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33.理想の二人③

「しかし、"立派な"中産階級の紳士の典型のような彼が何故……」


 彼らの背中を見送りながらローシュ警視が重々しく呟いた。


「私もその点に最後まで悩みましたわ、警視。彼のような"立派な"中産階級の紳士は、奥様と意見が合わない程度で離婚することもできませんが、だからといって、殺人を犯すこともないでしょう。ただ、思いがけない一言が彼を突き動かしてしまったのです」

「どういうことです?」


 警視は今日何度目かの訝しげな視線をアメリアに向けた。


「警視、こちらの紳士――アルバート・モントローズ=ハーコート卿――は、先日、地元の准男爵サー・マーク・レスタリックとお話しになった際に、彼が事件の前週にグリーヴス夫妻をディナーに招いたとお聞きになったそうです。あなたはサー・マークとイートン校時代のお知り合いなのでしたね、アルバート卿?」


 アメリアはそう言って隣にいたアルバート卿に顔を向けた。

 急に話を振られたアルバート卿は「ええ、そうですが」と肯定の返事をしつつも、アメリアの意図を量りかねて僅かに首を傾げた。


「ディナーにはサー・マークの従弟の方も同席していらして、彼は結婚を控えたその従弟の方にお小言めいたことをおっしゃったそうです。どんな内容だったか教えていただけますか?」


 アメリアの問いに、アルバート卿は即座に答えた。

 

「サー・マークはレイモンドという従弟に対して『今後はミスター・グリーヴスのような堂々たる一家の長にならないといけないぞ。妻にさえ従ってもらえないようじゃ男として二流だ』と言ったと――」


 彼はそこで言葉を切ってアメリアを見た。

 ローシュ警視も目を見開いて言った。


「では、その言葉が?」


 アメリアは既に事情を察した二人の紳士に向けて頷いた。


「ええ、地元の名士の言葉は彼に相当な衝撃を与えました。グリーヴス夫妻は世間からは頼れる夫と従順な妻――"理想の夫婦"と見られていました。しかし、現実は<SWSA>を脱退しようとするミスター・グリーヴスにミセス・グリーヴスは従わなかった。彼は奥様が自分を"二流の男"にしようとしているのが許せなくなったのです」

「なんということだ……サー・マークが知ったらショックを受けるに違いない……」


 ローシュ警視は額に手を当てて言った。


「ええ、なので、先ほど皆様の前ではお話ししなかったのです。サー・マークにそんな意図がなかったことは明らかですから」

「なるほど……私は誤解していたのかもしれません、女男爵様」


 警視は深くため息をついた。


「私は、あなたを過激で鼻持ちならないレディだと思っていましたが、違ったようです」


 そう言って警視はアメリアに詫びるように視線を落とした。

 一方のアメリアは微笑んで言った。

 

「あら、"鼻持ちならない"はともかく、"過激"なことは否定しませんわよ?」


 アメリアはそう言いながらアルバート卿の方に視線を向けた。

 すると、思った通り、彼の灰色の瞳はこの成り行きを面白がるように輝いていた。


***


 その後、ローシュ警視は部下に呼ばれて去って行った。

 アメリアとアルバート卿は互いに何か言うべきことがあるような気がしたが、ひとまずは、ミセス・グレンロスと合流するべく、群衆の中を歩いていた。


 彼らがようやく人だかりから抜けた直後、近くにいた人々が何事か騒ぎ始めた。 

 騒ぎの方に視線を向けた彼らが見たのは、驚きの光景だった――。


 彼らから10ヤードほど離れた警察車両の前で、ミスター・グリーヴスが小型ナイフを自分の喉元に突き付けていた。

 先ほどアメリアは事件当日彼がポケットに携帯していた刃物でミシンの細工を取り外した可能性に言及したが、それがまだ残っていたのかもしれない。

 

 周辺には、彼に付き添っていたと思われる制服の警官たちが、距離をとりながら説得の言葉を投げかけていた。

 別の車両に乗ろうとしていたヘイスティングス警部も駆け付けて来ていた。


「離婚が許されればこんなことにはならなかったのかもしれません。離れることができれば……。しかし、全ては過ぎたこと。この英国では人を一人でも殺せば絞首刑です。裁判で辱めを受けるくらいなら自分の運命は自分で決めます」


