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34.最愛なるアメリア・グレンロス①

 事件解決後、アメリアはすぐにメイフェアの<メラヴェル・ハウス>に戻った。

 彼女と共に屋敷に戻った母ミセス・グレンロスはその夜の内に、近々予定されている全ての招待を断る手筈を整えた。

 欠席の理由として伝えられたのは、「重い風邪を引いたレディ・メラヴェルは、体力が戻るまで暫く療養する」というあたりさわりのないものだった。

 アメリアはただ従った。

 社交界から、アルバート卿から、離れられることに安堵していた。


 それから一週間以内に、アメリアには友人知人からたくさんのお見舞いの手紙や贈り物が届いた。

 予定通り領地からロンドンに戻って来たらしいレディ・グレイスからも花と手紙が贈られたが、その手紙では兄であるアルバート卿のことには一切触れられていなかった。

 彼女にしては珍しいことだった。

 レディ・グレイスは二人の間に何かがあったことを察しているのだとアメリアは理解した。

 一方のアルバート卿自身からは全く音沙汰がなかった。

 あの日ミセス・グレンロスに言われたことを真摯に守っているのだろう。

 彼はただアメリアを待っている。


 ***


 6月中旬、ヘイスティングス警部からアメリア宛に事件の顛末を知らせる手紙が届いた。

 結論から言えば、ロンドン警視庁はミスター・グリーヴスを殺人罪で訴追するのに十分な確証を得たという。

 

 第一に、アメリアが指摘したミシンのトリックを裏付ける証拠として、現場の通気用ダクトに紐が通った跡が見つかった。

 第二に、一時昏睡状態になっていたミスター・トーマス・ベネットが無事回復し、彼が意識を失った夜の状況を証言した。

 ミスター・トーマスによると、その夜、彼は母から渡された睡眠薬には手を付けず、ミスター・グリーヴスによく眠れるからと勧められた"ただのブランデー"を飲んだつもりだったという――それまで両親と共に禁酒主義を貫いていた彼は自分が酒を受け付けない体質だと知らなかったのだ。

 それにもかかわらず、酒による中毒だけではなく、睡眠薬の過剰摂取が起きたということは、その"ただのブランデー"に実は過剰な睡眠薬が混ぜられていたことになる。

 そして、ミスター・グリーヴス自身もそれを認めているということだった。


 それから、アメリアが公衆の面前で"探偵女男爵"と名乗ってしまったことについては、素人の貴族探偵に出し抜かれたことを良しとしないローシュ警視によって箝口令が敷かれたらしい。

 実際、これまでにこの恐ろしい殺人事件について記事にした新聞は数多くあれど、“探偵女男爵”に触れたものは、アメリアが知る限り一つもなかった。

 ただ、リッチモンドの地元紙だけは、警視の言いなりになる気はないらしく、その内にちょっとした記事が載ってしまうかもしれないと警部は書いていた。

 これは母ミセス・グレンロスに知れたら大変なことだ。

 母はレディが新聞に載るのは人生で最大三度――誕生、結婚、死亡――と考えている。

 アメリアはこの件はできるだけ隠しておくことに決めた。

 

 一方、ロンドン警視庁内ではアメリアの活躍が知れ渡ってしまったので、ヘイスティングス警部としてはこれからも難事件の折にはぜひ"探偵女男爵"の助力を得たいということだった。

 アメリアはこれを快諾することにした。

 いずれにしても、彼女は既に"探偵女男爵"の道に踏み出してしまったのだから。


 また、ヘイスティングス警部はアメリアが密かに気にかけていた<SWSA>の面々のその後についても書いてくれていた。

 

 まず、家からも学校からも追い出された上に殺されかけたミスター・トーマス・ベネットだが、彼を慕う生徒たちが学校と親に彼の復帰を嘆願したことにより、9月の新学期から教師として復帰が叶う見込みだそうだ。

 息子を避けていたベネット夫妻も、遂に彼が実家で療養することを許し、彼の妻とも和解とまではいかずとも少しずつ交流を始めたという。

 

 それから、療養中のミスター・トーマス以外の<SWSA>の面々は無事に<女性の戴冠式>の行進をやり切った。

 他の女性参政権運動組織と合同の盛大な行進は予定以上の規模に発展し、行進後の集会には会場に入りきらないほどの人が集まったという。

 代表のミセス・プレストンは、かねてからの希望通りこの行事をもって<SWSA>を脱退した。

 ロンドン市街に移住した彼女は、急進派の女性参政権運動家としてますます運動に意欲を燃やしているらしい。

 

 一方、<SWSA>に残留する穏健派の会員たちは、新たな資金援助者――裕福で自由主義的な実業家夫妻――を見つけることができた。

 ヘイスティングス警部の見立てでは、地元の准男爵サー・マーク・レスタリックが熱心な"反"女性参政権運動家の奥方の目を盗んでその実業家夫妻を紹介したのではないかということだった。

