31.理想の二人①
「ミスター・グリーヴス、あなたはこの犯行の全てを周到に計画していましたね」
名指しされたミスター・グリーヴスは答えなかった。
優秀な事務弁護士の彼は、余計な発言をすることの危険性を十二分に理解しているのだ。
「あなたは犯行を決意した後、何日も前から準備を始めました。まず、事件の数日前に作業室の通気口の蓋を外しました。建物のオーナーでもあるあなたが修理の手配中だと言っておけば、数日そのままでも誰も気にしなかったでしょう。次に、事件前夜に弁護士事務所に遅くまで残りました。仕事のためではなく、ミシンの細工の準備を進めるためです。本部の鍵は弁護士事務所で保管されていたので、あなたは夜でも本部に自由に出入りできました。細工の材料を揃えるのも簡単でした。錘にした本は元々本部にあったものですし、弁護士事務所には公文書用の赤い紐も常備されています。紐を作業室の通気口から真下のご自身の執務室に下ろすところまで進めておけば、当日はミシンに錘と紐を取り付けるだけで細工が完成します。紐をダクトに通すのが少し難しかったかもしれませんが、ご自宅でつる薔薇の誘引に使ったワイヤーをガイドに使えば上手くいったでしょう」
アメリアが犯行の詳細に踏み込み始めたにもかかわらず、ミスター・グリーヴスの緑の瞳には少しの揺れも映らなかった。
その反応を予期していたアメリアは、あくまで冷静に先を続けた。
「そして、事件当日、午後2時にミセス・グリーヴスと共に本部に到着したあなたは、彼女に睡眠薬を飲ませ、数十分後にすっかり眠っている彼女をナイフで刺しました。睡眠薬は彼女自身が日常的に使っていたので入手は容易でした。そして、その前後にミシンの細工を完成させました」
アメリアの話が進むにつれて、群衆のざわめきは収まり、今や誰もが彼女の推理に耳を傾けていた。
「その後、あなたは午後3時頃に会合に来たミセス・ベネットに被害者の分の紅茶を用意させました。当然、もう亡くなっていた被害者がそれを飲むことはありませんでしたが、あなた自身が飲むなどして程よく減らした紅茶に睡眠薬を混ぜて現場に残すことでミセス・ベネットが淹れた紅茶に睡眠薬が入っていたように見せられます。その後、仕事を口実に二階の弁護士事務所に向かい、作業室の真下のご自分の執務室に籠りました。そこからミシンの細工を使って午後4時頃まで断続的にミシンのペダルの音を立て、被害者が生きて作業をしているように偽装したのです」
そこでローシュ警視が疑問を差し挟んだ。
「そうだとしても、ミシンが細工されていたら遺体を発見した人が気づくでしょう?しかし、第一発見者のミセス・プレストンはそんな話はしていませんでしたが?」
「ええ、その点も彼はよく計算しています。私は当初から何故犯人はわざわざ睡眠薬を飲ませた上でナイフで刺す殺害方法を選んだのか疑問でした。睡眠薬を大量に飲ませるだけでも良かったはずですから。現に昨夜ミスター・ベネットはその方法で命を奪われかけました」
アメリアの言葉に刑事や関係者はそれぞれに顔を見合わせた。
「しかし、このミシンの細工に気づいたことで、謎は解けました。犯人は遺体の発見者を部屋の入口付近で足止めする必要があったのです。細工が施されたミシンは背の高い書棚の奥に設置されているので、部屋の奥まで入らないとよく見ることができません。そこで、彼は被害者を部屋の手前側に入口と平行になるように横たえ、背中をナイフで刺して辺りに出血が広がるようにしました。部屋の中で倒れている人を見つけた場合、平均的な人であれば、駆け寄って救護しようとするでしょう。しかし、その背中にナイフが刺さり、大量に出血して動かなかったとすると、多くの人は部屋の奥へと進むのを躊躇います。もう手遅れだと思うでしょうし、流れ出た血を恐れるのも道理です。彼はそんな自然な心理を利用して、誰もミシンの細工を目にすることがない状況を作りました」
それを聞いてミセス・プレストンが微かに頷いた。
実際、彼女は事件当日遺体と血を目の当たりにして部屋の奥へと進むことができなかったと言っていた。
