29.探偵女男爵①
侯爵家の自動車に揺られてリッチモンドに向かう途上、アメリアは推理に集中していた。
さすが当代随一の高級車は走行音が静かで乗り心地も良く、集中するのには打ってつけだ。
キャビン式の後部座席では、ミセス・グレンロスがアメリアと同じメインの座席に座り、その前方の左右に取りつけられた補助席にアルバート卿とミス・アンソンが向かい合わせに座っていた。
端から見れば、一見郊外への楽しいドライブ――のようにも見えなくはないが、皆、アメリアの思考を妨げないよう一言のおしゃべりもしなかった。
――犯人は誰なのか?
――これは事件当日ミシンが本当に使われたのか否かがわかれば、明らかになるわ。
――アンソンが現場で見つけた“証拠”が鍵になるはず。
アメリアは目を閉じて"証拠"のイメージを頭に思い描いた。
――そうすれば、他の謎も自ずと説明がつくわ。
――犯人が睡眠薬だけでなく、わざわざナイフまで持ち出した理由。
――ミセス・プレストンが事件前日に被害者から受け取った手紙。
――昨夜、ミスター・トーマス・ベネットが命を狙われたこと。
――すべてが繋がるはずよ。
そこで、アメリアは目を開けて右のこめかみを指先で抑えた。
――ただ……犯人は何故ミセス・グリーヴスを殺したのか?
――これがまだよくわからないの。
――犯人には動機の下地はあった。それは確かよ。
――でも、殺人にまで踏み切ってしまったのは何故なのかしら?
――それを聞き出すのは警察の仕事だとお母様はおっしゃったけれど、私自身が納得できないまま推理を公にすることはできないわ……。
――あとは、"きっかけ"だけなのに。
アメリアは斜め前に座るアルバート卿にそっと視線を向けた。
彼女の視線を受けて彼は一度だけ頷いた。
――私ならきっと答えが出せるはず。
アメリアは自分に言い聞かせた。
そうこうしている内に、自動車はテムズ川を渡り、リッチモンドに入った。
自動車はそのまま<SWSA>本部がある商業地区を通り抜けて、警部が待つリッチモンド署へ向かうことになっていた。
しかし、<SWSA>本部付近に差し掛かったところで、自動車は立ち往生してしまった。
前方を何台かの馬車が塞いでいて前に進むことができない。
アルバート卿の指示で侯爵家のフットマンのウィリアムが道の先の様子を見に行った。
戻って来た彼は、やや困惑した様子でキャビンの一同に状況を報告した。
「ご子息様、この先で騒ぎが起こっているようです。どうも女性参政権運動家と警察がもめているようで……」
彼の言葉に一同は顔を見合わせた。
もしかすると、<SWSA>と警察の間に何かあったのかもしれない。
そこで、アメリアとアルバート卿、ミセス・グレンロス、ミス・アンソンは自動車を下りて徒歩で<SWSA>本部の方へと向かうことにした。
***
<SWSA>本部が入っている建物の前には人だかりができていた。
アメリアはその人だかりから少し離れたところにヘイスティングス警部とエヴァレット巡査部長が立っているのを見つけ、彼らに近づいた。
「お二人とも、ごきげんよう。一体これはどうしたのですか?」
「これは女男爵様。署でお待ちしているはずだったところ、申し訳ございません」
警部はそう言って申し訳なさそうに眉を寄せた。
「ミスター・トーマス・ベネットが睡眠薬の過剰摂取で意識不明になったのは、電話であなたの執事にお伝えした通りです。その後の捜査で、彼の母ミセス・ベネットが昨日、トーマスに睡眠薬を渡していたことがわかったのですが……」
アメリアは警部の言葉に内心で頷いた。
昨日ミスター・レニーがミセス・ベネットからだと言ってミスター・トーマスに渡していた包みは、やはり睡眠薬だったのだ。
