アルバート卿に必要だったもの【後編】
彼らの奇妙だが安定した関わりが始まって数か月が経った頃――。
その夜、アルバートは大学近郊のある紳士の屋敷にいた。
「やれやれ、私は晩餐会だと言われてここに来たのだが」
彼はため息交じりにそう言って、隣に立っている友人スタンリーに視線を向けた。
スタンリーは彼のオックスフォードの同級生で寮でも同室だが、二人の付き合いは幼少期に遡る。
「晩餐会には違いないだろう?ほら、あそこで軽食がもらえる」
スタンリーはアルバートの視線の冷たさに気づかないふりをして、広間の喧騒を見て笑っていた。
その広間は、多くの男女の客人で溢れていた。
男性の客人は上流中産階級から上流階級の紳士たちだが、女性の客人は彼らよりかなり下の階級の人々だった――つまりは、女優や歌手、踊り子などだ。
この種の享楽的なパーティーを主催することが趣味だと見えるこの屋敷の主人は、部屋の中心のソファで数人の女性に囲まれてシャンパンを浴びるように飲んでいた。
「そうすると、君が私に『紹介したい友人がいる』と言ったのも嘘なんだろうね、スタンリー?」
アルバートはできるだけ早く帰ろうと心に決めた。
彼は決して表情には出さないが騒々しい場が苦手だった。
こういう場では上手く思考できなくなる。
「いや、それは本当だよ、ハーコート」
一方のスタンリーはにやりと笑った。
「私は今夜こそ君に女性の友達を紹介すると決めたんだ。――おや、噂をすればだ。リディア、こっちだよ!」
スタンリーは広間の向こう側からこちらにやってくる女性を見つけて手を上げた。
彼に応えて軽く手を上げた女性――彼女がリディアに違いない――は、もう一人女性を連れてきていた。
「やあ、リディア。ミス・シャーウッドを引っ張ってきてもらって悪かったね」
リディアは「いいえ。男爵のあなたのご命令ですから」と言って愛想よく笑った。
彼女の言う通り、スタンリーは男爵――セッティンガム男爵――だった。
彼らがプレップスクールで出会った8歳のときには既にそうだった。
スタンリーはリディアと連れの女性を紹介した。
「こちらはミス・デイヴィー。まあ、私のお気に入りの歌手だ」
アルバートは意味ありげな笑みを浮かべるミス・デイヴィーことリディアが今のスタンリーの恋人なのだと理解した。
「そして、君に紹介したかったのはこちらのミス・シャーウッド。彼女は近くの劇場で女優をやっている。リディアの知人の中では唯一頭でものを考えられる女性だ。君向きの女性だね」
美しい顔のミス・シャーウッドは世慣れた笑みをアルバートに向けた。
二人の女性が口々に「はじめまして、旦那様」と挨拶すると、スタンリーは続けてアルバートを彼女たちに紹介した。
「こちらは私の友人の……アルバート。私のオックスフォードの友人で、古典学なんてのを学んでる。詳しい身分は伏せておこう。君たちを驚かせたくないからね」
スタンリーが冗談めかして言うと、女性たちはさも可笑しそうに笑った。
アルバートは礼儀として「よろしく」と言ったが、どうやってこの場を抜け出そうかと考えを巡らせ始めた。
しかし、それに気づいたと見えるスタンリーは、彼を逃すまいとその肩に腕を回した。
「レディ方には申し訳ないが、彼をミス・シャーウッドに預ける前に、男同士、少し話してもいいかな?」
そのままスタンリーによって、部屋の隅に連れて行かれたアルバートは大きなため息をついた。
「スタンリー、本当に……」
「まあ、少し話そう、ハーコート。君はオックスフォードを卒業したらどうするつもりなんだ?」
スタンリーが思いがけず真剣な口調で言ったので、アルバートは少し眉を寄せた。
彼から真面目に将来のことを問われたことなど、これまでになかった。
「それは、まあ、引き続き研究したいことがあるから――」
「一人で研究するのか?」
「大学に残るわけにはいかないから、基本的にはそういうことになるな」
そう言ってアルバートは視線を落とした。
彼は、数か月前に成人した際に、この先死ぬまで貴族の子息として暮らしていくのに十分な財産と屋敷を父から与えられていた。
それを使って、私的に古典学の研究をすることは十分に可能だ。
「まあ、君の身分では仕方ないな。しかし、それで君は満足なのか?」
スタンリーはため息交じりに言った。
