35.最愛なるアメリア・グレンロス②
お茶を給仕したミス・アンソンが下がった後、先に切り出したのはアルバート卿だった。
「今日、あなたが何のために私をお招きになったのかはわかっています。しかし、ご用件を伺う前に二、三確認してもよろしいですか?」
「ええ、もちろんです」
今日が"最後"だと決めたのはアメリアの一方的な都合だ。
彼には言いたいことを言う権利がある。
「私があなたのことをどう思っているか、とりわけ、あなたの身分や生き方について、私がこれまで何を考えてどんな結論に至ったか。あなたは既にご存じですね?」
「そう思います」
アメリアがはっきりと言うと、アルバート卿は頷いた。
「そうだと思いました。しかし、改めてお伝えすることをお許しください」
アメリアが静かに頷いたのを確認し、彼は少し視線を落としながら話し始めた。
「私は当初、侯爵家の三男に過ぎない私は、あなたには相応しくないと考えていました。女男爵として既にご自身の爵位と財産をお持ちのあなたに、それ以上のものを与えることができないからです」
アルバート卿の人差し指がティーカップの持ち手を撫でた。
彼は視線をアメリアに向けてから続けた。
「しかし、昨年の事件を共に乗り越えたことで、もしかすると、何も与えられるものがない私でも、あなたが望んでくださるのなら、あなたと一緒に生きても良いのかもしれないと思い始めました」
それはアメリアも同じだった。
侯爵家生まれの高貴な彼と自分は釣り合わないと思っていたが、彼が自分と生きることを望んでくれるのならば、そうしても良いのではないか、もっと言えば、そうしたいと思い始めていた。
「そして、今年の社交シーズンが始まってから、私はあなたを私的に訪問したい――ひいては、あなたと正式に交際したいと考えていました。しかし、その考えに迷いが生じた瞬間がありました。それは、先日、事件の話が舞い込んだ際にヘイスティングス警部があなたを指して“探偵女男爵”と呼んだときでした」
アメリアは理解のしるしとして、柔らかく微笑んだ。
警部がアメリアを“探偵女男爵”と称したときに彼の瞳を過った揺れを鮮明に思い出すことができた。
アメリアは答え合わせをするように、話の続きに耳を傾けた。
「"探偵女男爵"という呼び名は、元々は当家で起きた盗難事件を見事に解決したあなたを私がそう呼んだのが始まりです。私は家族や警察関係者の前でもあなたをそう呼んだことがありました……今思えば非常に迂闊でした。そして、今回警部があなたを"探偵女男爵"と呼んだとき、私は自分の浅はかさを心底悔やみました。私があなたに与えてしまったこの"称号"があなたの存在を"探偵"として定義し、危険な道に誘い込んでしまったのだと考えたからです」
そこで彼は一つため息をついた。
「しかし、事件を捜査するあなたを見ているうちに、私のその見方は誤りだったと思い始めました。そして、あなたがローシュ警視や人々の前に進み出たときに確信しました」
アルバート卿は口元に少し皮肉な笑みを浮かべた。
「あなたは"探偵女男爵"であることを自分で選び取っていました。私や他の人にそう呼ばれたからではありません。紛れもなくあなた自身の選択です」
彼ははっきりと言い切り、アメリアを真っ直ぐに見つめた。
「残念ながら、あなたのその選択はこの英国の上流階級のレディには許されません。しかし、私のあなたに対する考えは少しも変わりませんでした。私は、あなたの自己決定を受け止めた上で、あなたと共に生きたいのです。あなたも私がそう考えているとお分かりのはずです」
アメリアはさり気なく彼から視線を外し、サイドテーブルのティーカップを口元に運んだ。
そして、それをできるだけゆっくりとソーサーに戻した。
どう答えるべきかは決まっていたが、心の準備が必要だった。
「ええ……私も最初は誤解していましたけれど、最終的にはあなたの真意を理解しました。ただ――」
そこまで言ってアメリアは一度息を吐き、膝を覆っているガーネット色のドレスをそっと撫でた。
「ただ、やはり、あなたは私といるべきではありません。"探偵女男爵"として生きることには常に危険が付き纏います。あなたはこの危険に付き合うべきではないのです」