「それで、ローシュ警視はミセス・ベネットが睡眠薬に細工して息子を殺そうとしたとみて、ここ<SWSA>本部で彼女を逮捕するつもりでした。ミセス・ベネットは勘当中の息子本人に会いに行く代わりにミスター・グリーヴスに話を聞こうと、ここの二階の弁護士事務所を訪ねていたようです。トーマスはまだグリーヴス邸に居候しているので、昨夜、廊下で倒れていた彼をグリーヴス家のメイドが発見し、ミスター・グリーヴスの付き添いの下で病院に運ばれたのです。しかし、このような騒ぎになり、我々まで応援に駆け付けざるを得なくなりました」
「ミセス・ベネットが抵抗しているのですか?」
そう言いながらアメリアは改めて辺りを見回した。
建物の入り口を中心に大勢の人々が集まっていて、通りは半分ほど塞がれている。
中には報道記者らしき姿もあった。
「いえ、抵抗しているのはミセス・プレストンです。彼女は警視の動きを事前に察知して、仲間たちと弁護士事務所に先回りしていたのです。その仲間というのが急進派への転向を希望する"闘争心に溢れる"女性たちなので、厄介なことになりました。彼女たちはこれを殺人事件のための逮捕ではなく、それを口実にした政治的理由での逮捕だと考えて抵抗しています」
警部の説明を聞いてアメリアは心配になった。
去年の"ブラック・フライデー"の事件のような暴力沙汰にならないと良いのだが。
「警部、入院中のミスター・ベネットの容体は大事ないのですか?」
そう尋ねたのは母ミセス・グレンロスだった。
母は娘と同年代の若者の危機を心から心配しているようだ。
「ええ、意識はまだ戻っていませんが安定はしているようです。ハワースから妻のミセス・トーマス・ベネットも駆け付けています。どうやら睡眠薬をブランデーと一緒に飲んだのが良かったようです」
「おや、『良かった』のですか?普通酒と一緒に睡眠薬を飲んだら命取りになるのでは?」
とアルバート卿が首を傾げながら尋ねた。
「普通はそうなのですが、ミスター・ベネットが極端に飲めない体質だったのが幸いしました。先に体がブランデーの方に反応して、まだ消化されていない薬をほとんど吐き出すことができたのです」
アメリアは先日、ミセス・プレストンから聞いたミスター・トーマスの父の“若気の至り”の話――若い頃ビールを一口飲んだだけで倒れてしまった話だ――を思い出した。
ベネット父子は揃って酒を受け付けない体質らしい。
「ところで、女男爵様、電話で執事があなたが"証拠"を確保しにいらっしゃると言っていましたが、何のことです?」
「ええ、このアンソンが現場に残された"証拠"に気づいたのです」
アメリアがそう言いながらミス・アンソンに微笑みを向けると、彼女は躊躇いがちに主人に頷きを返した。
「警部、今、<SWSA>本部に入ることはできるものでしょうか?アンソンに犯人を決定づける"証拠"を確認させたいのですが……」
「衝突が起こっているのは二階の弁護士事務所ですから、そこをそっと通り過ぎて三階に行ってしまえば大丈夫でしょう。エヴァレットが合い鍵も持っています。ただ、この人だかりを抜けなければなりませんから、大人数では行けませんね」
「では、アンソン、エヴァレット巡査部長と行ってもらえるかしら?」
アメリアの指示を受けたミス・アンソンは「かしこまりました、お嬢様」と言って、すぐにエヴァレット巡査部長と建物へと向かった。
***
一同がミス・アンソンとエヴァレット巡査部長を送り出してから数分後――。
建物の入り口を取り囲んでいた人々が大きくどよめいた。
アメリアが無作法にならない程度のつま先立ちで入り口付近を見ると、白髪頭の男性――ローシュ警視だろう――が誰かを伴って建物から出てきたのが辛うじて見えた。
そして、その後に、警視に向けて抗議の声を上げるミセス・プレストンとその仲間の女性たちが続いていた。
