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2.「言葉より行動を」②

 ヘレン・グリーヴスの夫で事務弁護士のミスター・ヴィンセント・グリーヴスはミセス・プレストンと共に3階の<SWSA>本部を目指して階段を上がっていた。

 

 ミセス・プレストンと彼は、同じ女性参政権運動組織<SWSA>でそれぞれ代表と会計係を務める政治的同志だった。

 事務弁護士の彼は、ミセス・プレストンの亡き夫で女性の権利擁護活動に熱心な法廷弁護士だったミスター・リチャード・プレストンの大学の後輩で、昔からリチャードを尊敬していた。

 そして、リチャード亡き後、未亡人となったミセス・プレストンが<SWSA>を創立した3年前、ミスター・グリーヴスも妻のヘレンと共に<SWSA>に入会した。

 ただ、去年1910年に英国社会を騒然とさせたあの事件以降、ミセス・プレストンと彼の間には若干隔たりがあった。

 ヘレンもまたそうだった。


 ――<SWSA>での活動は、気弱なヘレンに良い影響を与えた。

 ――彼女は大いに成長したが……。

 

 ミスター・グリーヴスは首を振った。

 職業柄、彼は数々の修羅場――特に相続を巡る金持ちの一族の骨肉の争い――を潜って来た。

 だから、今回も動揺を抑えて乗り越えなければならなかった。


 彼は階段を上がりながらミセス・プレストンに問いかけた。


「ヘレンは……ミセス・グリーヴスは本当に亡くなっているのですか?」


 その日彼と彼の妻ミセス・グリーヴスは一緒にこの建物の3階にある<SWSA>本部に来た。

 当然そのとき彼の妻は生きていたし、健康だった。

 そして、その後、ミスター・グリーヴスのみが2階の自分の弁護士事務所に向かったのだった。

 

「はい……床に倒れたまま動かなくて……あの様子では……」


 ミセス・プレストンは言葉を続けられない様子だった。

 しかし、ミスター・グリーヴスは構わず問いかけた。

 

「あなたはどうしてここに?今日はロンドン市街に行っていたのでは?」

「ええ、先ほどまでロンドン市街にいたのですが、ヘレンと話したくて急遽こちらに立ち寄りました……。ヘレンは今日の夕方に本部でアグネスと会うと言っていたので、きっといるだろうと思って」


 アグネスというのは彼らと同じく<SWSA>の会員で書記を務めているミセス・ベネットのことだった。

 ミスター・グリーヴスは更に質問しようとしたが、そこでちょうど彼らは3階の本部の玄関前に到着した。

 ミセス・プレストンは玄関扉を開けたがらなかったので、ミスター・グリーヴスが扉を開けて本部へと足を踏み入れた。

 本部は静まり返っていた。

 ミスター・グリーヴスは、玄関ホールを過ぎてすぐ左手にある開け放たれた作業室の扉から室内の様子をそっと窺った。

 ミセス・プレストンが言った通り、女性が床に倒れていて――明らかに亡くなっている。

 背中にはナイフが刺さったままで、彼女の周りは血にまみれていた。

 

「……ヘレン」

 

 ミスター・グリーヴスは絞り出すように妻の名を呼ぶと、作業室の中に足を踏み入れた。

 床に倒れている女性の遺体は入り口に背を向けるように横たわっていたが、ミスター・グリーヴスは彼女の足元の方から回り込んだ。

 そして、遺体の側にしゃがみこんで顔を確認した。

 しかし、彼は確認するまでもなく確信していた。

 それは彼の妻ミセス・グリーヴスに間違いなかった。


 ――一体、何故……。


 彼は、妻の腕をとって脈がないことを確認しながら、廊下に残っているミセス・プレストンをちらと見た。

 冷静な事務弁護士らしく振舞おうとしたが、自分の顔色が悪いであろうことはわかっていた。


 彼がふと顔を上げると、遺体の側の作業台の上に置かれた旗が目に入った。

 ミシンが得意な彼の妻は、先日から来月6月の<女性の戴冠式>での行進に向けて旗を作っていた。

 作業台の上に置かれている盾形の旗は、厚手の麻製で周囲が<SWSA>のシンボルカラーの水色の布で縁取られている。

 そして、その旗には黒いペンでスローガンが手書きされていた。


 "DEEDS NOT WORDS"(言葉より行動を)


 ミスター・グリーヴスは目を見開いた。

 明らかに妻が書いたものではなかった。


「あら……ヘレンはいつも文字はアップリケで縫い付けていましたよね?それにこのスローガンは……」


 廊下から部屋を覗いていたミセス・プレストンが震える声で言った。

 彼女の言う通りだった。

 ミセス・グリーヴスは、旗にスローガンを描くときはいつも布を切り抜いて文字を作り、それを旗に縫い付けていた。

 そして、スローガンはいつも"VOTES FOR WOMEN"(女性に投票権を)というものだった。

 今旗に書かれているものとは明らかに異なる。

 