彼女は淀みなく言い切った。
今日このときのためにずっと心の中で繰り返してきた言葉だった。
それに答えたアルバート卿の口調は鋭かった。
「私がどうすべきかは私が決めることです」
しかし、アメリアは平静を装って応じた。
「では、言い方を変えます。私があなたといるべきではないのです。私はあなたを危険に巻き込むべきではないというのが私の判断です」
「それが私の幸せを損なうとしてもですか?」
即座に反論したアルバート卿の灰色の瞳には少しの揺らぎもなかった。
アメリアはその瞳から逃れるように、ゆっくりと立ち上がった。
そして、礼儀として合わせて立ち上がろうとする彼を穏やかに制し、背後にある暖炉の前へと進んだ。
彼女は彼に背を向けたまま、空っぽの暖炉を見つめながら切り出した。
「アルバート卿……先ほど私は『あなたに危険を及ぼさないために、私はあなたといるべきではない』という趣旨のことを言いました。いかにも、あなたの身を案じているかのような……あなたの幸せを考えているかのような言い方でした。しかし、実際は――」
アメリアは依然彼に背を向けながらマントルピースの上の写真に視線を移した。
そして、ゆっくりと一度瞬きをしてから続けた。
「実際は――ただ私が怖いだけなのです。たとえあなたが危険を冒してでも私と共に生きることが幸せだと言ってくださったとしても、私にはどうしてもその"恐れ"を消すことができません。結局、私はあなたの幸せより、自分の心の平穏が大事なのです……。このように自分勝手な私は、いずれにしても、あなたと共にいるべきではないでしょう」
――そもそも、私が"探偵女男爵"として生きることは、周囲の人の心の平穏を乱しかねないのに、自分の心の平穏だけは守ろうとするなんて……。
アメリアは、彼が鋭い皮肉で応じると思っていた。
しかし、アルバート卿は何も言わなかった。
その沈黙の理由を量りかねたアメリアは、彼の方をそっと振り返った。
彼は俯いて何か考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「レディ・メラヴェル、今、あなたはご自身のことを"自分勝手"と称されましたが、私はそれは少し違うと思います。本当に"自分勝手"なのは、あなたではなく私の方なのです。私はそれに気づいていたのに、今の今まで認める度胸がなかった――」
アルバート卿の口元に一瞬、自嘲するような笑みが浮かんだ。
「あなたのおっしゃる通り、"探偵"には危険が伴います。先ほどあなたは私に危険が及ぶとおっしゃいましたが、危険はあなた自身にも等しく及びます。ともすると、あなたの方により大きな危険が及ぶかもしれません。ですから、本来私はあなたに"探偵"をやめてくださるようお願いすべきなのです。"お願い"なんて穏当な方法ではなく、もっと決定的に"探偵"をやめるよう強いるのが紳士としての義務だと言う人だっているかもしれません」
アルバート卿はそう言って自身の襟を一度撫で、姿勢を正した。
「しかし、"自分勝手"な私にはそれができない」
そこで彼は優雅に立ち上がると、暖炉の前にいるアメリアにゆっくりと歩み寄った。
アメリアは彼を見なかったが、彼女の隣に立った彼はその横顔を見つめながら続けた。
「私は"探偵"をしているあなたを見るのが好きなのです。謎に魅了され深い思考に沈んでいくあなたが、思いがけず閃きを得て瞳を輝かせるあなたが、そして、不正義への怒りを燃やすあなたが。私はこれからもあなたが何を考え、どんな答えを出し、何を求めるのかを知りたい。だから、あなたが自ら"探偵女男爵"として生きることを選ぶのなら、そんなあなたと一緒に歩んでいきたいと思ってしまうのです。レディを危険から遠ざけ、保護するのが紳士の役割であるはずなのに……とんでもなく"自分勝手"でしょう?」
問いかけられたアメリアは、自然と彼の方に顔を向けていた。
彼女は何か言おうと口を開きかけたが、すぐには言葉が出なかった。
一方のアルバート卿は額に手を当てて軽く首を振った。