「もちろん、遺体の発見者に細工を見られなかったとしても、警察の到着前にそれを片付ける必要はあります。その点も無理のない流れが作られました。第一に、<SWSA>本部には電話がないので、遺体の発見者は通報のために確実に彼の弁護士事務所に電話を借りにきます。そうすれば、彼は自然に"事件の発生"を知ることができます。その流れで、被害者の夫として状況確認のために現場に行くのも不自然ではありません」
そう言ったアメリアがミスター・グリーヴスに視線を向けると、彼は顎に指を掛けて何事か考え込んでいるようだった。
「第二に、遺体は顔を部屋の奥に向けて横たえられていました。それにより、彼は身元確認を口実に、彼女の顔が向いている部屋の奥側へと進むことができました。同時に、書棚の陰に隠れながらポケットに忍ばせていたはさみや小型ナイフなどを使って、本をペダルに固定していた紐を切り、拾い上げた本をミシン台の上に置きました。その際にペダルから通気口に伸ばしていた紐も切っておけば、後で二階の執務室から紐を引っ張るだけで全てを回収できます。更に、彼は現場に行くときに敢えてミセス・プレストンを伴うことで、自分が現場で不審な行動をしなかったことの証人としました。当然、実際には、彼が計算した通り、衝撃を受けたミセス・プレストンは部屋に入れず、彼の行動の詳細を見ることができなかっただけです。彼女も彼が書棚の陰で何かしていたことには気づいたかもしれませんが、慎重な彼は錘に使う本に被害者のお気に入りの二冊を選んだので、それらが血で汚れないように拾っていたというもっともらしい説明ができました」
そこで、アメリアは改めてミスター・グリーヴスに向き直った。
「ただ、ミスター・トーマス・ベネットの行動には、さすがのあなたも動揺しましたね?あなたは彼が事件当日密かに現場に戻っていたと聞き、彼に何かを知られたかもしれないと考えました。彼の弁護を引き受けたのも、職や家を追われた彼の身元を引き取ったのも、その言動を注視するためです。そして、遂に昨日、ミスター・ベネットはあの日現場で二冊の本がミシンのペダルに引っかかっていたことを思い出しました。彼は旗に細工をしたのでミセス・プレストンよりも部屋の中へと足を踏み入れていたのです。彼の証言を聞いたあなたは即座に、その二冊を『妻の思い出』として譲ってほしいと申し出ました。それらの本に何か痕跡が残っているかもしれませんし、本部に残しておくとそれが刺激になってミスター・ベネットがより多くのことを思い出しかねないと考えたのでしょう。しかし、あなたはそれだけでは安心しきれなかったのですね。それで、昨夜、彼の口を完全に封じようとしたのですわ。違いますか、ミスター・グリーヴス?」
アメリアが問いかけると、ミスター・グリーヴスはゆっくりと口を開いた。
「そう問われましても私は妻を殺してなどいないので、お答えできません。今のお話は全てあなたの想像でしょう?客観的証拠は何もありません。そもそも、私には妻を殺す理由もありませんが、その点どうお考えです、女男爵様?」
そう問い返した彼の態度からは、やはり微塵の動揺も読み取れなかった。
そこで、アメリアは装飾用のバッグに入れておいた帳面を取り出した。
「動機ならありますわ。警視、これを見てください。事件までの被害者の言動をまとめたメモです。3月にミスター・ベネットが聞いた言葉と4月にミセス・ベネットが聞いた会話を読んでいただけますか?」
開いた帳面を渡されたローシュ警視は訝しげな顔をしながらも該当部分を読み上げた。
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・3月にミスター・ベネットがミセス・グリーヴスから聞いた言葉:
『結婚はよく考えてするものよ。私たちもいつの間にか別の方向を見るようになっていたと思うこともあるわ』
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・4月にミセス・ベネットが聞いたグリーヴス夫妻の会話:
ミセス・グリーヴス『今さら立ち止まることなんてできるわけがないわ』
ミスター・グリーヴス『このままだと誤った方向に進むことになる』
ミセス・グリーヴス『でも、とりあえず月次での寄付は続けるから』
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「これが何だと言うのです?」
