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アルバート卿に必要だったもの【前編】

女男爵と出会う数年前、アルバート卿の恋にも至らなかった話です。

時代に押しつぶされないよう足掻いている人々の話でもあります。

 1905年の冬が終わりかけた頃――。

 21歳になったばかりのウェクスフォード侯爵家の三男、アルバート・モントローズ=ハーコート卿はオックスフォード大学で古典学を学んでいた。

 彼は優秀で熱心な学生だった。

 もし、彼の同級生たちに自分の代で最も優秀な学生を挙げさせたとしたら、彼らの意見は、彼と内科医の息子チャールズ・ホールデンで二分されただろう。

 

 しかし、今、学内を歩く彼は静かに落ち込んでいた。

 

 一つは、母の病のためだった。

 彼の母ウェクスフォード侯爵夫人は、半年ほど前から重い病を患っている。

 クリスマス休暇でサセックスに帰省した際に再会した母は、ひどくやつれた姿でただじっとベッドに横たわっていた。

 彼がよく知っているいつも陽気で話好きだった母と同一人物だとは信じられなかった。

 医師の話ではあと一年生きられるかどうかということらしい。

 アルバートは自分はともかく妹のグレイスのことが心配だった。

 妹は数年後に社交界デビューを控えている。

 そのときに後ろ盾になってくれる母がいなければ、さぞ心細いだろう――。

 

 もう一つは、帰省した際に受けた父からの小言のためだった。

 ただでさえ、病身の母の姿にショックを受けているところに、アルバートの"優秀過ぎる"成績を知った父からは「貴族の子息たるもの大学で勉強し過ぎるな」と説教をされてしまった。

 正直、アルバートには、大学で勉強以外のことをする必要性が全く分からなかったが、どうやら世間の認識とは違うらしい。

 

 言われてみれば、長兄のジョンは、数年大学に通った時点で必要な人脈は築いたとの理由で中退し、すぐに王室騎兵連隊に入ってしまった。

 そして、彼はそろそろその連隊も除隊して、大学で得た人脈を生かしつつ庶民院議員に立候補することを考えているらしい。

 

 それから、次兄のヘンリーは、大学は卒業したものの、落第すれすれだったという。

 その代わりに彼は大学外での様々な経験を通して芸術に必要な感性を磨き、今ではその目利きにより才能ある若手芸術家を見出して後援すると同時に、自身もサロンで人気のアマチュア詩人兼画家になっている。


 一方の自分は――と考えると、アルバートはついため息をついてしまう。

 

 彼は古典学を愛していた。

 主要なギリシャやローマの古典作品は全て原語で読んでいるし、最近書いた古代ギリシャ叙事詩に関する論文の評価も高かった。

 ラテン語や古代ギリシャ語で自在に議論をすることさえできる。

 もし、彼が職業を持って当然の中産階級の家庭の息子であれば、このまま大学に残って教授になれたかもしれない。

 しかし、彼にそれは許されなかった。

 大貴族ウェクスフォード侯爵家の子息は、次男以下であっても職業で金を稼いで暮らすのは恥だというのが父の考えだ。

 要は、彼に学識があったところで、誰も喜ばないのだ――。


 そんな彼には気分が塞ぐときにいつも行く場所があった。

 <ボドリアン>――大学図書館だ。

 その歴史は17世紀にまで遡るヨーロッパで最古の図書館の一つで、膨大な蔵書を擁している。

 <ボドリアン>は本の貸し出しは行わないが、学生であれば閲覧は自由だ。

 そこに行けば、何かしら没頭できる本がある。

 既読の本を読んでも良いし、未読の全くの専門外の本を読むのも楽しい。

 

