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4.<キャヴェル・サークル>の正餐会②

 正餐会の翌日の午後、アメリアはメイフェアの自邸<メラヴェル・ハウス>で、母ミセス・グレンロスと共に、久しぶりに会う親しい友人を迎えていた。

 それは最近まで叔母と共にヴェニス旅行に出かけていたウェクスフォード侯爵家の末子で唯一の娘レディ・グレイスだった。

 そして、彼女は付き添いとして兄アルバート卿を伴っていた。


「――それがあまりに素晴らしくて、叔母も私もできればずっとヴェニスに居たいなどと話していたのです」


 彼らは、初夏の<メラヴェル・ハウス>の庭を歩きながら会話を楽しんでいた。

 メインはやはりレディ・グレイスの土産話だ。

 アメリアはヴェニスに行ったことがなかったが、今日のレディ・グレイスのドレスの青色がどこかで見た絵画の中のヴェニスの運河に似ている気がして、いつか本物を見てみたいと思った。


「でも、来月はいよいよ国王陛下の戴冠式ですからね。ちゃんとこうして英国に帰って参りましたわ」


 レディ・グレイスは、土産話の最後をそんな言葉で締めくくった。

 彼女の言う通り、来月6月下旬には、昨年崩御した父王から王位を継いだ新しい国王陛下の戴冠式が予定されている。

 アメリアも他の多くの英国民と同様、この新時代の幕開けを象徴する行事を心から楽しみにしている。

 

 話題が自然と戴冠式のことに移ったとき、メラヴェル男爵家の執事ミスター・フィリップスがテラスから早足で近づいてきた。

 彼はミセス・グレンロスに約束のない客人の訪問を知らせた。

 彼が小声で客人の名を告げると、ミセス・グレンロスは目を見開いて「失礼しますわ」と言って室内へと戻って行った。

 客人の名を聞き取れなかったアメリアは、母が客人を応接間で待たせるよう言うわけでもなく、逆に応対できない旨を伝えるように言うわけでもなく、ただ室内へと戻って行ったことを不思議に思ったが、レディ・グレイスの言葉で会話に引き戻された。


「あなたも昨夜の<キャヴェル・サークル>の正餐会に出席したのでしょう?アメリア」


 気が付けば彼らは屋敷の建物から離れたところまで来ていた。

 先頭を歩いていたアメリアは立ち止まり、白い日傘越しにレディ・グレイスを振り返った。

 彼女とはここ数年の親しい交際を経て洗礼名で呼び合う間柄になっていた。


「ええ、興味深い会だったわ」

 

 アメリアは昨夜の正餐会のことを思い出し、笑みを浮かべた。

 非常に気を遣う会ではあったが、様々な人の意見を聞くことができたのはなかなか面白かった。

 その答えを聞いて、レディ・グレイスの後ろを歩いていたアルバート卿が一瞬微笑んだのにアメリアは気が付いた。

 アメリアは昨夜彼女が彼を見ていたことを変に思われていないか心配になったが、それを表情には出さなかった。


「あなたも以前出席したことがおありなんでしょう、グレイス?」


 アメリアは屋敷の方に顔を向けながら何気なく尋ねた。

 昨夜の正餐会の場で誰かがウェクスフォード侯爵家の四人兄妹の中では、アルバート卿とレディ・グレイスがこの正餐会に出席したことがあると言っていた。

 しかし、アルバート卿が現在明らかに常連になっている一方、レディ・グレイスについては誰も言及しなかったのが気になった。

 