 ミスター・グリーヴスは誰に向けるわけでもなく言った。

 

「ミスター・グリーヴス!やめてちょうだい。こんなことは神がお許しになりませんよ」


 そう叫んだのは、ミセス・ベネットだった。

 アメリアから数ヤード離れたところに見える彼女の背中は少しも震えておらず、それどころか彼女は一歩ずつ彼の方に近づいていた。

 しかし、ミスター・グリーヴスは聞き入れず、あろうことか彼女にナイフの先を向けた。


 ――ミセス・ベネット!


 アメリアはミセス・ベネットを引き戻そうと足を踏み出そうとしたが、アルバート卿の方が早かった。

 駆けだした勢いで彼のホンブルグハットが地面に転がり、アメリアは彼の額の傷――前回の事件の際にできてしまった傷――を見た気がした。

 

 アルバート卿は彼らの間に入り、双方に向かって呼びかけた。


「ミセス・ベネット、危険ですから下がってください。ミスター・グリーヴスはナイフを捨ててください。このままでは誰かが怪我をします」


 今やミスター・グリーヴスのナイフの先はアルバート卿に向けられていた。

 それを見たアメリアの脳裏に封じ込めていたはずの記憶が甦った。

 昨年の事件の際に、彼の額の傷に震える手でハンカチを押し当てた記憶だった。

 

 止まらない血――。

 赤く染まっていったハンカチ――。

 青い顔で意識を失いかけていた彼――。

 

 ――だめ!彼が死んでしまう!


 彼女はただ凍り付いた。


「私は“立派な”男でありたかった。それだけだったのに……」


 そう言いながらミスター・グリーヴスはナイフを振り上げた。

 いよいよ自分に突き立てようとしたのか、再度他人を牽制しようとしたのかは定かではなかった。 

 しかし、いずれにしても、そのナイフが振り下ろされることはなかった。

 

 ミスター・グリーヴスはいつの間にか地面に転がっていた。

 

 アメリアは彼が地面に倒れてからようやく、どこからか駆けてきたミセス・プレストンが彼の上着の襟を掴み、脚を払って転ばせたのだと理解した。

 アルバート卿とミセス・ベネットも一瞬の出来事に呆気にとられていた。

 転ばされた本人、ミスター・グリーヴスですら何が起きたのかわからない様子で、ただ背中を押さえながら呻いていた。

 一方で、警官の動きは速く、二、三人の制服警官がすぐに彼を地面に抑え込んだ。


「この前、急進派組織の皆さんにお誘いいただいて、一緒にジュージュツを習ったのよ。本当にこんなことができるなんて」


 ミセス・プレストンは自分が信じられない様子で、手元を見ながら呟いていた。


「モード!やりすぎよ!」


 ミセス・ベネットがミセス・プレストンの腕を掴んで騒ぎから引き離しながら言った。

 

「嫌だわ、アグネス。ヘレンのためよ」


 すぐに冷静さを取り戻したミセス・プレストンが何でもないような口調で言った。


「ヘレンは彼に自分の選択を奪われたわ。なのに、彼だけ自分で決めさせるわけにはいかないでしょう?」

「だからって!あなたまで怪我をしたらどうするの!」

「それはあなたも同じでしょう?私が止めなければ、あなたが彼を止めようとしたわ」


 そこで二人は顔を見合わせ、手を取り合った。


「ああ、モード。ありがとう」

「いいのよ。あなたやヘレンのためなら何でもするわ」

「……ごめんなさい。一緒に転向できなくて」

「何言ってるの、アグネス。お互い自分の信じる道を行けばいいのよ」

「モード……お願いだから無理はしないで。時々はリッチモンドに帰ってきてね。私、あなたの突飛な考えを聞くのが好きなの」

「前者は約束できないけれど、後者は約束するわ。私もあなたの呆れるほど堅実な考えを聞くのが好きなのよ」


 二人の女性はお互いを抱きしめ合った。

 

 意見が違う二人、進む道を分かつ二人。

 "理想の二人"ではないかもしれない。

 しかし、アメリアは彼女たちにこそ希望がある気がした。


 ***

 