 今日の彼は、幼少期に愛読していた「エティオピア物語」を読むべく、ギリシャ古典が置かれている部屋に向かった。

 そこには彼のお気に入りの席もある。

 ちょうど書棚の陰に隠れているその席に座ってしまえば、うっかり知り合いに声を掛けられることもない。


 ところが――今日、その席には先客がいた。

 その席は彼専用でも何でもないので、おかしなことではない。

 しかし、その先客を見た彼は目を見開いた。

 そこに座っていたのは女性だった。

 白いブラウスの上にコートを羽織り、縮こまるように机に向かっていた。


 オックスフォードには、もちろん、女子学生がいる。

 数十年前に女子学生専用のカレッジがいくつか創立され、女性も学ぶことができるようになったのだ。

 彼女もおそらくその女子学生の一人だろうとアルバートは考えた。

 しかし、普段、彼女たちはカレッジ内の図書館を利用していると見え、この<ボドリアン>で女性の姿を見かけることは稀だった。

 彼女は何らかのギリシャ古典を読んでいるようだが、カレッジの図書館では手薄な分野なのかもしれない。


 ――それにしても、オックスフォードは何故、どんなに優秀でも女性には学位を与えないのだろう。

 ――私にはどうも理に適っているとは思えないのだが。


 アルバートは目の前の熱心な女性を見ながら、つい考え込んでしまった。

 彼は、学位を得る要件としては、性別よりも学業成績が重視されるべきだと考えていたが、当代の英国において彼のように考える者は少数派だ。


 ――例えば、煙突掃除人の息子が素晴らしい論文を書けば当然彼は学位を得る。

 ――しかし、公爵の子息であっても必要な知識を習得できなければ学位は得られない……これに反対する者は少ないだろう。

 ――それが男女となると、一体どうして……。


 深い思考に沈みそうになったところで、彼は我に返った。 

 目下の問題は彼のお気に入りの席がすぐに空くかどうかだった。

 

 彼は様子を伺うべく、さり気なくその女性の背後を通り過ぎた。

 彼女が向かっている机には、二冊の本と一冊のノートが広げられていた。

 本の内一冊は明らかに古代ギリシャ語の辞書だ。

 そして、もう一冊だが――一通り古典を読み、しかも、一度読んだ内容を忘れられない彼にはすぐにわかった。


 ――プラトンの「国家」だ。


 彼はつい彼女がノートに書いている内容まで見てしまった。

 そこには「国家」の逐語訳が書かれていたが――。

 彼は思わず眉を寄せた。

 彼女は今第五巻に取り組んでいるようだったが、そこでソクラテスと議論しているトラシュマコスの台詞に明らかな誤訳があった。


 ――おやおや、トラシュマコスがとんでもないことを言わされている。


 彼が無意識に立ち止まってそのノート上の誤訳を見つめていると、忙しなかった女性の動きが止まった。

 背後に誰かがいることに気が付いたのだろう。

 彼女は"恐る恐る"というように後ろを振り返った。


「何かご用?」

 

 蚊の鳴くような声でそう言った彼女の表情は強張っていた。

 アルバートは内心焦った。

 嘆かわしいことに、女子学生に対して、非礼を働く男子学生が時々いるのだ。

 彼女は彼がその手の男子学生だと思ったのかもしれない。

 アルバートはそんな不届き者と一緒にされるのは心外だった。

 彼はとんでもないことを言わされているトラシュマコスを救いたいだけなのだから。


 アルバートは一つ咳ばらいをしてから切り出した。


「失礼かつ余計なお世話でしょうけど――そのトラシュマコスは『鉱石を掘る』もしくは『鉱石を溶かす』と言っているのです。どうしてもそれをお伝えしたくて」


 女性ははっとして自分のノートの上の件のトラシュマコスの台詞を指でなぞった。

 そして、半信半疑の様子でアルバートを見上げた。


「……本当ですか?」

「ええ、私はここで古典学を学んでいますから保証しますよ」

「でも、何故『鉱石』なのです?この部分では誰も鉱石の話などしていませんのに」

「比喩なのですよ。『余計なことに気を取られる』ということを言っているのです」


 アルバートの説明を聞いた彼女は暫し考え込んでいた。

 そして、何かを決心したように口を開いた。


「少しお時間いただけますか?ご意見をいただきたいことがあります」


 ***


 アルバートは彼女に乞われるままに図書館の外に出た。

 生まれた時から紳士として教育されてきた彼にとって女性の頼みごとを断るのは困難だったということもあるが、内心彼女に興味を抱いていた。 

 

 彼女は図書館の外の目立たない場所を選ぶと――学生同士であろうが若い男女が二人で話しているのは体裁が悪い――、軽く咳ばらいをしてから切り出した。


「私は、<レディ・マーガレット・ホール>所属の学生なのですが――」


 アルバートが思った通り、彼女は女性専用カレッジ<レディ・マーガレット・ホール>に所属する女子学生だった。

 彼女は少し躊躇いながらも、わざわざ<ボドリアン>でギリシャ古典を読んでいた理由を語った。


「私は経済学を学んでいて、最近マルクスの『資本論』を読み始めました。しかし、読み進める内にどうやら彼の論の下地には、プラトンの哲学があるようだと気づいたのです。それで、より正確な理解のために『国家』を読み解こうとしていたのですが……」


