表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/22

3.<キャヴェル・サークル>の正餐会①

前作までの復習回(+まだロマンスに集中していられる回)です。

 1911年5月末の水曜日、リッチモンドでミセス・グリーヴスが不幸な死を遂げたまさにその日の夜。

 郊外の中産階級の女性の悲劇のことなど全く与り知らないロンドン市街の上流階級の紳士淑女たちは、都会の煌めきの中でそれぞれの社交に勤しんでいた。

 

 前年に成人した21歳の若き女男爵――メラヴェル女男爵ことアメリア・グレンロスも、パークレーンの瀟洒なタウンハウスで開催された正餐会のさざめきの中にいた。

 

 ただ、今夜彼女が出席しているキャヴェル伯爵家の正餐会は普通の正餐会ではなかった。

 

 英国貴族随一の自由主義者を自認するキャヴェル伯爵夫妻は<キャヴェル・サークル>と呼ばれる社交サークルを主宰している。

 その<キャヴェル・サークル>の正餐会は、一般的には社交上避けるべきとされる政治の話が会話の中心となることで知られていた。

 <キャヴェル・サークル>は概ね40代以上の上流階級の貴族から上流中産階級の専門職までの紳士淑女で構成されるが、議論に張りを持たせるために毎回招待客の何割かはその社交サークルの外から若い紳士淑女が呼ばれるのが通例だった。

 

 そして、今回、その「若者枠」の一つがアメリアに割り当てられた。

 

 きっかけはちょっとしたことだった。

 先日、アメリアは母方の従兄ケネス――最近オーストリアから英国に帰任した外交官だ――に付き添われてある夜会に参加した。

 そこで、偶然二人と会話したのが<キャヴェル・サークル>に所属している元大臣だった。

 元大臣は気鋭の若手外交官であるケネスに関心を寄せて、彼を是非次の正餐会の「若者枠」の一人に推薦しようと言った。

 アメリアはその紳士同士の会話を礼儀正しく微笑みながら聞いていたが、引き続いてケネスが当然のように是非アメリアも一緒に連れて行きたいと元大臣に頼み始めたときには、思わずゆっくりと瞬きをしてしまった。

 アメリアはケネスのお気に入りの従妹だ。それは彼女も知っていた。

 どうやらケネスにとっては、そのお気に入りの従妹が社交の場でいつもレディ然として身を慎んでいるのがもどかしく、彼女を比較的自由な場に連れ出す機会を逃したくなかったらしい。

 一方のアメリア自身は、未婚のレディの身で政治色の強い集まりに参加することに躊躇いを感じたが、結局は元大臣が快く二人分の招待を取り付けてくれたのと、ケネスがアメリアの母を熱心に説得してくれたのを無駄にはできなかった。

 それに何より――好奇心が勝った。


 もちろん、この正餐会も形式はごく一般的だ。

 キャヴェル伯爵邸に到着した招待客たちはまず応接間に通され、今日同席する面々を確認して誰とどんな会話をすべきか思案する。

 そして、ディナーの開始時間になると、紳士がレディをエスコートしながら序列に従った順番で正餐室に向かう。

 このレディと紳士の組み合わせを考えておくのは、主催の女主人の最も重要な仕事だ。

 ちなみに、今回、キャヴェル伯爵夫人はアメリアにはランプリング男爵を割り当てていた。

 食後に一度男女が別々の部屋に分かれるまでは、アメリアは彼によってエスコートされ、食事中は彼の隣に座ることになる。

 

 男爵は議会法の改革――現在、自由党政権は庶民院の権限を貴族院よりも優先させる法案を検討している――に強い主張があるようで、ディナーコースの三番目の魚料理が給仕される頃には、アメリア相手に持論を熱く語り始めていた。


「――なので、今日集まっている皆さんの多くとは違って、私はやはり貴族院が法案を否決できる権限は残しておくべきだと考えているのです、レディ・メラヴェル」


 アメリアが微笑みながら頷くと、アイボリーのイブニングドレスに縫い付けられたビーズがシャンデリアの光を受けて輝いた。

 彼女はランプリング男爵とは初対面だったが、何とか自分の複雑な役割――感じよく相槌を打つ未婚のレディと知的な意見を述べる「若者枠」の招待客――を果たそうとしていた。