 サー・マークは、自分が頼りにしていた事務弁護士ミスター・グリーヴスが犯人であったことにショックを受け、事件の真相についてローシュ警視を問い詰めたらしい。

 結果、自分の一言が彼を殺人へと駆り立ててしまったと知り、何らかの罪滅ぼしをしたいと思ったのだろうと警部は結論付けていた。

 更に、サー・マークは、近隣の親戚に引き取られることになったグリーヴス家の子供たちの支援や雇い主を失った弁護士事務所の従業員やグリーヴス家の使用人の就職先の世話もしているようだ――。

 

 <メラヴェル・ハウス>の自室で手紙を読み終えたアメリアは静かに頷いた。

 事件に巻き込まれた人々が自分の人生を取り戻しつつあることが心強かった。


 しかし、彼女には避けられない現実が迫っていた。

 既に<女性の戴冠式>が終わって数日が経っている――ということは、新しい国王陛下の戴冠式までもう数日しかないということだ。

 戴冠式の日は、階級を問わず英国民皆がそれぞれお祝いを計画している。

 アメリアもミセス・グレンロスも午前から昼餐までは母方の親戚が主催する祝賀会に参加し、夕方には懇意にしている伯爵家の祝賀のお茶会に参加する予定だ。

 更に夜にはレディ・メラヴェル――つまり、アメリア主催の正餐会も予定されている。

 今のところ、ミセス・グレンロスは急かすようなことは言わないが、アメリアはどんなに遅くとも戴冠式の日までには社交に復帰しなければならない。


 ――いつまでもこうしてはいられないのよ。

 ――私は女男爵なのだから。

 ――責任を果たさないと……。


 そうして、その日の夜、母子二人きりのディナーの席でアメリアは切り出した。


「――お母様、私の“療養”のことだけど、もう大丈夫だと思うの。これまで心配かけてごめんなさい」


 デザートのレモンシラバブに手を付けようとしていたミセス・グレンロスは僅かに眉を上げた。

 母は一瞬躊躇ったが、結局は何気ない口調で言った。


「あら、良かったわ。では、戴冠式に向けて社交を再開するのね?」

「ええ、そうしましょう」


 アメリアは頷いて、クリームを掬ったスプーンを口に運ぼうとした。

 しかし、母の不安げな視線が娘の本心を探っているのを察し、先回りして言った。


「もちろん、彼にもご連絡するわ。ただ、戴冠式の後にしたいの。お互いそれまでは忙しいでしょう?」


 それを聞いてもミセス・グレンロスの不安は明らかに晴れてはいなかった。

 とはいえ、娘の言葉を信じる他ないようだった。

 アメリアはこの話は終わりとばかりに、僅かに残っている明るい気持ちをかき集めて微笑んだ。


 しかし、その夜、母に伝えた言葉に反してアメリアは早速アルバート卿宛ての手紙を書いた。

 書くべき内容は既に決まっていた。


 ”――不躾なお願いをお許しください。戴冠式の日、午前11時にお一人で<メラヴェル・ハウス>に私を訪ねていただけないでしょうか。もしご承諾いただけるのなら、どうかお返事はなさらないでください”


 翌朝、アメリアはその手紙をミス・アンソンに託した。

 彼女は何も訊かずに、その手紙が確実に宛先に届くよう手配してくれた。

 

 そして、アメリアの望み通り、彼は返事を寄越さなかった。

 一片の疑問すら呈さない。それが何よりの証拠だった。


 ――彼はわかっているのだわ。


 アメリアが別れを告げようとしていることを――。


 ***

 

 1911年6月22日、戴冠式当日――。

 アメリアはいつもよりずっと早い時間に目を覚ました。

 

 そこからは全てを上手くやる必要があった。

 まずは身支度を整え、朝食室に下りて行く。

 そこで、いつも通り先に席に着いているであろうミセス・グレンロスに頭痛が酷い旨を伝える。

 そして、午後の重要な予定に備えるため、午前中の親戚との祝賀会は欠席したいと言うのだ。

 

 しかし、結局、事は想像以上に容易に運んだ。

 アメリアが朝食室に入るなり、ミセス・グレンロスが驚いて言ったからだ。


「アメリア、どうしたの?顔が真っ青よ」


 アメリアは身支度中にドレッサーの鏡の中に見た自分の唇の色を思い出した。

 普段はやや赤みが強いくらいなのに、今朝はすっかり血の気がなかった。


「お母様、ごめんなさい。今朝は何だか具合が悪いみたいなの。お昼までの招待はお母様にお任せして、ベッドに戻っていいかしら?」

「もちろんよ。でも、夕方からは大丈夫かしら?あなたには悪いけれど、クランフィールド卿ご夫妻のご招待と当家主催の行事を欠席するのは難しいわ」

「ええ、大丈夫よ。少し休めば良くなると思うの」


 そう言いながら、アメリアは心の中で呟いた。


 ――緊張し過ぎよ。

 ――ただ一言別れを告げるだけなのに。

 ――あの方はそれで怒ったりなんかなさらないわ。

 ――でも、少しは反論してくださるかしら?