 何かおかしなことが起こっている。

 しかし、彼はミセス・プレストンの手前いつも通りの落ち着いた事務弁護士でいなければならなかった。


 ミスター・グリーヴスは一度深呼吸をし、作業室の中を見回した。

 そして、部屋の奥のミシンの側にある二冊の本に目を留めた。


 ――あれを何とかしてやらないと。


 その二冊は今やもう二度と生きて会うことのできない彼の妻の愛読書だった。

 その後はもうここに留まっている理由はない。

 2階の弁護士事務所に戻って巡査を待つべきだと思った。


 ***


 <SWSA>本部近くにある講堂でアグネス・ベネット――ミセス・ベネットは、演壇の女性の演説に耳を傾けていた。

 ミセス・ベネットは<SWSA>の創立メンバーにして書記――実質的な副代表だった。

 今日、彼女は<SWSA>の何人かの会員たちと、様々な組織の女性参政権運動家が集まるこの演説会に来ていた。

 

 今、演説している若い女性は、近隣の大学の女子学生による組織の代表で今日最後の登壇者だった。

 ミセス・ベネットは聴衆席の最前列で姿勢正しく座っていた。

 しかし、女子学生の演説内容はほとんど彼女の耳を通り抜けていった。

 ミセス・ベネットは、この演説会の二番目の登壇者として堂々と演説をやり遂げたが、その後彼女の頭に浮かぶのはただ一つのことだった。


 ――トーマス……。


 トーマスというのは彼女の一人息子だ。

 数年前にロンドン大学を卒業し、今は彼の父――つまりミセス・ベネットの夫――が経営し自ら校長を務める男子校で英語教師の職についている。

 トーマスもまた創立時から<SWSA>会員だった。

 今も他の若者たちと一緒に代表のミセス・プレストンや書記のミセス・ベネットを支えてくれていた。


 ――トーマスは立派な息子だわ。

 ――ただ……。


 ただ、最近は両親と息子の間に少し行き違いがあった。


 ミセス・ベネットはそっと後ろを振り返った。

 今日一緒に演説会に来た若い女性たち――ミス・ハーディーとミス・ロビンソンが数列後ろに並んで座っていた。

 彼女たちは真剣に演説に耳を傾け、なにやらメモまで取っている。

 しかし、一緒に来たはずのトーマスの姿はそこにはなかった。

 単に別の場所に座っているのかもしれない。

 でも、先ほど彼女が演壇で演説したときも息子の姿はなかった気がする……。


 ――ああ、トーマスはどうしてあんなことを?

 ――しかも、ヘレンまで巻き込んで……。


 ミセス・ベネットは心の中でため息をついた。

 ヘレンことミセス・グリーヴスは、彼女と同じく<SWSA>の会員だった。

 これまでミセス・グリーヴスは資金力と裁縫の腕を活かして組織に貢献してくれていた。

 そして、それ以上に彼女たちは友人同士だったはずだった。


 ――ヘレン……あなたは少し純粋過ぎたのよ……。


 ミセス・ベネットも夫や息子と同じく教師だった。

 長年公立小学校で教師を務めていて、ここ何年かは校長の職にある。

 教師や校長として、彼女は様々な人間模様を見てきた。

 子供たちの間でさえ、狡猾で支配的な者が優しくて正直な者を喰い物にすることがある。

 大人の世界であればなおさらだ。


 ――あれは……仕方ないことだったのだわ。


 ミセス・ベネットが自分に言い聞かせるように考えたとき、聴衆たちが一斉に拍手をし始めた。

 女子学生代表の演説が終わったらしい。

 ミセス・ベネットが周りに合わせて拍手をしていると、狭い列の間を通って誰かがやってきた。

 この講堂の管理人のミスター・ファーガソンだ。


「ミセス・ベネット、事務室に<SWSA>のミセス・プレストンからお電話が入ってます」


 ミスター・ファーガソンの言葉にミセス・ベネットが眉を上げた。

 

「ミセス・プレストンから?」

「ええ、……何かあったようですよ」


 ミスター・ファーガソンの声には困惑が滲んでいた。

 ミセス・ベネットは立ち上がると、彼に続いて事務室へと急いだ。

 

 ***


 女性参政権運動に関する演説会が閉会したばかりの講堂の玄関ホールにいた<SWSA>会員ミスター・トーマス・ベネットは、背後から聞こえた女性の声に振り返った。


「ミスター・ベネット!随分探したわ。一緒に来てちょうだい」


 それは彼と同じく<SWSA>に所属しているミス・ハーディーだった。

 彼女が言うには、先ほど講堂の電話に<SWSA>代表のミセス・プレストンからトーマスの母で書記のミセス・ベネット宛に緊急の電話があり、今まさにミセス・ベネットが講堂の事務室で応答しているという。