「非常に説得的なご意見だと思いますわ、ランプリング卿。ただ、今は庶民院の方が実態として国民の代表ですから、貴族院がなんでも否決するわけにもいかないとは思います」

「鋭いご指摘です。その点については――」

 

 アメリアの"知的な意見"にランプリング男爵は微笑みながら語りを再開した。

 

 余裕が出てきたアメリアは、彼の話を聞きながらも、他の人々がどんな会話をしているのかさり気なく長いテーブルを見渡してみた。

 テーブルの入り口側の端のキャヴェル伯爵を中心としたグループは最近のヨーロッパ情勢について白熱した議論を交わしていた――アメリアの従兄ケネスもこれに加わっている。

 反対側の端のキャヴェル伯爵夫人を中心としたグループでは伯爵夫人の隣に座っている今夜のゲストの紳士の中で一番身分の高いソドベリー公爵の子息がアイルランド問題について熱弁を振るっていた。

 

 最終的にアメリアの視線はランプリング男爵に戻ったが、耳だけは自分の斜め向かいの紳士淑女の静かな議論に傾けられた。

 

 レディの方は子爵夫人でありながら女性参政権運動組織に所属していることで有名なハードウィック子爵夫人で、紳士の方はアメリアと同じ「若者枠」で招待されているウェクスフォード侯爵家の三男――アルバート・モントローズ=ハーコート卿だった。

 彼はこの社交サークルの「若者枠」の常連らしく、今夜が初参加のアメリアと違ってかなりリラックスしているようだ。

 

 アメリアは、ディナーが始まる前、彼の姿を応接間で見つけたときには少し驚いた。

 彼女は彼のことをよく知っていた――というより、"よく知っている"以上だった。


「――昨年の"ブラック・フライデー"の報道写真はご覧になりまして?アルバート卿」


 ハードウィック子爵夫人はアルバート卿に深刻な口調で問いかけていた。

 

「ええ。率直に言って、あれには私もショックを受けましたよ、レディ・ハードウィック。内務大臣が最初から手荒な対応を指示していたという見方が有力ですね――」


 アルバート卿も抑制的ながら深刻な調子で答えていた。


 アメリアが思った通り彼らの議論は女性参政権についてだった。

 現在――1911年の時点で、英国では女性の参政権はほとんど認められていない。

 そこで昨今、状況を変えようと、様々な女性参政権運動組織が活発に活動していた。

 ハードウィック子爵夫人が所属しているのは法律の範囲内で活動する"穏健派"の有力組織だが、最近では法律を破ってまで抗議活動をして逮捕・収監されることも辞さない"急進派"の組織も支持を集めていると聞く。


 今ハードウィック子爵夫人とアルバート卿が話しているのは、昨年1910年秋に起きた"ブラック・フライデー"と呼ばれる事件――女性参政権に関する法案の審議を求めて首相官邸前に集まっていた女性たちが警官から酷い暴力を振るわれた事件のことについてだった。

 特にとある勇気ある新聞社が規制を無視して掲載した大柄な警官に殴られる小柄な女性の写真は、世論に大きな影響を与え、運動家たちは急進派も穏健派も内務大臣や政府を厳しく非難した。

 "反"女性参政権を唱える人々の一部からも抗議の声が上がったほどだ。


「――とはいえ、首相は法案の審議のために調整を続けているようではありますわ。私はそれに少し期待しているのです」

 

 ハードウィック子爵夫人はワイングラスを持ち上げながら言った。

 

「しかし、運動家の皆さんの期待通りになるとは限らないのでは?」


 アルバート卿の問いに、子爵夫人はワインを一口飲んでからため息交じりに答えた。


「ええ、そうでしょうね。そうだとすると、急進派の女性たちはもっと過激な手段にでるかもしれませんわ」

「あなたのおっしゃる通りでしょうね。彼女たちのスローガンは"Deeds, Not Words."(言葉より行動を)ですから――」


 アメリアが一瞬だけアルバート卿に視線を向けると、彼はいつも通りの微かに皮肉な笑みを浮かべていた。

 