彼はアルバートの答えを待たずに、いつになく重々しい口調で言った。
「君には気晴らしが必要だよ」
「……それはどうだろう?」
とアルバートは肩を竦めた。
どうして今夜のスタンリーは自分にこんなに構うのかわからなかった。
アルバートが戸惑っていると、スタンリーは更に声を落として彼に語り掛けた。
「私より遥かに賢い君は当然、私たち皆が巻き込まれているこの世の中の“構造”に気づいているだろう?」
アルバートは何も言わず、ただ少し目を細めてスタンリーを見つめた。
「その上、君は“目がいい”から、この“構造”の小さな穴が気になるんだ。だから年々苦しくなる。特に最近の君は見ていられないよ」
アルバートは答えに詰まった。
彼が他人の問いに対して答えを持ち合わせていないことは稀だったので、そんなときにどうしたら良いのかわからなかった。
「"穴"を完全に無視しろなんて言わないさ。ただ、一時それを忘れて楽しめ。私は6歳のときに自分が"男爵"だと気づいて以来毎日実感しているが……この“構造”は恐ろしい。適応できない者は、押しつぶされて破滅する。いくら君が侯爵の子息でも――」
スタンリーは言いかけて、ふと視線を逸らして呟いた。
「おや、少し話し過ぎたな」
アルバートが彼の視線をなぞると、彼らが待たせていた女性たちが痺れを切らして彼らの方に近づいてきていた。
スタンリーは、リディアとミス・シャーウッドに向けて笑みを作った。
「レディ方、お待たせして申し訳ない。ちょうど話が済んだところだよ。ミス・シャーウッド、もの知らずのアルバートに教えてやってくれ。色々とね」
彼の言葉にミス・シャーウッドは訳知り顔で頷いた。
そして、スタンリーは最後にアルバートにだけ聞こえるように言った。
「君にはこれが必要なんだ」
***
スタンリーがリディアと共に屋敷の奥へと消えていくのを見送ったアルバートは、仕方なくミス・シャーウッドと近くの長椅子に座って話すことになった。
しかし、アルバートが驚いたことに――ミス・シャーウッドとの会話は楽しかった。
スタンリーは彼女を評して「頭でものを考えられる女性」と言ったが、彼女は学はなくとも、十分に知的だった。
「――それで、そのアメリカ人が作った演劇は『ミス・アンソニーの誘惑』というのです」
「おや、それはつまり『聖アントワーヌの誘惑』を下敷きにしている話なのですか?」
「ええ、私はよく知りませんけど、元々は宗教的な誘惑の話だと聞きました。それをアメリカの娘が様々な誘惑に翻弄される喜劇に翻案しているそうです」
「なるほど、それは興味深い」
「旦那様ならきっとそうおっしゃると思いました」
ミス・シャーウッドは、ブラウンの瞳を輝かせて微笑んだ。
そして、彼女は自分の手をアルバートの腕に絡ませた。
「お話ししてばかりだと疲れませんか、旦那様?」
アルバートは微かに眉を上げた。
彼女の柔らかい手に力がこもるのを感じた。
もちろん、彼は彼女の言っている意味は理解していた。
スタンリーはそれを「気晴らし」と呼ぶ。
他の男たちの中には「通過儀礼」や「嗜み」と呼ぶ者もいる。
いずれも間違いとも言えないのだろうが、「未来の妻に苦労をかけないための経験」という言説だけは、大いに疑わしいとは思っていた。
まだスタンリーのように「気晴らし」と言い切る方が筋が通る気がした。
しかし、どうにも引っかかるのは――。
「……それは今、私にとって本当に必要なことなのだろうか?」
「え?」
内心で自問したつもりだったアルバートは、はっとして口を噤んだが遅かった。
声に出てしまっていた問いかけに、ミス・シャーウッドは明らかに困惑していた。
「『必要かどうか』?旦那様はそんなことを気になさるの?」
「……これまで気にした男はいなかった?」
アルバートは気まずさを誤魔化すように尋ねた。
「普通の紳士は自分たちの階級の中で“まとも”でいるために、私たちの前では“本性”を現すのだそうですよ。紳士なら誰でもそれが必要に決まっていると思いますけど、旦那様は違うとおっしゃるの?」
ミス・シャーウッドは呆れ顔で言ったが、最終的には声を上げて笑った。
アルバートは思わず眉を寄せた。
自分が笑われたからではなく、ますます疑問が深まったからだった。
同じ階級の人々に対して“まとも”を装うために、”下”の階級の女性に対して“本性”を現すことは、本当に必要なことなのだろうか。