「すみません。余計なことを話し過ぎました。今日、私はただ一つのことをあなたにお尋ねするつもりで伺ったのに……」
そう言ってアルバート卿はアメリアの右手をとり、その場に跪いた。
アメリアの瞳は驚きに見開かれた。
彼の尋ねたいことというのは――。
「アメリア・グレンロス、レディ・メラヴェル、そして、探偵女男爵――あなたがその全てでも、いずれかでも、どれでもなくても――どうか私の妻になっていただけないでしょうか」
アメリアは小さく息を呑んだ。
言うべき答えは「いいえ」のはずだ。
自分のせいで彼の人生を台無しにしてしまうかもしれない。
彼のため以上に自分のためにその道を選ぶことはできないはずだ。
「あなたの"恐れ"は理解しています。そして、それは私の"恐れ"でもあります。お互いに"恐れ"がある限り、私たち二人の関係は理想とはほど遠いのかもしれません。しかし、それでも、私はもうあなたのいない人生を考えられないのです。どうか共に生きていただけないでしょうか」
アメリアは一度目を閉じ、まず、彼と別々に歩む人生を思い浮かべた。
彼が自分の知らない場所で幸せに生きていることを祈りながら、"探偵女男爵"として生きていく。
立派だが、妻自身には無関心な夫を持つことができれば、女男爵としての責任も十分果たせる。
決して悪くない、寧ろあるべき人生だ。
――でも、それは私が本当に生きたい人生なのかしら。
アメリアが目を開けると、彼の青みがかった灰色の瞳が彼女を見つめていた。
すると、自然と今回の事件で出会った様々な"二人"のことが思い出された。
理想的に見える二人も、欠点だらけの二人もいた。
理想的に見える二人であっても、分かり合おうとすることを諦めればそこで終わりだった。
欠点だらけの二人であっても、分かり合おうとし続ける限り希望があった。
――そんなことが本当にできるのかしら。
――ああ、でも、結局のところ……私は知りたい。
――彼のことが、自分のことが、この先の二人のことが。
――どうしても知りたい。
――そして、それは彼も同じなのではないかしら。
――そんな彼となら、もしかすると……。
「……アルバート卿、あなたは本当に“自分勝手”な方ですわね」
アメリアは呟くように言った。
「それは、つまり――?」
そう問いかけるアルバート卿の瞳は見開かれていた。
「ええ、私の答えは『はい』です。私たちは理想の二人にはなり得ないのかもしれません。でも、それでも、私はこの先あなたと生きる人生を知りたいと思ってしまいました」
アメリアは努めて平静を装ったが、顔には自然と笑みが浮かんだ。
「最後まで一緒に歩んでくださいますね、アルバート卿?」
彼女のヘーゼルの瞳の奥が煌めいた。
「ええ、もちろんです、レディ・メラヴェル」
アルバート卿は、言い終わるやいなや立ち上がると、アメリアの右手を自分の両手で包んだ。
それが今この世界で一番大事なものであるかのように。
アメリアも同じように彼の手に左手を重ねた。
そうして、二人は暫く手を取り合い、お互いだけを見つめていた。
すると、間もなく、窓の外の通りから大きな歌声が聞こえ始めた。
ロンドンっ子たちが新しい国王の戴冠を祝って”ゴッド・セイヴ・ザ・キング”を歌っているのだ。
反射的に窓辺に歩み寄った二人が通りを見下ろすと、ロンドンの街は新時代の到来に湧いていた。
事件の謎を全て解き終え、次の時代へと踏み出した二人の前途には何が待っているのだろう。
また近々謎を解くことになることだけは間違いない。
それは事件の恐ろしい謎かもしれないし、二人が互いに投げかけ合う魅惑的な謎かもしれない。
でも、きっと、二人一緒ならどんな謎でも解いていける。
共に謎を解き続ける限り、二人には希望がある。
窓辺の二人は寄り添い合って、新時代のときめきに暫し身を委ねていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
これにて「エドワード朝編」の物語は完結となります。
少し期間を空けた後、続編も書きたいと思っていますので、またご縁があればよろしくお願いいたします。