 アメリアは運ばれて来たロースト・マトンに視線を落としたが、頭の中には彼と初めて会ったときの記憶が蘇っていた。

 そのときも彼は今と同じように少し皮肉に笑っていた――。

 

 それはもう二年も前、アメリアがまだ"メラヴェル女男爵"になったばかりの頃のことだった。

 その頃、親戚に不幸が相次いだことにより、ただの法廷弁護士の娘という立場で思いがけず男爵位を継いだアメリアは、上流社交界での人脈を広げるために必死だった。

 そんな彼女がアルバート卿と出会ったのは、彼の家――ウェクスフォード侯爵家――が主催したパーティーに出席したときのことだった。

 そのパーティーで出会った二人は、間の悪さと誤解から知り合ってすぐに少々行き過ぎた議論を交わし、最初から険悪な雰囲気になった。

 しかし、その後、パーティー中に発生した侯爵家の家宝の指輪が盗まれる事件を成り行きで共に解決したことで、二人はお互いに関心を持つようになった――と少なくともアメリアは思っていた。

 

 しかし、事件はそれだけではなかった。

 昨年――これもまた成り行きで――二人は再び協力してある伯爵家で起きた殺人事件を解決した。

 この事件では、アメリアは殺人犯に拉致監禁される羽目になったが、アルバート卿を始めとした周囲の人々の助けで辛くも生還することができた。


 記憶に浸っていたアメリアは、ついアルバート卿を見つめてしまっていた。

 ウェクスフォード侯爵家の兄妹の特徴であるアッシュブロンドの髪と青みがかった灰色の瞳――ちょうど彼女がその瞳を見たとき、不意に顔を上げた彼と目が合った。

 灰色の瞳には揺れの一つも映らず、その視線はただゆっくりと別の方向に向けられていった。

 しかし、通り過ぎて行った視線と裏腹に、彼の人差し指はワイングラスの台座を一度だけ撫でた。


 その人差し指の動きに応えるように、アメリアは過去の事件を通して失ったものと残されたもののことを想った。

 

 "失ったもの"は、一枚の白いハンカチ――最初の盗難事件を解決した記念に、アルバート卿からアメリアに贈られたものだった。

 それは彼のイニシャル"A"が刺繍されていた上等な白いリネンのハンカチで、彼はその"A"をアメリアの"A"だと言ってくれた。

 残念ながらそのハンカチは、二番目の伯爵家の殺人事件の騒ぎの中でどこかに行ってしまった。

 

 一方、"残されたもの"の方は――。

 

 アメリアは、ランプリング男爵がまだ貴族院の拒否権の自制的使用について語っているのを確認してから、密かにアルバート卿の額に視線を走らせた。

 アッシュブロンドの髪でほとんど隠れてはいるが、その額にはまだうっすらと傷跡が残っていた。

 その額の傷は彼らが二番目の殺人事件に関わった際にできてしまった傷だった。

 ただ、二人に"残されたもの"は、その傷跡だけではない。


 そこまで考えてアメリアは思わず視線を伏せた。

 そのことを考えると彼女のヘーゼルの瞳はいつも揺れてしまう。

 アメリアは自分のクラレットのグラスをゆっくりと持ち上げて一口だけ飲んだ。

 

 アメリアが飲み下そうとしたのは、ある記憶だった。

 二番目の事件で命の危機に瀕しながらも互いに引き寄せられるようにした――たった一度のキス。

 その後、二人ともそのことには一度も触れたことはないが、それは常に二人の心の中にあった。


 そのとき、ランプリング男爵が急にアメリアに話を振ったので、彼女の思考は途切れた。


「――と思うのですが、お若いあなたのお考えは?レディ・メラヴェル」 

「ええ、私もそのご意見に賛同いたしますわ、ランプリング卿」

 

 アメリアは落ち着き払って答えを返した。


「特にアイルランド自治法案のような重要な法案については、拒否権の自制的使用が求められますわね。貴族の利害だけでは判断できかねますから」


 彼女は男爵に向き直ると、今度こそ彼との会話に集中することにした。


 その後、正餐会が終わるまで再び二人の視線が合うことはなかった――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