そして、それは本当に"まとも"を装っていることになるのだろうか。
「とにかく、私は別に行った方が良さそうだわ」
一頻り笑ったミス・シャーウッドはそう言って、アルバートの腕に絡ませていた手を解いた。
「そのようだね。君の時間を無駄にしてしまって悪かったよ」
アルバートは本心からそう言ったが、彼女は首を振った。
「いいえ。世の中にはおかしな紳士がいるものだと知れて良かったわ」
そう言い終わるやいなやミス・シャーウッドは立ち上がった。
「良い夜を、旦那様」
彼女はそれだけ言うと、知り合いらしい紳士を見つけて去って行った。
***
翌朝、アルバートは誰かが呻く声で目覚めた。
彼は、一瞬、自分がどこにいるのかがわからなかった。
辺りを見回してみると、彼はまだ昨夜の広間にいた。
ミス・シャーウッドが去った後、そのままソファで考え込んでいる内に眠ってしまっていたらしい。
広間の椅子やソファには、彼以外にも何人か男たちが眠っていた。
アルバートを起こしたのは、隅のシェーズロングに寝ている男の呻き声だった。
どうやら酷い二日酔いになったらしい。
アルバートが起き上がると彼は弱々しい声で「お願いだから、音を立てないでくれ」と懇願した。
そこで、アルバートはできるだけそっと屋敷を抜け出した。
屋敷の玄関を出て時計を見ると、まだ午前7時だった。
幸い今日出席しなければならない講義には十分に間に合いそうだ。
ひとまず、彼は徒歩で自分のカレッジに帰ることにした。
アルバートは、まだ少し冷える朝の空気を吸いながら、オックスフォードの街の湿っぽい石畳をひたすらに歩いた。
暫くしてようやく見慣れた大学の建物の周辺に辿り着くと、女子学生と思われる一団とすれ違った。
たまたま選んだ道が<レディ・マーガレット・ホール>の近くだったのだ。
彼女たちは連れだって朝の講義に向かっているようだった。
そして、その中に<ボドリアン>で「国家」を読んでいたあの女子学生がいた。
いつも<ボドリアン>に行く度に彼女を探している彼が見間違えることはあり得なかった。
彼女は眼鏡を掛けた友人と何やら楽しそうに話していた。
アルバートは彼女に気づかれないようトップハットを目深にかぶり、一団とさり気なく距離をとった。
すれ違いざまに、友人の冗談に笑う彼女の頬にえくぼが見えた。
――そういえば、私は何故彼女の名前を知らないのだろう。
アルバートは、はたと気づいた。
――ああ、きっとこれが”必要”なんだ。
<ボドリアン>で縮こまるように机に向かっていた彼女。
習ったことのない古代ギリシャ語と格闘していた彼女。
熱心に学問について語る彼女。
自分の現状に不安を抱きながらも、真摯に歩み続けている彼女――。
それこそが今の彼に必要なものだった。
***
それから、アルバートは相変わらず二日に一度は<ボドリアン>に通った。
しかし、あの女子学生は現れなかった。
――次に会ったら絶対に名前を尋ねよう。
――もし彼女が名前を明かさなかったとしても、私の名前だけは伝えよう。
しかし、彼の決意も空しく、彼女に会えないまま一か月が過ぎた。
そして、ある日――。
その日の午後、偶然に<レディ・マーガレット・ホール>の近くを通った彼は、数人の女子学生が話しているのに出くわした。
その中の一人は、あの朝、あの女子学生を笑わせていた眼鏡の女性だった。
彼が彼女たちの傍を通り過ぎたとき、その眼鏡の女性が言った。
「――ルーはかわいそうだったわね。お父様が急に亡くなって、家に呼び戻されてしまうなんて」
アルバートは、足を止めたが振り返らなかった。
しかし、耳だけは彼女たちの会話に傾けられていた。
「結局、地元で結婚するんですって」
「あらまあ……おめでたいことなんでしょうけど」
「ええ、おめでたいことなんでしょうけど……」
アルバートは一度視線を落としたが、すぐに顔を上げて歩き始めた。
女子学生たちが話していたのはきっと彼女のことなのだと思った。
急に姿を見せなくなった彼女。
父が唯一の理解者だと言っていた彼女。
そういうことだったのだ。
――彼女ならきっと素晴らしい研究をしただろうに。
――何故オックスフォードは、何故世間は、何故家族でさえ……。
”ルー”――おそらく、”ルイーズ”。