「レディ・メラヴェル、大丈夫でしたか?」


 ミセス・プレストンとミセス・ベネットの様子に見入っていたアメリアは、いつの間にか近くにいたアルバート卿に声を掛けられて我に返った。

 彼の方を見ると、既にかぶり直されたホンブルグハットから微かに額の傷が覗いていた。

 アメリアは何か言わなければと思ったが、声が出なかった。 

 "彼が死んでしまう"――先ほど感じてしまった恐怖が付きまとって離れなかった。


 ――落ち着くのよ、アメリア。

 ――ミスター・グリーヴスは屈辱に耐えきれず、自らを死に至らしめようとしただけ。

 ――アルバート卿にナイフを向けたのは、ただの牽制。彼を傷つけるつもりはなかったのよ。

 ――アルバート卿だって、紳士としてミセス・ベネットを保護しようとなさっただけで、自分を犠牲にしてまで彼を止める気はなかったはず。

 ――ミスター・グリーヴス本人が言った通り、結局彼は絞首刑を免れないのだから。


 アメリアは頭の中で「冷静に、合理的に」と自分に繰り返し言い聞かせた。

 しかし、それでも――。


 ――でも……万が一、刺されていたら?

 ――例えば胸を刺されたら?

 ――血が止まらなくて……体が冷たくなっていったら……?

 ――いいえ、こんなこと考えてはいけないわ。

 ――でも……でも……。


「アルバート卿……」


 アメリアがようやく絞り出した声はかすれていた。

 考えないようにしているのに、彼女の頭の中にはどうしても忌まわしいイメージが浮かんでしまう。


 ――私は"探偵"であることを選んでしまった。

 ――でも、私が"探偵"であると、彼が傷つくんだわ。不幸になるんだわ。

 ――だとしたら……。


「アルバート卿……私は……」


 アメリアのヘーゼルの瞳が彼を見つめた。

 その瞳はただ揺れていた。

 それを見たアルバート卿は心配そうに眉を寄せた。


「ごめんなさい。私、もうあなたとは――」


 アメリアが言いかけると、彼の灰色の瞳が僅かに見開かれた。

 しかし、彼女の言葉は続かなかった。


「アメリア!」


 ミセス・グレンロスがアメリアのすぐ近くに来ていた。

 彼女は娘の腕を掴んで自分の方に引き寄せた。


「アメリア、あなたは疲れています。今は何も言ってはいけません」


 母に見つめられると、視界が滲んだ。

 レディは人前で涙を流すことは許されない。

 アメリアは心を落ち着けようと深呼吸を繰り返した。

 後ろから駆け寄って来たミス・アンソンが盾になるように傍に立ってくれた。


「ヘイスティングス警部!私たちを今すぐ駅まで送ってもらえますね?娘はひどく疲れているのです」


 ミセス・グレンロスは、近くでエヴァレット巡査部長と話していたヘイスティングス警部に向かって叫ぶように言った。

 警部は彼女の剣幕に押されたようだったが、すぐに答えた。


「ええ、もちろんですよ。エヴァレット、駅まで送って差し上げてくれ」


 警部の一声でエヴァレット巡査部長が三人の女性を自動車へと先導し始めた。

 最後にミセス・グレンロスがアルバート卿を振り返って言った。


「アルバート卿、ごめんなさいね。落ち着いたら必ず連絡させますから。どうか少しだけ時間をください」


 アルバート卿は沈黙を守ったまま頷いた。

 彼の瞳は、ただ遠ざかって行くアメリアの背中を見つめていた。

 しかし、彼女はただの一度も振り返ろうとはしなかった。

"立派な"=Respectable(仕様によりルビが振れません)

再掲ですが、20世紀初頭の英国の女性参政権運動家サフラジェットが柔術を習っていたのは史実です。


次回最終章エピローグとなります。最後まで見守っていただければ幸いです。

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― 新着の感想 ―
 ほとんどの伏線が見事に回収されて、後は不穏な冒頭のみとなりましたね。最初から何故か胡散臭く思えて仕方なかった真犯人でしたが、「この階級の男はこうあるべきだ」という社会的な圧力の犠牲者にも思えて、哀れ…
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