 ――……馬鹿ね。反論を期待しているなんて。


 アメリアは寝室に戻ったが、ベッドに入ることはなかった。

 代わりにミス・アンソンに来客を迎えるのにふさわしいドレスを用意してもらうことにした。

 ミス・アンソンはガーネット色のデイドレスを選んだ。

 少し派手ではあるが、仕立て屋がアメリアの暗い髪色に似合うと言っていたドレスだった。


「ありがとう、アンソン。やっぱりこれがいいんでしょうね」


 鏡の中でドレスを当ててもらっている自分を見つめながらアメリアは言った。

 すると、鏡越しにミス・アンソンと目が合った。

 

「あの、お嬢様。私、街に行くのは止めてお屋敷に残ってもよろしいでしょうか?」


 ミス・アンソンはそっと視線を下げながら言った。

 戴冠式が行われる今日、メラヴェル男爵家のほとんどの使用人たちには、朝の仕事を終えた後から夕方まで休暇が与えられることになっていた。

 主人たちが招待で出払っている間に使用人たちにもお祝いの機会を与えようというアメリアとミセス・グレンロスの計らいだ。

 午前中にウェストミンスター大聖堂で行われる戴冠式が終わると、国王夫妻や王室の方々がパレードを行うので、使用人たちはそれを見物しにロンドンの街に出ることを計画しているようだった。

 アメリアは"体調不良"で屋敷に残ることになったものの、使用人たちには予定通り休暇を取って出かけてもらうつもりでいた。


「あら、あなたもお祝いを楽しまないとだめよ」


 アメリアは敢えて軽い調子で言った。

 しかし、ミス・アンソンの口調は真剣だった。


「しかし、お嬢様。お嬢様は……お客様をお迎えになるおつもりです」

「……どうかしら?」

「そうであれば、誰かがお客様を取り次がねばなりません。それに、万が一ドレスがほつれたり、御髪が乱れたりするようなことがあれば、お客様の到着までに直す者が必要です。ですからどうか――」


 ミス・アンソンの黒い瞳がアメリアを見つめていた。

 アメリアは柔らかく笑った。

 思い返してみれば、ミス・アンソンはいつもアメリアの傍にいて、ときに侍女としての職務の範囲を超えて助けになってくれた。

 二年前の最初の事件の後、アルバート卿がアメリアに密かに贈ったハンカチを届けてくれたのも彼女。

 去年の二番目の事件で危機的状況に陥ったアメリアのために助けを求めて奔走してくれたのも彼女。

 そして、今回の事件では、彼女の発見のお蔭で事件の謎を解くことができた。


「ありがとう、アンソン。あなたに任せるわ。でも、後で代休はとってちょうだいね?」


 その言葉にミス・アンソンは安堵したように頷いた。

 アメリアは鏡の中の自分の顔に血の気が戻ってきたように感じた。

 

 ***


 そして、約束の11時――。

 既にミセス・グレンロスは祝賀会に向けて出発した。

 使用人たちも、正餐会の仕込みをしているキッチンのスタッフとミス・アンソンを除いて、街に繰り出していった。

 アメリアが女男爵になって以来、屋敷の主たる彼女の在宅中に<メラヴェル・ハウス>がこれほどの静寂に包まれたことはなかったかもしれない。

 

 今日、アメリアは図書室で来客を待っていた。

 普段、来客には優雅な応接間で対応するが、彼との最後は厳かな図書室であるべきだと思った。

 彼とは感情ではなく、理性で終わりにしなければならない。


 ――これが最後。


 既にアメリアは屋敷の玄関が開く音を聞いた。

 ミス・アンソンが彼を図書室に案内してくれるはずだ。

 ほどなくして、足音が近づいてきた。


 ――これが最後。


 アメリアは心の中で再度呟いて、図書室の扉を見つめた。

 そして、遂に扉は開かれた。


 ミス・アンソンが作法に従って客人の名を告げた。


「アルバート・モントローズ=ハーコート卿がいらっしゃいました、お嬢様」


 アメリアの瞳に最初に映ったのは、午前の光に輝くアッシュブロンドの髪だった。

 今日の彼は濃紺のラウンジスーツに柔らかい色調の青いタイを締めていた。

 そして、これまで何度も見てきた皮肉に笑うやや薄い唇、少し冷たく見える青みがかった灰色の瞳――。


 彼は普段と変わらない優雅さで、長椅子に座っているアメリアに歩み寄り、彼女の手を取った。


「レディ・メラヴェル」

「アルバート卿」


 彼らは落ち着き払って挨拶を交わした。

 アルバート卿の口元にはやはり皮肉な笑みが浮かんでいた。


「あなたのようなレディが私と二人きりで会ってはいけないはずですよ?」


 その試すような問いかけにアメリアのヘーゼルの瞳は僅かに輝いた。


「私はあなたの寛大さに甘えているのです」


 そう言って彼女はどこか遠い微笑みを浮かべた。


「最後なので、きっとお許しいただけるのではないかと」

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