背中に刺さったままでした。元々本部にあった調理用ナイフです」
元々現場にあったナイフであれば凶器から犯人を特定するのは難しそうだと警部は考えた。
「現場となったこの建物はグリーヴス夫妻の所有です。<SWSA>本部はビルの三階の一角にあって、その下の二階に被害者の夫の<グリーヴス弁護士事務所>が入っています」
巡査の説明を聞きながら、警部は目の前の建物を見上げた――3階建ての白っぽい建物だ。
看板によると、一階に薬局、二階に<グリーヴス弁護士事務所>、三階は輸入雑貨を扱う商会の事務所と<SWSA>の本部が入っている。
「今、関係者には二階の弁護士事務所で待機してもらっています」
そう言って巡査は指を折りながら待機している関係者の名前を挙げた。
被害者の夫ミスター・グリーヴス、彼の秘書ミスター・レニー、<SWSA>代表ミセス・プレストン、書記ミセス・ベネット、その息子ミスター・トーマス・ベネット、書記補佐のミス・ハーディーとミス・ロビンソン――計七名だ。
「最初に駆け付けた巡査が彼らから簡単に話を聞いていますが、警部からも事情聴取をされますか?」
「ああ。すぐにやろう」
警部は夕日を見ながら言った。
初夏なのでまだ日は沈んではいないが、間もなく午後9時になる。
早々に聴取を済ませて、皆家に帰してやらないといけないだろう。
明らかに犯人だと言える者でもいない限りは。
***
<グリーヴス弁護士事務所>に到着した警部は、関係者への事情聴取に先立って、巡査から手渡された資料に目を通した。
資料には初動捜査で判明した事項がまとめられていた。
その上で彼が最初の事情聴取の相手に選んだのは、被害者の夫ミスター・グリーヴスとその秘書ミスター・レニーだった。
幸いにもこの弁護士事務所の経営者でもあるミスター・グリーヴスが自分の執務室を貸してくれたので、警部は関係者たちと個室で話せることになった。
警部の横では巡査が証言を書き留める用意をしていた。
「この度はご愁傷さまです、ミスター・グリーヴス。ミスター・レニーもご苦労様です」
警部は重々しく言いながら目の前の男たち――特にミスター・グリーヴスを観察した。
黒いスーツを着た真面目そうな男で、40代後半くらい。整った口ひげが印象的だ。
彼は<SWSA>の会計係として資金集めと資金管理を担当している。
「ええ……突然のことで何がなんだか……」
ミスター・グリーヴスは、一応本当に突然の妻の死に憔悴しているように見えた。
しかし、警部は警戒を緩めなかった。
すっかり悲しみに暮れている風だった夫自身が妻を殺害した犯人だったという事件はよくある。
「本当に大変なことが起きてしまって……」
そう呟いたのは秘書のミスター・レニーだった。
赤茶色の髪のやせ型の男で、神経質そうに瞬きを繰り返していた。
彼は<SWSA>の会員ではないものの、突然の不幸に見舞われた上司を心配して残ることにしたらしい。
警部は経験により培ったセオリー通り、まずは心情的な会話から入ることにした。
「息子さんたちは大丈夫ですか?」
「……ええ、二人とも学校の寮に入っていますが、明日リッチモンドに帰って来ます」
警部は同情を込めて深く頷いた。
先ほど巡査に渡された資料によると、夫妻には富裕な中産階級向けの寄宿学校に通う二人の息子がいるという。
警部はミスター・グリーヴスが落ち着いているのを見て、早速本題に入ることにした。
「お辛いでしょうが、今日の奥様とあなたの朝からの行動を教えてください」
ミスター・グリーヴスは少し視線を落としてから話し始めた。
「今朝は私も妻もいつも通りの時間――午前8時半に朝食を食べました。そして、妻は昼食まで庭仕事をしていて私も少し手伝いました。庭のフェンスにつる薔薇を誘引する作業です」
「なるほど?あなたは今日はお仕事は?」
警部がそう尋ねたのは事務弁護士という融通の利く仕事が羨ましかったというのもある。