 そこまで言って彼女は微かに首を振った。

 当代の英国において古典学は、あくまで一定の階級以上の男性の学問であり、女性には不要だと考えられている。

 一部の例外を除いて、学校や家庭の教師が彼女たちに真剣に古典学を教授することはない。

 あったとしても、せいぜい教養レベルだ。

 そのため、彼女が『国家』を読む必要性に迫られたとしても、いきなり原語で読むのは不可能と言っていい。

 とはいえ――。


「しかし、先ほどあなたのノートをつい見てしまいましたが、初学者なのにほとんど正確に訳していましたね。何故そんなに熱心なのです?失礼ですが、あなたはマルクス主義者なのですか?」


 アルバートはつい好奇心のままに尋ねた。

 当代の英国では、行き過ぎた資本主義を憂いて、社会を改善しようと活動している人々がいる。

 その中には、マルクスの思想に傾倒して革命的手法を提唱する者からもっと穏やかに段階を踏んで社会を改革しようとする者まで、様々な考えを持つ人々が含まれるが、彼女もそのいずれかなのだろうか。

 

 彼の率直な問いを受けた彼女は少し笑った。

 アルバートは、その頬にえくぼができたことに気が付いた。


「いえ、少なくとも今は違います。経済学を学ぶ者として批判にきちんと答えたいと思っているだけです」

「なるほど。『資本論』の副題は『経済学批判』ですからね」


 アルバートが言うと、彼女は頷いた。


「だからこそ、しっかりと彼の論を読み解きたかったのに……。やはり私のような古典学の素養がない者には無理なのではないかと思い始めました。古典学にお詳しいあなたから見てどう思われます?」


 彼女は硬い表情でそう尋ねた。

 アルバートは何故か彼女の言ったことを否定しなければならない衝動に駆られた。

 

「そんなことはありませんよ。目的が『資本論』を理解することであれば……いっそ翻訳版をお読みになるのはいかがです?」

「でも、それだと本質を見誤ることになりませんか?素養のない私には、それすらわからなくて……」

「いえいえ、信頼できる版を選べば大丈夫です。メジャーな版ならきっとあなたのカレッジの図書館にもあると思うのですが――」


 アルバートが信頼できる翻訳版をいくつか挙げると、彼女の表情が緩んだ。

 それはもう古代ギリシャ語を読まなくて済むことによる安堵というよりは、もう女性一人で<ボドリアン>に長時間滞在しなくても良いことによる安堵にも見えた。


 そこで彼女はふと気が付いたように言った。


「あなたはよく<ボドリアン>にいらっしゃるのですか?」

「ええ、最近は二日に一度はいますね」


 彼の言葉には少し皮肉な響きがあった。

 その頻度が最近いかに彼の気が塞いでいるかの証左だった。

 

「では――もし、翻訳版でもわからないことがあれば……。それで、もし、偶然にもまた<ボドリアン>であなたをお見掛けしたら……教えていただくことはできますか?」


 そう問われて彼は少し目を見開いたが、気が付くとごく自然に頷いていた。

 すると、やはり、彼女の頬にはえくぼができた。

 それを見た彼は、今後いかに気分が明るくなったとしても、暫くは同じ頻度で<ボドリアン>に通うのだと――ぼんやりとそう思った。


 ***


 それから、アルバートはやはり変わらない頻度で<ボドリアン>に通った。

 すると、彼女の方も、二、三週間に一度顔を見せ、その度にノートに書き留めてきた「国家」の内容に関する不明点を彼に質問した。

 その内に彼らの会話は、「国家」以外の内容にも及ぶことになった。


「私の一族では、男性ですら大学に通った者は稀なのです。でも、私の場合は、父が非常に熱心で、家族の中で唯一私の進学を応援してくれました」

「おや、慧眼なお父上ですね」

「そうだと良いのですが。かえって私のためにならないと言う親族もいます……。でも、私は折角得られた機会ですから、可能な限り学問を突き詰めようと思います」


 ――彼女が優秀なのは明らかなのに、何故オックスフォードは、何故世間は、何故家族でさえ……。

 

 彼らは大学のこと、昨今の英国社会のこと、ときには、家族のことまで話したが、アルバートはその中で何度同じ疑問を抱いたかわからなかった。

 

 一方で、彼らはお互いに名乗ることだけはしなかった。

 理由は明らかだった。

 お互いのアクセント、話し方、身に着けている服――出会った瞬間から彼らの階級差ははっきりしていた。

 彼は彼女が地方のそこそこ裕福な中産階級家庭の娘だと察していたし、彼女は彼がどこぞの貴族の家の子息だと気づいていた。

 名乗ってしまえば、お互いにその差を認めたことになる。

 それよりは、ただ、オックスフォードの学生同士として話す方が都合が良かった。

 そして、彼らには今のところ、その差を敢えて自覚した上で踏み越えなければならないほどの理由もなかった。

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