「何かあったのかしら?」


 ミス・ハーディーの声は少し震えていた。

 トーマスは無意識に自分のダークブラウンの髪をかきあげた。

 

 彼らが事務室の前に着くと、今日彼らと一緒にこの演説会に来ていたもう一人の<SWSA>会員ミス・ロビンソンが腕を組みながら立っていた。


「ああ、フラニー!ミスター・ベネットを見つけたのね。良かったわ」


 ミス・ロビンソンは近づいてくる二人を見て言った。


「ミセス・ベネットはまだ電話中よ」


 トーマスとミス・ハーディーはその言葉に頷きながら、彼女の横に立った。

 ミス・ハーディーとミス・ロビンソンは、リッチモンドの中流中産階級の家庭の出身の若い女性で、<SWSA>では共に書記補佐を務めている。

 一方、トーマスは<SWSA>では特に役職にはついていなかった。

 <SWSA>は男性の入会も許可しているが、原則的に男性は役職に就くことは遠慮している。

 例外は本業の事務弁護士の仕事で培った人脈を生かして資金調達と資金管理をしている会計係のミスター・グリーヴスだけだ。

 ただ、実質的にはトーマスはミス・ハーディーとミス・ロビンソンと同じく代表のミセス・プレストンや書記のミセス・ベネットの補佐役を担っていた。

 彼らが今日この演説会に参加しているのも、ミセス・ベネットが演説をすることになっているのについて来たからだった。


 しばらく待っていると、事務室の扉が開いた。

 ダークブラウンの髪を頭の後ろできつくまとめている小柄な眼鏡の女性が扉からゆっくりと出て来た――彼女がトーマスの母であり<SWSA>書記のミセス・ベネットだ。

 トーマスは密かに母の表情を窺った。


 ――悪い知らせを受けたときの顔だ……。

 

 彼の予想通り、母は唇を引き結んでやや視線を落としていた。

 そして、ミセス・ベネットは若者三人に一度頷いて見せると、その悪い知らせを伝えた。


「ミセス・プレストンと話しました。どうやらヘレン……ミセス・グリーヴスが亡くなったようです」


 トーマスは彼の横にいる二人の女性が息を呑んだのを聞いた。


「確かなんですか?ミセス・ベネット。だって彼女はさっきまで本部で作業していらしたのに」


 そう言ったミス・ハーディーの声は震えていた。

 当然の反応だった。

 実際、ここにいる四人――ベネット母子と書記補佐の女性二人――はこの演説会に来る直前に本部に立ち寄っていた。

 四人は会合室で資金調達について議論をしていたが、その間、パントリーの向こうの作業室からはミセス・グリーヴスが足踏みミシンを操作する音が断続的に聞こえていたはずだ。

 

 「ええ、残念ながら確かです。ご主人のミスター・グリーヴスが遺体を確認したそうです。そして、更に悪いことに――殺人のようなのです」


 ミス・ハーディーとミス・ロビンソンは小さく悲鳴を上げた。

 トーマスも真っ直ぐ下に下ろしている自分の指先が微かに震えてしまったのに気付いた。

 彼は母がこの演説会の後、ミセス・グリーヴスと会う約束をしていたことを知っていた。


「お母さん……一体なぜ――?」


 トーマスは無意識に母にそう問いかけていた。

 母は何も答えなかったが、代わりにその青い瞳が眼鏡越しにトーマスを見た。

 それは、子供の頃、トーマスがいたずらをしたのを隠しているときに受けた視線とよく似ている。

 ただ、昔の母のその視線にはどこか温かさがあったが、今あるのは――恐れのように見える。


 ――僕のやったことはお母さんのためなんだ。

 ――あんなことがあったけど、やっぱりお母さんもお父さんも結局家族なんだから。


 トーマスはこの場にはいない者も含めて自分の家族の姿を思い浮かべた。

 ベネット家は教師の一家だった。 

 父は自らが経営する私立男子中等教育学校の校長で、一人息子であるトーマスも父の学校で英語教師をしている。

 母も地元の小学校教師でここ7年ほどは校長を務めている。

 あと、それから――。

 

 トーマスの思考はそこで中断された。

 目の前の母が思いがけないことを言ったからだ。


「一度皆で本部に行きましょう。巡査が来ているそうなので、知っていることを全てお話しすべきだと思います」


 ミセス・ベネットがきっぱり言うと、ミス・ハーディーとミス・ロビンソンは神妙に頷いた。

 トーマスだけはただ母を見つめていた。


 ――"全て"を話すことなんてできないくせに。


 トーマスは乱暴に髪をかきあげた。

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