必要だったものは手に入った。
しかし、遅かった。
ただ、遅かった。
アルバートがカレッジの寮に帰ると、スタンリーが部屋のベッドに座っていた。
彼らは二人部屋を共有しているが、スタンリーは滅多に寮に帰らないので珍しいことだった。
「スタンリー、今日は外泊しないのか?」
「まあね。しかし、相変わらず沈んだ顔だな、ハーコート」
スタンリーは軽い調子で言った。
あの”晩餐会”の夜以降――アルバートがミス・シャーウッドと過ごさなかった夜以降――も二人は度々顔を合わせているが、あの夜について話すことはなかった。
しかし――。
「ハーコート、この前のミス・シャーウッドのことを覚えているか?」
スタンリーの言葉にアルバートは少し目を見開いた。
アルバートがそうしているように、スタンリーの方でもあの夜の話題は避けているのだと思っていた。
「覚えてはいるが……」
「彼女がもう一度君に会いたいらしい」
アルバートは思わず眉を寄せた。
それはあり得なかった。
ミス・シャーウッドにとって、アルバートは彼女の貴重な時間を浪費した男だ。
そんなアルバートの反応を見てスタンリーは少し笑った。
「いや、正確には彼女自身じゃなくて、ミスター・ジョイスが君に会いたいらしい」
「誰なんだ、それは」
アルバートの眉間の皺が深まった。
あの夜、彼女と色々なことを話したが、ジョイスなる男の話は出なかった。
「彼女の本命の恋人だよ。彼は薄給に喘ぐ新聞記者なんだ」
とスタンリーは事もなげに言った。
アルバートは、彼女の恋人にあらぬ誤解を受けていやしないか心配になったが、表情には出さなかった。
すると、スタンリーは意外なことを言った。
「彼が勤めている新聞社は、今、発行部数を伸ばす術を模索しているらしくてね。少し刺激的な記事――世間の常識に疑問を呈するような記事を書ける者を探しているそうだ」
スタンリーはそこで一度言葉を切り、アルバートを真っ直ぐに見据えて告げた。
「それで、例のミスター・ジョイスは、君に依頼したいって言うんだよ」
「……何故私に?」
アルバートは首を傾げた。
「よくわからないが、ミス・シャーウッドに君のことを何か聞いたんだろう。刺激的な記事が欲しいから、君のような世の中に上手く収まれない人に依頼したいそうだ。でも、まあ、本音は予算がないからアマチュアの大学生にしか依頼できないんだろうがね。でも、まさか書かないだろう?」
スタンリーはさも可笑しそうに言った。
「いや、書こう」
気が付くとアルバートはそう言っていた。
”世の中に上手く収まれない人”――決して褒め言葉ではない。
しかし、それが今の自分によく似合うような気がした。
そして、そんな自分が世の中に何かを問いかける機会があるなら、そうすべきだと思った。
「意外だな。新聞のコラムニストなんて君の父上や兄上が許すはずがないと思ったが」
「報酬を受け取らなければいい。匿名だっていい。そうすれば、父も兄も最後には諦めるさ」
アルバートの言葉にスタンリーはにやりと笑った。
「なるほど。君に必要なのはそっちだったのか」
「正直、どうだか。でも、まずは問いかけてみないと始まらないからね」
訳知り顔の彼に、アルバートは苦笑いで応じた。
「では、今夜は私の”とっておき”を開けてやろう」
そう言ってスタンリーはベッドの下からトランクを引っ張り出すと、そこから彼のお気に入りのスコッチの瓶とグラスを二つ取り出した。
「随分と気前がいいな、スタンリー」
スタンリーは「君を激励するためさ」と言いながら、アルバートにスコッチを多めに注いだグラスを手渡した。
「君は”破滅”でも”適応”でもなく、”問い続けること”を選んだ。その道は厳しいぞ、ハーコート」
スタンリーはからかうように言ってグラスを掲げた。
「わかってるよ」
アルバートもグラスを掲げた。
その瞬間、自然と彼女の名と、彼女が笑ったときのあのえくぼのことが思い浮かんだ。
――”ルイーズ”。
呼ばなかった名前。
これからも呼ぶことのない名前。
彼と彼女の間には何もなかった。
何も育たなかった。
全てが遅すぎた。
――それでも、問い続けねば。
――私にできることと言えばそれだけだ。
――そして、それはやはり私にとって必要なんだ。
彼は敢えて皮肉に笑い、ただ焼けつくようなスコッチを飲み干した。