「今日は午後数時間だけ働くつもりでした。相続でご遺族が激しくもめている件があり、昨夜は深夜まで事務所に残っていたので……」
警部の事務弁護士への羨望は一瞬で消え去った。
「庭仕事の後はどうされました?」
「そのまま自邸で一緒に昼食をとって午後2時には<SWSA>本部に到着しました。会計係の私には帳簿をつける仕事があり、妻は本部のミシンで縫うものがありましたから」
「なるほど。ご自宅にはミシンがなかったのですか?」
「自宅にもミシンはあります。実際、妻は昨夜も自宅のミシンで作業をしていたようです。でも、昼間は皆が集まる本部で作業をすることが多くて、昨日の昼間も本部のミシンで襷を縫っていました。特に今日は夕方にミセス・ベネットと会う約束をしていたので、作業しながら彼女を待つつもりだと言っていました」
警部は彼がミセス・ベネットに言及したときに少し緊張したのに気が付いた。
――ミセス・ベネットといえば<SWSA>の書記の女性だ。
――彼女と何かあるのだろうか。
「到着した際、他に本部にいた方は?」
「私たちが到着した際には、玄関に鍵がかかっていて誰もいませんでした。水曜日は学校が半休ですから、子供の世話で忙しい会員が多いのです」
警部は頷いた。
今日はヘイスティングス家でもミセス・ヘイスティングスが忙しい午後を過ごしたはずだ。
「本部の鍵は誰が持っているのですか?」
「私の弁護士事務所で預かっています。その日最初に来た会員が事務所に鍵を取りに行き、最後の会員が鍵を返却します。今日は私が事務所に鍵を取りに行きました」
彼の言う通りだとすると、今日本部に最初に到着したのはやはりグリーヴス夫妻のようだ。
ヘイスティングス警部は次の質問に進んだ。
「到着後、あなた方はすぐに作業を始めたのですか?」
「はい、パントリーでお茶を淹れた後すぐに、私は先週の勉強会にかかった費用を帳簿に記入し、妻はミシンで旗を縫う作業を始めました。自宅から裁断済みの旗を持ってきて端を処理していました。旗は来月6月の<女性の戴冠式>の行進で使用するものでした」
<女性の戴冠式>については、警部も聞いたことがあった。
6月下旬に挙行される国王陛下の戴冠式の約一週間前に、穏健派から急進派まで複数の女性参政権運動組織が合同でロンドンの街を行進する大規模なイベントらしい。
歴史上のヒロインに仮装する人々もいるという噂なので、女性参政権に賛成でも反対でも――あるいは、警部のようにほとんど無関心でも――一見の価値がありそうだ。
警部は軽く頷いて続きを促した。
「それから、午後3時の少し前にベネット母子がやってきました。その数分後にミス・ハーディーとミス・ロビンソンも来ました。彼ら四人は今日演説会に出る予定だったのですが、その前に会合室で会議をすることになっていたようです」
それを聞きながら警部は手元の資料を見た。
資料の中には<SWSA>本部の図面があり、被害者が作業をしていた作業室は入り口を入ってすぐ左手に、ベネット母子たちが会議をしていた会合室は一番奥にあることがわかった。
「その四人と何か話しましたか?」
「はい。ミセス・ベネットが私と妻の分もお茶を淹れようかと訊いてくれたので妻の分だけお願いしました――私はすぐ弁護士事務所に行く予定だったので。それから、四人が揃ったタイミングで『作業室には入らないでほしい』ということを伝えました。妻は日ごろから『手縫いは皆でおしゃべりしながら、ミシンは一人で黙々と』という方針でした」
警部はふと自分とミセス・ヘイスティングスが若かった時分を思い出した。
第一子の誕生にあたって、彼女に頼まれて安月給からミシン代を捻出したことがあった。
彼女はそのミシンを使って赤子の服を縫っていたが、確かにあれは集中を要する作業のようだった。
「そして、その後あなたはこの弁護士事務所に向かったのですね?」
「ええ、午後3時過ぎには着いていたと思います。そうだろう?ミスター・レニー」
今まで黙っていたミスター・レニーが神妙に頷いた。