「モード、私は大丈夫だから落ち着いて!私が息子を殺そうとするなんてありえないのですから、ちゃんと捜査してもらえれば明らかになります!」
警視に連れられていたのはやはりミセス・ベネットで、彼女は抗議する女性たちを落ち着かせようと、後ろを振り返って叫んでいた。
しかし、ミセス・プレストンと仲間の女性たちはそれ以上に声を張り上げている。
「ローシュ警視!これは不当逮捕です。殺人容疑での逮捕に見せかけた政治的抑圧です!」
「馬鹿馬鹿しい!ちゃんと令状もあるし、本人も従うと言っているのだから妨害はやめなさい!あなた方も逮捕せざるを得なくなりますよ」
ローシュ警視も負けじと声を張っていた。
「私たちは女性参政権運動を理由に逮捕されることは恐れません!これは運動の一環です」
遂に、警視とミセス・プレストンは、建物の前で対峙しながら議論を始めた。
人々は少しスペースを空け、彼らを取り囲んでその議論を見物している。
建物の入り口の扉からは、ミスター・グリーヴスと秘書のミスター・レニーが心配そうな顔で覗き込んでいた。
「とにかく!ミセス・ベネットを逮捕します。それと引き換えに<SWSA>本部の封鎖は解きますから、それでご納得いただきたい!早期の本部引き渡しはあなた方の望みでもあったでしょう?」
「いいえ!こんな形での引き渡しは望んでいません!」
警視は、ミセス・プレストンの反論をよそに部下に指示して何かを持ってこさせた――どうやら本部の鍵らしい。
そして、それをミセス・プレストンの手に押し付けようとするが、彼女は断固として受け取らない。
周りの女性たちも彼女に同調して抗議の声を上げていた。
「どうして、受け取らないんです、ミセス・プレストン!」
「仲間が言われなき罪に問われるのと引き換えの引き渡しは無用です!」
ローシュ警視はため息をついて辺りを見回し、ミスター・グリーヴスを見つけると彼に向かって手招きをした。
この建物のテナントの<SWSA>が鍵を受け取らないなら、オーナーの彼に鍵を渡してしまおうということだろう。
ミセス・プレストンと仲間の女性たちは、彼らの間に立ちはだかって引き渡しを防ごうとしている。
「だめよ……絶対にだめだわ……」
アメリアは思わず呟いた。
今まさにミス・アンソンとエヴァレット巡査部長が現場に残された"証拠"を確認しているはずだが、警察による正式な検証前に本部が引き渡されれば、証拠能力が失われるかもしれない。
アメリアの足が自然と一歩、二歩と騒ぎの中心に向かって踏み出されようとしたところで、背後でほとんど悲鳴のような声が響いた。
「アメリア!行ってはだめ!」
母ミセス・グレンロスの両手がアメリアの腕を掴んで引き戻そうとしていた。
「行ってどうするつもりなの?こんな大勢の人の前で"探偵"を名乗るのですか?そんなことをすれば、あなたのレディとしての人生が台無しになってしまうわ!」
アメリアの腕を掴んでいるミセス・グレンロスの手は震えていた。
「せめて……せめて結婚してからにしてちょうだい」
囁くように言った母の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
アメリアは、これまで母が娘の良縁を結ぶために、いかに心を砕いてくれたかを思い返した。
女男爵として地位や財産を持つアメリアは、単に結婚するだけならそれほど難しくなかったかもしれない。
彼女の“持ち物”に魅力を感じる男性だっていないわけではないのだから。
しかし、母は娘が本当の意味で相応しい夫を得られるよう不慣れな上流の社交界で奮闘してくれた。
全てアメリアの幸せのためだ。
「お母様、ありがとう。でも、ごめんなさい」
それでも、アメリアは母の手を振りほどいて先へと進んだ。
しかし、一段と人が密集している場所に行き当たると、彼女が通れそうな隙間は少しもなかった。