「社交界にデビューしたての頃に一度ね」


 そう言いながらレディ・グレイスはアメリアに続いて屋敷の方に顔を向けた。

 アルバート卿もそれに倣う。

 彼らの視線の先では、メラヴェル男爵家の庭師たちがつる薔薇の誘引作業をしていた。

 リーダー役はフラワーガーデンの責任者のフィンチで、彼に従って下級庭師たちが園芸用のワイヤーを使って、つる薔薇を屋敷の壁に這わせようとしている。


「でも、その後は決して呼ばれないの」 

「あら、なぜ?」


 アメリアは首を傾げながらレディ・グレイスの横顔に視線を移した。

 レディ・グレイスは美人で頭が良く、思想も自由主義的だ。

 それに何より、自分の意見を堂々と話すことのできるレディなので、<キャヴェル・サークル>の正餐会にはぴったりのように思えた。

 すると、それまで聞き役に徹していたアルバート卿が代わりに答えた。


「我が妹は急進的過ぎたのですよ」


 彼のやや薄い唇にはやはり皮肉な笑みが浮かんでいる。


「ええ、アイルランドが独立したいならそうさせてあげるべきと言ったのが行き過ぎだったみたいなの」


 そう言いながらレディ・グレイスは、ゆったりとした動作でアメリアに自分の顔を見せるように日傘の角度を変えた。

 彼女の青みがかった灰色の瞳は輝いていた。

 アルバート卿はため息をつくが、妹と同じ色の彼の瞳もまた輝いている。


「全く、侯爵令嬢とは思えない過激さでしょう?」

「あら、逆よ。侯爵令嬢だからこそ安心して過激になれるの」


 二人の言葉にアメリアは笑みを漏らした。

 事実上レディ・グレイスは社交グループから追い出されたのに二人ともどこか楽しげだ。


「まあ、あの方々は保守主義ではないけれど完全な自由主義でもないから、アルバートみたいな“良識派”向けね」

「褒め言葉として受け取っておくよ」


 妹の言葉にアルバート卿はわずかに肩を竦めた。

 レディ・グレイスはアメリアに向き直って続ける。


「それから、アメリア。あなたもまた呼ばれるでしょうね」

「あら、私も“良識派”ということ?」


 アメリアがそう応じると、レディ・グレイスはにっこりと笑った。

 

「いいえ、あなたは実は誰よりも過激派よ。でも、公の場では決してそれを悟らせないの」


 レディ・グレイスの鋭い指摘にアメリアはつい声を立てて笑った。

 それはアルバート卿も同様だった。

 彼が笑いながらアメリアに向けたその青みがかった灰色の瞳には温かさが滲んでいた。

 アメリアは彼に微笑みを返しつつも、何故か自分の淡いグリーンのティーガウンの首回りが気になり、裏返っているわけでもないレースの襟を直すふりをしてしまった。

 

 すると、アルバート卿が不意に口を開いた。


「ところで、レディ・メラヴェル。あなたさえ良ければ――」


 ちょうどそのとき、フットマンのサムが早足で彼らに近づいてきたので、彼はそこで言葉を飲み込んだ。

 先ほどの客人は、どうやらアメリア宛てだったらしい。


「ロンドン警視庁のヘイスティングス警部が応接間でお待ちです、お嬢様」

 

 サムの言葉にアメリアは思わず眉を上げた。

 全く予想外の客人だった。


 ***

 

 アメリアと侯爵家の兄妹が応接間に戻ると、ヘイスティングス警部は立ち上がって彼らを迎えた。


「お久しぶりですね、ヘイスティングス警部」

「ええ、お元気そうで何よりです、女男爵様」

 

 ヘイスティングス警部は肩幅の広い大柄な男性なので、彼がいるだけで応接間は満員のようになる。

 アメリアと警部は、これまでにアメリアが解決した二つの事件を通じて知り合いにはなっていたが、当然私的な付き合いはない。

 そのため、今日彼が訪ねて来た理由には心当たりがなかった。

 

 微かに首を傾げるアメリアをよそに、母ミセス・グレンロスは既に長椅子に座って紅茶を飲んでいた。

アメリアが母と同じ長椅子に座り、皆に着席を促すと警部はアメリアの正面の一人掛けのソファに座った。

 侯爵家の兄妹も、レディ・グレイスがアメリアの近くの椅子に、アルバート卿がミセス・グレンロスの側の椅子に落ち着いた。

 

「突然お邪魔してすみません。非公式な訪問なので、予定が読めなかったのです」


 警部はソファに座る深さを調整しながら言った。

 彼はウェクスフォード侯爵家の兄妹にも申し訳なさそうな視線を送る。


「侯爵家のご子息様、お嬢様もご訪問中に申し訳ありません」

 

 アメリアはフットマンのサムがティーカップに紅茶を注いでくれるのを受けながら、さり気なく警部に視線を向けた。

 警部は、去年の殺人事件の解決に貢献したアルバート卿のことはともかく、二年前にウェクスフォード侯爵家で起きた盗難事件で一度顔を合わせただけのレディ・グレイスのこともしっかり覚えているらしい。

 刑事というのは一度覚えた人の顔と名前は絶対に忘れないものなのかしらとアメリアは心の中だけで呟いた。

 

「警部、一体どうなさったのですか?去年の伯爵家の殺人事件の件でまだ何か……?」


 アメリアはひとまずそう問いかけるが、それが当たっていないことはわかっていた。

 先ほどからの警部の思い詰めた表情が何か別の話があることを物語っていた――もっと言えば、何か別の事件があることを。

 警部は少し思案してから意を決したように切り出した。


「……実は新たな事件なのです。“探偵女男爵”としてお力を貸していただけませんか」

 

 警部の言葉にアメリアの鼓動が速くなった。

 "事件"というからにはきっと良くないことが起こったのだろう。

 そんな考えに囚われたアメリアが視線を落とそうとしたとき、アルバート卿が微かに眉を寄せているのに気が付いた。


 ――警部が私を"探偵女男爵"と呼んだせいかしら……?