読み終えたローシュ警視は首を傾げながら尋ねた。
「まず、夫妻が3月時点で既に何らかの意見の対立を抱えていることがわかりますわ。これはミセス・プレストンが4月に急進派への転向を表明する前の会話ですから、急進派対穏健派の対立ではなく、別の対立があったと考えるのが自然です」
アメリアが静かに答えたのに対して、ミスター・グリーヴスは即座に反論した。
「その件については、昨日申し上げた通り、<SWSA>への寄付方式を巡っての意見の相違に過ぎません。私は家計のことを考えて月次寄付にすることを提案しましたが、妻は年額一括寄付にこだわっていました。でも、最終的には彼女も納得して自ら年次総会で月次寄付への変更を表明したのですから何の問題もないでしょう?」
しかし、アメリアは追及を止めなかった。
「本当にそうでしょうか?そうだとすると、この4月の夫妻の会話に違和感があります。ミセス・ベネット、あなたが聞いた会話は、先ほどローシュ警視が読み上げた通りですね?」
「ええ……そのとき私は彼女が私たちのせいで急進派に転向すると思ったので、よく覚えています」
ミセス・ベネットは困惑しつつもはっきりと答えた。
アメリアは彼女に向かって一度頷いてから言った。
「この会話が本当に寄付方式についての議論だったとすると、ミセス・グリーヴスの『今さら立ち止まることなんてできるわけがないわ』というのは、些か大げさではないでしょうか?続くミスター・グリーヴスの『このままだと誤った方向に進むことになる』という発言も、寄付方式を月次に切り替えるべきだと主張しているだけにしては大げさだと思いますわ」
「お恥ずかしながら、夫婦で少し揉めていたので大げさな表現になってしまっただけです」
ミスター・グリーヴスは苦笑しながら言ったが、アメリアは更に続けた。
「では、ミセス・グリーヴスの最後の発言、『でも、とりあえず月次での寄付は続けるから』はどうでしょう?『でも』と言っているということは、『月次での寄付は続ける』ことがミスター・グリーヴスの意図に反していたのではないでしょうか?」
「なるほど。もし月次寄付がミスター・グリーヴスの意図と合っていれば、ミセス・グリーヴスは『では、月次で寄付します』だとか『それなら、月次で寄付します』などと言う方が合いますね。ミスター・グリーヴスによると、彼自身が月次寄付への切り替えを提案したということですが、この言い方だと寧ろミセス・グリーヴスの方が月次寄付を主張したようにも思えます。これは一体……?」
ヘイスティングス警部が腕を組みながら言った。
「ええ、そうなのです。そうだとすると、やはりご夫妻の対立は寄付方式のことではなかったと考える方が合理的だと思います。例えば、ミスター・グリーヴスが<SWSA>への寄付を一切やめるべきだと主張し、ミセス・グリーヴスがせめて月次寄付の形で続けたいと主張していた――とするといかがでしょうか?」
アメリアが問いかけると人々は戸惑いながらも、それぞれに彼女の仮説を検討していたが、その内にミセス・ベネットが声を上げた。
「女男爵様、ミスター・グリーヴスは穏健派を堅持して<SWSA>に残ることを表明していました。そんな彼が寄付をやめたいだなんて言うでしょうか?」
「その疑問はごもっともだと思いますわ、ミセス・ベネット」
ミセス・ベネットの疑問を受けたアメリアは、今度はミセス・プレストンの方に向き直った。
「ミセス・プレストン、あなたが事件前日にミセス・グリーヴスから受け取った手紙ですが、今もお持ちですか?」
「え?ええ、持っていますが……」
ミセス・プレストンは一瞬躊躇したが、結局はハンドバッグの中から手紙を取り出し、アメリアに手渡した。
先日、ミスター・トーマスが警察に連れて行かれた直後に見せてもらった手紙だ。
「ミセス・プレストンはこの手紙を被害者から事件前日に受け取ったと証言しています。彼女は仲間に疑いがかからないようこの手紙を今日まで提出していませんでしたが、その件で彼女を咎めたりなさらないでください。この手紙のことが犯人に知れれば、彼女の命も危うかったかもしれないのですから」
アメリアがそう言いながら二人の刑事にその手紙を示すと、彼らは身を寄せてその手紙を読んだ。