それでも何とか人をかき分けようとしたが、三度目の挑戦で遂に強い力に押し返されてしまった。
アメリアはその勢いのまま地面に倒れ込むことを覚悟したが――そうはならなかった。
誰かが彼女の手を掴み、バランスを崩しかけた体を支えた。
「待ってください、レディ・メラヴェル」
アルバート卿だった。
アメリアは彼の支えによってすぐに体勢を立て直したが、彼は手を離さなかった。
青みがかった灰色の瞳が不安に揺れていた。
――今進めば、公に"探偵"を名乗ることになるわ。
――そうなれば、きっともう彼とは結婚できない……。
大きな選択だ。一度選べばもう撤回することはできない。
アメリアは自分が思ったよりも落ち着いていることに驚いた。
――でも、私は間違った結末を阻止したい。不正義を許すわけにはいかない。
――私が謎を解き明かすのはきっとそのためなんだわ。
「ごめんなさい、アルバート卿。でも、私はこの道を選びたいのです」
アメリアは微笑むと、進むべき方向に向き直ろうとした。
アルバート卿はそれでも彼女の手を離さなかった。
しかし、引き戻そうとしているわけではなかった。
彼は、彼女の手をただ握っていた。
「レディ・メラヴェル、私はあなたを止めたいのではありません」
アルバート卿の手に少し力がこもった。
手袋越しにその体温が伝わる。
「ただ、最初にも、そして、先ほども言ったでしょう?『私も同行させてください』と」
そう言って彼はいつも通り口元だけで皮肉に笑った。
そして、アメリアが何か言葉を返す前に、彼は彼女の手を引いて先へと進んだ。
アメリアは最初は戸惑いながら、そして、徐々に確信を持って進み続けた。
人ごみを進んでいるというのに、驚くほど進みやすかった。
彼が群衆をかき分けてくれているからだけではない。
彼女の踏み出す一歩一歩が、先ほどよりもずっと確かなものになっていた。
――不思議だわ。
――彼が一緒に行くと言ってくれたその言葉だけで、私はしっかりと前に進めるようになった。
――私は"探偵"でもいいんだわ。
――大丈夫。私はきっと大丈夫。
アメリアがそう思いながら彼の背中を見つめたとき、そのヘーゼルの瞳に閃きが走った。
――ああ!これだったのね!
――誰かの言葉が、誰かが踏み出すきっかけになる。
――ときに良い方向へ後押しすることも、ときに悪い方向へ駆り立てることもあり得る。
――そして、その言葉を言った方は、自分の言葉がどんなに大きな影響を持つか気づかないこともある……。
――それが犯人の最後の”きっかけ”になってしまったのだわ。
そうして、遂に二人は建物の入り口の近く――ローシュ警視の近くまでたどり着いた。
ちょうどそのとき、建物からミス・アンソンとエヴァレット巡査部長が出て来た。
彼らはアメリアに気づいて、彼女に向かって一度頷いた。
確かな頷きだった。
一方のローシュ警視はまだミセス・プレストンと言い争いをしながらも、<SWSA>本部の鍵をミスター・グリーヴスに渡そうとしている。
アメリアが隣に立つアルバート卿を見ると、彼の方でもアメリアを見返した。
その灰色の瞳が彼女を信じると言っていた。
そして、彼らの手がゆっくりと解かれると、アメリアはもう躊躇わなかった。
「ローシュ警視!待ってください。まだ本部を引き渡さないでください!」
「あなたは……誰です?ミス……?」
ローシュ警視は突然現れた若い女性に戸惑い、鍵を渡そうとしていた手を引っ込めた。
アメリアを知っているミセス・プレストンを始めとした関係者の顔にも困惑が浮かんでいた。
「"ミス"ではありません。レディ・メラヴェル――メラヴェル女男爵です。"探偵女男爵"とも呼ばれます」
ローシュ警視の鋭い視線が彼女に刺さった。
しかし、不思議と恐れはなかった。
「この事件の謎を解きました。私の話を聞いてください」