 

 アメリアはそう直感した。

 元々この"探偵女男爵"という呼び名は、アメリアが最初の盗難事件を解決したときにアルバート卿が冗談半分に付けた愛称のようなものだった。

 それがいつの間にか警察の間にも広まっているとは。

 

 実は、アメリア自身はこの名をそれなりに気に入っていた。

 つい好奇心が過ぎて時々"探偵"のように活動してしまう"女男爵"である自分をよく表している。

 とはいえ、アメリアは自分を本物の"探偵"だと思ったことはなかった。

 自分にそれほどの推理力があるとは思えなかったし、そもそも"探偵"など本来はレディに相応しい活動ではない――。


「それで……できれば女男爵様と私的にお話ししたいのですが……」


 警部がそう言うと、ウェクスフォード侯爵家の兄妹――アルバート卿とレディ・グレイス――は互いに目配せした。

 

「では、私たちはそろそろ――」


 アルバート卿はそう言って一度腰を上げたが、すぐにまた元のように座った。

 これまで黙っていたミセス・グレンロスが明確に彼を押しとどめたからだ。

 

「いいえ、お二人とも是非残ってください。特にアルバート卿は」

 

 ミセス・グレンロスの勢いにアルバート卿は二、三度瞬きをした。

 ヘイスティングス警部は眉を寄せる。

 

「どういうことです、ミセス・グレンロス?先ほど私は女男爵様と二人でお話したいとお伝えしましたよ。あなたは了承なさったじゃありませんか」

「あら、私はただ頷いただけです。おっしゃっていることの意味はわかったという意図でしかありません」


 ミセス・グレンロスはロンドン警視庁の警部にも臆せずに堂々と言い放った。

 アメリアは睨み合う二人に交互に視線を走らせてしまう。

 

「今回は私もアルバート卿も同席しますわ、警部」

 

 母は再びアルバート卿を名指しした。

 アルバート卿は平静を保っているが、この状況をどう解釈すべきか考え込んでいるようでもある。


「娘の侍女も呼びたいところですけど、彼女は今日は休暇なのです。まあ、後で彼女にも伝えましょう」

 

 ミセス・グレンロスはアメリアの侍女ミス・アンソンの不在を嘆いてため息をついた。

 母は二番目の殺人事件でアメリアが犯人に殺されずに済んだのは、ミス・アンソンの機転のお蔭だと考えていて、彼女を以前にも増して深く信頼していた。


「しかし、ミセス・グレンロス――」


 ヘイスティングス警部は刑事らしい鋭い目線をミセス・グレンロスに向けるが、無駄な抵抗だった。

 ミセス・グレンロスは怯むことなく滔々と語る。


「去年の殺人事件のことを覚えておいでですね?ヘイスティングス警部。私は娘を守るためにこの子の犯罪捜査を禁じようとしました。しかし結果はどうです?結局娘は密かに調査を継続し、殺人犯に監禁される事態となりました」

「お母様、それは私が――」


 アメリアは口を挟もうとしたが、ミセス・グレンロスには娘の声が全く届いていなかった。

 彼女は熱心に語るあまり、深いグリーンのティーガウンに包まれた膝の上で拳を握っている。


「ですから私は現実を受け止めて考えを改めました。“好奇心は猫をも殺す”と言いますが、それでも仔猫がネズミを追うのなら母猫がしっかり監視をする他ありません。つまり、娘には捜査を許可しますが、進捗は私にも知らせてもらいます。……それから、アルバート卿にも娘が犯罪事件の捜査中であることは知っておいていただきたいと思いますの」


 ミセス・グレンロスはアルバート卿に一度視線を向けた。

 それを受けた彼は少し眉を上げただけで何も言わなかった。


「よろしいですね?警部」


 そう言ったミセス・グレンロスに警部は鋭い視線を向けていたがやがて――。

 

「……致し方ない。お母様の条件を吞みましょう」


 警部はため息をついた。

 そこでようやく口を挟めるようになったアメリアは、皆が忘れている事実を指摘する。


「あの、非常に申し上げづらいのですが……私自身はまだお引き受けするとは決めておりませんわよ?」


 それを聞いた警部は意外にも柔らかく笑った。


「とはいえ、事件の概要すら聞かない――なんてことはあなたに限ってあり得ないでしょう?」


 アメリアは曖昧に笑って、ティーカップを口元に運んだ。

 まさに警部の言う通りだった。

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