「はい、ミスター・グリーヴスは確かに午後3時過ぎにこの事務所にいらっしゃいました」
「それは確かですね?」
「ええ。私が午後3時のお茶を飲み始めたときにミスター・グリーヴスが到着されました。私のデスクはこの執務室の前にありますが、そこから見える壁掛け時計で時間を確認してからお茶を淹れたので確かです」
その口ぶりからミスター・レニーは几帳面な男だと警部は思った。
確かにこの部屋の前には秘書用のデスクがあり、壁掛け時計もあった。
「そのときミスター・グリーヴスと会話されましたか?」
「はい、私が『お茶はいかがです?』と尋ねたところ、『ありがとう、でも、当分は要らない』とおっしゃいました。そうですよね、ミスター・グリーヴス?」
「ええ、その通りです」
ミスター・グリーヴスは頷きながら言った。
警部はやはり到着時刻については二人の記憶に相違はなさそうだと思った。
警部はミスター・グリーヴスに向かって質問を続けた。
「その後はどうされました?」
「その後は……妻の遺体を発見したミセス・プレストンがこの事務所に電話を借りに来るまで、ずっと執務室で仕事をしていました」
ミスター・グリーヴスは俯いた。
「しかし、仕事なんかしている場合じゃなかった……」
そう呟いた彼にミスター・レニーが気づかわしげな視線を送った。
「ミセス・プレストンが事務所に電話を借りにきたのは何時ですか?」
「午後4時50分くらいだと思います」
ミスター・レニーが即座に答えた。
「それまでミスター・グリーヴスは執務室から出なかったのですね?」
「はい、ミスター・グリーヴスは執務室にこもりきりでした。私も執務室の前でずっとタイプライターを使っていましたから確かです」
ミスター・レニーは相変わらず几帳面そうな口調で言った。
「よくわかりました。……ところで、この建物の図面によると、この執務室は被害者が亡くなっていた部屋の真下にあるようですね。何か物音などお聞きになりましたか?」
警部が図面を見ながら尋ねると、二人は腕を組んで思案した。
「……私は何も聞かなかったな。ミスター・レニー、君は?」
「私も何も聞きませんでした」
二人の答えを聞いて、警部は顔を顰めた。
物音などが聞こえていれば、犯行時刻を絞り込めると思ったのだが。
「最近、奥様の周囲でトラブルはありましたか?」
警部が気を取り直して尋ねると、まず答えたのはミスター・レニーだった。
「私は全く知りません。私はミスター・グリーヴスの秘書ですが、奥様やご夫妻が所属している<SWSA>とは付き合いがなかったので」
警部は頷いた。
やはりこの点はミスター・レニーには期待できないだろう。
一方のミスター・グリーヴスは暫く思案していたが、結局は首を横に振った。
「では、組織としての<SWSA>にトラブルは?」
警部が再度質問すると、ミスター・グリーヴスは少し躊躇ってから口を開いた。
「"トラブル"というより"変化"はありました。……昨年の"ブラック・フライデー"を覚えていますね、警部?」
警部は重々しく頷いた。
"ブラック・フライデー"のことを知らないはずはなかった。
昨年、女性参政権運動家の女性たちに警官が暴力を振るったとして世間の批判を浴びた事件だ。
その日非番だった警部は直接は関わっていないが、女性への暴力に憤慨した伯母から問い詰められたことがあった。
「代表のミセス・プレストンは"ブラック・フライデー"にショックを受けたようで、6月の<女性の戴冠式>を最後に穏健派の<SWSA>を脱退してロンドン市街の急進派組織に転向しようとしているのです」
そう言うとミスター・グリーヴスは長く息を吐いた。
「それで彼女は<SWSA>の会員の中から一緒に転向する人を募っていました」
「奥様やあなたは転向する意向だったのですか?」
警部は一瞬だけミスター・グリーヴスに視線を向けた。
彼は心外そうに目を見開いていた。
「とんでもない。私もミセス・グリーヴスも穏健派の<SWSA>に残ることで意見は一致していました」




